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2024-04

権力について考えてみる(一体何度目だろう?) 体罰の問題から

超久々の更新になってしまったのだが…
でもまぁ思索してなかったからしょうがないか、と体罰喰らいそうな言い訳を炸裂させてみる。
いきなりブラックな感じで入っちゃいました。


まぁ、でも体罰というのは、権力のもっとも剥き出しの発露の一つでありますから…
と無理やりな感じで、いきなり本題に突入してみます。


体罰というのは僕なりに定義してみますと、「教師という上位の地位にあるものが、生徒という下位の地位にあるものに身対して、教育上の効果を期待して、身体への暴力を行使すること」、になります。
もちろん、『教育上の効果を期待して』という文言は、自らの暴力を正当化する教師の戯言以上のものではありません。実際、体罰が教育上なんらかの効果を発揮したなどということが実証されたためしなど古今東西皆無でありましょう(多分です、反論のある方はどうぞ)。にもかかわらず、「教育上の効果」を称して、いまだに(市民社会では犯罪と規定される)暴力が蔓延っているとは、学校とはどれだけ野蛮な空間なのでしょうか?
もちろん、近代社会(と表現するのが適切かどうか自信全くがありませんが、曲がりなりにも立憲国家たる)日本で、「仮に教育上の効果があるにしとも、体罰という剥き出しの権力行使が是認されてよいのか?」という疑問も当然ながらありましょうし、また実に真っ当な疑問でもありましょう。


さて、すでに述べたように体罰とは、身体への暴力であります。
現在の日本で暴力の行使が正当化されているのは(もちろん、無条件ではありませんが)、警察くらいでありましょう。
従って、(体罰を)暴力を正当化するには、市民社会を律するのとは別のロジックが要請されます。言い換えれば、学校を市民社会とは相対的に独立した空間とする必要があるわけです。


日本には、学校を「市民社会とは相対的に独立した空間」とするためのレトリックが存在します。
感のよい方はピンときたかもしれません。
そうです、「聖域」なる言葉です。


学校はしばしば「聖域」だと言われる。
その意味は、市民社会とは相対的に隔絶されている(隔絶されるべきだ)、即ち学校外からの干渉から比較的免れている(免れるべきだ)、ということだろう(ここでレトリックとして重要なのは当然「べきだ」の方である)。
もちろん、「聖域」という言葉にはある種の「価値」が込められている(そしてこの「価値」が「市民社会からの隔絶」を正当化する)。
つまり、教育とは人類の尊い営みであり、そこに従事する教師という職業もまた尊いものだということだ(さらには教師という個人もまた尊い人物であることも含意する)。
しかし、繰り返しになるが、このような(「学校は聖域だ」的な)レトリックはむしろ、学校を市民社会から隔絶しておくために作り出されたとみなすべきだろう。


一応まとめます。

1.「体罰」とは「身体への暴力」であり、それは剥き出しの権力行使である(「剥き出しの」の意味は次エントリーで言及します)。
2.日本社会では、そのような剥き出しの権力行使は極めて限定されている(許される代表的な権力は警察である)。
3.である以上、学校で体罰(=暴力)を正当化するためには、市民社会とは別のロジックが要請される(つまり、学校を市民社会とは相対的に独立した空間とする必要がある)。
4.それを可能にするのが「学校は聖域だ」的なレトリックである。


さて、こうして、学校で剥き出しの権力行使(=体罰という身体への暴力)が蔓延る事態への分析装置(というほど大げさなものでもありませんが)が揃ってまいりました。
ほとんど分析が終わったと言ってもよいかもしれませんが、次エントリーでそこに踏み込んでいきたい。

いじめと道徳と倫理について 2(共同体と道徳、そのただならぬ関係)

小沢新党の党名は『国民の生活が第一』になりましたね。
シンプルでわかりやすくとてもいいと思います。
あとは、それが打ち出す政策が党名を体現するものであるかどうかを、支持者がしっかり監視していかなければならないでしょうね。


それにしても…
予想通りと言えば予想通りですが、大手メディア(=記者クラブメディア)の新党ができる前からのネガキャンは怒りを通り越してあきれるばかりですね。
「世論調査では小沢新党は期待されてない!」とリキんでいるのですが、本当に期待されていないのならほっときゃいいのに、これで『国民の生活が第一』が有権者の注目を浴びて支持が上向くなら、大手メディアは新党の宣伝をしたようなもので目も当てられませんね。


それはさておき。
話題が古くなってしまう前に、いじめと道徳と倫理についての考察を進めたい。


前回のエントリーでは、俗説にありがちな、『いじめは心の問題であるから、道徳教育によって心をよくすればいじめはなくなるのだ』的なノー天気さに疑問を投げかけておきました。
本エントリーは、そこに踏み込む前に道徳と共同体の関係を、できるだけロジカルに論じてみたい。


とりあえずはおさらいをしておきます。
道徳とは共同体的価値を体現するために、(共同体に属する)人々の行為に枠を嵌める言説でありました(具体的には○○すべし、××すべからずという風に)。
そして共同体的な価値は、多くの人が(その価値を体現すべく)道徳的に振る舞うことによって実体性(実在性)を帯びるものでありました。
共同体的な価値が実在性を帯びるということは、(そのような価値を有する)共同体が実在性を帯びることに他なりません。
こうして道徳的な振る舞いの共有と共同体の実在性とは相即的な関係にあります。


ところで、共同体はそれ自体では自らの存在を証明できません。
言い換えれば、共同体なるものが存在するためには、それには属さないものが必要であります。
ソシュール的なものいいで言えば、ある概念が存在するための条件は、それと異なる概念の存在になります(「言語は差異の体系である」というテーゼはその事態を端的に表しています)。


ところで、共同体に属さないものには二種類のものが考えられます。
一つは共同体の外部にあって、その共同体的な価値を共有しない存在(第一の意味での共同体外的存在とする)。
もう一つは共同体の内部にあると思われつつも(勝手にそう思っているだけだが)、その共同体的な価値を共有しない存在(これを第二の意味での共同体外的存在とする、いうなればトリックスター的存在)。


さて、共同体が(より正確には共同体的価値を自明視する人間が)忌み嫌うのは、二番目の共同体外的存在であります。
というのも、第一のものはそもそも共同体とは独立したであり、その存在自体は共同体を脅かさないからです(もちろん、それが共同体に脅威を与える場合は別)。
第二のものは、共同体の内部にあると思われつつも、その共同体的価値を自明視しない存在です(そのような存在が多数になれば、もはや共同体は共同体として成立し得ません)。
それゆえ共同体的なものを後生大事にしたい人々は、第二の意味での共同体外的な存在を許さないでしょう(そのような個体へ攻撃的に接するでしょう)。


ところで、先に述べたように、共同体の成立には共同体外的なものの存在が不可欠でありました。
そして第一の意味での共同体外的存在は、それ自体では共同体の価値とは無関係であるがゆえに、共同体は第二の意味での共同体外的存在を必要とするわけです。
自らの存在のために必要とするにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、共同体はトリックスター的存在に敵意を向けざるを得ないわけです。
そして、トリックスター的存在への敵意は、共同体全体で向ける必要があります(それが共同体は確固としたものとする)。
戦前の日本社会の「非国民」という言葉ほど、この事態を端的に表す言葉も珍しいでしょう。
天皇を頂点にいただく共同体としての日本をでっち上げるためには、(そのような価値を自明視しない)「非国民」がどうしても要請されるわけです。
そして「非国民」の非道徳性が強調されれば強調されるほど、「まっとうな私たち」の道徳性が強固としたものとなるわけです(実際はそんなわけはないのだが)。
これは倒錯以外の何物でもないわけですが、このような倒錯を可能とするのが、共同体と道徳のセットなわけです。



ところで、前にも述べましたが、共同体的なもの(例えば道徳)をどれだけ自明視するかは全く個人的なことに属します。
しかしながら、共同体的なものを自明視することが多い社会で、共同体的な価値を全く無視して振る舞うこともまた困難でしょう。
そしてその困難さはまさに、その共同体的な価値の強度(どの程度の人が共同体的価値に基づいて振る舞っているか)に依存するわけです。


さてここで問題が生じます。


共同体的な価値に基づいて振る舞っている人々の間でも、その価値をどれほど自明視しているかに関しては濃淡があるでしょう。
つまり、完全に共同体的な価値を自明視している(が故に、心からその価値を重視している)人から、共同体的な価値に対してはそれほど自明視していない(懐疑・批判的な視点を有する)が、大勢の人が価値を共有しているように見えるが故に、外見的には価値を重視しているように振る舞う人まで。
つまり、多くの共同体的な価値基づいてに振る舞っているように見えたとしても、可能性としては多くの人が共同体的な価値を自明視しているものから(多くの共同体主義者の願望はこれである)、ほとんど誰も共同体的な価値を自明視していない(=懐疑的である)にもかかわらず多くの人が道徳的に振る舞っているがゆえに自らも同様に振る舞うものまで。


論点が拡散してきたのでここで一旦まとめます(これまでのエントリーも含めて)。



1.道徳は共同体的な価値を体現するための言説である
2.逆に共同体は道徳的言説(が多くの成員によって共有される)によって実在性を帯びる
3.成員が道徳的に振る舞うのは、それが体現する共同体的価値を自明視するからとは限らない(単に多くの人が道徳的に振る舞っているからかもしれない)
4.しかし、個々の成員が共同体的価値を自明視するかどうかとはかかわりなく、多くの人が同様に振る舞えば、道徳は無視できない存在となる(実在性を帯びる)
5.である以上、道徳は「みんなと同様に」という点に力点を有する
6.そしてこの場合の「みんな」が構成するのが共同体に他ならない
7.共同体は「みんな」と同様に振る舞わない個人(トリックスター)を必要とする(無理にでも作り出す)
8.そしてトリックスターに対する憎悪とも呼べる感情が、共同体を確固としたものとする


さて、いじめと道徳の関係に踏み込めるのか?

いじめと道徳と倫理について 1

テレビをほとんど全く見ないのですが…
あっ、昨日のNHKの日曜討論の小沢氏は見ました。
あそこまで自分の政治的スタンスを自分の言葉で話すことのできる政治家も珍しいと思う。
本来、党を出ていくのは(自分たちマニフェスト遵守派ではなく)、マニフェストを簡単に反故にした現執行部である、という趣旨の話には激しく同意せざるをえないな。
第二自民党化した(というより自民党的なものを体現している、という意味ではすでにオリジナルを凌駕しているとも言える)民主党に対して、前の総選挙で一票を投じた一体有権者がどのように振る舞うのか、今から楽しみではあるな。


と、前置きはこれくらいにしてと。


今巷を賑わしている(らしい)某学校でのいじめ自殺問題。
ネットから流れてくる情報を読む限りでは、背景的な問題もいろいろ絡んでいるようですが…
「一体何年前から同じ過ちを繰り返しているの?」「いじめ問題に対処するために一体どんな対策を講じてきたの?」「メディアの報道はいじめ問題に対処するためではなく、娯楽(というと失言と言われそうだが)として消費するだけの役割しか果たしてないのではないの?」という数々の疑問は今はさておこう。


ここ最近主に倫理について(過去には道徳について)述べてきた経緯から、いじめを道徳・倫理的な問題から論じてみたい。
と言っても、あらかじめ断っておくと、メディアでよくありがちな、「いじめは道徳心の欠如した人間が引き起こす、心の問題である(=いじめる人間の心をよくすればいじめはなくなる)」風の俗説には一切与しない。
むしろ、上記のような俗説に基づいた対策を講じるとすれば、いじめを温存し、さらには増長させてしまうだけになる(そしてこの国のいじめの歴史はそれを証明している)、というのが僕の基本的なスタンスであります。
そこを論じてみたい。


さて、道徳とは、僕のかつての定義によれば、「行為に対する評価の体系」であり、最近の定義では「世間・共同体が要請する振る舞い」ということになります。
まぁ、この二つの定義は完全には重ならないかも知れませんが、大まかには違っていないでしょう(多分)。
上記の二つの定義を踏まえれば、道徳とは、


行為の評価であり(評価とは価値づけであり)、その価値づけを行うのは世間・共同体(を内在化した視点)ということになるでしょう。
もちろん、世間・共同体とは決して実体的なものではなく、個々人が(勝手に)「これこそが世間・共同体だ」と想定するもの以外ではあり得ません。
したがって、個人が道徳(=世間・共同体が要請する振る舞い)にどれだけ強迫的に縛られるかは、その人がどれだけ世間・共同体を実体的に想定してるかに依存します。
つまり、世間・共同体を強固なものと思っている人にとっては、(それが要請する)道徳もまた強固なものとなります。
そして道徳を強固なものとして捉える人物は、他者にも道徳的に振る舞うように要請するでしょう(道徳が行為の評価である以上はそうあらざるを得ません)。
まぁ、他者に道徳的であることを強要する人物自身は必ずしも道徳的に振る舞っていない(というより道徳的に振る舞うことは稀である)、というのが実に厄介なのだが…(ここでは深入りしない)


そうして、道徳にコミットする人間が多ければ多いほど、(道徳が依拠する)世間・共同体がより実体的なものとなっていきます。
つまり、道徳と世間・共同体は相互に強化(ないし再生産)する関係にあるわけです。


ちょっと、脇道にそれました。
先の道徳の定義を踏まえ、いじめが仮に道徳(的な振る舞いとして結実する心)の問題だと仮定した場合、問いは次のようになります?
それは「では、世間・共同体的な価値を体現した人間は、いじめを引き起こさないのか?」という問いです。
すでに上で一部書いていますが、この問いに対する僕の答えは明確に「No」となります。
それどころか、道徳に縛られる限り(=世間・共同体的なものを実体視する限り)、いじめを減らすことは非常に困難(ほぼ不可能)である、というのが僕の考えになります。


と、とりあえず問題提起をして本エントリーを締めよう。

検察が田代(佐久間、大鶴、斉藤、木村)を起訴できないワケ 補足編

あっ、決してアクセス数稼ぎがしたい訳ではありません…
ちょっと前回言い足りないことがあったので、本日はその補足ということで…
別に言い訳するようなこっちゃないけど。


さて、一つ目の補足は、検察全体が犯してしまっている虚偽公文書作成(同行使)という犯罪についてです。
あえて書くまでもないとも思ったのですが、一応書いておきます。
言うまでもなく、供述調書なるものですね。
長期間の取調べ(弁護士の立ち会いも、可視化もない)で精神的に追い詰められる(否認しようがそんなことはお構いなし、というか否認は無反省とすり替えられる)。
場合によっては、家族や友人までが取調べを受ける(あるいはそれを脅しとして使われる)。
そうしてやってもいない犯罪の、まったくでっち上げの調書(=虚偽公文書)が作成される。


もちろん、(物証を軽視して)そんなもの(不可視の取調室で作成された供述調書)を証拠として採用する裁判所の問題も大いにある。
その根拠が供述調書の迫真性だったりして笑えるのだが、その迫真性ある供述調書がまったくでっち上げであったことは、数々の冤罪事件を振り返れば珍しくもなんともない(足利事件や布川事件など)。
供述調書の迫真性など、検察が小説家顔負けの作文能力を有する(かもしれない)、ということを示すものでしかない。
まぁ、作文ばっかしていればそれなりに作文能力も上達するわなぁ…


ということで、これが一つ目の補足です。


ところで、森ゆう子参議員が一連の小沢事件(西松事件、陸山会事件)の検察のデタラメっぷりについて書かれた『検察の罠』(あっ、お世辞ではなく国民必読の書です)に実に興味深いことが書かれています(後述)。


ここからは先日のエントリーのおさらいとなりますが…
検察史上稀にみる不祥事と検察内外から総バッシングを受け、検察もソッコーで(報道された当日?翌日?)動いたフロッピー前田の証拠改竄事件(と大坪・佐賀の犯人隠避)。
しかし、小川前法相も立件されないのは明らかにおかしいと認めた、田代検事の捜査報告書捏造という、虚偽公文書作成(同行使)という疑惑(というか、流出した資料を合わせれば、疑惑とも言えないほどその犯罪性はあきらかである)については、見苦しいまでのあがきを見せて不起訴。
この検察を正義の組織と思っている人(そんな人いるのか?)には不可解極まりないであろう事態。
それほど明らかな犯罪を犯した田代を検察が起訴できないワケは、検察全体が同様の犯罪にどっぷり浸かっているからだ、というのが先日のエントリーの趣旨でした。


「まぁ、確かに田代の虚偽公文書作成は犯罪かもしれないが(まぁ、立派な犯罪だが)、前田ほど悪質じゃないっしょ(だから不起訴に目くじら立てなさんな)」、という向きもあるかもしれません。


が、しかし。
そこで、参照にすべきが上記の森議員の『検察の罠』であります。


一部引用します
201ページより


私は、前田検事の事件と、田代検事の事件の取り扱いがバランスを失している決定的なポイントを突くことにした。
「じゃあ、証拠の捏造と捜査報告書の捏造は、罪はどちらが重いんですか?」
「えーと、法的な意味というか、社会的な意味ということでしょうか?」
「両方です」
「それはやはり、同程度の深刻な事態だとは思います」
また質問の意味をわざと取り違えている。私は聞き返した。
「罪は?」
黒川官房長はすぐには答えなかった。
虚偽有印公文書作成罪の方が……」とっさに答えたのは、同席していた法務省刑事局の担当者だった。
前田検事のやった証拠偽造の法定刑は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金。
田代検事のやった虚偽有印公文書作成ざは、1年以上10年以下の懲役。
検察官にとっては常識だ。とっさに答えが出てこないほうがおかしい。もちろん、黒川官房長がしらないわけがない。
つまり、意地でも田代検事の罪のほうが重いとは認めたくないのだ。




一応、刑の重さで単純に犯罪の悪質性を云々できるわけではない、という留保を仮につけたとしても、少なくとも前田並の犯罪を犯した人間が起訴(どころか逮捕)もされずにのうのうと大手を振って(?)歩いているのが、検察という組織なわけです。
そして、犯罪者が大手を振って(?)のさばっているいるのに、それを咎める人間が誰一人としていない(唯一いるのがすでに検事を辞めた郷原氏)のが、正義を称する検察組織なわけです。
そんな組織が正義を称するところが笑えるっちゃあ笑える(笑いごっちゃないけど)。


そして再度述べますが、明らかな犯罪者を逮捕・起訴できないのは、検察全体が同じ犯罪に手を染めているからです(検察=犯罪組織)。
前田の証拠改竄事件が検察史上類を見ない不祥事というのなら、検察史上類を見ない不祥事がゴロゴロしているのが現在の(過去もか?)の検察なわけです。
そこいらにゴロゴロしているものを、検察史上類を見ないなどとは決し表現しませんが…


やや(?)脱線しましたが、これが補足の二点目。


脱線ついでに(?)本題とは大いにズレるがもうちょいと言いたい。
本来なら、『検察の罠』という本は、ジャーナリストが書くべきだろう。
もちろん、大手メディア(=記者クラブメディア)の記者は決してジャーナリストではなく権力の犬に過ぎないから、そんなものが書くなどとは全く期待していないが…
フリージャーナリスト諸君、君らにもしジャーナリストの矜持があるのなら、本職ではない一国会議員に自らの仕事を奪われたことを大いに恥じ入ってもらいたい。
ジャーナリスト冥利に尽きる垂涎のネタが、間違いなく目の前に転がっているのに、それを指を咥えてみているだけなのか君たちは?(上杉隆氏は『暴走検察』を書いていたな)
だったら今すぐジャーナリストの看板を下ろすべきだ。


と、まぁちょっと(?)興奮気味に書いてしまいましたが…
未来の歴史家は小沢事件を日本史上でも稀にみる謀略事件と表現するだろう。
せめて、その歴史資料として今回のこの事件を詳細に纏めるジャーナリスト(じゃなくてもよいけど)が出て欲しいところだ。
あっ、僕は素人なのでその辺はちょっと…

倫理 未完のプロジェクト (あるいは倫理と科学について)

アクセス数が凄いことになっている…
これもひとえにtwitterで拡散してくださった方々のおかげであり、御礼申し上げます。
このアクセス数に気をよくして検察ネタを引っ張る誘惑に駆られるところではあるが…
書きたいことを書くという自分のスタイルは貫いていきたい。
まぁ、たまにはスケベ心を出して検察ネタも書いていこう。


さて、倫理シリーズ
そもそものきっかけは、「現在の日本社会に欠けているのは倫理ではないか?」という、些か(?)大風呂敷の問題意識から始まったものでありました。

そして僕の考える(日本社会に欠如している)倫理とは、「自ら確立した行為規準(ないし行為指針)」というものでありました。

そしてそのように定義する限りにおいては、倫理は決して完成するものではない(未完のプロジェクトである他ない)。
そのことを科学とのアナロジーにより示したい。
それは、こと倫理ということに関しては、人に謙虚であることを要請することになるだろう。


科学は決して完成したものではない(少なくとも科学が完成したものであることを示すことはできない)。
ポパーによれば、科学の正当化には意味がない。言い換えれば、科学は批判(誤りを見つけようとする試み)によって(のみ)発展する。これがポパーの唱える批判的合理主義の含意である。
正当化に意味がない、ということはもう少し述べた方がよいだろう。


私たちがある事柄を正しいと証明したい(正当化したい)と思う。
そのためには、正しい前提から、その事柄を論理的に導ければよい。
しかし、その前提は本当に正しいのか?なぜその前提が正しいと言えるのか?より正しい(?)前提から導かれるからか?ではなぜそのより正しい(?)前提は正しいと言えるのか?
こうして、無限後退に陥ることになる。


もちろん、「正しいと証明するためには無限後退に陥る」ことは、間違いであることを証明するわけではない(証明できないことを示すのみである)。
しかし、正しいと証明できない命題を正しいと見做すことは、ある種の信仰である他はない。
こうして、どれほど正しいものに見えようとも科学を正しいと証明する(正当化する)ことはできない(「科学の正しさ」は信仰の対象である以外にない)。


さて、上記のロジックを倫理に当てはめてみよう。
倫理は完成されたものではあり得ない(少なくともそれ証明することはできない)。
もちろん、自分の倫理が完成されたものであると信じることはできる(それは信仰の対象である他はないが)。
しかし、自分の倫理が完成されたものであると信じている人間と、自らの倫理が誤った(あるいは未完成の)ものである(かもしれない)と考える人間の、どちらが困難やトラブルに直面した時にそれを乗り越えられるだろうか?
僕には明らかに思える(言うまでもなく後者である)。
まぁ、この辺りはやや(?)余談めいていますが…


自らの倫理が未完成(未熟)であると考えるなら、それをよりよいもの(より成熟したもの)へと発展させようとするモチベーションを持ち得るだろう(必ずそうなる、という意味ではない)。
それをシンプルに「成長への意思」を持ち得る、と言い換えてもよい。
そして、「成長への意思」を持ち得るのは、それを他ならぬ自分が作り上げたもの、という感覚を有するからに違いない。
逆に言えば、自分以外のものから発したものについて、「成長の意思」を持ち得るだろうか?


他ならぬ自分が作り上げたもの、という感覚は恐らく責任という感覚と密接に関係がある(同じものかもしれない)。
だとすれば、社会が責任という感覚で満たされるためには、私たちは一人一人が「自ら確立した行為規準」、という意味での倫理を有する必要があるだろう。
そのためには何が必要か?
それを展開するのには別のエントリーが必要になるが、「それは試行錯誤である」、と予告して本エントリーを締めようと思う。

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