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2024-04

疑似科学批判考(5) まとめ

7月に入っていいペースでブログ更新してたのに、ついに途切れてしまった…
まあ、ブログタイトルに偽りなしってことで(100%言い訳ですが)。

それはさておき。
昨日の訪問者数は突出しておりますな(理由はよーく分かっておりますよ、ありがとうございますNewsOLさん)。
コメント欄もいつになく盛況ですし。
コメントをくださった皆さん、ありがとうございます(お返事はいつになるか分かりませんが、返すつもりでいます)。

今日は注目記事を上げます。この時期ならサミットなんでしょうけど、僕は天邪鬼なので。
PTAの会議に出て先生たちにメディア・リテラシー教育を要望しよう:個人的にメディアリテラシーは非常に重要だと考えているので、ついつい反応してしまいます。
アフガンへは丸腰で:国際情勢も大事ですね(自戒も込めて)。
御殿場冤罪事件など、お上的判決は裁判所の官僚体質、法曹一元化(原則、弁護仕上がりの裁判官ばかりに)せよ:かなり専門的な内容ですが・・・。現在の裁判制度の問題点が分かりやすく述べられていると思います。

さて本題へ。
まずはおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
疑似科学批判考(4)

一応これでまとめです。
さて、疑似科学の定義、から言説の構造分析(「自然志向/超自然志向」「価値志向/価値無志向」という軸による分類をしたが、どうもあまり意味がなかったようだ)を行い、疑似科学的言説の一側面、即ち、「なぜ科学を装うのか?」、「科学的なものであろうとするのか?」、をその社会的要因(科学が真理の言葉として流通している)、精神分析的要因(科学の上位に立つことで優越感を得られる)によって考察した。

さて、以上を総括して、疑似科学批判をどのように捉えているか、そのような言説に対してどのように対処するのがよいのか、プラグマティックな観点から論じてみたい。

自由主義社会においては、人々は基本的にはどのような志向(趣味、性癖、信仰、思想etc…)を持とうが自由である(それが他者の自由を侵害するものでない限り)。
したがって、単に疑似科学的なものに没入する個人を、そのことを理由に批判することはできない(疑似科学への没入それ自体は他者危害ではない)。
つまり、疑似科学的志向それ自体を批判するわけにはいかない。
とすれば、自由な社会において疑似科学的なものを批判する上で、どのような形があり得るか?

一つは、その疑似科学自体に他者危害が内包される場合は、疑似科学それ自体を批判する根拠になると思われる(優生思想がその代表格である)。その優生思想が社会的に受け入れられた暁には、良くて差別の正当化、悪くするとジェノサイドへ至るだろう。従って、優生思想の表明は、それ自体批判の根拠となる。

一つは、疑似科学「を用いて」他者への害をなすということが考えられる。民間療法(積極的に害をなす場合もあれば、適切な治療から遠ざけるという意味での消極的害もある)、疑似科学を用いた詐欺、少し述べたが血液型性格分類の人事への活用などがあげられよう(この中で、「水からの伝言」を批判する要因があるとすれば詐欺か?)しかしこれらは、疑似科学を批判すればなくなる、という単純な構図ではない。実際に詐欺などの実害が生じたら対処すべき事項である(先ほどの自由主義社会においては…を思い出そう)。

正当な(?)医療においても当然害が生じる可能性はある(それが表に出てきたものが、いわゆる医療事故である。ただし、医療事故が全て表に出てくるとは限らない)。だからといって、医療をなくすべきとはならない(それと一緒でしょう、違うかな?)。

また、新興宗教においては、主観(信者本人の感じ方)と客観(周りの人間の感じ方)の食い違いが生じるのが常である。
つまり、周り(客観)は害のあるもの(洗脳)と捉えるが、本人(主観)は自由意志でその宗教に入ったと思っている。
で、周りは自分の善意を疑っていないから、しばしば相手の間違い(不合理さ)を指摘して説得しようと試みるが、通常それは逆効果である。宗教とは、大なり小なり不合理さを内包しており、人間には「不合理ゆえに惹かれる」という側面もある(不合理である、との指摘がそもそも説得力を有さない)。「鰯の頭も信心から」という言葉を思い出そう!

ただし、新興宗教にありがちな、「一旦入ってしまったら抜け出せない(抜け出させない)」は当然批判されるべきだろう(自由意志による参入、離脱が当然認められなければならない)。僕の新興宗教への批判は「甘い」と批判される方もいらっしゃるでしょう(その批判は謙虚に受け止めます)。

最後に(これが水からの伝言批判でもっとも重視されているものと思われる)、「疑似科学的なものが蔓延ることによって、人々が健全な思考(批判的思考)を身につけるチャンスを失ってしまう」、という批判が考えられる。これに対して、正面から反論することは難しい(というより、僕自身も一般的な疑似科学批判が説得力を持つとしたら、この文脈しかないと考えている)が、少なくとも、水からの伝言へ言及したブログの糾弾は、このような目的に適うものではないと断言できる。いかなる糾弾もその対象を萎縮させるという効果以外は持ち得ない。萎縮は、それを正面から取り上げるという機会を奪ってしまいがちである(臭い物に蓋、という条件反射を起こしがちである)。
そもそものブログエントリーが糾弾的なものだったかというところは僕も自信をもって言えるわけでもないですけど。

批判的思考を身につけるには、地道であるがコツコツと批判的なものの考え方を実践していくしかない(そういう試みは実際になされているようだし、疑似科学は批判的思考の訓練の絶好の教材であるらしい)。人々が批判的思考を身につけることによって、上記の疑似科学「を用いた」害は徐々に減らしていけるだろう。

まあ、言いだしっぺの本人が「私闘」宣言をされてしまったようで、僕のまとめも無駄になったような気もするのですが…
せっかく始めたことなので、一応形だけでもまとめてみました。
幾分尻切れトンボの感もありますが。

最後まで読まれた皆さん、ご苦労様でした。
お茶は出せませんが、拍手ボタンはありますので、遠慮なくどうぞ。

疑似科学批判考関連エントリーはこちらから。

コメント

2点コメント

労作、お疲れ様でした。
言いだしっぺの方のことはともかく、一般論として読める部分が多いので、決して無駄ではないと思います。

今回のエントリで疑似科学批判の問題点が見渡せていると思います。個々の点にはそれぞれ異論もありますが、取り上げた点は私の認識と共通するものがあり、興味を持って読みました。

2点、コメントさせていただきます。

社会有害性については、「実害が生じたら対処すべき」だけでは済まされない気がしています。もっと掘り下げてまとめられたドキュメントがあってもいいように思います。個々の案件ごとに論ずるべきなら、分類や(考え方の)リストでも良いのです。
科学者というより社会学者の役割のような気もします。たぶんカルト系でそういう本も出てると思いますが、そこから敷衍して考えられるのかどうか。自分でも調べてみようと思っています。

次に批判的思考ですが、疑似科学批判時に批判的思考を教えるというのは、なかなか困難ではないでしょうか。それを主目的と据えてしまうと、達成できない目標を立ててしまうことになり、よろしくないのではと考えます。
特にネット上の議論では、お互いの顔も見えず、相手がいつまで付き合ってくれるのか、批判者が導く方向に添って考えてもらえているのかどうかがわかりません。
本来は教育や各種リテラシー向上の流れで考えるべきか、とも最近は思います。
しかし実際どうするかは…TVは怪しげな情報ばかりであてにできないし、本や雑誌も、利益を考えれば批判本をばかすか作るわけにも行かず(要するに売れないし)。
中学高校の理科教育の現場は大変良い場だと思います。でもそこからすでに離れてしまった人にどうするか。
いろいろと難しい問題で、これもちょっとやそっと考えただけで何か言えるものでもありません。何だか問題だ、ということだけはわかるのですが…。

quine10さんもぜひ、せっかくここまで考えてこられたのですから、頭の隅っこに問題意識を引き続き置いていただいて、何かまとまったらまたぜひエントリを書いて下さい。
私も、何かまとまったら書いてお知らせします。
情報交換をしていければ幸いです。

では。

kikulog:

「僕達は科学と常識を統合します」p

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quine10さんの疑似科学批判(5) まとめと云うエントリを読んだ。この方は一連の「疑似科学批判」シリーズのエントリを挙げていらっしゃっている。

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