いじめと道徳と倫理について 1
テレビをほとんど全く見ないのですが…
あっ、昨日のNHKの日曜討論の小沢氏は見ました。
あそこまで自分の政治的スタンスを自分の言葉で話すことのできる政治家も珍しいと思う。
本来、党を出ていくのは(自分たちマニフェスト遵守派ではなく)、マニフェストを簡単に反故にした現執行部である、という趣旨の話には激しく同意せざるをえないな。
第二自民党化した(というより自民党的なものを体現している、という意味ではすでにオリジナルを凌駕しているとも言える)民主党に対して、前の総選挙で一票を投じた一体有権者がどのように振る舞うのか、今から楽しみではあるな。
と、前置きはこれくらいにしてと。
今巷を賑わしている(らしい)某学校でのいじめ自殺問題。
ネットから流れてくる情報を読む限りでは、背景的な問題もいろいろ絡んでいるようですが…
「一体何年前から同じ過ちを繰り返しているの?」「いじめ問題に対処するために一体どんな対策を講じてきたの?」「メディアの報道はいじめ問題に対処するためではなく、娯楽(というと失言と言われそうだが)として消費するだけの役割しか果たしてないのではないの?」という数々の疑問は今はさておこう。
ここ最近主に倫理について(過去には道徳について)述べてきた経緯から、いじめを道徳・倫理的な問題から論じてみたい。
と言っても、あらかじめ断っておくと、メディアでよくありがちな、「いじめは道徳心の欠如した人間が引き起こす、心の問題である(=いじめる人間の心をよくすればいじめはなくなる)」風の俗説には一切与しない。
むしろ、上記のような俗説に基づいた対策を講じるとすれば、いじめを温存し、さらには増長させてしまうだけになる(そしてこの国のいじめの歴史はそれを証明している)、というのが僕の基本的なスタンスであります。
そこを論じてみたい。
さて、道徳とは、僕のかつての定義によれば、「行為に対する評価の体系」であり、最近の定義では「世間・共同体が要請する振る舞い」ということになります。
まぁ、この二つの定義は完全には重ならないかも知れませんが、大まかには違っていないでしょう(多分)。
上記の二つの定義を踏まえれば、道徳とは、
行為の評価であり(評価とは価値づけであり)、その価値づけを行うのは世間・共同体(を内在化した視点)ということになるでしょう。
もちろん、世間・共同体とは決して実体的なものではなく、個々人が(勝手に)「これこそが世間・共同体だ」と想定するもの以外ではあり得ません。
したがって、個人が道徳(=世間・共同体が要請する振る舞い)にどれだけ強迫的に縛られるかは、その人がどれだけ世間・共同体を実体的に想定してるかに依存します。
つまり、世間・共同体を強固なものと思っている人にとっては、(それが要請する)道徳もまた強固なものとなります。
そして道徳を強固なものとして捉える人物は、他者にも道徳的に振る舞うように要請するでしょう(道徳が行為の評価である以上はそうあらざるを得ません)。
まぁ、他者に道徳的であることを強要する人物自身は必ずしも道徳的に振る舞っていない(というより道徳的に振る舞うことは稀である)、というのが実に厄介なのだが…(ここでは深入りしない)
そうして、道徳にコミットする人間が多ければ多いほど、(道徳が依拠する)世間・共同体がより実体的なものとなっていきます。
つまり、道徳と世間・共同体は相互に強化(ないし再生産)する関係にあるわけです。
ちょっと、脇道にそれました。
先の道徳の定義を踏まえ、いじめが仮に道徳(的な振る舞いとして結実する心)の問題だと仮定した場合、問いは次のようになります?
それは「では、世間・共同体的な価値を体現した人間は、いじめを引き起こさないのか?」という問いです。
すでに上で一部書いていますが、この問いに対する僕の答えは明確に「No」となります。
それどころか、道徳に縛られる限り(=世間・共同体的なものを実体視する限り)、いじめを減らすことは非常に困難(ほぼ不可能)である、というのが僕の考えになります。
と、とりあえず問題提起をして本エントリーを締めよう。
あっ、昨日のNHKの日曜討論の小沢氏は見ました。
あそこまで自分の政治的スタンスを自分の言葉で話すことのできる政治家も珍しいと思う。
本来、党を出ていくのは(自分たちマニフェスト遵守派ではなく)、マニフェストを簡単に反故にした現執行部である、という趣旨の話には激しく同意せざるをえないな。
第二自民党化した(というより自民党的なものを体現している、という意味ではすでにオリジナルを凌駕しているとも言える)民主党に対して、前の総選挙で一票を投じた一体有権者がどのように振る舞うのか、今から楽しみではあるな。
と、前置きはこれくらいにしてと。
今巷を賑わしている(らしい)某学校でのいじめ自殺問題。
ネットから流れてくる情報を読む限りでは、背景的な問題もいろいろ絡んでいるようですが…
「一体何年前から同じ過ちを繰り返しているの?」「いじめ問題に対処するために一体どんな対策を講じてきたの?」「メディアの報道はいじめ問題に対処するためではなく、娯楽(というと失言と言われそうだが)として消費するだけの役割しか果たしてないのではないの?」という数々の疑問は今はさておこう。
ここ最近主に倫理について(過去には道徳について)述べてきた経緯から、いじめを道徳・倫理的な問題から論じてみたい。
と言っても、あらかじめ断っておくと、メディアでよくありがちな、「いじめは道徳心の欠如した人間が引き起こす、心の問題である(=いじめる人間の心をよくすればいじめはなくなる)」風の俗説には一切与しない。
むしろ、上記のような俗説に基づいた対策を講じるとすれば、いじめを温存し、さらには増長させてしまうだけになる(そしてこの国のいじめの歴史はそれを証明している)、というのが僕の基本的なスタンスであります。
そこを論じてみたい。
さて、道徳とは、僕のかつての定義によれば、「行為に対する評価の体系」であり、最近の定義では「世間・共同体が要請する振る舞い」ということになります。
まぁ、この二つの定義は完全には重ならないかも知れませんが、大まかには違っていないでしょう(多分)。
上記の二つの定義を踏まえれば、道徳とは、
行為の評価であり(評価とは価値づけであり)、その価値づけを行うのは世間・共同体(を内在化した視点)ということになるでしょう。
もちろん、世間・共同体とは決して実体的なものではなく、個々人が(勝手に)「これこそが世間・共同体だ」と想定するもの以外ではあり得ません。
したがって、個人が道徳(=世間・共同体が要請する振る舞い)にどれだけ強迫的に縛られるかは、その人がどれだけ世間・共同体を実体的に想定してるかに依存します。
つまり、世間・共同体を強固なものと思っている人にとっては、(それが要請する)道徳もまた強固なものとなります。
そして道徳を強固なものとして捉える人物は、他者にも道徳的に振る舞うように要請するでしょう(道徳が行為の評価である以上はそうあらざるを得ません)。
まぁ、他者に道徳的であることを強要する人物自身は必ずしも道徳的に振る舞っていない(というより道徳的に振る舞うことは稀である)、というのが実に厄介なのだが…(ここでは深入りしない)
そうして、道徳にコミットする人間が多ければ多いほど、(道徳が依拠する)世間・共同体がより実体的なものとなっていきます。
つまり、道徳と世間・共同体は相互に強化(ないし再生産)する関係にあるわけです。
ちょっと、脇道にそれました。
先の道徳の定義を踏まえ、いじめが仮に道徳(的な振る舞いとして結実する心)の問題だと仮定した場合、問いは次のようになります?
それは「では、世間・共同体的な価値を体現した人間は、いじめを引き起こさないのか?」という問いです。
すでに上で一部書いていますが、この問いに対する僕の答えは明確に「No」となります。
それどころか、道徳に縛られる限り(=世間・共同体的なものを実体視する限り)、いじめを減らすことは非常に困難(ほぼ不可能)である、というのが僕の考えになります。
と、とりあえず問題提起をして本エントリーを締めよう。
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