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2024-02

倫理 未完のプロジェクト (あるいは倫理と科学について)

アクセス数が凄いことになっている…
これもひとえにtwitterで拡散してくださった方々のおかげであり、御礼申し上げます。
このアクセス数に気をよくして検察ネタを引っ張る誘惑に駆られるところではあるが…
書きたいことを書くという自分のスタイルは貫いていきたい。
まぁ、たまにはスケベ心を出して検察ネタも書いていこう。


さて、倫理シリーズ
そもそものきっかけは、「現在の日本社会に欠けているのは倫理ではないか?」という、些か(?)大風呂敷の問題意識から始まったものでありました。

そして僕の考える(日本社会に欠如している)倫理とは、「自ら確立した行為規準(ないし行為指針)」というものでありました。

そしてそのように定義する限りにおいては、倫理は決して完成するものではない(未完のプロジェクトである他ない)。
そのことを科学とのアナロジーにより示したい。
それは、こと倫理ということに関しては、人に謙虚であることを要請することになるだろう。


科学は決して完成したものではない(少なくとも科学が完成したものであることを示すことはできない)。
ポパーによれば、科学の正当化には意味がない。言い換えれば、科学は批判(誤りを見つけようとする試み)によって(のみ)発展する。これがポパーの唱える批判的合理主義の含意である。
正当化に意味がない、ということはもう少し述べた方がよいだろう。


私たちがある事柄を正しいと証明したい(正当化したい)と思う。
そのためには、正しい前提から、その事柄を論理的に導ければよい。
しかし、その前提は本当に正しいのか?なぜその前提が正しいと言えるのか?より正しい(?)前提から導かれるからか?ではなぜそのより正しい(?)前提は正しいと言えるのか?
こうして、無限後退に陥ることになる。


もちろん、「正しいと証明するためには無限後退に陥る」ことは、間違いであることを証明するわけではない(証明できないことを示すのみである)。
しかし、正しいと証明できない命題を正しいと見做すことは、ある種の信仰である他はない。
こうして、どれほど正しいものに見えようとも科学を正しいと証明する(正当化する)ことはできない(「科学の正しさ」は信仰の対象である以外にない)。


さて、上記のロジックを倫理に当てはめてみよう。
倫理は完成されたものではあり得ない(少なくともそれ証明することはできない)。
もちろん、自分の倫理が完成されたものであると信じることはできる(それは信仰の対象である他はないが)。
しかし、自分の倫理が完成されたものであると信じている人間と、自らの倫理が誤った(あるいは未完成の)ものである(かもしれない)と考える人間の、どちらが困難やトラブルに直面した時にそれを乗り越えられるだろうか?
僕には明らかに思える(言うまでもなく後者である)。
まぁ、この辺りはやや(?)余談めいていますが…


自らの倫理が未完成(未熟)であると考えるなら、それをよりよいもの(より成熟したもの)へと発展させようとするモチベーションを持ち得るだろう(必ずそうなる、という意味ではない)。
それをシンプルに「成長への意思」を持ち得る、と言い換えてもよい。
そして、「成長への意思」を持ち得るのは、それを他ならぬ自分が作り上げたもの、という感覚を有するからに違いない。
逆に言えば、自分以外のものから発したものについて、「成長の意思」を持ち得るだろうか?


他ならぬ自分が作り上げたもの、という感覚は恐らく責任という感覚と密接に関係がある(同じものかもしれない)。
だとすれば、社会が責任という感覚で満たされるためには、私たちは一人一人が「自ら確立した行為規準」、という意味での倫理を有する必要があるだろう。
そのためには何が必要か?
それを展開するのには別のエントリーが必要になるが、「それは試行錯誤である」、と予告して本エントリーを締めようと思う。

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