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2024-04

疑似科学批判考(4)

昨日のエントリーで今月中と書いたが、よく考えると今日で6月は終わりだった…

ずいぶん間隔が開いてしまった。
どういう風に書こうとしていたか、忘れてしまいそうです(半分忘れた)。
取り敢えずおさらい。

疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
番外編は省略

疑似科学批判考(3)までで、疑似科学的言説の構造分析を行った。
せっかく4類型に分類したので、それぞれの類型別にその批判の根拠を洗い出したいと思うのだが、うまくいかないかも?

さて、疑似科学を批判する以上、その批判には何らかの根拠、理由が必要なはずである(それがなければ、批判とは呼べないはずである)。
ならばその根拠はどのようなものになるだろうか?
番外編1で述べたように、科学という営みは絶えざる修理を受けつつ、海に浮かんでいる船のような存在である。
すなわち、自ら(科学)を(絶対的に)正しいものとして、自分とは違うもの、すなわち疑似科学を批判するわけにはいかない。

そもそもどうして疑似科学が生まれるのか、あるいは疑似科学的なものに(ある種の)人々が吸引されるのか?
超自然的なもの(神秘的なもの、と言い換えてもよい)、あるいは道徳的なものへの志向は、おそらく大なり小なりたいていの人間が持っているだろう(全く持っていない人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも超自然志向、道徳志向の疑似科学的なものへの関心すら持たないだろう)。科学的なものへの志向も多くの人が持っているだろう。
しかし、疑似科学はそれだけではなく、「科学を装う」というところに問題がある(と思われる)。

先日トラックバック頂いたブログに、科学を装わない神秘主義思想は疑似科学ではなく、それ故(疑似科学)批判の対象にはならないという旨のことが書かれていた(トラックバック頂いたエントリーはこちら)。
それに対しては特に反論はない。
僕の疑似科学定義にも科学の装いを有する(科学の権威を活用する)、と書きましたので(ある神秘主義思想が全く科学的装いを有さないなら、定義によりそれは疑似科学ではない)。

では、疑似科学は、本来(とくに自然)科学が対象とすべきでない(と思われている)ことがらを、なぜあたかも自然科学であるかのように装うのか?という疑問が生じる。
この答えにはいくつかのレイヤーが存在するように思われる。 ひとつは、自然科学が私たちの社会で、「真理の言説(正しい学問)」として、流通しているということがある。
初等教育、中等教育、高校教育を通じてなされる科学教育は、人々にそのような「真理としての科学(あるいは正しい学問としての科学)」という観念を植え付ける(もちろん万人にというわけではない)。
そうなると、一定の確率で自らの言葉を「真理の言葉」で肉付けをしたいと考える人が出てきても不思議ではない(つまり正当化のための科学の装い)。
まあ、洗脳と言うと言葉が悪いが、実際その科学教育の効果(潜在的なものまで含めて)はなかなか侮りがたいと思う。
この科学教育の(洗脳)効果をある程度解除するには、ある種の科学哲学的な訓練が必要だと思う。

科学ではないが、アルコール依存症の自助グループにAlcoholics Anonymous(AA)というものがある。
これはアメリカで生まれたのだが(日本には断酒会という自助グループがある)、そのグループは一切の宗教とは無関連であると謳っているのだが、その綱領的なもの12のステップを読むと宗教的な香りが漂う。つまり、キリスト教というものが、かの社会ではもはや空気のように漂っており、そこからの影響を断ち切った形で物事を立ち上げることが非常に困難なのだ(断ち切ったと思っても、いわば無意識の領域にまで入り込んでいる)。そのおかげで(?)かの国では進化生物学すら満足に教えられない(らしい)。

同様に、自然科学の成果を存分に享受し、かつ物心ついたときから行われる科学教育が、「科学は正しい」という観念を空気のように漂わせずにはいられない。
そうであれば、あらゆることを科学と結びつける志向が発生しても不思議はない(例えば、正しい道徳というものは科学的に明らかにできるはずだ!という信念)。
つまり、そういう社会環境的な要因がある。

またもう一つは幾分逆説的なことだが、疑似科学批判がなされればなされるほど、疑似科学が蔓延るという事態が予想される。
どういうことか。
疑似科学批判は、(絶対的にであれ、相対的にであれ)「科学が正しい」ということを前提になされる(「科学的に間違っている」という主張が意味を持つためには、「科学的に正しい」が有意味でなければならない)。
つまり、疑似科学批判をすればするほど、「科学は正しい」という観念が醸成される。言い換えれば、科学の権威が増大する。
権威が増大すれば、(ある種の人間は)その権威に頼ろうとする。つまりは科学を装う、あるいは科学(のようなもの)であろうとする。
ここには陰謀論と同様の信憑構造があると考えられる(陰謀論もまた否定すれば否定するほど確信が深まる、という逆説的構造がある:詳しくは別エントリーで)

以上の二つは、実際にはコインの裏表的なものである。

別のファクターとしては次のようなものが考えられる。
いささか精神分析的な物言いになるのだが…
科学は全てを合理的に説明しているように見える(もちろん、現場ではそこまですっきり説明できるわけではないのだが、少なくとも教科書レベルでは、そのように表記せざるを得ない)。科学の読み物には、大きく分けて合理的な面の強調と偶然的な要素の強調の大きく二つのアプローチがある(後者のほうが科学という営みの人間くささが感じ取れる)。実際にはこの両者が混在することの方が多いのだが。まあ、これは余談。

そこで、例えば科学教育において劣等感を有していた人物が、「合理的な科学をメタなレベルから説明するような『超自然的実体』を発見した」とすることで、「(科学の扱う)自然に留まる科学者よりも、(自然を超えた)超自然的実体に到達した私の方が優秀である」、という優越感を獲得できる(誇大妄想の入った新興宗教の教祖タイプ、コンノケンイチなどのアインシュタインの相対性理論は間違っていた、というトンデモさんもこのタイプかもしれない)。

最後に(本当は最初に述べるべきかもしれないが)、これまでも何度か述べた「確証バイアス」が関わってくる(後日別エントリーで論じる予定)。
つまり、「疑似科学にとって都合のよい事実(というより情報)のみを取り入れ、当の疑似科学を否定するような情報を(半ば無意識的に)切り捨てる」、という態度である。血液型性格分類を考えると分かりやすい。
ある人の血液型と性格が血液型性格分類に当てはまりそうな場合、「やっぱ、血液型って当たるよねえ」。
当てはまりにくい場合、「B型(A型、O型、AB型)にもそういう人はいるよねえ(でも例外よねえ)」。
という風に。
しかし、血液型性格分類は疑似科学としては異端だろう。血液型性格分析への志向は、「みんながやっているから」という日本ならではの理由から広まっていると思われる(血液型が4タイプと単純であること、性格という曖昧なものを対象にしているので確証バイアスが成立しやすいこと、なども志向の一端を担っているかもしれない)。

残念ながら6月中の完結はあきらめました。
が、次で何とかまとめるつもりです。
どんな風にまとまるか自分でも予測不能ですが…

疑似科学批判考関連エントリーはこちらから。

コメント

現在の科学は疑似科学!

 疑似科学批判をされていますが、科学自体が、今現在は、疑似科学そのものではありませんか?
 例えば、科学は、私達人間存在を含めて、私達が生きているこの世界の成り立ちと仕組みを、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみで全て説明する学問です、と言い切って、つぎに、自然法則とは何か、エネルギーとは何か、自然法則とエネルギーとの関係はどうなっているのか、自然法則とエネルギーとでこの世界の成り立ちと仕組みをどのように造っているのか、といったことを、一意的に/一義的に
かつ客観的にかつ明確にかつ確定的に説明することです。

 あなたは、これらの説明が、あなたご自身ののことばで、即座に全部出来ますか?

 こうすれば、科学的と主張するには、この説明の通りになっているかどうかひとつで話は決まります。
 自然法則+エネルギー一体不可分の働きで物事を説明しないのは、科学ではありません。
 しかし、今現在、物理の事典に、自然法則という単独の項目の見出しさえありません。
 自然法則とエネルギーの関係についても同様です。
 今、反疑似科学の立場の人たちが、科学を理解するのに必要な基礎的な用語の選定をされているみたいですが、この世界の成り立ちと仕組みを造っている自然法則と自然法則とエネルギーとの関係に関することはその中には入ってないようですね。
 このように、現在の科学理論はいい加減なものだから、進化論を学校で教えることに反対する人たちを説得できないのです。
 疑似科学を作り出すのです。
 更には、量子論の原理的な説明ができず、なぜこの世界が量子化されているのかについて、先の科学の定義に則ったような説明が出来ず、多世界解釈とか超弦理論とかいう妄想的な理論が、科学の世界に跋扈することになっているのでしょう。

 つまり、科学基礎論、科学哲学と称されるものが、未だ独自のものが存在しないだけでなく、インチキなのです。
 もし、自然法則とエネルギーについてこれが何か、両者の関係はどうなっているか、自然法則とエネルギーとでこの世界をどのようにして造っているのかについて、科学基礎論で自覚的で意図的な解明をすれば、私が発見しているように、ヒトが作ったのではない、それ自体であるようにしてある、天然自然の存在の創造主である神を否応なしに発見して、この世界の成り立ちと仕組みは、天然自然の存在の創造
主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで造られていることも発見し、生物学的な常識と異なる、ヒトの存在理由と存在目的が分かり、マルクス主義的な歴史目標に代わる、人類史の目標も発見することになるでしょう。

 ヒトの存在とこの世界の成り立ちと仕組みは、天然自然の存在の創造主である神、自然法則、エネルギ一の3語だけで全て説明できます。

 なお、アルコール依存症から脱却する12条が神がっている理由は、個人の意志的な努力に頼らずに楽に困難な目標を実現する心理作戦では、個人を超える何かの原理を持ち出して、それに治療を任せる形で行うことがよくある例と理解できます。
 病気治療では、その原理となるものは、特定のサプリメントだったり、特効薬だったり、自然法則+エネルギー一体不可分の働きだったり、自然治癒力だったり、この究極の存在のこの世界の成り立ちと仕組みの創造主である神だったするのです。

 詳しい話は、次のブログ。
 一般法則論
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/

一般法則論者さん

コメントありがとうございます

えっと、僕は科学という営みについては、それなりに信頼しているんです(個々の科学者達もきっと信頼できる人が多いでしょう)。
もちろん、科学は間違うことも多々ありますし、時には傲慢に振舞うこともあります。
しかし、前者については間違った科学の軌道修正をしてきたのも他ならぬ科学でありましたし、後者については傲慢さを正す社会の健全なリアクションがあるだろうと思います。
何よりも科学が私たちの生を豊かにしたというところは否定できないですし(一方科学が人々を不幸に陥れた事実も否定できないのですが)、人間の好奇心を掻き立てる素晴らしい発見をしてきました。
そういう意味で、僕は科学を信頼していますし、これからも信頼していくでしょう。
ただし、科学の誤りは誤りとして指摘していきたいとも思っています。

あなたとは考えが違うかもしれませんが、僕の考えを強要するつもりはありません。
それでは。

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