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2023-05

法的責任、政治的責任、道義的責任

国母の母国

母国の国母



………いや、だからどうだというのでもないですが。
結構服装原理主義者が多くてびっくり。をどうぞ


えー、小沢氏不起訴を受けて、(何が何でも小沢氏を失脚させたい?)記者クラブメディアの反応には二種類ありそうですね。
一つは、「不起訴だが小沢氏は黒なんだぞ!(略して、不起訴だが黒)」論であり、もう一つは(あるいは一つ目のバリエーション)は、「不起訴によって法的責任は免れたかもしれないが、政治的・道義的責任は残っている(略して、政治的・道義的責任)」論です。

一つ目の「不起訴だが黒」論は、先日記者クラブメディアのジレンマで述べたので、本日は言及しません。

本日は二つ目の、「政治的・道義的責任」論について少し述べてみたいと思います。


その前に法的責任にも、一応触れておきます。
法的責任とは、法を破った(と裁判で認定された)時に、その法に規定された罰則を受ける(ことがある)、ということでしょう。
従って、不起訴ということは、そもそも裁判にかけるほどの嫌疑すらないと検察に判断されたわけで、その時点で法的責任についてはもはや問題とはならない(記者クラブメディアはどうしてもそれを認めたくないようだが)。


で、次に政治的責任についてですが…
政治的責任とは、政治家としての責任と言い換えてよいでしょう(多分)。
とするなら、政治家であるならば、政治的責任は免れ得ないでしょう。
では、政治家としての責任(政治的責任)とはなんでしょうか?
政治家とは、選挙という洗礼によって有権者の信託を受けて、政治に関わる人でありましょう。
である以上、政治家の責任とは、第一義的には「有権者の意思を議会に反映させる」、より広くは「有権者の負託により、社会運営の方針を(議会を通じて)決定する」ことでありましょう。

このことは秘書が逮捕されようが、(本人に法的責任が生じない限りは)変わらない事態でありましょう。
もちろん、どのような秘書を雇うかが、ひいては議員活動のあり方にも影響を及ぼすでしょう。
その意味で、秘書の選び方も政治的責任の一部に入るとは言えるでしょうが、それを含めて選挙によって選ばれるわけで、その意味で政治的責任は、先の第一義的責任になるでしょう(秘書の選び方に問題があると有権者が判断すれば、その議員を次の選挙で落とせばいいわけです)。


で、最後に道義的責任ですが…
これが最も抽象的であり、であるが故に人を攻撃するのに最も都合がよいわけです。
とりあえず、「道義的責任がのだ!」と喚いていれば、人を批判した気になれる便利な言葉です。
下手すりゃ、勝手に騒いでおいて、「世間を騒がせたことの道義的責任がある!」とすら言いそうですね(実に壮大なマッチポンプだ)。
一種のマジックワードと言っても良いですが。


道義的責任…僕の大嫌いな道徳と大いに関係がありそうだ(道徳関連エントリー)。

念のため辞書で調べてみる。

どう‐ぎ【道義】
人のふみ行うべき正しい道。道理。「―にもとる行為」「―的責任」          大辞泉



なるほど…
人のふみ行うべき正しい道なるものを、大手メディア関係者やしたり顔で話すコメンテーターが勝手に決めてくれるんだ…
一体何様?

僕は道義的責任なんてものの存在は全く認めないが(別に誰かが道義的責任なるものを有難がるのは構わないが、それを人に押し付けないでほしいと切に願う)、仮にその存在を認めるにしても、政治家である以上は政治的責任のほうがプライオリティとしては上だろう。
少なくとも僕はそう考えるし、日本が民主的社会になるためには、そう考える人が増えなければならないと思う。
道義的責任なるものが政治的責任よりも上回ると考える、前近代的思考が支配的である限りは、日本を民主的な社会とは決して言えないと思う。

2ちゃん的に表現すれば、法的責任>政治的責任>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>道義的責任
といったところか。
「道義的なるものに拘る人間は自分を正しい人間と見せたくてしょうがないのだ」、と断言してもよいと思う。

コメント

通りがかりで失礼します。

「政治家」の「道徳責任」は、一般国民の「道徳責任」とは異なります。

政治家は唯一の立法機関である国会の構成員です。つまり、「法律」を作るのは政治家のみに許された権限です。今、仮に「政治家は脱税をしても罪を問われない」という「法律」ができたとします。この「法律」の下では脱税をした政治家に「法的責任」を問うことはできません。そこで、「道徳責任」という用語が使われたりします。つまり「道徳責任」=「法律を作る者としての責任」という意味です。

政治家が「法律に反しないから責任はない」と言うのは、「俺が責任がないと決めたから(=そういう法律を作ったから)責任はない」と言っているのと同じことだったりします。

日本人、あるいはアジア人にとって「法律」は自然的で普遍的なものという誤解があるように思います。言うまでもなく「法律」というのは人工的なものであり、law makerという言い方があるように、それを作る権限を国民は政治家に託しているわけです。それは「正しい」「法律」を作ってくれることを期待しているからであり、その「正しい」の部分を「道徳的」と表現しているのです。

道徳責任について

コメントありがとうございます。

> 「政治家」の「道徳責任」は、一般国民の「道徳責任」とは異なります。
> 今、仮に「政治家は脱税をしても罪を問われない」という「法律」ができたとします。この「法律」の下では脱税をした政治家に「法的責任」を問うことはできません。

そういう法律が「仮に」できたときに、そのことで市民が何らかのアクションを起こさないとしたら、あとは市民の政治的責任ということになると思います(政治家の道徳責任がないとは思いませんが)。
例えば、政治家だけが脱税できるという法律は、明確に日本国憲法に反すると思います(身分による不平等を肯定している)。


> 政治家が「法律に反しないから責任はない」と言うのは、「俺が責任がないと決めたから(=そういう法律を作ったから)責任はない」と言っているのと同じことだったりします。

これについても同様ですね。
日本が(建前としてであれ)民主主義社会である以上、そういう政治家をどうするか、というのは市民としての政治的責任と思われます(政治家の道徳的責任である以上に)。

> それは「正しい」「法律」を作ってくれることを期待しているからであり、

期待するだけでなく、積極的にコミットしていく必要があるのではないでしょうか?
それが民主主義ではないでしょうか?

立法者としての責任

国民の責任として、政治に積極的にコミットしていく必要は当然あると思います。そのコミットの一形態として選挙が重要であることも当然です。

ただ問題は「政治家」の「責任」です。彼らは「国民」よりも重い責任を負っています。それは政治家というのは「立法者=法律を作る人」だからです。

たとえば「子ども手当」で考えてみましょう。「子ども手当」も「子ども手当法」が成立して初めて支給されます。日本は法治国家だからです。ところで、「海外に居住する養子」にも支給されるという不備が、一時マスコミに取り上げられていました。実際にそのような主張をする「外国人」がいたようです。では、この子ども手当法の不備をついて利益を受けようとする人が「外国人」や「ヤクザ」などではなく、「民主党議員」だったらどうでしょう?

政治家というのは形式的にであれ、その「不備」を作ったインサイダーです。「国民」が「法律でOKなのだから、OKだろ!」と主張する自由があるのに対して、政治家にそのような自由はありません。そのような瑕疵のある法律を作った責任があるからです。その瑕疵を説明をする責任、訂正する責任があるわけです。「国民」にはそのような責任はありません。「権限」がないからです。

ただ、そのようなその責任を果たさない政治家を「法律」で裁くことはできません。究極的には国民の投票行動によって彼らの責任を追及することになります。だからと言って、政治家の「道義的責任」を一般国民の「道徳」と同レベルで理解して揶揄するのは、少しナイーブだと思います。

ただ、この点はその違いを明確にしない(できない?)マスコミにも問題はあると思います。それでも、そのマスコミを批判するなら、その違いについては正確に理解しておくべきかと。

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