2017-11

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

行為と意図 あるいは心の在りか 番外編(陰謀論)

ビデオニュースで、第413回マル激トーク・オン・ディマンドのNEWS2で保坂展人氏がゲストに出て郵政民営化・かんぽの宿問題について論じている(有料)。
また宮台真司がこの中で陰謀論的見方に警鐘を鳴らしています。
あと、理解に苦しむこの時期の小沢氏秘書の逮捕というタイトルで元検事・郷原信郎氏へのインタビューが無料公開されています。



あと、保坂展人氏と植草一秀氏と長谷川憲正氏(国民新)の3月5日のトークライブの動画がらくちんランプというブログにアップされている。
以下に貼り付けておきますが、勝手に貼っていいのかな?
ダメ?
ダメなら削除します。

保坂展人トークライブ「郵政民営化の闇を暴く」①


保坂展人トークライブ「郵政民営化の闇を暴く」②


保坂展人トークライブ「郵政民営化の闇を暴く」③


保坂展人トークライブ「郵政民営化の闇を暴く」④


保坂展人トークライブ「郵政民営化の闇を暴く」⑤



小沢氏の秘書逮捕に関して、「国策捜査」という言葉に見られるように、やや「陰謀論」的方向に傾いた議論も出ている。
それに対して、「反陰謀論(陰謀論批判と呼んだほうが妥当かな?)」とも呼べる議論が、(数としては劣るながら)散見される。
しかし、政治系ブログの議論が「陰謀論」と「反陰謀論」の水かけ論に終始してしまうとしたら、それは不毛以外の何物でもないだろう(一昔前(?)の某騒動から何も学んでいないと言える)。

個人的には、陰謀論批判に対して「気持ちはわかるよ」と言いたいところがないわけでもない(ってことは僕は共感派か?)。
というのも、無党派的なスタンスの人(比較的野党にシンパシーを覚える人、アンチ自公の人も含め)が「陰謀論」VS「反陰謀論」的なやり取りをみると、正直引いてしまうと思うので(本来なら、反自公として取り込むことのできる層が逃げてしまう)。
しかし陰謀論批判者の相も変らぬ「陰謀論ハンターイ」的な条件反射(?)を見ていると、「オイオイ、ちっとも成長してないねぇ」と言いたくなったり。

ということで(?)、行為と意図シリーズを少し先取りする形になりそうだが、テーマとしては関係してくる事柄なのでその範囲で少し述べてみよう。
陰謀論については以下のエントリーで一般的な形で述べています。
陰謀論批判考
陰謀論と陰謀のあいだ(あるいは強い陰謀論と弱い陰謀論と)

その前に僕のスタンスを簡単に。
個人的な感情としては陰謀論は好きです(大好き、までは自重しておきます)。
ただし、政治的な議論を深めて行く上で、陰謀論的スタンスを前面に押し出すことはあまり得策ではないと考えている(陰謀論が間違っているから、というわけではない)。
世の中に陰謀(より穏当には謀略、策略)はこれまでもあったし、今後もあるだろうとは思っている。
しかし、問題はそのような陰謀を成立させ得る権力構造であって、陰謀の主体ではないと思っており、したがって陰謀に関してもし生産的な議論をするのなら、「陰謀の発生を困難にする権力構造をいかに作り上げるか?」を論じなければならないと思っている。

では、本題へ。

私たち人間にはアナロジーとか比喩とか呼べる能力が備わっている。
これは簡単に言えば、物事を別の見方でみることができる、ということだ。
逆に言えば、物事の見方は一意的には決まらない、ということでもある。
同じ現象(という表現にも留保が必要だが)を見ても人によって捉え方は異なる。

例えば、肉食獣が草食獣を捕らえて食す場面を見て(これ自体が物事の見方の一側面を表現しているに過ぎないが)、「肉食獣の力強さ」と捉えるかもしれないし、「草食動物の悲哀」と捉えるかもしれないし、「自然界の厳しさ」と捉えるかもしれないし、あるいは逆に「自然の摂理の美しさ」と捉えるかもしれないし、「神の御業」と捉えるかもしれない。
しかし、重要なことは私たちはこれらの見方のいずれも取ることができる、ということだ(そして、そういった見方のどれかが特別に「正しい(あるいは間違っている)」というわけではない)。
これを前提に以下進める。

さて、複数のプレイヤーが参与するゲームを考えてみよう。
ここで言うゲームとは、野球や囲碁など、(比較的)ルールの定まったゲームというよりは、「人が関わる相対的に独立した(と捉えられる)出来事」くらいの意味である。
その意味で言えば、今回の西松建設事件は一つのゲームと捉えることができる。
そこに参与する(と考えられる)プレイヤーは、小沢党首を始めとする民主党、自民党、他の政党、検察、メディアなどが考えられる(他にも上げられるかもしれないが)。
さらに言えば、ここで言うプレイヤーとは、必ずしも個人には限らない。
ある一まとまりの性質(同じ利害を共有するなど)を有する、見做される限りで、それは企業や政党などの組織であってもよいし、さらには国家であっても良い。
いわゆる国際情勢分析とは、国家を主体的プレイヤーとするゲーム分析と見做すことが可能だ。
それはさておき。

私たちは、個人の「行為」を特定の「意図」に発するものとして解釈することに慣れている(というより「社会化」とはそのような解釈を身に付けていくプロセスでもある)。
しかし、このことは、人の「振る舞い」に無理やり「意図」を帰属させがちになるという帰結をもたらす(つまり、あらゆる「振る舞い」が「行為」と見做されてしまいがちになる)。
先ほど述べたように、私たちは物事を複数の見方で捉えることが可能だと書いたが、その見方の一つが人の関わる「出来事」を特定の「意図」に発するものとして解釈する見方である(そしてそれはゲーム解釈ではしばしば優勢な見方となる)。
ところで、個人の「行為」と人の関わる「出来事」を厳密に峻別することはできない(この辺りはシリーズでさらに展開しようと思う)。
である以上、「出来事」を特定の「意図」に発するものという見方は、人間にとっては不可避でもある(陰謀論批判者がそれを免れえているとは考えられない)。
その意味で、陰謀論的発想はある意味では不可避と言える(それは「社会化」の帰結のひとつでもある)。

また、ゲームは一般に参加者のそれぞれの思惑にもかかわらず、一つの秩序として私たちに現れる(私たちがそこに秩序を見出す、という方が表現としては正確だが)。
例えば、野球や囲碁のような典型的なゲームをそのような秩序形成と見做すことも可能だろう。
プレイヤーは勝利という目的のためにルールに従って振舞っているように見えるが、共同(共謀?)して秩序を形成しているようにも観察され得る。
つまり、秩序形成の「意図」に発するものとしてゲームを捉える見方も成立する(そのような見方が正しいということではなく)。
ちなみに、秩序形成には「(秩序形成の)意図」が必要と見做されがちであるが、そのような見方を覆したのがダーウィンの進化論だろう(自然選択というプロセスが秩序を形成することを明らかにした)。

西松建設事件について言えば、次のように定式化できるだろう。
個々のプレイヤー(ここでは個人の意味)が、それぞれの関心に基づいて振舞った結果、民主党や自民党や検察といった組織があたかも主体的プレイヤーと見做されるような仕方で秩序立ったものとなり、ひいては事件そのものが特定の「意図」に発する秩序だったものに映るようになる(こうなればほとんど陰謀論一歩手前となる)。

中途半端な感じもしますが、行為と意図シリーズの本論を先取りしそうなところもありこの辺にしておきます。
ついでに予告しておくと、個人の「行為」に関しては「意図」に発するものと現時点では当然視していますが、そこを分析して行く予定です(そのジョーシキを覆して行く予定です)。

コメント

自由に貼って下さい。

初めまして、こんにちは。

>以下に貼り付けておきますが、勝手に貼っていいのかな?

私は個人・企業を問わずネット上に何らかの情報をアップするということは、その情報を悪意を持った内容に改竄・編集しない限り、誰がどこに転載・貼り付けしても決して文句は言いませんよ、という意思表示だと解釈しています。
私程度のブログにアップした情報でよろしければ、今後ともご自由に利用してください。

スパイラルドラゴンさん

コメントありがとうございました。
挨拶が遅れましたquine10と申します。
本来ならばこちらから伺って許可を得るべきところを…
寛大なおことばに感謝します。
今後ともよろしくお願いします。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://quine10.blog43.fc2.com/tb.php/156-153f83b3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

プロフィール

quine10

Author:quine10
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

フリーエリア

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。