オタク社会論(3) ネットとオタクコミュニケーション(3)
取り敢えず、これまでのエントリーです。
オタク社会論 introduction
オタク社会論(1) コミュニケーションの類型化
オタク社会論(2) ネットとオタク的コミュニケーション(1)
(1)では簡単にコミュニケーションを3つの型に分類し、(2)ではネット上の知識のあり方(大半が素人で、精通している人は一部であり、精通している人も階層化される)について述べました。
では上記を踏まえていよいよオタク的コミュニケーションに切り込んでいこうと思います。
オタク的コミュニケーションとは、(僕の定義によれば)差異化へと動機付けられたコミュニケーションでありました。
では、どのようにしてコミュニケーションの差異化がなされるか。
ある、ネットにおける話題、分野について大部分の人は素人であろうことを述べました。
したがって、これを「そこそこ」精通した人からみれば、多くの人たちの会話はたわいのないおしゃべりに過ぎないと感じるでしょう(し、別にそのことを批判・非難されるいわれもないでしょう)。
しかし、このような「たわいのない会話」に我慢ならない人が出てくるとすると、そこには「たわいのない会話」に興じたい人々の神経を逆なでする可能性が出てきます。
曰く
「その話はすでに○○によって否定されてんだよ」
「まだ、そんなこといってんの?遅れてんな」
「何でこの話が出てこないんだ?」
「こんなことも知らずにエラソーにこの話題に触れるんじゃない」
「○○くらいは読んでから」
etc…
多分、ネットでの議論(?)を少しでも眺めたことがある人なら、このような場面には一度ならず遭遇したことがあるでしょう。
何?身に覚えがある?
それはいけませんね、是非反省してください。
とまたまたエラッソウに述べてしまいましたが。
では、なぜこのような現象が観察されるかというとになりますが…
ここからが僕の仮説になります。
オタク社会論(2)で述べたように、「そこそこ(以上)」の知識を持つ人も超一流、一流、一・五流、二流以下と(するかどうかは別にして)階層化できるだろう。
そして、上記のようなツッコミ(?)を入れてくるのは、たいていの場合は「そこそこ」の知識を持っている人でしょう。
まあ、どうみても素人としか見えない人の泥仕合もまた、ネットの風物詩とでも呼べるものではありますが。
それはさておき。
ただ、超一流、一流の人々は上記のようなツッコミ(?)はしないだろう(ここには、「そうはあってほしくない」という僕の願望も多分に混じっていますが)。
そもそも、超一流、一流の人々は、それほど(素人の間違いや不明にツッコミを入れるほど)暇ではないだろうという現実的な理由だけではなく、超一流や一流は素人にツッコミを入れるのは専門家としてはハズカシイこと、という認識を持っているだろうという願望(というか信頼)ゆえでもあります。
ただ、日本において専門家に対してそのような信頼を持てるか、といえば疑問なところもありますが。
いずれにしても、超一流や一流がオタク的コミュニケーションをネット上で繰り広げることはないだろう(専門家同士のコミュニケーションにおいては当然どれだけ細部をつめられるか、というところも必要になるだろうが、それを素人相手に、相手をねじ伏せるようなやり方をとらないだろうということ)。
では、一・五流、二流以下ではどうだろうか?
結論を先に述べておけば、オタク的コミュニケーションで問題となるのは、私見によればまさにこの層に他ならない。
この層は、言ってみれば専門家の駆け出しであり、素人に比べてもまだ毛の生えてきた程度であり、超一流、一流から見ればまだまだヒヨッコである。
しかし、当然のことながら、自己認知としては「俺は素人とは違うぜ、フフン」的であろうが、超一流、一流でもないゆえの僻み(?)みたいな卑屈な感情もあり、アンビバレントであろう(多分)。
ネット以前は、このような卑屈な感情を持ったとしても、そのはけ口がなかった。
それゆえ、「俺も一流(あわよくば超一流)になって、一・五流、二流以下(現在の自分の立場)のやつらをおもっきり見下してやるぜ、ハハン」という、いささか(?)不純な動機であっても、自己肯定感のためには研究に打ち込むしかなかった。
念のために付け加えておくと、僕は科学研究(その他)のこのような不純(?)な動機を否定するわけじゃありません。
むしろ、このような不純(?)な動機によっても動機付けられていることに科学の強みがある。
というのも、「他人に先を越された」というやられた感は、目を皿のようにして他人の研究の弱点探しへと人を駆り立てるわけだが、そのような批判にさらされてこそ、生き残った科学研究はそれだけ強靭なものになるからだ。
つまり、科学には利己的な動機をシステムの信頼性へと転化する仕組みが備わっている、といってよい。
余談になるが、僕は社会変革のポイント(の一つ)は、利己的な動機をシステムの信頼性へと転化する仕組みをいかに内蔵するか、にあると考えている。
というのも、ほとんどの人間は利己的な動機を容易には捨て去ることは出来ない(し、捨て去ることが良いわけでもない)からだ。
それはさておき。
では、ネット社会が出現し、上記のアンビバレントな感情を有する、一・五流、二流以下の「そこそこ」の知識を有する人たちが、ネットに大量に流入するようになればどういうことが起こるか。
ここまで読み進めてきた人達にはもはや明らかでありましょう。
もちろん、本エントリーの大半は僕の仮説に基づくもの(妄想?)であり、実証されたものではありませんが…
次のエントリーでは、この妄想(?)をさらに全開にして、オタク社会に切り込んでいきたい。
本エントリーはここまで。
最後に本日の動画
タイトル「は〜どっこい」
コメントがあった方が面白いと思われるので、ニコ動で。
オタク社会論 introduction
オタク社会論(1) コミュニケーションの類型化
オタク社会論(2) ネットとオタク的コミュニケーション(1)
(1)では簡単にコミュニケーションを3つの型に分類し、(2)ではネット上の知識のあり方(大半が素人で、精通している人は一部であり、精通している人も階層化される)について述べました。
では上記を踏まえていよいよオタク的コミュニケーションに切り込んでいこうと思います。
オタク的コミュニケーションとは、(僕の定義によれば)差異化へと動機付けられたコミュニケーションでありました。
では、どのようにしてコミュニケーションの差異化がなされるか。
ある、ネットにおける話題、分野について大部分の人は素人であろうことを述べました。
したがって、これを「そこそこ」精通した人からみれば、多くの人たちの会話はたわいのないおしゃべりに過ぎないと感じるでしょう(し、別にそのことを批判・非難されるいわれもないでしょう)。
しかし、このような「たわいのない会話」に我慢ならない人が出てくるとすると、そこには「たわいのない会話」に興じたい人々の神経を逆なでする可能性が出てきます。
曰く
「その話はすでに○○によって否定されてんだよ」
「まだ、そんなこといってんの?遅れてんな」
「何でこの話が出てこないんだ?」
「こんなことも知らずにエラソーにこの話題に触れるんじゃない」
「○○くらいは読んでから」
etc…
多分、ネットでの議論(?)を少しでも眺めたことがある人なら、このような場面には一度ならず遭遇したことがあるでしょう。
何?身に覚えがある?
それはいけませんね、是非反省してください。
とまたまたエラッソウに述べてしまいましたが。
では、なぜこのような現象が観察されるかというとになりますが…
ここからが僕の仮説になります。
オタク社会論(2)で述べたように、「そこそこ(以上)」の知識を持つ人も超一流、一流、一・五流、二流以下と(するかどうかは別にして)階層化できるだろう。
そして、上記のようなツッコミ(?)を入れてくるのは、たいていの場合は「そこそこ」の知識を持っている人でしょう。
まあ、どうみても素人としか見えない人の泥仕合もまた、ネットの風物詩とでも呼べるものではありますが。
それはさておき。
ただ、超一流、一流の人々は上記のようなツッコミ(?)はしないだろう(ここには、「そうはあってほしくない」という僕の願望も多分に混じっていますが)。
そもそも、超一流、一流の人々は、それほど(素人の間違いや不明にツッコミを入れるほど)暇ではないだろうという現実的な理由だけではなく、超一流や一流は素人にツッコミを入れるのは専門家としてはハズカシイこと、という認識を持っているだろうという願望(というか信頼)ゆえでもあります。
ただ、日本において専門家に対してそのような信頼を持てるか、といえば疑問なところもありますが。
いずれにしても、超一流や一流がオタク的コミュニケーションをネット上で繰り広げることはないだろう(専門家同士のコミュニケーションにおいては当然どれだけ細部をつめられるか、というところも必要になるだろうが、それを素人相手に、相手をねじ伏せるようなやり方をとらないだろうということ)。
では、一・五流、二流以下ではどうだろうか?
結論を先に述べておけば、オタク的コミュニケーションで問題となるのは、私見によればまさにこの層に他ならない。
この層は、言ってみれば専門家の駆け出しであり、素人に比べてもまだ毛の生えてきた程度であり、超一流、一流から見ればまだまだヒヨッコである。
しかし、当然のことながら、自己認知としては「俺は素人とは違うぜ、フフン」的であろうが、超一流、一流でもないゆえの僻み(?)みたいな卑屈な感情もあり、アンビバレントであろう(多分)。
ネット以前は、このような卑屈な感情を持ったとしても、そのはけ口がなかった。
それゆえ、「俺も一流(あわよくば超一流)になって、一・五流、二流以下(現在の自分の立場)のやつらをおもっきり見下してやるぜ、ハハン」という、いささか(?)不純な動機であっても、自己肯定感のためには研究に打ち込むしかなかった。
念のために付け加えておくと、僕は科学研究(その他)のこのような不純(?)な動機を否定するわけじゃありません。
むしろ、このような不純(?)な動機によっても動機付けられていることに科学の強みがある。
というのも、「他人に先を越された」というやられた感は、目を皿のようにして他人の研究の弱点探しへと人を駆り立てるわけだが、そのような批判にさらされてこそ、生き残った科学研究はそれだけ強靭なものになるからだ。
つまり、科学には利己的な動機をシステムの信頼性へと転化する仕組みが備わっている、といってよい。
余談になるが、僕は社会変革のポイント(の一つ)は、利己的な動機をシステムの信頼性へと転化する仕組みをいかに内蔵するか、にあると考えている。
というのも、ほとんどの人間は利己的な動機を容易には捨て去ることは出来ない(し、捨て去ることが良いわけでもない)からだ。
それはさておき。
では、ネット社会が出現し、上記のアンビバレントな感情を有する、一・五流、二流以下の「そこそこ」の知識を有する人たちが、ネットに大量に流入するようになればどういうことが起こるか。
ここまで読み進めてきた人達にはもはや明らかでありましょう。
もちろん、本エントリーの大半は僕の仮説に基づくもの(妄想?)であり、実証されたものではありませんが…
次のエントリーでは、この妄想(?)をさらに全開にして、オタク社会に切り込んでいきたい。
本エントリーはここまで。
最後に本日の動画
タイトル「は〜どっこい」
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