2009-11

オタク社会論(1) コミュニケーションの類型化

阿修羅で拾った小ネタ。

「自宅でゆっくり読書」麻生さん、冬休み初日に7冊購入

佐伯啓思著「自由と民主主義をもうやめる」ね。
民主的手続きによって(だよね?)総理に選出されたはずの麻生首相がこの図書を買った意図がどこにあったのか、突っ込んでもいいと思う。
自由と民主主義を愛する(?)自民党の議員も、突っ込んでいいと思う。

さて、本題へ。
こちらのエントリーでオタク社会について簡単に触れました。
オタク社会論のintroductionはこちらから。
で、オタク社会論をコミュニケーションのあり方(オタク的コミュニケーション)に注目して論じる、と述べましたので、本エントリーではオタク的コミュニケーションについて述べてみます。
その前に、コミュニケーションを3つのタイプに分類してみる。

1.求心的コミュニケーション
2.遠心的コミュニケーション
3.往還的コミュニケーション

以下、順番に簡単に説明してみます。
あらかじめ述べておきますが、これらのコミュニケーションの形態分類は、それ自体コミュニケーションの価値付けとは直接的には関係ありません。
もちろん、特定の目的にとって、という観点からこれらのコミュニケーションの優劣は論じられることはあり得ますし、僕も優劣を論じたいと思う。

求心的コミュニケーションとは、簡単に定義すれば、特定のテーゼ(命題)へと回帰するコミュニケーション、とでも言えます。
つまり、既に決まったテーゼ(命題)があり、様々な思考(?)や議論(?)を経由しても結論は変わらない、というコミュニケーションのモードです。
言ってみれば、「結論ありき」「正当化思考」「確証バイアス」に支配されたコミュニケーションと呼べるものです。
既にある事柄が確信的に信じられた場合、私たちのコミュニケーションはその信念を支持しそうな事柄にばかり目を向け、自分たちの信念に整合しない事柄については無視したり、軽視したりしがちである(参考エントリー)。

具体的な例を挙げれば、宗教的な(あるいは信仰に関わる)コミュニケーションがその代表例と言えるでしょう。疑似科学、陰謀論も同様のコミュニケーションに支えられていると言える。
さらには、旧左翼的な異端や異論への極端な嫌悪も、求心的コミュニケーションの裏返しと言える。

そして、上記の回帰する特定のテーゼをドグマと呼べるだろう。
したがって、求心的コミュニケーションをドグマ回帰型コミュニケーションと言い換えてもいいかもしれない。


では次に2の遠心的コミュニケーションについて述べてみます。
1の求心的コミュニケーションと対比的に考えるとイメージしやすいと思いますが、中心を持たず、常に周辺を志向するコミュニケーション、というイメージです。
これだけだと余りにも抽象的ですね。
差異化、さらに言えば尖鋭化、先端化と言えばよりイメージしやすいかもしれません(差異化に比べて尖鋭化・先端化は少し価値付けられているように思われますが)。

もちろん、なぜ差異化が志向されるかといえば、差異化自体が価値づけられているからであります(差異化に価値を持たせれば、尖鋭化・先端化といった表現になる)。求心的コミュニケーションにおいて、ドグマが常に価値あるものとして表れるように。
その場合の、差異化の価値(先端化・尖鋭化)は、「周回遅れの」とか「いまだにそんなこと言ってるの?」的な、「遅れへの嘲笑」的なものとして現れる。

もちろん、差異化であれば何でもいい、というわけではない。
特定の差異化が先端的・尖鋭的と表象されるためには、価値を持つ差異化(先端化・尖鋭化)と価値を持たない差異化が区別されなければならない。
つまり、特定の差異化がどこかで権威づけられなければならない。
ただ、そこまで踏み込めるかはちょっと自信がないのでとりあえず、遠心的コミュニケーションについてはここまでとします。

再度述べるなら、遠心的コミュニケーションとは、差異化へと動機づけられたコミュニケーション、と表現できるでしょう。


最後に往還的コミュニケーションについて簡単に。
往還的とは求心的でもなく、かといって遠心的でもなく、という意味合いなのですが。
1と2を踏まえれば、特定のドグマに回帰するのでもなく、差異化自体を志向するのでもなく、とも言えます。
全体を俯瞰しつつ、差異にこだわる必要がある場合には徹底的に差異へとこだわるが、かといって差異化に埋没するのではなく、常に「全体における位置づけ」という観点から差異をとらえる。
差異化を志向しつつも、全体への視点を見失わず、全体を見渡しつつ差異への気配りを怠らない、とも言えようか。
ま、ヒッジョーに抽象的ではありますが。
自然科学という営みを例にあげると考えやすいかもしれない。
中心的な科学理論(パラダイム)に依拠しつつ、様々な現象へと切り込み、その成果が再び理論へとフィードバックされる。その過程においては、パラダイムが変更を被ることもあり得る。

これは、哲学的に言えば、全体論的(ホーリズム的)といってよいだろう。
ホーリズムとは、一部分の変更は必然的に全体の変更を伴うものである(全体の変更を被ることなしに一部を変更できない)、という風に表現できる。
あるいは、一部は全体との位置づけにおいてのみ意味を持つ、と言ってもいいかもしれない。

さて、求心的コミュニケーション、遠心的コミュニケーション、往還的コミュニケーションについて簡単に説明しました(往還的コミュニケーション、あるいはホーリズムについては、エントリーを改めてもう少し述べたいところだが)。
もちろん、あらゆるコミュニケーションがこれらの類型に判然と分けられるわけもなく、ある要素が相対的に強い、という程度問題ではあるだろう。
それはさておき。

長い前振りとなりましたが、オタク的コミュニケーションですが。
まあ、すでにおわかりかもしれませんが、僕は遠心的コミュニケーション(の一部)をオタク的コミュニケーションと呼びたい。

それを次回に展開しようと思います。

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