「水伝」校長会の件(注:疑似科学批判ではありません)
えー、3か月ほど前ですか。
某騒動に合わせたわけでもあるまいが、このような話があった。
疑似科学系ブログの多くは当然の如く取り上げたようだ。
喩えて言えば(あくまでも喩えね)、「腹を空かしたピラニアの大群が待ち受けるアマゾン川で、脂のたっぷりのった牛が無邪気にも水遊びをした図」、とでも言えようか。
その食いつきっぷりは、スガスガしいものですらあった。
いえね、そのすっかりしゃぶりつくされた牛の骨(骨すら残っていないかも?)にいまさら食いつこうってわけじゃありません(翻訳:これをネタに疑似科学批判をやりたいわけではありません)。
当ブログでは、正面から疑似科学批判をすることもないでしょうし(多分)。
しかし、これって「校長会」の問題なのかなぁ?
校長って年の頃は60手前位か。
ってことは40年前くらいに学校教育を受けたんだな、多分。
で、まぁ校長ってのは教員の上がりで、それほどトンデモな人がなるわけでもないでしょう(多少人よりは権力欲はあるかもしれないが)。
一般的な人よりはちょっとばかし教養はある方々でしょう(教員は社会ジョーシキがない、などと揶揄されることが多いからこれもなんとも言えないかも?)。
これが問題だとしたら、40年前から(科学)教育に問題があり、それが40年大きく改善されることなく今日に至っている、っつーことではないのかな。
特定の疑似科学を叩いたところで、この40年間の教育の問題が改善されるとも思えないのだが…
まぁ、これだけ疑似科学ネタへの食い付きが良いなら、「(多くの人はピラニアの餌になることを恐れるために)ひょっとしたら疑似科学がなくなるかも?」、なんて思ったりして(まぁ、でも賭けるなら「疑似科学はなくならない」の方ですけどね)。
しかし、これで疑似科学がなくなるとして(つまり、バッシングによって臭いものに蓋的に疑似科学的なものが表に出てこなくなったとして)、それでよいのかな?
よくわからんが。
さて、前置きはこれくらいにしてと。
僕は道徳に結び付けて論じてみたい。
詳しくは道徳関連エントリーを参照して頂くとして。
道徳とは行為の評価であって、通常は目上の者から目下の者へと説教的に(〜すべし、〜すべからずといった形で)語られる、というquine10流の定義にのっとって考えてみる。
校長とは、学校という共同体(本来的には機能を重視する組織であるべきだが、実体的には共同体的側面が肥大化している)の一番目上の存在が校長である。
で、僕のこれまでのエントリーによれば、目上の者になればなるほど道徳を語るメリットは大きくなり(自分が偉いことを言っているという自己満足&自分の言うことに目下の者が従う)、それゆえ道徳教育への志向は強まると思われる。
で、「水伝」には疑似科学的側面と道徳主義的側面(きれいな言葉を使いましょう)が組み合わさっている(それ故に、道徳好きの=共同体主義的な日本人に受け入れられたのではないだろうか?)。
いまさら「心のノート」を持ち出すまでもないでしょうし。
つまり、道徳的なものを導入したくてしょうがない校長会という存在に、「たまたま」科学的な香りを身につけた道徳主義的言説である「水伝」が目に留まった。
もちろん、そこに認められた疑似科学的側面をスルーした、という部分を批判するのはもっともだとは思う。
しかし、校長会が「水伝」を取り上げたのは疑似科学的側面故になのだろうか?
あるいは、そのことを批判するとして、それは「水伝」の疑似科学的側面故になのだろうか?
先ほども述べたように、学校という人間集団において、道徳が過度に重視されるなら、それは組織としての側面(機能面)よりも共同体的な側面を肥大させる。
だとすれば、それは必然的に組織としての側面を弱体化させる(だろう)。
で、科学教育は間違いなく、組織としての側面であろう。
今回の騒動は、(少なくとも40年前から)科学教育をはじめとした批判的思考力を身に付ける、という学校の機能面(組織としての側面)がないがしろにされてきた(=道徳的側面が重視され過ぎてきた)ことの表れではないだろうか?
疑似科学が望ましくないものだとして(そのことに異論を唱えるわけでもないですが)、特定の疑似科学をバッシングすれば済む問題なのだろうか?
地道に見えても、批判的思考を身に付ける教育をしていく他ないと僕は思っているのだが(というより地道に進める以外にはないと思う)。
批判的思考のためのお勧めサイトは
中学生からの論理的な議論の仕方
おざわさん、コメントありがとうございます。
またまた勝手に紹介させていただきます。
我ながら、やや無理やりな感じがしないでもないですが…
「水伝」と校長会、道徳的観点から、でした。
本日の認知心理学講座はお休みです。
某騒動に合わせたわけでもあるまいが、このような話があった。
疑似科学系ブログの多くは当然の如く取り上げたようだ。
喩えて言えば(あくまでも喩えね)、「腹を空かしたピラニアの大群が待ち受けるアマゾン川で、脂のたっぷりのった牛が無邪気にも水遊びをした図」、とでも言えようか。
その食いつきっぷりは、スガスガしいものですらあった。
いえね、そのすっかりしゃぶりつくされた牛の骨(骨すら残っていないかも?)にいまさら食いつこうってわけじゃありません(翻訳:これをネタに疑似科学批判をやりたいわけではありません)。
当ブログでは、正面から疑似科学批判をすることもないでしょうし(多分)。
しかし、これって「校長会」の問題なのかなぁ?
校長って年の頃は60手前位か。
ってことは40年前くらいに学校教育を受けたんだな、多分。
で、まぁ校長ってのは教員の上がりで、それほどトンデモな人がなるわけでもないでしょう(多少人よりは権力欲はあるかもしれないが)。
一般的な人よりはちょっとばかし教養はある方々でしょう(教員は社会ジョーシキがない、などと揶揄されることが多いからこれもなんとも言えないかも?)。
これが問題だとしたら、40年前から(科学)教育に問題があり、それが40年大きく改善されることなく今日に至っている、っつーことではないのかな。
特定の疑似科学を叩いたところで、この40年間の教育の問題が改善されるとも思えないのだが…
まぁ、これだけ疑似科学ネタへの食い付きが良いなら、「(多くの人はピラニアの餌になることを恐れるために)ひょっとしたら疑似科学がなくなるかも?」、なんて思ったりして(まぁ、でも賭けるなら「疑似科学はなくならない」の方ですけどね)。
しかし、これで疑似科学がなくなるとして(つまり、バッシングによって臭いものに蓋的に疑似科学的なものが表に出てこなくなったとして)、それでよいのかな?
よくわからんが。
さて、前置きはこれくらいにしてと。
僕は道徳に結び付けて論じてみたい。
詳しくは道徳関連エントリーを参照して頂くとして。
道徳とは行為の評価であって、通常は目上の者から目下の者へと説教的に(〜すべし、〜すべからずといった形で)語られる、というquine10流の定義にのっとって考えてみる。
校長とは、学校という共同体(本来的には機能を重視する組織であるべきだが、実体的には共同体的側面が肥大化している)の一番目上の存在が校長である。
で、僕のこれまでのエントリーによれば、目上の者になればなるほど道徳を語るメリットは大きくなり(自分が偉いことを言っているという自己満足&自分の言うことに目下の者が従う)、それゆえ道徳教育への志向は強まると思われる。
で、「水伝」には疑似科学的側面と道徳主義的側面(きれいな言葉を使いましょう)が組み合わさっている(それ故に、道徳好きの=共同体主義的な日本人に受け入れられたのではないだろうか?)。
いまさら「心のノート」を持ち出すまでもないでしょうし。
つまり、道徳的なものを導入したくてしょうがない校長会という存在に、「たまたま」科学的な香りを身につけた道徳主義的言説である「水伝」が目に留まった。
もちろん、そこに認められた疑似科学的側面をスルーした、という部分を批判するのはもっともだとは思う。
しかし、校長会が「水伝」を取り上げたのは疑似科学的側面故になのだろうか?
あるいは、そのことを批判するとして、それは「水伝」の疑似科学的側面故になのだろうか?
先ほども述べたように、学校という人間集団において、道徳が過度に重視されるなら、それは組織としての側面(機能面)よりも共同体的な側面を肥大させる。
だとすれば、それは必然的に組織としての側面を弱体化させる(だろう)。
で、科学教育は間違いなく、組織としての側面であろう。
今回の騒動は、(少なくとも40年前から)科学教育をはじめとした批判的思考力を身に付ける、という学校の機能面(組織としての側面)がないがしろにされてきた(=道徳的側面が重視され過ぎてきた)ことの表れではないだろうか?
疑似科学が望ましくないものだとして(そのことに異論を唱えるわけでもないですが)、特定の疑似科学をバッシングすれば済む問題なのだろうか?
地道に見えても、批判的思考を身に付ける教育をしていく他ないと僕は思っているのだが(というより地道に進める以外にはないと思う)。
批判的思考のためのお勧めサイトは
中学生からの論理的な議論の仕方
おざわさん、コメントありがとうございます。
またまた勝手に紹介させていただきます。
我ながら、やや無理やりな感じがしないでもないですが…
「水伝」と校長会、道徳的観点から、でした。
本日の認知心理学講座はお休みです。
コメント
どうなんだろう?
疑似科学を正しく正す
40年前から(科学)教育に問題があり、それが40年大きく改善されることなく今日に至っている、っつーことではないのかな。
ご指摘のとおりだと思います。
しかも、疑似科学批判をする人たちも、世界中の科学者が一つに共有すべき科学とは何かの定義もできません。
目くそ、鼻くそを笑う類の批判。
科学とは何かの本格的な説明は、一般法則論で。
一般法則論者
ご指摘のとおりだと思います。
しかも、疑似科学批判をする人たちも、世界中の科学者が一つに共有すべき科学とは何かの定義もできません。
目くそ、鼻くそを笑う類の批判。
科学とは何かの本格的な説明は、一般法則論で。
一般法則論者
naokoさん
度々コメントありがとうございます。
>むしろ「道徳」という言葉が、意味を成さないというか、形骸化した「死語」になってしまって久しいという気がしているのですが…。(たぶん大正時代あたりから。)
そうですねぇ…
今の時代には「表だって道徳を声高に叫ぶ」という事態に遭遇することはそうそうないかも知れません。
しかし、現代日本のように心理学化した社会(社会的な事象を人の心のあり方に還元する社会)においては、心理学(俗流心理学ですが)が道徳の等価物として機能しているように思われます(しかも、道徳よりもずっと巧妙に人々の心に入り込んでいるような…)。
心理学化した社会とは、「心のあり方が変われば社会が変わる」風のスローガンに象徴されます。
この辺りは小沢牧子という評論家(?)が複数の図書で論じているのでよかったらご参考に。
>そしてこの国もまた、形而上を否定する二十世紀の洗礼を否応なく受け、ヒステリックな過剰反動としての民族主義的天皇制にすがったのでは?
僕の解釈はやや宮台的ですが(というより宮台解釈によるわけですが)、(欧州列強による植民地化を免れるために)急速な近代化を迫られ、国家総動員体制のシンボルとして天皇を担ぎ出した、というものです。
日本の権力者にとって天皇というシンボルは実に使い勝手が良いのでしょう。
>そして戦後は、かなり虚無的な感覚というか、善悪に対して根本的に無頓着になってきて、21世紀初頭の今がある。そんな感じです。
僕も戦後をずっと生き抜いた人間ではないので、ちょっとうかつなことは言えないのですが、少なくとも80年代的なニヒリズムというかシニシズムは、消費社会が全面化してもはやバラ色の未来が容易には描けない(消費社会の中で戯れるしかない)、という時代的な背景があったのではないかなぁ、と思っております(まあ、これもかなり俗っぽい解釈ではありますが)。
>善とは何か?
>悪とは何か?
>だれもそんな、ドストエフスキー的な道徳の追求などしておりませんものね。
前置きとして、僕は倫理と道徳を明確に区別すべき、と思っています。
で、「善/悪」の区別は道徳よりは倫理に属する事柄だと見做しています。
道徳も「善/悪」の区別をすることはありますが、究極的には「善/悪」よりも共同体の維持を優先する(つまり、道徳と倫理は乖離し得る)。
僕の解釈では、ラスコーリニコフの苦悩はこの道徳と倫理の乖離を示しています。
それはともあれ、僕は倫理はそれなりに尊重しますが、道徳は全く尊重いたしておりません(それが目上から目下へと語られる限り)。
それでは。
>むしろ「道徳」という言葉が、意味を成さないというか、形骸化した「死語」になってしまって久しいという気がしているのですが…。(たぶん大正時代あたりから。)
そうですねぇ…
今の時代には「表だって道徳を声高に叫ぶ」という事態に遭遇することはそうそうないかも知れません。
しかし、現代日本のように心理学化した社会(社会的な事象を人の心のあり方に還元する社会)においては、心理学(俗流心理学ですが)が道徳の等価物として機能しているように思われます(しかも、道徳よりもずっと巧妙に人々の心に入り込んでいるような…)。
心理学化した社会とは、「心のあり方が変われば社会が変わる」風のスローガンに象徴されます。
この辺りは小沢牧子という評論家(?)が複数の図書で論じているのでよかったらご参考に。
>そしてこの国もまた、形而上を否定する二十世紀の洗礼を否応なく受け、ヒステリックな過剰反動としての民族主義的天皇制にすがったのでは?
僕の解釈はやや宮台的ですが(というより宮台解釈によるわけですが)、(欧州列強による植民地化を免れるために)急速な近代化を迫られ、国家総動員体制のシンボルとして天皇を担ぎ出した、というものです。
日本の権力者にとって天皇というシンボルは実に使い勝手が良いのでしょう。
>そして戦後は、かなり虚無的な感覚というか、善悪に対して根本的に無頓着になってきて、21世紀初頭の今がある。そんな感じです。
僕も戦後をずっと生き抜いた人間ではないので、ちょっとうかつなことは言えないのですが、少なくとも80年代的なニヒリズムというかシニシズムは、消費社会が全面化してもはやバラ色の未来が容易には描けない(消費社会の中で戯れるしかない)、という時代的な背景があったのではないかなぁ、と思っております(まあ、これもかなり俗っぽい解釈ではありますが)。
>善とは何か?
>悪とは何か?
>だれもそんな、ドストエフスキー的な道徳の追求などしておりませんものね。
前置きとして、僕は倫理と道徳を明確に区別すべき、と思っています。
で、「善/悪」の区別は道徳よりは倫理に属する事柄だと見做しています。
道徳も「善/悪」の区別をすることはありますが、究極的には「善/悪」よりも共同体の維持を優先する(つまり、道徳と倫理は乖離し得る)。
僕の解釈では、ラスコーリニコフの苦悩はこの道徳と倫理の乖離を示しています。
それはともあれ、僕は倫理はそれなりに尊重しますが、道徳は全く尊重いたしておりません(それが目上から目下へと語られる限り)。
それでは。
道徳を教える難しさ
テレビ局が『学校で疑似科学を教えるのは問題では』と主催した校長会とか教育委員会とか参加した女性校長達に直接取材しようとしたが全てノーコメント。誰一人として公に答える人がいなかったらしい。
みんな科学的には、『水からの伝言』は不味いと知っているんですよ。
しかし校長自身の個人の道徳を子供に教えるのには何と無く自信がない。其処にインチキ臭くても科学的(普遍的)な脚色がある道徳『水からの伝言』に飛びついた。らしい。
>僕は倫理と道徳を明確に区別すべき、と思っています。
で、「善/悪」の区別は道徳よりは倫理に属する事柄だと見做しています。 <
道徳と倫理を明確に別けるのは無理があるとは思いますが『道徳の胡散臭さ』『道徳の危険性』と言う意味で賛成したいと思います。
道徳は基本的に科学のように万人に共通する普遍的なものではなく個人により、民族により、宗教により時代により善悪が異なり誰にでも当てはまる『絶対の正義』を考えるのは危険です。
だから道徳教育は各家庭とか地域が引き受ける性格のもので誰もが学ぶ公教育には馴染みません。
基本的に各自の道徳を決定する世界観は、其々の宗教(或いは哲学)によって決まるが、日本における公式の民族宗教は仏教でも儒教でも神道でも昔からのアニミズムでもなくましてや風俗程度のキリスト教などでは無く、科学を絶対真理として信じる『科学教』ですよ。
「善悪の判定」は本来は道徳(宗教)の受け持ちですが、世界中で日本だけが例外なんですよ。
科学は全ての物事の何が間違っているか?何が正しいのか?の正誤を最終的に判定するが日本では正誤の判定以上の善悪の判定までもが科学の受け持ちになってしまっている。
水騒動などは科学教の異端審問(宗教裁判)と見れば、騒動の色々な不思議が理解できるかもしれませんね。
みんな科学的には、『水からの伝言』は不味いと知っているんですよ。
しかし校長自身の個人の道徳を子供に教えるのには何と無く自信がない。其処にインチキ臭くても科学的(普遍的)な脚色がある道徳『水からの伝言』に飛びついた。らしい。
>僕は倫理と道徳を明確に区別すべき、と思っています。
で、「善/悪」の区別は道徳よりは倫理に属する事柄だと見做しています。 <
道徳と倫理を明確に別けるのは無理があるとは思いますが『道徳の胡散臭さ』『道徳の危険性』と言う意味で賛成したいと思います。
道徳は基本的に科学のように万人に共通する普遍的なものではなく個人により、民族により、宗教により時代により善悪が異なり誰にでも当てはまる『絶対の正義』を考えるのは危険です。
だから道徳教育は各家庭とか地域が引き受ける性格のもので誰もが学ぶ公教育には馴染みません。
基本的に各自の道徳を決定する世界観は、其々の宗教(或いは哲学)によって決まるが、日本における公式の民族宗教は仏教でも儒教でも神道でも昔からのアニミズムでもなくましてや風俗程度のキリスト教などでは無く、科学を絶対真理として信じる『科学教』ですよ。
「善悪の判定」は本来は道徳(宗教)の受け持ちですが、世界中で日本だけが例外なんですよ。
科学は全ての物事の何が間違っているか?何が正しいのか?の正誤を最終的に判定するが日本では正誤の判定以上の善悪の判定までもが科学の受け持ちになってしまっている。
水騒動などは科学教の異端審問(宗教裁判)と見れば、騒動の色々な不思議が理解できるかもしれませんね。
逝きし世の面影さん
コメントありがとうございます。
確か以前も一度頂いたと思いますが、スルーしちゃいました、すみません。
>しかし校長自身の個人の道徳を子供に教えるのには何と無く自信がない。其処にインチキ臭くても科学的(普遍的)な脚色がある道徳『水からの伝言』に飛びついた。らしい。
そんなところでしょうね。
疑似科学批判的な観点からの批判がどの程度有効なのか?、というところをもう少し疑似科学批判側にも持ってもらいたいところです。
>道徳と倫理を明確に別けるのは無理があるとは思いますが『道徳の胡散臭さ』『道徳の危険性』と言う意味で賛成したいと思います。
ご賛同ありがとうございます。
僕自身も道徳と倫理が(理念ではなく実践において)明確に区別出来るかどうかは疑問ですが、僕は、倫理が道徳から分化したというイメージを持っています。
未分化な社会において社会制度が一体化している段階から、政治、司法、行政と社会制度が分化したイメージと重ねあわされるかもしれません。
>道徳は基本的に科学のように万人に共通する普遍的なものではなく個人により、民族により、宗教により時代により善悪が異なり誰にでも当てはまる『絶対の正義』を考えるのは危険です。
僕も「絶対的正義」というものには懐疑的ですが、互いが自らの正義を相対化し、すり合わせ、共有可能な正義へと再編する、ということは可能ではないか、とはかない願望を有しています。
>だから道徳教育は各家庭とか地域が引き受ける正確のもので誰もが学ぶ公教育には馴染みません。
そこは僕も100%同意です。
公教育における道徳教育を断念することで、道徳が相対化されることも期待できるかなと。
今、思いつきましたが、公教育において道徳教育が重視される一方で、市民教育が本当に日本においては貧弱ですね。
ここには権力による陰謀も関わっているのかもしれませんが、民主社会においては市民教育を道徳教育よりも重視すべきですね。
>日本における公式の民族宗教は仏教でも儒教でも神道でも昔からのアニミズムでもなくましてや風俗程度のキリスト教などでは無く、科学を絶対真理として信じる『科学教』ですよ。
この辺りは、僕にはなかなか断定的に述べることは出来ないのですが、「事実上正しいものは科学的に決められるはずだ」、という信念はあるのかもしれませんね。
確か以前も一度頂いたと思いますが、スルーしちゃいました、すみません。
>しかし校長自身の個人の道徳を子供に教えるのには何と無く自信がない。其処にインチキ臭くても科学的(普遍的)な脚色がある道徳『水からの伝言』に飛びついた。らしい。
そんなところでしょうね。
疑似科学批判的な観点からの批判がどの程度有効なのか?、というところをもう少し疑似科学批判側にも持ってもらいたいところです。
>道徳と倫理を明確に別けるのは無理があるとは思いますが『道徳の胡散臭さ』『道徳の危険性』と言う意味で賛成したいと思います。
ご賛同ありがとうございます。
僕自身も道徳と倫理が(理念ではなく実践において)明確に区別出来るかどうかは疑問ですが、僕は、倫理が道徳から分化したというイメージを持っています。
未分化な社会において社会制度が一体化している段階から、政治、司法、行政と社会制度が分化したイメージと重ねあわされるかもしれません。
>道徳は基本的に科学のように万人に共通する普遍的なものではなく個人により、民族により、宗教により時代により善悪が異なり誰にでも当てはまる『絶対の正義』を考えるのは危険です。
僕も「絶対的正義」というものには懐疑的ですが、互いが自らの正義を相対化し、すり合わせ、共有可能な正義へと再編する、ということは可能ではないか、とはかない願望を有しています。
>だから道徳教育は各家庭とか地域が引き受ける正確のもので誰もが学ぶ公教育には馴染みません。
そこは僕も100%同意です。
公教育における道徳教育を断念することで、道徳が相対化されることも期待できるかなと。
今、思いつきましたが、公教育において道徳教育が重視される一方で、市民教育が本当に日本においては貧弱ですね。
ここには権力による陰謀も関わっているのかもしれませんが、民主社会においては市民教育を道徳教育よりも重視すべきですね。
>日本における公式の民族宗教は仏教でも儒教でも神道でも昔からのアニミズムでもなくましてや風俗程度のキリスト教などでは無く、科学を絶対真理として信じる『科学教』ですよ。
この辺りは、僕にはなかなか断定的に述べることは出来ないのですが、「事実上正しいものは科学的に決められるはずだ」、という信念はあるのかもしれませんね。
道徳の危うさと倫理の必要性
戦前は公教育における道徳教育の占める役割は非常に重かった。
戦争の悲惨な教訓から戦後10年程は日本で公教育での道徳教育は行っていませんでしたが、今から50年ほど前に日教組など教育現場の反対を押し切って強引に導入される。
そして学校に道徳の時間が設けられるが、しかし肝心の教師達は何を教えてよいかが判らない。 仕方が無くホームルームみたいな事や読書会みたいな事をしてお茶を濁す。
当時の教師はみんな道徳を教える怖さが分かっていた。
そりゃ〜あ、そうでしょう。今まで正しいと信じて教えていた道徳や一般常識(忠君愛国、鬼畜米英、一億玉砕)は完全に間違いだった。
絶対に正しいものだった「八紘一宇」が悪い思想として排斥されていたんですよ。
道徳は時代により組織により、あるいは個人個人、人により宗教により別々でしかも変化する。
道徳とは、時には完全に善悪がひっくり返る危うい代物です。
矢張り学校のような公教育で教えれるような普遍的な科学的事実とは根本的に違う。
西欧での150年程前の宗教に対する科学の全面的勝利以後は、 科学は物質世界全般全てを取り仕切りって、科学は全ての事に対して正しいか間違っているかの判定を下す。
科学的に正しければ正しく、間違っていいれば間違っている。
この世で起こった全ての事柄に対する『正しいか』あるいは『間違っているか』の最終的な判断は、すべて科学が受け持っている。
対して『宗教の受け持つ範囲は個人の精神世界(道徳)という極狭い範囲に限定される。
物事の善悪の判断を受け持つ道徳は、一般的に宗教と切っても切れない一体不可分の密接な関連が有ります。
昔々にドストエフスキーを読んだが、あの時は如何しても納得(理解)できなかったが宗教小説である側面を見落としていたんですね。
ラスコリーニコフを悩ました罪と罰はキリスト教を抜きにしては考えられない。
今日本でカラマーゾフの兄弟が流行っているらしいがあんな長い長編小説は筋を追って行くと小説の主題(宗教)が多分見えないはずです。
科学では物事の正誤は判定できても善悪の判定までは出来ないというところを、もう少し疑似科学批判側にも理解してもらいたいですね。
疑似科学批判で『善悪』を独断的に断定し科学とは別の道徳(宗教)の領域に踏み込んでいるのにも拘らず、批判者自身が自分が科学とは別の宗教的(道徳的)な行為をしていると言う自覚が全く無い。
これは『科学が容易に宗教になり得る』という事実を全く理解出来ていない証拠です。
日本に「科学的ならば常に正しい」「科学は絶対だ」的な「科学」というものを盲信している人たちがたくさんいるからこそ「エセ科学」も活躍できる。
しかし「盲信している」というのは、宗教的態度にはなり得ても、科学的態度にはなり得ない。
そういう意味で多くの人たちにとって「科学」は宗教になり得るわけです。
本来科学的態度、科学する心というのは『疑い 検証する態度』『健全な懐疑心』のことですが今の学校教育とが道徳教育で一番メインになっているのは『健全な信じるこころ』です。
『科学とは間違いの自己修正過程である』ことを何も教えず『科学を絶対である』と信じる様にと教えている訳ですから、これでは日本で一番流行る宗教が科学教になってもある意味必然ではないでしょうか。
戦争の悲惨な教訓から戦後10年程は日本で公教育での道徳教育は行っていませんでしたが、今から50年ほど前に日教組など教育現場の反対を押し切って強引に導入される。
そして学校に道徳の時間が設けられるが、しかし肝心の教師達は何を教えてよいかが判らない。 仕方が無くホームルームみたいな事や読書会みたいな事をしてお茶を濁す。
当時の教師はみんな道徳を教える怖さが分かっていた。
そりゃ〜あ、そうでしょう。今まで正しいと信じて教えていた道徳や一般常識(忠君愛国、鬼畜米英、一億玉砕)は完全に間違いだった。
絶対に正しいものだった「八紘一宇」が悪い思想として排斥されていたんですよ。
道徳は時代により組織により、あるいは個人個人、人により宗教により別々でしかも変化する。
道徳とは、時には完全に善悪がひっくり返る危うい代物です。
矢張り学校のような公教育で教えれるような普遍的な科学的事実とは根本的に違う。
西欧での150年程前の宗教に対する科学の全面的勝利以後は、 科学は物質世界全般全てを取り仕切りって、科学は全ての事に対して正しいか間違っているかの判定を下す。
科学的に正しければ正しく、間違っていいれば間違っている。
この世で起こった全ての事柄に対する『正しいか』あるいは『間違っているか』の最終的な判断は、すべて科学が受け持っている。
対して『宗教の受け持つ範囲は個人の精神世界(道徳)という極狭い範囲に限定される。
物事の善悪の判断を受け持つ道徳は、一般的に宗教と切っても切れない一体不可分の密接な関連が有ります。
昔々にドストエフスキーを読んだが、あの時は如何しても納得(理解)できなかったが宗教小説である側面を見落としていたんですね。
ラスコリーニコフを悩ました罪と罰はキリスト教を抜きにしては考えられない。
今日本でカラマーゾフの兄弟が流行っているらしいがあんな長い長編小説は筋を追って行くと小説の主題(宗教)が多分見えないはずです。
科学では物事の正誤は判定できても善悪の判定までは出来ないというところを、もう少し疑似科学批判側にも理解してもらいたいですね。
疑似科学批判で『善悪』を独断的に断定し科学とは別の道徳(宗教)の領域に踏み込んでいるのにも拘らず、批判者自身が自分が科学とは別の宗教的(道徳的)な行為をしていると言う自覚が全く無い。
これは『科学が容易に宗教になり得る』という事実を全く理解出来ていない証拠です。
日本に「科学的ならば常に正しい」「科学は絶対だ」的な「科学」というものを盲信している人たちがたくさんいるからこそ「エセ科学」も活躍できる。
しかし「盲信している」というのは、宗教的態度にはなり得ても、科学的態度にはなり得ない。
そういう意味で多くの人たちにとって「科学」は宗教になり得るわけです。
本来科学的態度、科学する心というのは『疑い 検証する態度』『健全な懐疑心』のことですが今の学校教育とが道徳教育で一番メインになっているのは『健全な信じるこころ』です。
『科学とは間違いの自己修正過程である』ことを何も教えず『科学を絶対である』と信じる様にと教えている訳ですから、これでは日本で一番流行る宗教が科学教になってもある意味必然ではないでしょうか。
共有可能な正義
全ての人にとっての『共有可能な正義への再編』は基本的に無理が有りそうですが、大多数の市民にとっての『正義』なら十分に共有可能です。
矢張りここでも、信じているか信じていないかに関わらず万人に共通するのは『科学』だけで万人に通じる『道徳』は無いことに留意すべきです。
『道徳』(正義)には一定の条件が必ず付いている。
なぜなら道徳とは社会的な産物ではあっても基本的に個人の内心だからです。だから其々個人でバラバラで当たり前で、同じ方が可笑しい。
みなさんは道徳の社会的側面に惑わされてこの事をうっかりしている事が多い。
逆に条件が付いていない道徳とは『付いている条件』を隠しているか忘れている危険極まりないナショナリズムの国家道徳の類いですね。
例えば人間にとってタブーである殺人は、社会にとって悪で有るとする道徳は万人に共通すると考えられているがそうでもない。
例えば日本では『死刑』が合法化されているし、戦争の下の殺人は正義であるばかリか義務ですらあり反対する方が悪と決め付けられて厳罰がまっている。
現実に日本でも、自衛隊という武装組織があり数十万人もの人々が毎日毎日大量殺人兵器の訓練に励んでいる。
私たちと同じ人間が、如何すれば効率よく「人殺し」が出来るか練習しているんですよ。
もちろんこの集団(軍隊)が社会にとって危険であることは昔から知られていたので一般社会から隔離しておく必要があった。
軍隊を基地の中に封じ込めて『殺人者』が一般社会に出て来ない様にしなければならないし、そのために基地が有る。
自衛隊と違い本物の戦争をしている軍人が時々間違って一般社会に彷徨い出ると8年前の世田谷区の事件のような恐ろしい事が起こる。
多分無理かもしれないがブッシュと違いオバマならひょっとしたら解決できるかもしれません。
或いは日本側が売国的な自民党と違い小沢民主党政府なら何かアメリカにモノが言えるかもしれません。
矢張りここでも、信じているか信じていないかに関わらず万人に共通するのは『科学』だけで万人に通じる『道徳』は無いことに留意すべきです。
『道徳』(正義)には一定の条件が必ず付いている。
なぜなら道徳とは社会的な産物ではあっても基本的に個人の内心だからです。だから其々個人でバラバラで当たり前で、同じ方が可笑しい。
みなさんは道徳の社会的側面に惑わされてこの事をうっかりしている事が多い。
逆に条件が付いていない道徳とは『付いている条件』を隠しているか忘れている危険極まりないナショナリズムの国家道徳の類いですね。
例えば人間にとってタブーである殺人は、社会にとって悪で有るとする道徳は万人に共通すると考えられているがそうでもない。
例えば日本では『死刑』が合法化されているし、戦争の下の殺人は正義であるばかリか義務ですらあり反対する方が悪と決め付けられて厳罰がまっている。
現実に日本でも、自衛隊という武装組織があり数十万人もの人々が毎日毎日大量殺人兵器の訓練に励んでいる。
私たちと同じ人間が、如何すれば効率よく「人殺し」が出来るか練習しているんですよ。
もちろんこの集団(軍隊)が社会にとって危険であることは昔から知られていたので一般社会から隔離しておく必要があった。
軍隊を基地の中に封じ込めて『殺人者』が一般社会に出て来ない様にしなければならないし、そのために基地が有る。
自衛隊と違い本物の戦争をしている軍人が時々間違って一般社会に彷徨い出ると8年前の世田谷区の事件のような恐ろしい事が起こる。
多分無理かもしれないがブッシュと違いオバマならひょっとしたら解決できるかもしれません。
或いは日本側が売国的な自民党と違い小沢民主党政府なら何かアメリカにモノが言えるかもしれません。
逝きし世の面影さん
コメントありがとうございます。
しかも、結構な長文で恐縮します。
こちらからはできるだけ簡単に。
倫理と道徳、科学、正義などについて。
道徳が時代や場所によって異なる相対的なものである、ということについては100%同意します。
そして、公教育においては道徳教育は危ういものである、という点についても。
ただ、その理由というか根拠が僕の考えとは少し違うかもしれません。
そこを簡単に述べてみます。
道徳は表向きどのような違いがあれ、究極的には個人よりも共同体を上位に置く、という共通点を有しているように思っています。要するに、共同体の秩序を維持する、という名目で個人の自由を抑圧する。極論を言えば、これが道徳の本質だと思っています。
従って、僕の見方によれば、道徳の「善/悪」は共同体にとってという視点によるものです。
一方、倫理は究極的には個人にとって、という視点を極限まで突き詰めたものです。
倫理はキリスト教(特にプロテスタンティズム)に起源をもつのかもしれません(が、そこは措いておきます)
従って、倫理と道徳は究極的には乖離し得ます。
もちろん、道徳と倫理は常に乖離するわけではありません。
というのも、通常は共同体にとってよいことは個人にとって良いことであり得、逆もまた成り立つからです。
ところで現在の日本社会は、あくまでも基本的人権を重視する自由主義・個人主義社会を標榜しているはずです。
だとしたら、個人よりも共同体を重視する道徳を公教育において教える、ということは民主的な社会成員を育てるはずの公教育とは理念的に整合しないはずです。それどころか、道徳教育に比重が置かれすぎるなら、基本的人権を重視する民主社会の市民を育てることはおぼつかないでしょう(現実に日本は民主社会とは程遠いと思っていますし)。
それが僕の道徳教育(というか道徳そのもの)への懐疑でもあるわけですが。
もう一点。
科学と正誤についてですが。
科学の評価は第一義的には、「うまくいく」かどうかです。
「うまくいく」とは、現象を「うまく説明する」とか、将来を「うまく予測する」とか、科学に基づいて作られた装置が「うまく機能する」とかいったことです。
そして、「うまくいく」理論を「正しい」と呼ぶことは可能は可能ですが、そう呼ばなければならない理由があるわけではありません。
まあ、学校教育ではとりあえず「正しいもの」として教えるのが手っ取り早いのですが、それだけで終わってしまうと「科学とは正しいものである」という科学教的な信仰になってしまうかもしれません。
信仰された科学(科学教?)においては、科学は「正しい」がゆえに「うまくいく」と、先ほどの順序を逆転されて信仰されてしまいます。
ある科学理論は「うまくいく」がゆえに暫定的に正しいと見做される(それゆえうまくいかなくなればいつでも破棄され得る)、という批判的な態度が科学教育においても不可欠でありましょう。
最後に正義について。
正義も全体論的に(すなわちホーリズム的に)規定される他ない、という前提をまず述べておきます。
その上で。
正義にも様々な層があると思われます。
例えば、個人の生命や権利を重視する正義。
国家などの共同体や集団の秩序を重視する正義。
これらは一部重なりながら、一部乖離し得ます(倫理と道徳の乖離のように)。
したがって、乖離し得るとすれば、どちらの正義を上位に置くか、ということになるのではないかと。
戦争や死刑制度は後者の正義が前者の正義よりも優先される事態、と表現されるでしょう。
しかし、近代的な立憲制度はむしろ前者の正義よりも後者の正義を優先するように表明しているように思われます。
もちろん、近代立憲主義的正義が普遍的正義と呼べるものか、僕にはわかりませんが…
ところで、世田谷事件も謎の多い事件のようですが、年末の週刊文春ではまた新たな犯人像が提示されていましたね。
事件を風化させてはならないと思いますが、初動捜査の拙さが尾を引いているのかもしれません。
しかも、結構な長文で恐縮します。
こちらからはできるだけ簡単に。
倫理と道徳、科学、正義などについて。
道徳が時代や場所によって異なる相対的なものである、ということについては100%同意します。
そして、公教育においては道徳教育は危ういものである、という点についても。
ただ、その理由というか根拠が僕の考えとは少し違うかもしれません。
そこを簡単に述べてみます。
道徳は表向きどのような違いがあれ、究極的には個人よりも共同体を上位に置く、という共通点を有しているように思っています。要するに、共同体の秩序を維持する、という名目で個人の自由を抑圧する。極論を言えば、これが道徳の本質だと思っています。
従って、僕の見方によれば、道徳の「善/悪」は共同体にとってという視点によるものです。
一方、倫理は究極的には個人にとって、という視点を極限まで突き詰めたものです。
倫理はキリスト教(特にプロテスタンティズム)に起源をもつのかもしれません(が、そこは措いておきます)
従って、倫理と道徳は究極的には乖離し得ます。
もちろん、道徳と倫理は常に乖離するわけではありません。
というのも、通常は共同体にとってよいことは個人にとって良いことであり得、逆もまた成り立つからです。
ところで現在の日本社会は、あくまでも基本的人権を重視する自由主義・個人主義社会を標榜しているはずです。
だとしたら、個人よりも共同体を重視する道徳を公教育において教える、ということは民主的な社会成員を育てるはずの公教育とは理念的に整合しないはずです。それどころか、道徳教育に比重が置かれすぎるなら、基本的人権を重視する民主社会の市民を育てることはおぼつかないでしょう(現実に日本は民主社会とは程遠いと思っていますし)。
それが僕の道徳教育(というか道徳そのもの)への懐疑でもあるわけですが。
もう一点。
科学と正誤についてですが。
科学の評価は第一義的には、「うまくいく」かどうかです。
「うまくいく」とは、現象を「うまく説明する」とか、将来を「うまく予測する」とか、科学に基づいて作られた装置が「うまく機能する」とかいったことです。
そして、「うまくいく」理論を「正しい」と呼ぶことは可能は可能ですが、そう呼ばなければならない理由があるわけではありません。
まあ、学校教育ではとりあえず「正しいもの」として教えるのが手っ取り早いのですが、それだけで終わってしまうと「科学とは正しいものである」という科学教的な信仰になってしまうかもしれません。
信仰された科学(科学教?)においては、科学は「正しい」がゆえに「うまくいく」と、先ほどの順序を逆転されて信仰されてしまいます。
ある科学理論は「うまくいく」がゆえに暫定的に正しいと見做される(それゆえうまくいかなくなればいつでも破棄され得る)、という批判的な態度が科学教育においても不可欠でありましょう。
最後に正義について。
正義も全体論的に(すなわちホーリズム的に)規定される他ない、という前提をまず述べておきます。
その上で。
正義にも様々な層があると思われます。
例えば、個人の生命や権利を重視する正義。
国家などの共同体や集団の秩序を重視する正義。
これらは一部重なりながら、一部乖離し得ます(倫理と道徳の乖離のように)。
したがって、乖離し得るとすれば、どちらの正義を上位に置くか、ということになるのではないかと。
戦争や死刑制度は後者の正義が前者の正義よりも優先される事態、と表現されるでしょう。
しかし、近代的な立憲制度はむしろ前者の正義よりも後者の正義を優先するように表明しているように思われます。
もちろん、近代立憲主義的正義が普遍的正義と呼べるものか、僕にはわかりませんが…
ところで、世田谷事件も謎の多い事件のようですが、年末の週刊文春ではまた新たな犯人像が提示されていましたね。
事件を風化させてはならないと思いますが、初動捜査の拙さが尾を引いているのかもしれません。
宗教と倫理の関係
少し時間が有ったので貴ブログをあらかた読ましてもらいましたが、極一部を除いて殆んど同意できるもので、私なんかより余程深く考えて居られる様です。
水騒動でも良く似た立ち位置ですね。
騒動が起こってから数ヶ月もたってからようやく気が付いてグログに書いているのも同じです。
この記事での違いは、倫理と道徳を個人と社会集団に厳密に別けて考えているquine10 さんと分離せず適当に解釈して好い加減に考えている私の違いでしょう。
しかし道徳や倫理の社会と個人の関係に関する認識の内容にはそれ程の違いは無いようですよ。
人は社会的動物で幾等個人の倫理を考えてみても社会を無視した個人も個人の倫理も存在せず『社会や集団の影響をうけた倫理』しかありえません。
だから道徳(倫理)の個人と社会の問題点を考えていく姿勢には賛成したいと思いますが、たぶん『道徳と倫理の完全な分離』には最初から無理があるんですよ。
しかし現実には無理でも、理論的哲学的には社会の道徳と個人の倫理の分離は可能でこの話を進めるのは面白いかもしれません。
唯「個人の倫理」は矢張り民主主義(個人主義)と密接な関連が有り、これには基督教の道徳とも関連が有りそうです。
一神教的な精神基盤が必要な厳密な個人主義は日本人には無理があるでしょうし、社会的な存在で有る人間と言う存在を無視しているので賛成しかねる。
無人島に一人暮らしなら倫理も道徳もいりません。
倫理は(たぶん道徳も)個人が持つものですが、元々社会が有るから倫理が必要に成ってくる性質のもので「個人の倫理は必要」ですが、あくまで倫理が社会的な産物で有る点に留意するべきです。
そして全ての物事の善悪を司どる倫理(道徳)には密接に宗教との関連が有ることにも注意するべきです。
以前には余り宗教に関心が無く、政治や経済だけを調べて将来を予測していたんですが完全に的中させる事は難しい。特にアメリカなんかは殆んどが外れる。何か大事なものが抜けていたんですね。
其の事に気がつき宗教と言うピースを嵌め込むと政治や経済の予想が殆んど的中するんですよ。
啓蒙思想的な近代合理主義ではなく、我々が考えている以上に人々は倫理的道徳的宗教的に行動しています。
水騒動と『科学教』の関係ですがつい最近に実に面白い体験をしました。
NHKで数ヶ月前に熱湯の方が冷水より早く凍る科学的に未解明なムペンバ効果なる放送をしていたので、インチキでニセ科学であるとのブログ記事を書いたら抗議の嫌がらせコメントが山のように送られてくる。
今の日本では真に科学的な考えの人より、科学を権威として信じている科学教の信者の方が多数派なのでしょうね。
もっと面白い話は『水からの伝言』をニセ科学と批判していた科学系のブログに幾つかコメントを送ったのですが、何と!!!全員が『NHKのムペンバ効果は有る』の立場で思わずひっくり返りそうになりました。
科学系のブログなんですよ。
しかも水が凍って美しい結晶になる話がニセ科学で有ると告発している。
同じ人物が、何で熱湯が冷水より必ず先に凍る話が明確に熱力学の法則に違反していることに気が付かないのか。?
しかも理由がですね。『科学にはまだまだ判らない事が有る』(当たり前です)
『常識では判断できない事があり、重たいジャンボジェット機でも空を飛ぶ』(もう無茶苦茶で限りなくニセ科学の信奉者と同じ台詞)
ニセ科学信奉者とニセ科学批判者とは同一の科学的でない思考方法に立っているどっちもどっちの五十歩百歩の人々ですね。
水騒動でも良く似た立ち位置ですね。
騒動が起こってから数ヶ月もたってからようやく気が付いてグログに書いているのも同じです。
この記事での違いは、倫理と道徳を個人と社会集団に厳密に別けて考えているquine10 さんと分離せず適当に解釈して好い加減に考えている私の違いでしょう。
しかし道徳や倫理の社会と個人の関係に関する認識の内容にはそれ程の違いは無いようですよ。
人は社会的動物で幾等個人の倫理を考えてみても社会を無視した個人も個人の倫理も存在せず『社会や集団の影響をうけた倫理』しかありえません。
だから道徳(倫理)の個人と社会の問題点を考えていく姿勢には賛成したいと思いますが、たぶん『道徳と倫理の完全な分離』には最初から無理があるんですよ。
しかし現実には無理でも、理論的哲学的には社会の道徳と個人の倫理の分離は可能でこの話を進めるのは面白いかもしれません。
唯「個人の倫理」は矢張り民主主義(個人主義)と密接な関連が有り、これには基督教の道徳とも関連が有りそうです。
一神教的な精神基盤が必要な厳密な個人主義は日本人には無理があるでしょうし、社会的な存在で有る人間と言う存在を無視しているので賛成しかねる。
無人島に一人暮らしなら倫理も道徳もいりません。
倫理は(たぶん道徳も)個人が持つものですが、元々社会が有るから倫理が必要に成ってくる性質のもので「個人の倫理は必要」ですが、あくまで倫理が社会的な産物で有る点に留意するべきです。
そして全ての物事の善悪を司どる倫理(道徳)には密接に宗教との関連が有ることにも注意するべきです。
以前には余り宗教に関心が無く、政治や経済だけを調べて将来を予測していたんですが完全に的中させる事は難しい。特にアメリカなんかは殆んどが外れる。何か大事なものが抜けていたんですね。
其の事に気がつき宗教と言うピースを嵌め込むと政治や経済の予想が殆んど的中するんですよ。
啓蒙思想的な近代合理主義ではなく、我々が考えている以上に人々は倫理的道徳的宗教的に行動しています。
水騒動と『科学教』の関係ですがつい最近に実に面白い体験をしました。
NHKで数ヶ月前に熱湯の方が冷水より早く凍る科学的に未解明なムペンバ効果なる放送をしていたので、インチキでニセ科学であるとのブログ記事を書いたら抗議の嫌がらせコメントが山のように送られてくる。
今の日本では真に科学的な考えの人より、科学を権威として信じている科学教の信者の方が多数派なのでしょうね。
もっと面白い話は『水からの伝言』をニセ科学と批判していた科学系のブログに幾つかコメントを送ったのですが、何と!!!全員が『NHKのムペンバ効果は有る』の立場で思わずひっくり返りそうになりました。
科学系のブログなんですよ。
しかも水が凍って美しい結晶になる話がニセ科学で有ると告発している。
同じ人物が、何で熱湯が冷水より必ず先に凍る話が明確に熱力学の法則に違反していることに気が付かないのか。?
しかも理由がですね。『科学にはまだまだ判らない事が有る』(当たり前です)
『常識では判断できない事があり、重たいジャンボジェット機でも空を飛ぶ』(もう無茶苦茶で限りなくニセ科学の信奉者と同じ台詞)
ニセ科学信奉者とニセ科学批判者とは同一の科学的でない思考方法に立っているどっちもどっちの五十歩百歩の人々ですね。
社会道徳と個人の倫理
>道徳は・・・・個人よりも共同体を上位に置く・・・
>倫理は究極的には個人にとって、という視点を極限まで突き詰めたもの
言葉の使い方の問題ですが、
道徳・倫理と単独で使わず『社会(国家)道徳』とか『個人の倫理』という風に枕詞を付けて使えば道徳と倫理の差別化が簡単に出来ると思います。
この方法なら道徳(社会道徳)と『個人の持つ倫理』と混同しなくて済みます。
道徳の胡散臭さ、道徳の「善/悪」が時に違ってくる原因を『個人と共同体(国家)の問題』、
言い変えると『部分と全体の相違』と考えるのは多分間違いです。
例えば、今日本社会で問題になっている『愛国心』の問題について考えて見ましょう。
上から押し付けてくる道徳としての『愛国心』は胡散臭い。日の丸君が代の強制する道徳も愛国心も大嫌いなんですが、それなら日本が大嫌いかというとそんな事は無いらしい。
昔の日本人は海外に出ると無国籍者を装うか愛国者になるかの二者択一、両極端だったらしいが、30年以上前にアラスカに行ったとき日本製品に出会うと感激する自分を発見して驚いた事が有ります。何と自分は愛国者だったんですよ。
愛国心(ナショナリズム)には反対し国際主義(インターナショナル)を標榜していた自分は愛国者(パトリオット)だった。
ナショナリズムは無くとも誰にでもパトリオティズムは有るんですね。
パトリオティズムは個人個人が自然に持っている倫理観で、誰でもが持つ自分が生まれ育った郷土や同胞にたいする愛着です。愛郷主義とも訳せる。
対してナショナリズムは国家主義とも訳せる人工的な別物ですが、しばしば混同される。
戦前あれ程までに愛国心教育が行われたが、実体は如何だったのか。?
太平洋戦争で日本軍兵士が文字どうり最期の一兵まで徹底的に抵抗してアメリカ軍に甚大な損害を与えたのは硫黄島と沖縄だったが両方に共通するのはどちらも辺境ではあっても日本の一部なんですね。
人間とは人工の国家の為には死ねなくとも、愛する同胞の為には自分を犠牲にする事ができる崇高な種です。
彼等の最期の拠り所は国家が強制するナショナリズムでは無く、自然とみんなが持っていたパトリオティズムだったんですよ。
それでは国家とは何か。?という話になるが国家(国民国家)はマルクスに言わせると軍隊や監獄などの暴力装置のことで、近代経済学的に考えてもエリート支配の為の便利な道具程度の代物です。けっして個人(部分)に対する『全体』のことではなく国家自体が単なる『部分』なんですよ。
道徳の話に戻ると、単なる一部の『部分』に過ぎない『国家』や国家を支配するエリートの個人的な利益の為の道徳を、さも普遍的な存在であるかのように偽装して『全体の道徳』と宣伝している訳です。
これはアメリカの特殊な資本主義を、さも「普遍的なもの」であるかのように偽装してグローバルと称していたのに似ています。
普遍的(全体)と見せかけていた新自由主義グロ−バリズムとは少し大きい特殊にすぎません。
国家もグロ−バルも同じで普遍的(全体)ではなく部分です。
ですから先ほどの道徳と倫理の関係は『全体と部分』ではなく『部分と部分』の関係と解釈できます。
世田谷事件ですが下手糞な刑事コロンボですね。最初の時点で犯人が判っていたはずです。
事件直後には簡単に解決すると思っていた。
なぜなら、警察が手配した犯人は真冬にまるでパンダのような目立つトレーナー姿、しかも日本では滅多にいない28センチの大足で日本人なら多分2m近い大男で目立ちすぎる容姿。しかも香水を常用していた。オーデコロンはあっても香水は珍しい。
ところがみんなの記憶の薄れる一年以上経ってからジャケットを手配する。冬にトレーナー一枚の姿なら目立つが外套は目立たない。
しかも犯人は半日以上居座って遺留品は数知れずインターネットのアクセス記録まで残しているが公開されていない。
多分警察(神奈川県警)では犯人側上部組織と出頭するように交渉していて、捜査は形式的、形だけ繕っているのでしょう。
これは山口組本部の有る兵庫県警の採用している(大学院生が組長に殺された時に捜査せず暴力団上部組織と交渉していて大問題になった)「兵庫方式」と同じ種類のものでしょう。
>倫理は究極的には個人にとって、という視点を極限まで突き詰めたもの
言葉の使い方の問題ですが、
道徳・倫理と単独で使わず『社会(国家)道徳』とか『個人の倫理』という風に枕詞を付けて使えば道徳と倫理の差別化が簡単に出来ると思います。
この方法なら道徳(社会道徳)と『個人の持つ倫理』と混同しなくて済みます。
道徳の胡散臭さ、道徳の「善/悪」が時に違ってくる原因を『個人と共同体(国家)の問題』、
言い変えると『部分と全体の相違』と考えるのは多分間違いです。
例えば、今日本社会で問題になっている『愛国心』の問題について考えて見ましょう。
上から押し付けてくる道徳としての『愛国心』は胡散臭い。日の丸君が代の強制する道徳も愛国心も大嫌いなんですが、それなら日本が大嫌いかというとそんな事は無いらしい。
昔の日本人は海外に出ると無国籍者を装うか愛国者になるかの二者択一、両極端だったらしいが、30年以上前にアラスカに行ったとき日本製品に出会うと感激する自分を発見して驚いた事が有ります。何と自分は愛国者だったんですよ。
愛国心(ナショナリズム)には反対し国際主義(インターナショナル)を標榜していた自分は愛国者(パトリオット)だった。
ナショナリズムは無くとも誰にでもパトリオティズムは有るんですね。
パトリオティズムは個人個人が自然に持っている倫理観で、誰でもが持つ自分が生まれ育った郷土や同胞にたいする愛着です。愛郷主義とも訳せる。
対してナショナリズムは国家主義とも訳せる人工的な別物ですが、しばしば混同される。
戦前あれ程までに愛国心教育が行われたが、実体は如何だったのか。?
太平洋戦争で日本軍兵士が文字どうり最期の一兵まで徹底的に抵抗してアメリカ軍に甚大な損害を与えたのは硫黄島と沖縄だったが両方に共通するのはどちらも辺境ではあっても日本の一部なんですね。
人間とは人工の国家の為には死ねなくとも、愛する同胞の為には自分を犠牲にする事ができる崇高な種です。
彼等の最期の拠り所は国家が強制するナショナリズムでは無く、自然とみんなが持っていたパトリオティズムだったんですよ。
それでは国家とは何か。?という話になるが国家(国民国家)はマルクスに言わせると軍隊や監獄などの暴力装置のことで、近代経済学的に考えてもエリート支配の為の便利な道具程度の代物です。けっして個人(部分)に対する『全体』のことではなく国家自体が単なる『部分』なんですよ。
道徳の話に戻ると、単なる一部の『部分』に過ぎない『国家』や国家を支配するエリートの個人的な利益の為の道徳を、さも普遍的な存在であるかのように偽装して『全体の道徳』と宣伝している訳です。
これはアメリカの特殊な資本主義を、さも「普遍的なもの」であるかのように偽装してグローバルと称していたのに似ています。
普遍的(全体)と見せかけていた新自由主義グロ−バリズムとは少し大きい特殊にすぎません。
国家もグロ−バルも同じで普遍的(全体)ではなく部分です。
ですから先ほどの道徳と倫理の関係は『全体と部分』ではなく『部分と部分』の関係と解釈できます。
世田谷事件ですが下手糞な刑事コロンボですね。最初の時点で犯人が判っていたはずです。
事件直後には簡単に解決すると思っていた。
なぜなら、警察が手配した犯人は真冬にまるでパンダのような目立つトレーナー姿、しかも日本では滅多にいない28センチの大足で日本人なら多分2m近い大男で目立ちすぎる容姿。しかも香水を常用していた。オーデコロンはあっても香水は珍しい。
ところがみんなの記憶の薄れる一年以上経ってからジャケットを手配する。冬にトレーナー一枚の姿なら目立つが外套は目立たない。
しかも犯人は半日以上居座って遺留品は数知れずインターネットのアクセス記録まで残しているが公開されていない。
多分警察(神奈川県警)では犯人側上部組織と出頭するように交渉していて、捜査は形式的、形だけ繕っているのでしょう。
これは山口組本部の有る兵庫県警の採用している(大学院生が組長に殺された時に捜査せず暴力団上部組織と交渉していて大問題になった)「兵庫方式」と同じ種類のものでしょう。
遅くなりました
どうも、年を越してのお返事となったことを先ずはお詫びします。
>少し時間が有ったので貴ブログをあらかた読ましてもらいましたが、極一部を除いて殆んど同意できるもので、私なんかより余程深く考えて居られる様です。
お褒め頂いて恐縮ですが、当ブログは思想マニアもどきが思いの丈をぶちまける、チラシの裏的書き散らかしです。
でも、上記の一文はありがたく頂戴します。
道徳と倫理(というか集団と個人)についてですが、僕も集団(社会)を離れて個人はあり得ない(人間は社会的存在としてある他ない)というスタンスではあります。
ただ、人間は常に社会的存在としてある、という言い方は(道徳も含めて)ほぼ間違いなく、集団主義的・全体主義的言説(社会のためと称して個人の自由とか自発性を蔑ろにする言説)に転化してしまうんですよね。
それゆえに、僕は自由主義的・個人主義的スタンス(倫理もその一つだと思っています)をとりたいと思うわけです。
繰り返しますが、自由主義・個人主義は個人を社会から切り離されたものとは見做しません(そうであるがゆえに、自由主義者・個人主義者も社会へとコミットするわけですね)。
従って、
>『社会や集団の影響をうけた倫理』しかありえません
には100%同意します。とすると争点は
>一神教的な精神基盤が必要な厳密な個人主義は日本人には無理があるでしょうし、社会的な存在で有る人間と言う存在を無視しているので賛成しかねる。
(中略)
>そして全ての物事の善悪を司どる倫理(道徳)には密接に宗教との関連が有ることにも注意するべきです。
この部分ですかね。
僕としてもこれに対して自信を持って反論できるわけではないのですが。
まず、個人主義の前提として「自我の確立」があると思います。
で、キリスト教(特にプロテスタント)は、「自我の確立」を促すような教義(教会等の権威を通してではなく、神と一対一で向き合うように促す)になっていると思います。
それゆえ、キリスト教(特にプロテスタント)的な文化圏では、個人主義的な倫理が確立されやすい。
では、自我の確立がキリスト教を通さずにはあり得ないかというと、そうではないと僕は思っています。
それは「試行錯誤の後に得られる自己肯定感」とでも言えるものです。
「失敗を繰り返しつつも、そこから学ぶことで得られる自己信頼感」と言い換えてもいいかも知れません。
そのためには社会が強い包摂性を持つ必要があるのですが、自我を確立していない人が構成する社会はそのような包摂性を持つことが難しい。
つまり、ここには循環というか堂々めぐり的な問題が横たわっています。
ただ、では不可能か?と問われればそうでもないと思っています。
>啓蒙思想的な近代合理主義ではなく、我々が考えている以上に人々は倫理的道徳的宗教的に行動しています。
そうですね。
新自由主義の失敗は、歴史的にそのことを証明した、と言えるかもしれません。
>今の日本では真に科学的な考えの人より、科学を権威として信じている科学教の信者の方が多数派なのでしょうね。
確かに、疑似科学批判派の中に、既に確立した疑似科学バッシングに血眼を上げているようにしか見えない人も少なからず見受けられます。
何というか、極悪非道の殺人犯をバッシングするのとよく似ています(薄っぺらい正義感の発露というとさすがに言い過ぎでしょうか?)。
これって、本来は疑似科学批判派が忌み嫌う「はず」の(批判的思考を欠いた)権威主義的態度に他ならないと思ってしまうのですが。
>ニセ科学信奉者とニセ科学批判者とは同一の科学的でない思考方法に立っているどっちもどっちの五十歩百歩の人々ですね。
思考の認知的な歪みは科学を学ぶだけでは正せない(認知の歪みは別の方途により矯正する必要がある)、ということを身をもって示してくれるよいサンプルである、と僕は見做すようにしています。
>少し時間が有ったので貴ブログをあらかた読ましてもらいましたが、極一部を除いて殆んど同意できるもので、私なんかより余程深く考えて居られる様です。
お褒め頂いて恐縮ですが、当ブログは思想マニアもどきが思いの丈をぶちまける、チラシの裏的書き散らかしです。
でも、上記の一文はありがたく頂戴します。
道徳と倫理(というか集団と個人)についてですが、僕も集団(社会)を離れて個人はあり得ない(人間は社会的存在としてある他ない)というスタンスではあります。
ただ、人間は常に社会的存在としてある、という言い方は(道徳も含めて)ほぼ間違いなく、集団主義的・全体主義的言説(社会のためと称して個人の自由とか自発性を蔑ろにする言説)に転化してしまうんですよね。
それゆえに、僕は自由主義的・個人主義的スタンス(倫理もその一つだと思っています)をとりたいと思うわけです。
繰り返しますが、自由主義・個人主義は個人を社会から切り離されたものとは見做しません(そうであるがゆえに、自由主義者・個人主義者も社会へとコミットするわけですね)。
従って、
>『社会や集団の影響をうけた倫理』しかありえません
には100%同意します。とすると争点は
>一神教的な精神基盤が必要な厳密な個人主義は日本人には無理があるでしょうし、社会的な存在で有る人間と言う存在を無視しているので賛成しかねる。
(中略)
>そして全ての物事の善悪を司どる倫理(道徳)には密接に宗教との関連が有ることにも注意するべきです。
この部分ですかね。
僕としてもこれに対して自信を持って反論できるわけではないのですが。
まず、個人主義の前提として「自我の確立」があると思います。
で、キリスト教(特にプロテスタント)は、「自我の確立」を促すような教義(教会等の権威を通してではなく、神と一対一で向き合うように促す)になっていると思います。
それゆえ、キリスト教(特にプロテスタント)的な文化圏では、個人主義的な倫理が確立されやすい。
では、自我の確立がキリスト教を通さずにはあり得ないかというと、そうではないと僕は思っています。
それは「試行錯誤の後に得られる自己肯定感」とでも言えるものです。
「失敗を繰り返しつつも、そこから学ぶことで得られる自己信頼感」と言い換えてもいいかも知れません。
そのためには社会が強い包摂性を持つ必要があるのですが、自我を確立していない人が構成する社会はそのような包摂性を持つことが難しい。
つまり、ここには循環というか堂々めぐり的な問題が横たわっています。
ただ、では不可能か?と問われればそうでもないと思っています。
>啓蒙思想的な近代合理主義ではなく、我々が考えている以上に人々は倫理的道徳的宗教的に行動しています。
そうですね。
新自由主義の失敗は、歴史的にそのことを証明した、と言えるかもしれません。
>今の日本では真に科学的な考えの人より、科学を権威として信じている科学教の信者の方が多数派なのでしょうね。
確かに、疑似科学批判派の中に、既に確立した疑似科学バッシングに血眼を上げているようにしか見えない人も少なからず見受けられます。
何というか、極悪非道の殺人犯をバッシングするのとよく似ています(薄っぺらい正義感の発露というとさすがに言い過ぎでしょうか?)。
これって、本来は疑似科学批判派が忌み嫌う「はず」の(批判的思考を欠いた)権威主義的態度に他ならないと思ってしまうのですが。
>ニセ科学信奉者とニセ科学批判者とは同一の科学的でない思考方法に立っているどっちもどっちの五十歩百歩の人々ですね。
思考の認知的な歪みは科学を学ぶだけでは正せない(認知の歪みは別の方途により矯正する必要がある)、ということを身をもって示してくれるよいサンプルである、と僕は見做すようにしています。
こちらにも一応レスを
>言葉の使い方の問題ですが、
>道徳・倫理と単独で使わず『社会(国家)道徳』とか『個人の倫理』という風に枕詞を付けて使えば道徳と倫理の差別化が簡単に出来ると思います。
確かに言葉の使い方の問題ではあるのですが…
「企業倫理」とか「医療倫理」とか(バイオエシックスとか?)あるように、まあ必ずしも倫理は個人のものではないですし。
ただ、倫理とは単に「集団の秩序」 的なものにとどまらないように思えるわけです(そうあって欲しいという僕の願望も含めて)。
その意味で、集団や世間によって「倫理」は必ずしも望ましいものではならない(可能性がある)。
僕はそれ故にこそ、「倫理」を支持するわけです(それがなければ、僕には「倫理」を支持する理由がない)。
次に、パトリオティズムとナショナリズムについてですが…
僕もパトリオティズムは、人間の本能的な感情といっても良いと思います(人間に本能があれば、の話ですが)。
それは、家族に対する感情と同等のものでしょう(もちろん、万人が「愛」と呼べる感情を有するかどうかは定かではありませんが)。
そして、パトリオティズムの延長にナショナリズム的なものもあり得る(パトリオティズムほど自然な感情ではないでしょうが)。
そこでは、パトリオティズムとナショナリズムは当然のことながら二律背反的なものではありません。
しかし、国家は人為的なものであり(日本では、国家の人為性の観念が希薄すぎるように思われます)、パトリオティズムの単純な延長上にナショナリズムがあるとは考えないほうが良いと思います。
しかし、ナショナリズムの上からの強制(日の丸・君が代の強制も含め)は、当然のことながらパトリオティズムという自然感情から発生するものではあり得ません。
そして、愛のような感情は、人々が強制的に注入することは通常出来ません(恐怖なら強制的に注入可能ですが)。
ま、愛国心の強制は、日本を愛するようになる、ということを目的としたものではないと思っています(米国のパトリオットアクト的なものが目指されているのではないかと)。それは本筋とはズレますので深入りせず。
>人間とは人工の国家の為には死ねなくとも、愛する同胞の為には自分を犠牲にする事ができる崇高な種です。
というよりも、国家に「死ね」と言われても、人間は国家のために死ぬと思うことはできない(自分を納得させることができない)、と言うべきだと思います。
同胞のために死ぬと思うことしかできない(そう思うことで辛うじて自分を納得させることができる)。
それこそが、パトリオティズムとナショナリズムの間に入り込む捩れだと思います。
世田谷事件は僕も二冊ほど本を読んだだけですが。
どうも証拠は山のようにあったらしいですね。
それで、警察もすぐに解決すると踏んでいたようですが。
それ以上のことは僕には分かりませんけど…
証拠が山のようにあるがゆえに、冤罪という手が使えないのかもしれませんね(証拠が乏しければ冤罪で誰かを犯人に仕立て上げることも出来たかもしれない)。
>道徳・倫理と単独で使わず『社会(国家)道徳』とか『個人の倫理』という風に枕詞を付けて使えば道徳と倫理の差別化が簡単に出来ると思います。
確かに言葉の使い方の問題ではあるのですが…
「企業倫理」とか「医療倫理」とか(バイオエシックスとか?)あるように、まあ必ずしも倫理は個人のものではないですし。
ただ、倫理とは単に「集団の秩序」 的なものにとどまらないように思えるわけです(そうあって欲しいという僕の願望も含めて)。
その意味で、集団や世間によって「倫理」は必ずしも望ましいものではならない(可能性がある)。
僕はそれ故にこそ、「倫理」を支持するわけです(それがなければ、僕には「倫理」を支持する理由がない)。
次に、パトリオティズムとナショナリズムについてですが…
僕もパトリオティズムは、人間の本能的な感情といっても良いと思います(人間に本能があれば、の話ですが)。
それは、家族に対する感情と同等のものでしょう(もちろん、万人が「愛」と呼べる感情を有するかどうかは定かではありませんが)。
そして、パトリオティズムの延長にナショナリズム的なものもあり得る(パトリオティズムほど自然な感情ではないでしょうが)。
そこでは、パトリオティズムとナショナリズムは当然のことながら二律背反的なものではありません。
しかし、国家は人為的なものであり(日本では、国家の人為性の観念が希薄すぎるように思われます)、パトリオティズムの単純な延長上にナショナリズムがあるとは考えないほうが良いと思います。
しかし、ナショナリズムの上からの強制(日の丸・君が代の強制も含め)は、当然のことながらパトリオティズムという自然感情から発生するものではあり得ません。
そして、愛のような感情は、人々が強制的に注入することは通常出来ません(恐怖なら強制的に注入可能ですが)。
ま、愛国心の強制は、日本を愛するようになる、ということを目的としたものではないと思っています(米国のパトリオットアクト的なものが目指されているのではないかと)。それは本筋とはズレますので深入りせず。
>人間とは人工の国家の為には死ねなくとも、愛する同胞の為には自分を犠牲にする事ができる崇高な種です。
というよりも、国家に「死ね」と言われても、人間は国家のために死ぬと思うことはできない(自分を納得させることができない)、と言うべきだと思います。
同胞のために死ぬと思うことしかできない(そう思うことで辛うじて自分を納得させることができる)。
それこそが、パトリオティズムとナショナリズムの間に入り込む捩れだと思います。
世田谷事件は僕も二冊ほど本を読んだだけですが。
どうも証拠は山のようにあったらしいですね。
それで、警察もすぐに解決すると踏んでいたようですが。
それ以上のことは僕には分かりませんけど…
証拠が山のようにあるがゆえに、冤罪という手が使えないのかもしれませんね(証拠が乏しければ冤罪で誰かを犯人に仕立て上げることも出来たかもしれない)。
コメントの投稿
トラックバック
http://quine10.blog43.fc2.com/tb.php/114-534f7e47
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)





そしてこの国もまた、形而上を否定する二十世紀の洗礼を否応なく受け、ヒステリックな過剰反動としての民族主義的天皇制にすがったのでは?
そして戦後は、かなり虚無的な感覚というか、善悪に対して根本的に無頓着になってきて、21世紀初頭の今がある。そんな感じです。
善とは何か?
悪とは何か?
だれもそんな、ドストエフスキー的な道徳の追求などしておりませんものね。