世間と道徳、社会とルール (2) 帰国子女問題
とりあえず、これまでの関連エントリーは以下の通りです。
共同体(世間)と道徳、社会とルール introduction
世間と道徳、社会とルール (1)
どのようにこのシリーズを進めていくか、いま一つアイデアが出てこないうちに時間だけが流れております。個人的にはこだわりたいテーマではあるのですが、散発的に周辺的な話をするという程度にとどまりそうな予感です。
言い訳をすると、どうもこのテーマを論じて行こうとすると、どうしても「日本文化特殊論」的な話になってしまいそうなので。
というわけでもないのですが、本日もエピソード的な話です。
バブル華やかしき頃、帰国子女が社会的に話題になったことがありました。
その帰国子女たちは、日本的な控え目さ(謙譲の美徳?)を持たず、自分の思っていることをズケズケ言って、周りとの軋轢を起こす、とかいう話だったと思う。
まあ、一般的に個人主義を体現した人物が集団主義社会に入り込んだ時に起こす軋轢、と言ってよいだろう。
しかし、このエピソードは自分にとっては希望というか、よい話であった。
というのも、「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」といった日本社会の世間性が、(日本人という)個体に属するのではなくあくまでも日本社会の性質である、ということが判明したからであった。
つまり、日本人も個人主義的な社会で育てばきちんと個人主義的な作法を身につけることができる(世間性が個人に属するのであれば、そうはいかないだろう)。
日本人が協調性重視の控えめな性質を有しているのは、あくまでも日本社会がそのような性質を重視する世間であるからに過ぎない。
したがって、日本社会がリベラルで、個人尊重の社会に変わることは可能である。
それは、僕のような自称「骨の髄までリベラリスト」にとっては希望を持てる話であった。
しかし、その後帰国子女が日本で個人主義的に振舞って周りと軋轢を起こす、という話は消滅した。
もちろん、それは日本社会が個人尊重の社会に変貌したからではない。
帰国子女たちが、帰国後に周りと軋轢を起こさないように、日本的な身の施し方(世間への対処法)を身につけてから帰国するようになった、ということである。
個人主義的な社会において、集団主義的な処世術を必死になって身に付ける。
これは喜劇と呼ぶべきか悲劇と呼ぶべきか…
つまり、世間のチカラはそれほど強いのだ。
これはやはりちょっとしたショックではあった。
しかし、「長いものに巻かれろ」「出る杭は打たれる」風の日本社会の世間性が、個人に属する性質ではなく、社会構造の問題である、ということはやはり希望として捉えたい。
先ほども述べたが、それは原理的に変わり得る(変え得る)ものだからである。
さて、先ほど処世術と述べた。
それは言い換えれば、世間でうまく生きる知恵であり、態度であり、技術である。
それは基本的には経験則であり、そこに理屈は存在しない(あるとしても後知恵的な屁理屈である)。
一方ルールとは、明示的であり、ゆえに万人に共有可能なものである(少なくとも共有可能なものとして構想することが出来る)。
である以上、ルールはその存立理由(なぜそのルールが必要なのか)を述べなければならず、必要のないルールはなくしていくべきである(必要のないルールを共有することは出来ないだろうから)。
そして、ルールを破らなければ基本的には人々は自由に振舞ってよい。これがリベラルの立場であろう。
もちろん、どのようなリベラルな個人であっても何かしらの処世術を身に付けているだろうが、リベラルは処世術よりもルールを上位に置く。
さて、道徳については述べてこなかったのだが、もうお分かりかもしれないが、僕は道徳とは処世術程度のものと見做すくらいでちょうど良いと思うのだ。
つまり、一定のルールを守った上で、それだけでは社会をうまく生きていけないだろうから、うまく世間を渡り歩くための処世術。
である以上、それは説教的に語られるものではなく、あくまでも一つの提案程度のものであると(うまく生きていかなければならないわけではないのだから)。
そして、道徳がその程度(処世術程度)のものであると多くの人が見做せば、道徳をエラッソウに語る人も少なくなるかもしれない。
控えめに語られる程度の道徳であれば、僕もムキになって敵視しないかもなぁ、なんて。
大事なのは、そして万人に共有されるべきはあくまでも明示的なルールである(明示的であるがゆえに、「常に批判にさらされ得る」=「より良いものへと改正され得る」わけだから)。
取り敢えず、本編は以上です。
では、前回の認知心理学講座の回答編です。問題は昨日のエントリーの末尾に。
一応問題を考えてから回答編へ。
罰金なんて嫌だから、遅刻は劇的に減る、と考えたのではありませんか?
というか、そう考えたことにしてください!
残念ながら、答えは「ブー」です。
『行動経済学』の引用で回答に代えたいと思います。
304ページより引用
(前略)処罰とモラルの関係について興味深い実験がグニーズィとラスティチーニによって行われている。子供を預かるデイケア・センターでは約束の時間に親が子供を迎えに来ることになっているが、遅刻者もしばしばみられる。彼らは、イスラエルのいくつかのデイケア・センターを選び、遅刻者に対して遅刻時間に応じた少額の罰金を科すことにした。
通常の予測では、遅刻は減少するはずである。ところが、この制度の実施後にはかえって遅刻が増加してしまったのである。この実験は20週行われ、4週間経過した後で罰金が導入された。6週後には遅刻は増加し始め、7週以降には、遅刻は罰金がない場合の2倍にもなった。さらに、16週後に再び罰金は課されないことになったが、遅刻は高い水準のままであった。
グニーズィとラスティチーニは、罰金がない場合には、親は遅刻することに対して罪悪感を感じ、その感情が遅刻を防いでいたのであろう、所が罰金が導入された後は、「時間をお金で買う」という取引の一種と考えるようになり、やましさを感じずに遅刻ができるようになったのではないかと説明している。(中略)つまり、制裁システムが導入されることで、社会規範やモラルによって規制されていた行動が市場での取引のように考えられてしまうのである。(後略)
いかがでしょうか?
罰則は内発的な規範意識を削ぐように働いてしまう。
それは金銭的な罰則には限らない。
例えば、世間的な同調圧力は一種の罰則のように機能する(事前に発効する罰則のようなもの)。
「旅の恥は掻き捨て」は、事前的な罰則としての「世間のチカラ」が及ばない領域における世間人の振る舞い(の傾向)を表している(と思われる)。
ウチにおいては世間的な道徳に従って振舞うが、一歩ソトに出れば傍若無人に振舞う。
これは「内発的動機付け」と「外発的動機付け」の違いとしても記述できるだろうが、それはまた後日。
コメント
答えを見に来ました。
おざわさん
確かに、罰の軽重は結構重要ですね。
軽い罰なら問題なら、回答の通りになりそうですが、重い罰なら守られるように思われますし。
問題設定が不十分でしたね。
ただ、現実的にはあんまり罰が重すぎると、園をやめる親も出てきそうですね。
僕の直観としては、遅刻をゼロにする罰は現実にはなさそうに思えます(根拠はないですが)。
ともあれ、コメント書き込みと興味深いサイトをご紹介いただきありがとうございます。
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うおー、外れてしまった!
そういえば、心理学者のゴードン博士が書いた「親業・ゴードン博士―自立心を育てるしつけ」という本に「罰が軽すぎると、子どもは、罰を受け入れる代わり、罰の対象となる行動をしてもよいと解釈する」と書いてあることを思い出しました。
しかし「罰が強すぎたり頻繁すぎると、子どもは、逃避傾向を示す」とも書いてありました。
罰の欠陥と危険性について、次のURLで本から引用しています。quine10さんはよく勉強をしていらっしゃるので、既にご存知かもしれませんが、もしかしたら面白いかもしれませんよ。
http://ronri2.web.fc2.com/data/oyagyo01.html