被害者参加制度
なんか、今日から始まったようですが。
正直言って知りませんでした(報道されてました?)。
自分の不明を恥じ入るばかりです(○激にもなかった)。
本日の読売の記事
裁判「被害者参加」きょう施行…被告への質問も可能に
全文引用します。
被害者参加制度スタート
被害者裁判参加制度
もご参考に。
これは5月から実施の裁判員制度とも無関係ではないだろう。
というより、大いに関係があると考えた方がよい。
僕は、日本社会にはファッショ的な要素が徐々に蔓延りつつあるように思えるのだが、この両者(被害者参加制度と裁判員制度)はその傾向に拍車をかけるように思えてならない。
「被害者の人権も考えろ」と言いたがる人(の一部)は、この制度を歓迎しているのかもしれない(というより、そういう人たちが率先してこの制度を導入しようとしているのだろう)。
しかし、ちょっと待ってほしい。
そもそも裁判(刑事裁判)とは何だろうか?
それは、ある人が犯罪を犯したかどうかを、公的(=社会的)に認定する、ということに他ならない(量刑はここでは問わない)。
で、ある行為を犯罪と認定するためには、ある行為を犯罪と規定する法律が必要である(罪刑法定主義)が、これもここではスルー。
(刑事)裁判は通常、犯罪行為はすでに行われており、それを行った人物(犯人)を特定する、という形でなされる(犯人探し)。
つまり、ある犯罪行為の主体として人物を特定する、ということだ。
そのためには必要なことは、その人物(または組織)と犯罪行為が、客観的な証拠により疑いなく関係づけられる(=その人物が犯罪行為を行ったと、客観的な証拠により合理的な疑いなく示される)、ということである。
特定の人物がその犯罪行為をなし得た、というだけでなく、その人物のみがその行為をなし得た(それ以外はなし得なかった)、ということが言えなければならない(複数犯も当然あり得る)。
つまり、必要十分条件を満たさなければならない。
さて、裁判所は国家権力でもある。
もちろん、捜査機関(警察や検察)もまた国家権力だ。
国家権力がその気になれば(その気にならなくても)、無辜の民を犯罪者に仕立て上げることくらいは容易い(数多の冤罪がそれを例証する)。
それを防ぐために、近代的な立憲国家では捜査機関と裁判所を相互に独立させ(司法の独立)、(少なくとも建前上は)推定無罪原則を旨とする。
推定無罪原則とは、犯罪を犯したと合理的な疑いなく示されるまでは、いかなる人間も犯罪者としては扱ってはならない、ということだ。
日本においては、近代国家では当然とされる推定無罪原則が踏みにじられている(代用監獄、密室での取り調べ)。
それは国家の扱いだけでなく、メディアにおける扱いについても言える(報道において、容疑者は実質的に犯罪者扱いである)。
そのような状況で、裁判員制度と被害者参加制度の合体がどうなるか、簡単にシミュレートしてみる。
人の好いおじちゃん、おばちゃんたち(=裁判員)の前で、犯罪被害者あるいは被害者家族が、涙ながらに犯罪によって自分(達)がいかにひどい思いをしてきたかを切々と訴える。
そうなれば、証拠を客観的に吟味して容疑者とされる人物が本当に犯罪を犯したのか(あるいは警察・検察が提示する証拠に合理的な疑いはないのか)を見極めるよりも、この目の前のかわいそうな被害者(家族)に対して自分が何かできないかと考えるのは自然である。
で、自分の立場は裁判員である。
裁判員にできることは、被告の有罪無罪を決めることと、有罪である場合の量刑を決めることである。
自分が無罪判決を下せば、この被害者(家族)は引き続き、変わらぬ苦しみを引きずることになる。
有罪の判決を下せば、苦しみは無くなりはしないが、軽減されるかもしれない(無念さが少しは和らぐかもしれない)。
そのような状況に立たされた時に、客観的な証拠の吟味を冷徹に行える人間は一体どれだけいるだろうか?(プロの裁判官であっても簡単なことではないだろう)
まして、目の前にいる人物は、(重大犯罪の場合はたいてい)警察発表を鵜呑みにしたメディアによってすっかり犯罪者扱いされているのだ。
まあ、ぶっちゃけて言えば現代の魔女裁判になる恐れが極めて高いと思う。
取り調べの可視化の導入も取り沙汰されるが、遅々として進まない。
捜査機関がやりたい放題(つまり違法捜査の歯止めがない状態)で、被害者(家族)が被害の悲惨さを切々と訴え、それを聞きながら法律の素人である裁判員が被告を裁く。
これで魔女裁判にならないと考える方がおかしいだろう。
裁判において、被害者(家族)の感情はシャットアウトしなければならない。
それは、決して被害者(家族)を無視するためではない。
先にも述べたように被害者(家族)の感情が裁判に入ってくると、証拠を客観的に吟味して判決を下すということが、極めて困難になるからだ(繰り返すが、プロの裁判官においても例外ではない)。
それでは、被害者(家族)は泣き寝入りするしかないのか?
そうではない。
しかし、裁判が被害者(家族)の救済とは別のロジックでなされる以上は、裁判と切り離された形でなされる「べき」なのだ。
具体的に言えば、犯人が見つかろうが見つかるまいが(特定の容疑者が有罪とされようが無罪とされようが)、国家による何らかの補償制度を確立すべきである。
日本において、犯罪被害者に対する補償が貧弱であるのは間違いないと思う。
それが、裁判から被害者がはじき出されているためだ、というのはすり替え以外の何物でもない。
たしかに、国家による補償制度が被害者(家族)を救済することはできないかもしれない。
しかし、裁判によって被害者(家族)を救済することもまたできないのだ。
ましてや、被害者(家族)の感情により裁判が歪められ、無辜の民が裁かれるようなことがあるとすれば(その恐れは十分にある)。
繰り返しになりますが、裁判は被告の有罪・無罪の判定に特化する「べき」であり、それは推定無罪原則に則るべきであり、である以上は裁判からは被害者感情を極力排するべきである。
本日の認知心理学講座はお休みです。
正直言って知りませんでした(報道されてました?)。
自分の不明を恥じ入るばかりです(○激にもなかった)。
本日の読売の記事
裁判「被害者参加」きょう施行…被告への質問も可能に
全文引用します。
犯罪被害者やその遺族が、刑事裁判で被告に質問したり、求刑の意見を述べたりできる「被害者参加制度」が1日から始まる。
殺人や傷害、強制わいせつ、自動車運転過失致死傷などの事件を対象に、同日以降に起訴された事件から適用される。約半年後には裁判員制度も始まり、日本の刑事裁判は大きな転換期を迎える。
新制度では、裁判所が参加を認めた被害者や遺族が、法廷で検察官の隣に座り、裁判所が許可した範囲で、被告に直接質問したり、情状に関することで証人尋問したりできるほか、検察官の求刑の後で、独自に求刑の意見を述べることができる。被害者側の弁護士も裁判に参加できることになり、経済的に余裕のない被害者のための国選弁護制度も始まる。
刑事裁判の有罪判決後、担当裁判官が、被害者側の損害賠償請求の申し立てについて審理する「損害賠償命令制度」も同時に施行される。
被害者参加制度スタート
被害者裁判参加制度
もご参考に。
これは5月から実施の裁判員制度とも無関係ではないだろう。
というより、大いに関係があると考えた方がよい。
僕は、日本社会にはファッショ的な要素が徐々に蔓延りつつあるように思えるのだが、この両者(被害者参加制度と裁判員制度)はその傾向に拍車をかけるように思えてならない。
「被害者の人権も考えろ」と言いたがる人(の一部)は、この制度を歓迎しているのかもしれない(というより、そういう人たちが率先してこの制度を導入しようとしているのだろう)。
しかし、ちょっと待ってほしい。
そもそも裁判(刑事裁判)とは何だろうか?
それは、ある人が犯罪を犯したかどうかを、公的(=社会的)に認定する、ということに他ならない(量刑はここでは問わない)。
で、ある行為を犯罪と認定するためには、ある行為を犯罪と規定する法律が必要である(罪刑法定主義)が、これもここではスルー。
(刑事)裁判は通常、犯罪行為はすでに行われており、それを行った人物(犯人)を特定する、という形でなされる(犯人探し)。
つまり、ある犯罪行為の主体として人物を特定する、ということだ。
そのためには必要なことは、その人物(または組織)と犯罪行為が、客観的な証拠により疑いなく関係づけられる(=その人物が犯罪行為を行ったと、客観的な証拠により合理的な疑いなく示される)、ということである。
特定の人物がその犯罪行為をなし得た、というだけでなく、その人物のみがその行為をなし得た(それ以外はなし得なかった)、ということが言えなければならない(複数犯も当然あり得る)。
つまり、必要十分条件を満たさなければならない。
さて、裁判所は国家権力でもある。
もちろん、捜査機関(警察や検察)もまた国家権力だ。
国家権力がその気になれば(その気にならなくても)、無辜の民を犯罪者に仕立て上げることくらいは容易い(数多の冤罪がそれを例証する)。
それを防ぐために、近代的な立憲国家では捜査機関と裁判所を相互に独立させ(司法の独立)、(少なくとも建前上は)推定無罪原則を旨とする。
推定無罪原則とは、犯罪を犯したと合理的な疑いなく示されるまでは、いかなる人間も犯罪者としては扱ってはならない、ということだ。
日本においては、近代国家では当然とされる推定無罪原則が踏みにじられている(代用監獄、密室での取り調べ)。
それは国家の扱いだけでなく、メディアにおける扱いについても言える(報道において、容疑者は実質的に犯罪者扱いである)。
そのような状況で、裁判員制度と被害者参加制度の合体がどうなるか、簡単にシミュレートしてみる。
人の好いおじちゃん、おばちゃんたち(=裁判員)の前で、犯罪被害者あるいは被害者家族が、涙ながらに犯罪によって自分(達)がいかにひどい思いをしてきたかを切々と訴える。
そうなれば、証拠を客観的に吟味して容疑者とされる人物が本当に犯罪を犯したのか(あるいは警察・検察が提示する証拠に合理的な疑いはないのか)を見極めるよりも、この目の前のかわいそうな被害者(家族)に対して自分が何かできないかと考えるのは自然である。
で、自分の立場は裁判員である。
裁判員にできることは、被告の有罪無罪を決めることと、有罪である場合の量刑を決めることである。
自分が無罪判決を下せば、この被害者(家族)は引き続き、変わらぬ苦しみを引きずることになる。
有罪の判決を下せば、苦しみは無くなりはしないが、軽減されるかもしれない(無念さが少しは和らぐかもしれない)。
そのような状況に立たされた時に、客観的な証拠の吟味を冷徹に行える人間は一体どれだけいるだろうか?(プロの裁判官であっても簡単なことではないだろう)
まして、目の前にいる人物は、(重大犯罪の場合はたいてい)警察発表を鵜呑みにしたメディアによってすっかり犯罪者扱いされているのだ。
まあ、ぶっちゃけて言えば現代の魔女裁判になる恐れが極めて高いと思う。
取り調べの可視化の導入も取り沙汰されるが、遅々として進まない。
捜査機関がやりたい放題(つまり違法捜査の歯止めがない状態)で、被害者(家族)が被害の悲惨さを切々と訴え、それを聞きながら法律の素人である裁判員が被告を裁く。
これで魔女裁判にならないと考える方がおかしいだろう。
裁判において、被害者(家族)の感情はシャットアウトしなければならない。
それは、決して被害者(家族)を無視するためではない。
先にも述べたように被害者(家族)の感情が裁判に入ってくると、証拠を客観的に吟味して判決を下すということが、極めて困難になるからだ(繰り返すが、プロの裁判官においても例外ではない)。
それでは、被害者(家族)は泣き寝入りするしかないのか?
そうではない。
しかし、裁判が被害者(家族)の救済とは別のロジックでなされる以上は、裁判と切り離された形でなされる「べき」なのだ。
具体的に言えば、犯人が見つかろうが見つかるまいが(特定の容疑者が有罪とされようが無罪とされようが)、国家による何らかの補償制度を確立すべきである。
日本において、犯罪被害者に対する補償が貧弱であるのは間違いないと思う。
それが、裁判から被害者がはじき出されているためだ、というのはすり替え以外の何物でもない。
たしかに、国家による補償制度が被害者(家族)を救済することはできないかもしれない。
しかし、裁判によって被害者(家族)を救済することもまたできないのだ。
ましてや、被害者(家族)の感情により裁判が歪められ、無辜の民が裁かれるようなことがあるとすれば(その恐れは十分にある)。
繰り返しになりますが、裁判は被告の有罪・無罪の判定に特化する「べき」であり、それは推定無罪原則に則るべきであり、である以上は裁判からは被害者感情を極力排するべきである。
本日の認知心理学講座はお休みです。
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