善意とパターナリズム 番外編(善意と心と主観)
えー、前回は善意とパターナリズムについて述べました。
善意とパターナリズムは似て(?)非なるものである、ということが示せたのではないかと思います。
で、今回は善意とパターナリズムという主題からはズレるものの、元検事の某氏とのやり取りで少し興味深かったところを掘り下げてみたい。
では、その部分を少し(?)編集して書き出してみます。
某氏の発言(「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」)をパターナリズム剥き出しの言説と僕(quine10)が決めつけたことに対して
某氏(以下某):「この人にとっては、助言は全てパターナリズムなんだろうな。」
quine10(以下q):「善意から発したものを除けば、パターナリズムと断じてよろしいかと…」
某:「なんだ、主観で区別するのか。善意からでないと決めつけてるし。」
q:「『多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う』が善意から発しているとでも?」
某:「いないとでも?」
q:「うん、それは断言できる!」
某:「なぜ?あなたは人の心が読めるのか?」
q:「貴方程度の単純なお方なら…」
と、とりあえずこんな感じで対話(?)は終了してしまったわけですが。
ま、今書き起こしても某氏を不快にさせたであろう僕の書き方もなかなかのものかもしれないな(自慢ではないが)。
某氏の、常に相手に立証させようとするテクニックは、議論を勝ち負けと捉えている人には参考になるかもしれないな(立証するのは大変だから)。
まぁ、それはさておき。
ここには某氏の善意に対する興味深い考え方が述べられている。
一つは「善意は主観の問題である」という考え方であり、もう一つは「善意は心の問題である」という見方である。
もっとも、「主観とは心の問題である」という世間一般にも受け入れられている(だろう)テーゼを前提にすれば、この二つの考え方は同一のものだと見做せるのだが…
さて、某氏の言い方からすれば、「善意とは心の問題であり、それは他者からはうかがい知れないものだ」と某氏が考えているだろうことを読み取るのはそれほど難しいことではないだろう。
というのも、某氏は「あなたは人の心が読めるのか?」と問うているからです。
これは質問というよりは、「人の心など読めるはずがない」という反語表現と見做すべきでありましょう。
「主観」という表現も同様でありましょう。
(通常「主観」の対義語とされる)「客観」とは「誰にとっても」ということを含意します。
それに対して「主観」とは「この私にとって」といことを含意します(それは「他者にはうかがい知れない」を含意するでしょう)。
さて、「心」や「主観」についての某氏の見方は、多くの人にとってはむしろ常識に属することかもしれません。
「『心』や『主観』はこの私のみがわかるものであり、他者からはうかがい知れないものなのだ」、というわけです。
しかし、「心」や「主観」が他者からうかがい知れないのだとしたら、私たちはなぜ石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていないと思うのでしょうか?(それともあなたは石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていると見做すでしょうか?)
フムフム、石ころや自転車やパソコンや新聞紙には、(「心」や「主観」を生み出すはずの)脳神経系がないからと?
それでは、脳神経系が「心」や「主観」を生み出すことをあなたはどのように証明するのか?
あるいは、あなたが「心」や「主観」を持っている(だろう)と見做す他者が、実際に脳神経系を有していることをあなたはいつ、どうやって確認したのか?
まぁ、こう畳み掛けられるとカチンとくるかもしませんが…
しかし、少なくとも「心」や「主観」を他者からうかがい知れない領域であると某氏のように見做すならば、これらの問いに答えることができなければならない。
上記の問いに答えることができないとすれば、私たちは「心」や「主観」が他者からはうかがい知れない領域である、という見方を捨てなければならない。
だとしたらどのように見做すべきか。
前回のエントリーで、善意と見做す根拠、あるいはパターナリズムと見做す根拠について簡単に述べました。
おさらいするなら、「多くの人」という誰だかわからない人を論拠とする意見は善意に基づくものではない。
あるいは、「利益」を示して他者の行為を誘導するのは善意に基づくものではないと。
つまりはこういうことです。
私たちは他者の目に見える様々な振る舞い(その多くは言語活動を伴う)から他者の心を類推するのであって、その逆ではない。
そしてこの場合の類推はもっと正確に言えば、構築である(私たちは他者の心を構築する)。
しかし私たちは、「心」から「行為」が生まれるという因果関係を、世間に流通する様々な言説から常識化しており、それゆえ行為は「(他者からはうかがい知れない)心」がなすものである、と見做してしまうのである(某氏の発言は、このような常識に某氏がどっぷりと浸かっていることを表している)。
もちろん、私たちが構築した「(他者の)心」が「正しい」かどうかはわからない。
しかしそのことは「私の心は私だけが知っている(他者からはうかがい知ることができない)」風の常識的な「心」の見方が正しいことを全く意味しないのだ。
そして、以上の考察は、「私の『心』に接近することについては、必ずしも私が特権を有するわけではない」、ということを帰結するだろう。
おそらく多くの人にとってこの帰結は心地よくないだろうことを僕は想像するのだが…
善意とパターナリズムは似て(?)非なるものである、ということが示せたのではないかと思います。
で、今回は善意とパターナリズムという主題からはズレるものの、元検事の某氏とのやり取りで少し興味深かったところを掘り下げてみたい。
では、その部分を少し(?)編集して書き出してみます。
某氏の発言(「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」)をパターナリズム剥き出しの言説と僕(quine10)が決めつけたことに対して
某氏(以下某):「この人にとっては、助言は全てパターナリズムなんだろうな。」
quine10(以下q):「善意から発したものを除けば、パターナリズムと断じてよろしいかと…」
某:「なんだ、主観で区別するのか。善意からでないと決めつけてるし。」
q:「『多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う』が善意から発しているとでも?」
某:「いないとでも?」
q:「うん、それは断言できる!」
某:「なぜ?あなたは人の心が読めるのか?」
q:「貴方程度の単純なお方なら…」
と、とりあえずこんな感じで対話(?)は終了してしまったわけですが。
ま、今書き起こしても某氏を不快にさせたであろう僕の書き方もなかなかのものかもしれないな(自慢ではないが)。
某氏の、常に相手に立証させようとするテクニックは、議論を勝ち負けと捉えている人には参考になるかもしれないな(立証するのは大変だから)。
まぁ、それはさておき。
ここには某氏の善意に対する興味深い考え方が述べられている。
一つは「善意は主観の問題である」という考え方であり、もう一つは「善意は心の問題である」という見方である。
もっとも、「主観とは心の問題である」という世間一般にも受け入れられている(だろう)テーゼを前提にすれば、この二つの考え方は同一のものだと見做せるのだが…
さて、某氏の言い方からすれば、「善意とは心の問題であり、それは他者からはうかがい知れないものだ」と某氏が考えているだろうことを読み取るのはそれほど難しいことではないだろう。
というのも、某氏は「あなたは人の心が読めるのか?」と問うているからです。
これは質問というよりは、「人の心など読めるはずがない」という反語表現と見做すべきでありましょう。
「主観」という表現も同様でありましょう。
(通常「主観」の対義語とされる)「客観」とは「誰にとっても」ということを含意します。
それに対して「主観」とは「この私にとって」といことを含意します(それは「他者にはうかがい知れない」を含意するでしょう)。
さて、「心」や「主観」についての某氏の見方は、多くの人にとってはむしろ常識に属することかもしれません。
「『心』や『主観』はこの私のみがわかるものであり、他者からはうかがい知れないものなのだ」、というわけです。
しかし、「心」や「主観」が他者からうかがい知れないのだとしたら、私たちはなぜ石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていないと思うのでしょうか?(それともあなたは石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていると見做すでしょうか?)
フムフム、石ころや自転車やパソコンや新聞紙には、(「心」や「主観」を生み出すはずの)脳神経系がないからと?
それでは、脳神経系が「心」や「主観」を生み出すことをあなたはどのように証明するのか?
あるいは、あなたが「心」や「主観」を持っている(だろう)と見做す他者が、実際に脳神経系を有していることをあなたはいつ、どうやって確認したのか?
まぁ、こう畳み掛けられるとカチンとくるかもしませんが…
しかし、少なくとも「心」や「主観」を他者からうかがい知れない領域であると某氏のように見做すならば、これらの問いに答えることができなければならない。
上記の問いに答えることができないとすれば、私たちは「心」や「主観」が他者からはうかがい知れない領域である、という見方を捨てなければならない。
だとしたらどのように見做すべきか。
前回のエントリーで、善意と見做す根拠、あるいはパターナリズムと見做す根拠について簡単に述べました。
おさらいするなら、「多くの人」という誰だかわからない人を論拠とする意見は善意に基づくものではない。
あるいは、「利益」を示して他者の行為を誘導するのは善意に基づくものではないと。
つまりはこういうことです。
私たちは他者の目に見える様々な振る舞い(その多くは言語活動を伴う)から他者の心を類推するのであって、その逆ではない。
そしてこの場合の類推はもっと正確に言えば、構築である(私たちは他者の心を構築する)。
しかし私たちは、「心」から「行為」が生まれるという因果関係を、世間に流通する様々な言説から常識化しており、それゆえ行為は「(他者からはうかがい知れない)心」がなすものである、と見做してしまうのである(某氏の発言は、このような常識に某氏がどっぷりと浸かっていることを表している)。
もちろん、私たちが構築した「(他者の)心」が「正しい」かどうかはわからない。
しかしそのことは「私の心は私だけが知っている(他者からはうかがい知ることができない)」風の常識的な「心」の見方が正しいことを全く意味しないのだ。
そして、以上の考察は、「私の『心』に接近することについては、必ずしも私が特権を有するわけではない」、ということを帰結するだろう。
おそらく多くの人にとってこの帰結は心地よくないだろうことを僕は想像するのだが…
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