いじめと道徳と倫理について 2(共同体と道徳、そのただならぬ関係)
小沢新党の党名は『国民の生活が第一』になりましたね。
シンプルでわかりやすくとてもいいと思います。
あとは、それが打ち出す政策が党名を体現するものであるかどうかを、支持者がしっかり監視していかなければならないでしょうね。
それにしても…
予想通りと言えば予想通りですが、大手メディア(=記者クラブメディア)の新党ができる前からのネガキャンは怒りを通り越してあきれるばかりですね。
「世論調査では小沢新党は期待されてない!」とリキんでいるのですが、本当に期待されていないのならほっときゃいいのに、これで『国民の生活が第一』が有権者の注目を浴びて支持が上向くなら、大手メディアは新党の宣伝をしたようなもので目も当てられませんね。
それはさておき。
話題が古くなってしまう前に、いじめと道徳と倫理についての考察を進めたい。
前回のエントリーでは、俗説にありがちな、『いじめは心の問題であるから、道徳教育によって心をよくすればいじめはなくなるのだ』的なノー天気さに疑問を投げかけておきました。
本エントリーは、そこに踏み込む前に道徳と共同体の関係を、できるだけロジカルに論じてみたい。
とりあえずはおさらいをしておきます。
道徳とは共同体的価値を体現するために、(共同体に属する)人々の行為に枠を嵌める言説でありました(具体的には○○すべし、××すべからずという風に)。
そして共同体的な価値は、多くの人が(その価値を体現すべく)道徳的に振る舞うことによって実体性(実在性)を帯びるものでありました。
共同体的な価値が実在性を帯びるということは、(そのような価値を有する)共同体が実在性を帯びることに他なりません。
こうして道徳的な振る舞いの共有と共同体の実在性とは相即的な関係にあります。
ところで、共同体はそれ自体では自らの存在を証明できません。
言い換えれば、共同体なるものが存在するためには、それには属さないものが必要であります。
ソシュール的なものいいで言えば、ある概念が存在するための条件は、それと異なる概念の存在になります(「言語は差異の体系である」というテーゼはその事態を端的に表しています)。
ところで、共同体に属さないものには二種類のものが考えられます。
一つは共同体の外部にあって、その共同体的な価値を共有しない存在(第一の意味での共同体外的存在とする)。
もう一つは共同体の内部にあると思われつつも(勝手にそう思っているだけだが)、その共同体的な価値を共有しない存在(これを第二の意味での共同体外的存在とする、いうなればトリックスター的存在)。
さて、共同体が(より正確には共同体的価値を自明視する人間が)忌み嫌うのは、二番目の共同体外的存在であります。
というのも、第一のものはそもそも共同体とは独立したであり、その存在自体は共同体を脅かさないからです(もちろん、それが共同体に脅威を与える場合は別)。
第二のものは、共同体の内部にあると思われつつも、その共同体的価値を自明視しない存在です(そのような存在が多数になれば、もはや共同体は共同体として成立し得ません)。
それゆえ共同体的なものを後生大事にしたい人々は、第二の意味での共同体外的な存在を許さないでしょう(そのような個体へ攻撃的に接するでしょう)。
ところで、先に述べたように、共同体の成立には共同体外的なものの存在が不可欠でありました。
そして第一の意味での共同体外的存在は、それ自体では共同体の価値とは無関係であるがゆえに、共同体は第二の意味での共同体外的存在を必要とするわけです。
自らの存在のために必要とするにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、共同体はトリックスター的存在に敵意を向けざるを得ないわけです。
そして、トリックスター的存在への敵意は、共同体全体で向ける必要があります(それが共同体は確固としたものとする)。
戦前の日本社会の「非国民」という言葉ほど、この事態を端的に表す言葉も珍しいでしょう。
天皇を頂点にいただく共同体としての日本をでっち上げるためには、(そのような価値を自明視しない)「非国民」がどうしても要請されるわけです。
そして「非国民」の非道徳性が強調されれば強調されるほど、「まっとうな私たち」の道徳性が強固としたものとなるわけです(実際はそんなわけはないのだが)。
これは倒錯以外の何物でもないわけですが、このような倒錯を可能とするのが、共同体と道徳のセットなわけです。
ところで、前にも述べましたが、共同体的なもの(例えば道徳)をどれだけ自明視するかは全く個人的なことに属します。
しかしながら、共同体的なものを自明視することが多い社会で、共同体的な価値を全く無視して振る舞うこともまた困難でしょう。
そしてその困難さはまさに、その共同体的な価値の強度(どの程度の人が共同体的価値に基づいて振る舞っているか)に依存するわけです。
さてここで問題が生じます。
共同体的な価値に基づいて振る舞っている人々の間でも、その価値をどれほど自明視しているかに関しては濃淡があるでしょう。
つまり、完全に共同体的な価値を自明視している(が故に、心からその価値を重視している)人から、共同体的な価値に対してはそれほど自明視していない(懐疑・批判的な視点を有する)が、大勢の人が価値を共有しているように見えるが故に、外見的には価値を重視しているように振る舞う人まで。
つまり、多くの共同体的な価値基づいてに振る舞っているように見えたとしても、可能性としては多くの人が共同体的な価値を自明視しているものから(多くの共同体主義者の願望はこれである)、ほとんど誰も共同体的な価値を自明視していない(=懐疑的である)にもかかわらず多くの人が道徳的に振る舞っているがゆえに自らも同様に振る舞うものまで。
論点が拡散してきたのでここで一旦まとめます(これまでのエントリーも含めて)。
1.道徳は共同体的な価値を体現するための言説である
2.逆に共同体は道徳的言説(が多くの成員によって共有される)によって実在性を帯びる
3.成員が道徳的に振る舞うのは、それが体現する共同体的価値を自明視するからとは限らない(単に多くの人が道徳的に振る舞っているからかもしれない)
4.しかし、個々の成員が共同体的価値を自明視するかどうかとはかかわりなく、多くの人が同様に振る舞えば、道徳は無視できない存在となる(実在性を帯びる)
5.である以上、道徳は「みんなと同様に」という点に力点を有する
6.そしてこの場合の「みんな」が構成するのが共同体に他ならない
7.共同体は「みんな」と同様に振る舞わない個人(トリックスター)を必要とする(無理にでも作り出す)
8.そしてトリックスターに対する憎悪とも呼べる感情が、共同体を確固としたものとする
さて、いじめと道徳の関係に踏み込めるのか?
シンプルでわかりやすくとてもいいと思います。
あとは、それが打ち出す政策が党名を体現するものであるかどうかを、支持者がしっかり監視していかなければならないでしょうね。
それにしても…
予想通りと言えば予想通りですが、大手メディア(=記者クラブメディア)の新党ができる前からのネガキャンは怒りを通り越してあきれるばかりですね。
「世論調査では小沢新党は期待されてない!」とリキんでいるのですが、本当に期待されていないのならほっときゃいいのに、これで『国民の生活が第一』が有権者の注目を浴びて支持が上向くなら、大手メディアは新党の宣伝をしたようなもので目も当てられませんね。
それはさておき。
話題が古くなってしまう前に、いじめと道徳と倫理についての考察を進めたい。
前回のエントリーでは、俗説にありがちな、『いじめは心の問題であるから、道徳教育によって心をよくすればいじめはなくなるのだ』的なノー天気さに疑問を投げかけておきました。
本エントリーは、そこに踏み込む前に道徳と共同体の関係を、できるだけロジカルに論じてみたい。
とりあえずはおさらいをしておきます。
道徳とは共同体的価値を体現するために、(共同体に属する)人々の行為に枠を嵌める言説でありました(具体的には○○すべし、××すべからずという風に)。
そして共同体的な価値は、多くの人が(その価値を体現すべく)道徳的に振る舞うことによって実体性(実在性)を帯びるものでありました。
共同体的な価値が実在性を帯びるということは、(そのような価値を有する)共同体が実在性を帯びることに他なりません。
こうして道徳的な振る舞いの共有と共同体の実在性とは相即的な関係にあります。
ところで、共同体はそれ自体では自らの存在を証明できません。
言い換えれば、共同体なるものが存在するためには、それには属さないものが必要であります。
ソシュール的なものいいで言えば、ある概念が存在するための条件は、それと異なる概念の存在になります(「言語は差異の体系である」というテーゼはその事態を端的に表しています)。
ところで、共同体に属さないものには二種類のものが考えられます。
一つは共同体の外部にあって、その共同体的な価値を共有しない存在(第一の意味での共同体外的存在とする)。
もう一つは共同体の内部にあると思われつつも(勝手にそう思っているだけだが)、その共同体的な価値を共有しない存在(これを第二の意味での共同体外的存在とする、いうなればトリックスター的存在)。
さて、共同体が(より正確には共同体的価値を自明視する人間が)忌み嫌うのは、二番目の共同体外的存在であります。
というのも、第一のものはそもそも共同体とは独立したであり、その存在自体は共同体を脅かさないからです(もちろん、それが共同体に脅威を与える場合は別)。
第二のものは、共同体の内部にあると思われつつも、その共同体的価値を自明視しない存在です(そのような存在が多数になれば、もはや共同体は共同体として成立し得ません)。
それゆえ共同体的なものを後生大事にしたい人々は、第二の意味での共同体外的な存在を許さないでしょう(そのような個体へ攻撃的に接するでしょう)。
ところで、先に述べたように、共同体の成立には共同体外的なものの存在が不可欠でありました。
そして第一の意味での共同体外的存在は、それ自体では共同体の価値とは無関係であるがゆえに、共同体は第二の意味での共同体外的存在を必要とするわけです。
自らの存在のために必要とするにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、共同体はトリックスター的存在に敵意を向けざるを得ないわけです。
そして、トリックスター的存在への敵意は、共同体全体で向ける必要があります(それが共同体は確固としたものとする)。
戦前の日本社会の「非国民」という言葉ほど、この事態を端的に表す言葉も珍しいでしょう。
天皇を頂点にいただく共同体としての日本をでっち上げるためには、(そのような価値を自明視しない)「非国民」がどうしても要請されるわけです。
そして「非国民」の非道徳性が強調されれば強調されるほど、「まっとうな私たち」の道徳性が強固としたものとなるわけです(実際はそんなわけはないのだが)。
これは倒錯以外の何物でもないわけですが、このような倒錯を可能とするのが、共同体と道徳のセットなわけです。
ところで、前にも述べましたが、共同体的なもの(例えば道徳)をどれだけ自明視するかは全く個人的なことに属します。
しかしながら、共同体的なものを自明視することが多い社会で、共同体的な価値を全く無視して振る舞うこともまた困難でしょう。
そしてその困難さはまさに、その共同体的な価値の強度(どの程度の人が共同体的価値に基づいて振る舞っているか)に依存するわけです。
さてここで問題が生じます。
共同体的な価値に基づいて振る舞っている人々の間でも、その価値をどれほど自明視しているかに関しては濃淡があるでしょう。
つまり、完全に共同体的な価値を自明視している(が故に、心からその価値を重視している)人から、共同体的な価値に対してはそれほど自明視していない(懐疑・批判的な視点を有する)が、大勢の人が価値を共有しているように見えるが故に、外見的には価値を重視しているように振る舞う人まで。
つまり、多くの共同体的な価値基づいてに振る舞っているように見えたとしても、可能性としては多くの人が共同体的な価値を自明視しているものから(多くの共同体主義者の願望はこれである)、ほとんど誰も共同体的な価値を自明視していない(=懐疑的である)にもかかわらず多くの人が道徳的に振る舞っているがゆえに自らも同様に振る舞うものまで。
論点が拡散してきたのでここで一旦まとめます(これまでのエントリーも含めて)。
1.道徳は共同体的な価値を体現するための言説である
2.逆に共同体は道徳的言説(が多くの成員によって共有される)によって実在性を帯びる
3.成員が道徳的に振る舞うのは、それが体現する共同体的価値を自明視するからとは限らない(単に多くの人が道徳的に振る舞っているからかもしれない)
4.しかし、個々の成員が共同体的価値を自明視するかどうかとはかかわりなく、多くの人が同様に振る舞えば、道徳は無視できない存在となる(実在性を帯びる)
5.である以上、道徳は「みんなと同様に」という点に力点を有する
6.そしてこの場合の「みんな」が構成するのが共同体に他ならない
7.共同体は「みんな」と同様に振る舞わない個人(トリックスター)を必要とする(無理にでも作り出す)
8.そしてトリックスターに対する憎悪とも呼べる感情が、共同体を確固としたものとする
さて、いじめと道徳の関係に踏み込めるのか?
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