倫理と共同体について(共同体への反発としての倫理)
いよいよ税と社会保障一体改革の採決?
官僚の主導する翼賛体制が成立するのか?
はたまた国民の生活を第一に考える政治家主導の政権が成立するのか?
政局から目が離せなくなりつつあるようですが…
僕はそのような政局からは遠く離れたところでブログエントリーを書くことにしよう。
このような時代だからこそ、遠い将来を見据えた志向が重要だと信じるがゆえに。
唐突に本題へ。
先日倫理について書きました。
僕なりの定義によれば、
倫理とは自ら確立した行為規準(ないし行為指針)のことでありました。
つまりは、自らの行為規準を確立していない個人は、(僕流の定義によれば)いまだ倫理的たり得ないわけであります。
まぁ、それはそれとして。
上記のように倫理を定義したばあ、それが含意するところを少し述べようと思う。
さて、「倫理」が「自ら確立した行為規準」である以上、人生という時間軸を考えれば、それは決して完成したものたり得ない、ということがまずは帰結するでしょう。
なぜなら、もし倫理というものが初めに自らの行為規準を確立した時点で完成しているものだとしたら、その人間にはそれ以降の成長というものが決して見られないだろうからです。
私たちが日々成長しているのだとしたら(そう思いたい)、それは私たちの行為の成長の現れであり、つまりはそれは私たちの行為規準(=倫理)の成長の現れに他ならないでしょう。
言い換えるなら…
私たちは日々試行錯誤をしながら、生活を送っています。
そしてその試行錯誤の結果、私たち(個人としても社会としても)の成長/進歩があるわけです(試行錯誤以外に成長/進歩をもたらすものはない、といった方がよい)。
それは当然のことながら、行為規準としての倫理にも当てはまります(倫理にのみ当てはまらない、という理屈もないゆえ)。
私たちは、もし一人一人が自らの行為規準としての倫理を持っているとすれば、私たちは日々試行錯誤しながら倫理を発展させているに違いありません。
では、その倫理は初めはどのように成立し得るでありましょうか?
恐らくは倫理的なるものの萌芽は、自我というものに目覚める思春期に見られるでしょう。
しかし、思春期に目覚めたばかりの未成熟な自我には、とても成熟した行為規準など確立できるはずもございません。
自我が未成熟である以上、そこから成立する倫理もまた未成熟である他ありません。
すでに大人になっているだろう皆さんも、思春期のころを振り返れば、自らの青っちろさに眩暈を覚えるのではないでしょうか?
大人社会の薄汚さに吐き気を覚え、純粋な正義感に燃えたあの頃…
しかしそうやって、大人社会に反発して確立した青っちろいものであったとしても、それが自ら確立したものである以上は倫理と呼ぶべきものです。
こうして、倫理の萌芽は、恐らくは大人社会(共同体)への反発(反動)として成立するでしょう。
つまり、共同体は倫理の成立の時点ではネガティブな要素の方が大きいと考えられるでしょう。
しかし、人間が共同で生活を送る存在である以上、私たちの倫理は共同体に反発するだけであるとしたなら、深刻な齟齬をきたすでしょう。
では、私たちはいかに倫理を共同体的なるものと折り合わせるのか?あるいは折り合わせないのか?
そのあたりを次は考察してみたい。
官僚の主導する翼賛体制が成立するのか?
はたまた国民の生活を第一に考える政治家主導の政権が成立するのか?
政局から目が離せなくなりつつあるようですが…
僕はそのような政局からは遠く離れたところでブログエントリーを書くことにしよう。
このような時代だからこそ、遠い将来を見据えた志向が重要だと信じるがゆえに。
唐突に本題へ。
先日倫理について書きました。
僕なりの定義によれば、
倫理とは自ら確立した行為規準(ないし行為指針)のことでありました。
つまりは、自らの行為規準を確立していない個人は、(僕流の定義によれば)いまだ倫理的たり得ないわけであります。
まぁ、それはそれとして。
上記のように倫理を定義したばあ、それが含意するところを少し述べようと思う。
さて、「倫理」が「自ら確立した行為規準」である以上、人生という時間軸を考えれば、それは決して完成したものたり得ない、ということがまずは帰結するでしょう。
なぜなら、もし倫理というものが初めに自らの行為規準を確立した時点で完成しているものだとしたら、その人間にはそれ以降の成長というものが決して見られないだろうからです。
私たちが日々成長しているのだとしたら(そう思いたい)、それは私たちの行為の成長の現れであり、つまりはそれは私たちの行為規準(=倫理)の成長の現れに他ならないでしょう。
言い換えるなら…
私たちは日々試行錯誤をしながら、生活を送っています。
そしてその試行錯誤の結果、私たち(個人としても社会としても)の成長/進歩があるわけです(試行錯誤以外に成長/進歩をもたらすものはない、といった方がよい)。
それは当然のことながら、行為規準としての倫理にも当てはまります(倫理にのみ当てはまらない、という理屈もないゆえ)。
私たちは、もし一人一人が自らの行為規準としての倫理を持っているとすれば、私たちは日々試行錯誤しながら倫理を発展させているに違いありません。
では、その倫理は初めはどのように成立し得るでありましょうか?
恐らくは倫理的なるものの萌芽は、自我というものに目覚める思春期に見られるでしょう。
しかし、思春期に目覚めたばかりの未成熟な自我には、とても成熟した行為規準など確立できるはずもございません。
自我が未成熟である以上、そこから成立する倫理もまた未成熟である他ありません。
すでに大人になっているだろう皆さんも、思春期のころを振り返れば、自らの青っちろさに眩暈を覚えるのではないでしょうか?
大人社会の薄汚さに吐き気を覚え、純粋な正義感に燃えたあの頃…
しかしそうやって、大人社会に反発して確立した青っちろいものであったとしても、それが自ら確立したものである以上は倫理と呼ぶべきものです。
こうして、倫理の萌芽は、恐らくは大人社会(共同体)への反発(反動)として成立するでしょう。
つまり、共同体は倫理の成立の時点ではネガティブな要素の方が大きいと考えられるでしょう。
しかし、人間が共同で生活を送る存在である以上、私たちの倫理は共同体に反発するだけであるとしたなら、深刻な齟齬をきたすでしょう。
では、私たちはいかに倫理を共同体的なるものと折り合わせるのか?あるいは折り合わせないのか?
そのあたりを次は考察してみたい。
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