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2011-09

教育と権力

社会の効果的な再生産のためには教育は不可欠である。
この論考では、教育とは「社会に存在する様々な無形財産(知識や思考様式)を、次世代に伝えていく営み」と広く定義しておく。
民主主義社会(日本も一応含めておく)においては、民主的な作法を教育することが不可欠である。
というのも、民主主義とは社会の成員一人ひとりが社会の意思決定プロセス(すなわち「政治」)に参加することを保障する政治制度であり、従って民主主義社会は、社会の成員一人ひとりが民主的作法を身につけることなしには成立しがたいからだ。
したがって、教育が社会の再生産に不可欠であるとするなら、民主主義社会にとって何より重要なことは、次世代の社会を担う子供たちに民主的作法を身につけさせることであるはずだ。
逆に言えば、将来社会の意思決定に関与する(=主権者たる)子供たちに民主的作法を身につけさせることを疎かにするなら、そのような社会は民主主義社会とは到底言えない。
そして、現在の日本社会は、子供たちに民主的作法を身につけさせることを、悲しいほどに重視していない(よって、実質的には日本を民主主義社会と呼ぶことは適切ではないと思う)。


少しわき道に逸れてしまいましたが。
上記のように教育を定義した場合、教育には不可避的に権力作用が入り込んでしまう。
というのも、知識を教え込むことも、思考様式を身につけさせることも、子供たちをある種の型に嵌めることを不可避に伴ってしまうからだ(この型に嵌める行為は、権力作用そのものである)。
(もう一つの権力作用は、子供たちに教える知識や思考様式の選択に関わっている)


注意すべきは、この権力作用は、その動機に関わらず行使されてしまう、ということだ。
つまり、子供たちのためを思って、という(善なる)動機は、教育において行使される権力作用を些かも減じることはない。
むしろ事態は逆であり、善なる動機は非常にしばしば権力の行使に対する歯止めをなくしてしまう。
権力の暴走は大抵、善なる動機(ないしは正義感)に発すると見て間違いはない(だろう)。
権力欲を隠蔽するために善なる動機をでっち上げることもあり得るから事態は錯綜するわけだが…
自分が正義の側にある、と信じ込んでいる人間にとって権力の行使を抑制することは難しい(その人物が権力を行使する立場にいるのなら)。


しかし、教育に不可避に権力作用が伴うから教育を止めるべし、とは当然ならない。
冒頭に述べたように、社会の効果的な再生産には教育が不可欠だからだ。
だからと言って、「教育に権力作用が伴うのは避けようがない」と居直るのもまた権力の暴走の温床になる(自らの権力行使に居直る人間も、当然のことながら権力行使を抑制しようとは思わないだろう)。
とすれば、でき得ることは、教育に権力作用が不可避に伴うことを自覚しつつ、暴走しない形で権力作用に歯止めをかけることでしかないだろう。


これは大抵の人には居心地が悪く感じられるだろう。


というのも、教育に携わる人(広い定義ではほとんど全ての人)は、自らの教育を善なる動機に発するものと考え、権力とは無縁と思いたいからだ。
しかし、繰り替えすが、そのような願望は教育の権力作用を些かも減じることはない。


権力の行使を抑止する動機は、自らの振る舞い(例えば教育)に権力作用が伴うことを自覚することでしか発しない(もちろん、権力行使の自覚は権力抑止の動機を保障はしないが)。
である以上、上記の居心地の悪さとは生涯付き合っていく以外にない。
居心地の悪さを忘れたとき(動機の善性への疑いを忘れたとき、あるいは権力行使に居直るとき)教育に伴う権力の暴走が始まるだろう。
それは教育の危機であると同時に、社会の危機でもある。
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