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2011-03

妬み(というより感情一般)について

っていうか、twitterってスゴい!
何がスゴイって、フォロワーの多い人と少しやり取りしただけで、ブログアクセス数鰻上り、みたいな…
こうなったら、有名人に片っ端から絡んでみるか、と邪な考えを抱く今日この頃。


ま、前置きはこれくらいにして。


昨日はタイトルにつけながら殆ど触れなかった妬み。
本日は少し(?)述べてみたいと思う。


前置きとして、昨日述べた某心理学者とのやり取りを簡単に振り返っておこう。
以下やり取りの大雑把な(=不正確な)再現


quine10(以下q):妬みの存在を否定するのは難しいよね

某心理学者(以下某):というより、ないことを証明することはできない。存在の妥当性を検討するできるだけ(ここやや不正確かも)。

q:妬みの存在を言うには、その認知の一般条件に言及しなければならない(だったかな?)。

某:そうは思わない。

一部スキップ

q:ここはこだわりたいのですが、感情の存在について、その一般的条件に言及することなく云々することはできるか?

某:勝手にこだわりなさい。

q:じゃあ、こだわってみます。


先に述べたように、正確さには欠きますのでご了承ください(僕の都合のよいように編集されている恐れあります)。
あと、妬みという感情に焦点化されているのですが、僕の狙いとしては感情一般の存在について、というところがありました(そこが焦点化されなかったのはちょっと残念でした)。


さて、僕のこだわりは、端的に言うと次のようになります。


私たちが他者の感情を認知するのはいかにしてか?


私たちは当たり前のように、「あの人あんなことで怒っちゃって」とか「あいつがあんなに悲しむのは意外だよな」とか「そんなことで妬むなんてみっともないよ」という風に、他者の感情を(その他者になんらの確認をすることなく)云々する。
しかし一方で私たちは、(自らの感情を指摘されたときに)「オレは全然怒ってないよ」とか「私は悲しんじゃいないよ」とか「自分は妬んでなどいない」という風に、自らの感情に言及する。


ここにはある種の捩れがあるように思われる。


つまり、「私たちは(他者の)感情については観察によって云々することができる」という立場と、「私たちは自分の感情は自分が一番よく分かる(自分の感情について何か言えるのは自分だけである)」という立場の間の揺れ動きである。


さて、僕自身も二つの立場のいずれも「心情的には」理解できるが、しかし、私たちが社会関係においてお互いの感情を理解するようになる、という観点からも後者の立場、すなわち「私たちは自分の感情は自分が一番よく分かる」という立場は拒否せざるを得ない、と結論します。


ということで、「私たちは他者の感情を観察によって云々できる」として、一体感情をどのように捉えればよいのか?
過去エントリーで同様のテーマについて述べてきたと思いますが、再度考えてみたい。

to be continued
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