国家の実体化(あるいは国家を巡る言語ゲーム)について
えー、先日のエントリー(鳩山首相の苦悩 沖縄の絶望)は、我ながら国家主義的な言説を内包していたように思う。
一部取り出してみますと・・・
自分としては、(ナショナリズムに象徴される)国家を実体化して主体性を持たせる言説(=国家主義的言説)をできるだけとらないように(というか、むしろそのような物言いを解体するように)努めてきたつもりなのに・・・
その反省も込めて(?)、本エントリーでは国家を実体化させる言語ゲームのありようを記述することを試みたい。
私たちは、様々の仕方で国あるいは国家(例えば日本)を語る。
言い換えれば、国あるいは国家を巡る様々な言語ゲームがある(日々そこここで、それらの言語ゲームが繰り広げられている)。
国あるいは国家を巡る様々の言語ゲームの中には、私たちの生活と密接に関わるような言語ゲームも含まれる。
「私たちは国に税金を払っている」
「私たちの投票した政治家が国の運営に関わっている」
「この国道(国立大学、国立病院)は国がつくったのだ」
etc・・・
このような語りが、私たちの日常と国あるいは国家を自然に結びつける。
私たちの日常は生き生きとした実感を伴っている。
上記のような様々な語りによって、私たちの(生き生きとした)日常と結び付けられた国あるいは国家もまた、自明な存在として現れる。
こうして実体化された国あるいは国家が、さらなる私たちの語り(言語ゲーム)の前提となる(国あるいは国家の存在を前提とした語りを語り始める)。
個人的には、国あるいは国家を実体化(自明化)する、最も象徴的(でありながら、おそらく多くの人がその自覚を有さない)キーワードが「国益」であると考えている。
「国益」とは、文字通り「国家の利益」と考えられるだろう。
例えば、「○○は国益に叶う(から○○すべし)」と言われる。
もちろん、本当に○○が「国益」に叶うかどうかは検証の余地があるだろう(「国益」なるものが有意味として)。
しかし、仮に「○○が国益に叶う」とするならば、○○という選択肢を選ばないことは難しい。
こうして、一旦「国益(すなわち国家の利益)」なるものを受け入れれば、その利益の受益者たる「国家」の存在もまた受け入れざるを得ない。
とするなら、自分を国民(の一人)と規定する人間が、国益(国家の利益)を受け入れないことは難しい。
こうして、一旦「国益」(という言葉)を受け入れるならば、利益を受け取る「国家」の存在、そして「国家」を構成する国民の一人である自分が、一つのつながりとして現れてくることになる(自分の利益と全く関わらないと考えるなら、私たちは一体どうして「国益」なるものを志向するだろうか?)。
少し「国益」という言葉に拘りすぎているのかもしれませんが・・・
私たちの身の回りには、国あるいは国家を実体化する様々な言語ゲームに溢れている。
というより、言語ゲーム抜きに、国あるいは国家の実体化はあり得ない。
だとしたら、国家主義的言説に陥ることなく、国や国家を語ることはできるだろうか?
国家主義的言説は、国あるいは国家を主語とする語りである。
上記のようなメカニズムにより、国あるいは国家が実体視されれば、国あるいは国家が主語となること(行為の主体となること)もまた自明となる。
しかし、国あるいは国家なる一枚岩の存在があるわけでもない。
そこには、様々の利益を巡って、異なるプレイヤーが関わっている。
それをできる限り明らかにしつつ語ること。
それが国家主義的言説を回避する一つの指針だろう(と同時に国家主義的言説を一つ一つ脱構築することもまた必要だろう)。
一部取り出してみますと・・・
そしてこれは、日本を植民地扱いするアメリカの縮小再生産に他ならない(沖縄を植民地扱いする日本)。
自分としては、(ナショナリズムに象徴される)国家を実体化して主体性を持たせる言説(=国家主義的言説)をできるだけとらないように(というか、むしろそのような物言いを解体するように)努めてきたつもりなのに・・・
その反省も込めて(?)、本エントリーでは国家を実体化させる言語ゲームのありようを記述することを試みたい。
私たちは、様々の仕方で国あるいは国家(例えば日本)を語る。
言い換えれば、国あるいは国家を巡る様々な言語ゲームがある(日々そこここで、それらの言語ゲームが繰り広げられている)。
国あるいは国家を巡る様々の言語ゲームの中には、私たちの生活と密接に関わるような言語ゲームも含まれる。
「私たちは国に税金を払っている」
「私たちの投票した政治家が国の運営に関わっている」
「この国道(国立大学、国立病院)は国がつくったのだ」
etc・・・
このような語りが、私たちの日常と国あるいは国家を自然に結びつける。
私たちの日常は生き生きとした実感を伴っている。
上記のような様々な語りによって、私たちの(生き生きとした)日常と結び付けられた国あるいは国家もまた、自明な存在として現れる。
こうして実体化された国あるいは国家が、さらなる私たちの語り(言語ゲーム)の前提となる(国あるいは国家の存在を前提とした語りを語り始める)。
個人的には、国あるいは国家を実体化(自明化)する、最も象徴的(でありながら、おそらく多くの人がその自覚を有さない)キーワードが「国益」であると考えている。
「国益」とは、文字通り「国家の利益」と考えられるだろう。
例えば、「○○は国益に叶う(から○○すべし)」と言われる。
もちろん、本当に○○が「国益」に叶うかどうかは検証の余地があるだろう(「国益」なるものが有意味として)。
しかし、仮に「○○が国益に叶う」とするならば、○○という選択肢を選ばないことは難しい。
こうして、一旦「国益(すなわち国家の利益)」なるものを受け入れれば、その利益の受益者たる「国家」の存在もまた受け入れざるを得ない。
とするなら、自分を国民(の一人)と規定する人間が、国益(国家の利益)を受け入れないことは難しい。
こうして、一旦「国益」(という言葉)を受け入れるならば、利益を受け取る「国家」の存在、そして「国家」を構成する国民の一人である自分が、一つのつながりとして現れてくることになる(自分の利益と全く関わらないと考えるなら、私たちは一体どうして「国益」なるものを志向するだろうか?)。
少し「国益」という言葉に拘りすぎているのかもしれませんが・・・
私たちの身の回りには、国あるいは国家を実体化する様々な言語ゲームに溢れている。
というより、言語ゲーム抜きに、国あるいは国家の実体化はあり得ない。
だとしたら、国家主義的言説に陥ることなく、国や国家を語ることはできるだろうか?
国家主義的言説は、国あるいは国家を主語とする語りである。
上記のようなメカニズムにより、国あるいは国家が実体視されれば、国あるいは国家が主語となること(行為の主体となること)もまた自明となる。
しかし、国あるいは国家なる一枚岩の存在があるわけでもない。
そこには、様々の利益を巡って、異なるプレイヤーが関わっている。
それをできる限り明らかにしつつ語ること。
それが国家主義的言説を回避する一つの指針だろう(と同時に国家主義的言説を一つ一つ脱構築することもまた必要だろう)。
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