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2009-12

感情について 言語ゲーム的観点から(7) (言語)ゲームとしての感覚・感情(2)

またもや1週間も更新をサボってしまいました(ま、いまさらって感じではありますが)。
年の瀬ってことで(それほど多忙なわけでもないのですが…)。

まぁ、それはそれとして。

さて、前回のエントリーでは、感覚のゲーム性を「痛み」を例に挙げて説明してみました。
簡単に述べますと、「痛み」と表現し得る刺激を受けた人の振る舞い(「イタッ」と言う、顔をしかめる、刺激を受けた部位をさする)と、その周りの人の振る舞い(「痛いよね」と声をかける、同情する顔をする、刺激を受けた部位をさすってあげる)が、総体として「痛み」という感覚(のゲーム)を構成する、という話でした。

少し捕捉と言いますか。
「痒み」は「痛み」よりも、より身体性に根ざした感覚と呼べるかもしれません。
と言いますのも、赤ん坊ですら、(誰から教わるともなく)「痒み」にたいして掻くという振る舞いを行うからです。
しかし、それでも成長の過程で「痒い」と他者に向かって発語することを学びますし、痒がっている人に対して「痒いね」と声かけすることを学ぶわけで、ゲーム性を免れているわけでもありません(身体性に根ざしたゲームと、ある程度身体性から自由なゲームのスペクトルは当然存在すると思われます)。

さて、では本題へ入る前に簡単におさらい。

観念論とは、経験を観念(感覚やイメージ、想起)の連合として捉える思想的枠組みであり(ロック、バークリ、カント辺り?)、主客二元論(世界は主観と客観からなる)を前提としていました。
そして、観念論のリアリティとは、観念の生々しさにありましたが、その生々しさゆえに(?)容易に独我論(あるいは他我問題)というエアポケットに陥ったのでした。
独我論からどのように脱出するか?
その方法が言語ゲームというアイデアでした(というより、私的言語の不可能性から、言語を操る主体の複数性、すなわち言語ゲームへと至ったわけです)。


さて、では感覚のゲーム性が明らかとなった時、観念の生々しさは、言語ゲームにどのように位置づけられることになるでしょうか?


通常ゲームにおけるルールでは、人称性は剥奪されている。
言い換えれば、誰が主体となろうとも、普遍的に適用されるのがルールのルールたるゆえんのはずである(もちろん、ルールには例外がある、というのもまたルールの一般的な性質ではあるが…)。
しかし、感覚のゲームは、どう見ても「感じる私」に特権があるように思われる。
この捻じれをどう捉えるか?

しかし、ヴィトゲンシュタイン的に言えば、ここには壮大なる勘違いがある(と言える)。
確かに、私は「痛み」に対して、特権的な位置にいるように思われる。
しかし、これは単に「痛み」に対する接近の仕方が私と他者では異なる、ということでしかない。
その接近の違いが、「痛み」(さらに言えば感覚一般)の文法なのだ。

痛みに対する接近の仕方が、「私」と「他者」で異なる、ということが、すべての「私」について言えるならば、このルール(接近の仕方の違い)は十分に普遍的ルールたり得ます。
ついでに付け加えるなら、私見によれば、この感覚への接近の仕方の違いが、自己と他者の分化の根拠となります(逆に言えば、この違いがなければ、自己と他者の分化は起こり得ない)。


こうして、私が特権を有しているように思われる、「この私の痛み」も普遍的なルールの中に解消できたと思われます(多分)。


一つ考えられそうな疑問(?)を取り上げておきましょう。
私たちは痛みを感じ、それに対する(私と他者の)接近の違いを利用し(?)、「痛いふり(本当は痛みなど感じていないのに、感じているかのように振る舞う)」をすることがあります。
これは先の感覚のゲームとどのように整合するだろうか?
こういう疑問があり得ます。


それに対しては、「痛みのふり」もまた、「痛み」というゲームを前提とした上での新たなゲームなのだ、と示唆しておきます。


関連して。
「痛みのふり」と「痛み」では、実際の感覚に違いがある(「痛みのふり」では実際には痛みを感じていない)。
しかし、他者はそれを見通すことはできない(つまり、「痛み」のゲームと「痛みのふり」のゲームの違いを他者は指摘できない)。である以上、それはゲームとは言えないのではないか?
言い方を変えれば、「痛み」のゲームと「痛みのふり」のゲームの違いが、私には厳然と区別できるが、他者には永遠にできない(である以上、私と他者のゲームは違うはずだ)。
こういう反論もあり得ます。

それに対しては、その違いもまた、私と他者を入れ替えることで万人に適応し得る(つまり、その違いをルールとして
記述し得る)、と述べておきます。

言い換えれば、(私と他者の)感覚への接近の違いは、(私の)認識論的特権性を何ら意味しない、ということです(それは完全にルールとして記述し得る)。
僭越ですが、僕の見るところ、この違いを認識できていない哲学者が少なからず見受けられるように思われます(ずいぶん回りくどい言い方ですが)。

ということで、「感覚」のゲーム性については以上です。
次は、より複雑に見える「感情」のゲーム性について概観し、いよいよ本題の小飼弾氏のエントリーを取り上げます。

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