感情について 言語ゲーム的観点から(3) 観念論の隘路
えー、本日は観念論の隘路というテーマでお送りしたいと思います。
では、簡単におさらい。
観念論とは、私たちの(主観的)経験を観念(の連合)として捉える考え方、と言っていいでしょう。
観念とは、イメージや感覚、想起(記憶)などでした。
例えば、「痛み」は鈍器で殴られたり、刃物で切った時に主観に生じる感覚(観念)、として捉えられますし、あるいは、感情(怒り、悲しみ、信頼、不安など)とは特定の関係(主に人間関係)で主観に生じる感覚(観念)と考えられます。
そして、痛みや感情に関する限りは、観念論に大きな問題はないように思われます(むしろジョーシキに属すると考えられるでしょう)。
しかし、これらを観念で押し切ろうとすると、深刻な問題が生じてしまいます。
取り敢えず、ここまでがおさらいです。
さて、ではいったいどういった問題が生じるというのでしょうか?
今、あなたの目の前にはパソコンがあるはずです(もしくは携帯?)。
そのパソコンは、あなたの網膜に映った(その結果脳内で処理された)パソコンのイメージと考えられます。
つまり、目の前のパソコンはパソコンの観念というわけです。
ひょっとしたら、ここまではそれほど違和感なく受け入れられるかもしれません(特に神経学的な知識を有している人ならなおさら)。
あるいは、「いや、パソコンの手触りはあるし、重さもズッシリある。単なるイメージではなく、実体があるのだ。」と反論されるかもしれません。
それに対して、「いえいえ、パソコンの手触りは脳神経内で作り出されたイメージに過ぎませんし、重さも同様です。確かに実体としてのパソコンが存在する、ということをあなたは証明できないのですよ。」、との反論をあなたはどう捉えるでしょうか?
ひょっとしたら、まだここまでは納得できるかもしれません。
しかし、次のように畳みかけられたらどうでしょう?
「あなたが日々お腹を空かせるのも、脳内イメージ(観念)に過ぎないし、食事をとるのも、食事を取ったという脳内イメージ(観念)に過ぎない。その結果満腹感を得るのも脳内イメージ(観念)である。仕事に出かけるのも脳内イメージなら、恋人とのデートも脳内イメージだし、結婚式も、結婚生活も、夫婦げんかも、出産も、子供の入学・入園・卒業も…。こうして、あなたの人生は実はあなたの脳内イメージ(観念)で完結しているのです。それどころか、世界そのものがあなたの脳内イメージに過ぎないのです!」
いかがでしょうか?
さすがに、人生が全て脳内で完結している(あるいは、世界は私の脳内イメージに過ぎない)、という結論には反対するでしょう。
しかし、です。
先の「パソコンとは、私の脳神経内で構成されたパソコンのイメージである」と、「私の人生は、私の脳神経内で構成されている」には、論理的な飛躍はない(はず)です。
それどころか、「痛みは、私たちが感じる感覚である」というジョーシキとすら、論理的な断絶はない(はずな)のです。
あるいは、あなたはこう反論されるかもしれません。
「いや、私は(イメージではなく)実際に食事を取らなければ、早々に死んでいるはずである。しかるに私は生きている。それゆえ、私は実際に食事をとったはずだし、とすれば世界は確かに存在するのだ」と。
それに対しては、次のように反論しましょう。
「わかりました。本当のことを申しましょう。申し上げにくいのですが、あなたは培養液の中に浮かんだ脳神経の塊なのです。その神経の末端が電極と繋がれており、随時電気刺激が流されています。その刺激で、あなたは時に空腹を感じ、その空腹が食事で満たされ、恋人と楽しい時を過ごし、結婚して子供に恵まれ、時に夫婦げんかをしているのです。しかしそれもすべて、(脳神経と繋がれた)電極の刺激によって生じた脳内イメージなのです。」
さあ、あなたはどのように反論されるでしょうか?
これは哲学的には独我論(世界は私一人で完結する)と呼ばれる問題です。
あるいは、他我問題も独我論の一バリエーションとして考えられます。
他我問題とは、他者の心の存在をどのように私たちは知り得るのか?という問題です(これは、さらに「他者の心の存在を知り得ないとしたら、他者には心がない、と断じてよいか?」という問題とも繋がります)。
上ではかなりデフォルメした形で描きましたが、しかし観念論は論理必然的に独我論をもたらします。
で、先日も述べたように、観念論は近代的な主客二元論(世界は主観と客観からなる)を前提としており、認識論(主観と客観の一致ないし対応を論じる哲学の一分野)の一部に観念論は含まれると考えられます。
したがって、認識論的な考え方はほぼ必然的に独我論をもたらし、かつ独我論を否定することは困難に思われます。
だとすれば、私たちには主客二元論を維持して独我論を抱え込むか、主客二元論を破棄して別の方途を探るか、いずれかの選択を迫られていると思われます。
で、僕自身は後者を選択するわけですが、その方途が言語ゲーム論になるわけです。
では、いよいよ言語ゲーム論による観念論批判、および小飼弾氏のブログエントリー批判へと(すなわち本題へと)突入していこうと思います。
この辺りの問題意識を扱った野矢茂樹氏の『哲学の謎』を、参考図書として一押ししておきます。
全然難解ではありませんが、哲学の謎が全く損なわれずに提示されております。
では、簡単におさらい。
観念論とは、私たちの(主観的)経験を観念(の連合)として捉える考え方、と言っていいでしょう。
観念とは、イメージや感覚、想起(記憶)などでした。
例えば、「痛み」は鈍器で殴られたり、刃物で切った時に主観に生じる感覚(観念)、として捉えられますし、あるいは、感情(怒り、悲しみ、信頼、不安など)とは特定の関係(主に人間関係)で主観に生じる感覚(観念)と考えられます。
そして、痛みや感情に関する限りは、観念論に大きな問題はないように思われます(むしろジョーシキに属すると考えられるでしょう)。
しかし、これらを観念で押し切ろうとすると、深刻な問題が生じてしまいます。
取り敢えず、ここまでがおさらいです。
さて、ではいったいどういった問題が生じるというのでしょうか?
今、あなたの目の前にはパソコンがあるはずです(もしくは携帯?)。
そのパソコンは、あなたの網膜に映った(その結果脳内で処理された)パソコンのイメージと考えられます。
つまり、目の前のパソコンはパソコンの観念というわけです。
ひょっとしたら、ここまではそれほど違和感なく受け入れられるかもしれません(特に神経学的な知識を有している人ならなおさら)。
あるいは、「いや、パソコンの手触りはあるし、重さもズッシリある。単なるイメージではなく、実体があるのだ。」と反論されるかもしれません。
それに対して、「いえいえ、パソコンの手触りは脳神経内で作り出されたイメージに過ぎませんし、重さも同様です。確かに実体としてのパソコンが存在する、ということをあなたは証明できないのですよ。」、との反論をあなたはどう捉えるでしょうか?
ひょっとしたら、まだここまでは納得できるかもしれません。
しかし、次のように畳みかけられたらどうでしょう?
「あなたが日々お腹を空かせるのも、脳内イメージ(観念)に過ぎないし、食事をとるのも、食事を取ったという脳内イメージ(観念)に過ぎない。その結果満腹感を得るのも脳内イメージ(観念)である。仕事に出かけるのも脳内イメージなら、恋人とのデートも脳内イメージだし、結婚式も、結婚生活も、夫婦げんかも、出産も、子供の入学・入園・卒業も…。こうして、あなたの人生は実はあなたの脳内イメージ(観念)で完結しているのです。それどころか、世界そのものがあなたの脳内イメージに過ぎないのです!」
いかがでしょうか?
さすがに、人生が全て脳内で完結している(あるいは、世界は私の脳内イメージに過ぎない)、という結論には反対するでしょう。
しかし、です。
先の「パソコンとは、私の脳神経内で構成されたパソコンのイメージである」と、「私の人生は、私の脳神経内で構成されている」には、論理的な飛躍はない(はず)です。
それどころか、「痛みは、私たちが感じる感覚である」というジョーシキとすら、論理的な断絶はない(はずな)のです。
あるいは、あなたはこう反論されるかもしれません。
「いや、私は(イメージではなく)実際に食事を取らなければ、早々に死んでいるはずである。しかるに私は生きている。それゆえ、私は実際に食事をとったはずだし、とすれば世界は確かに存在するのだ」と。
それに対しては、次のように反論しましょう。
「わかりました。本当のことを申しましょう。申し上げにくいのですが、あなたは培養液の中に浮かんだ脳神経の塊なのです。その神経の末端が電極と繋がれており、随時電気刺激が流されています。その刺激で、あなたは時に空腹を感じ、その空腹が食事で満たされ、恋人と楽しい時を過ごし、結婚して子供に恵まれ、時に夫婦げんかをしているのです。しかしそれもすべて、(脳神経と繋がれた)電極の刺激によって生じた脳内イメージなのです。」
さあ、あなたはどのように反論されるでしょうか?
これは哲学的には独我論(世界は私一人で完結する)と呼ばれる問題です。
あるいは、他我問題も独我論の一バリエーションとして考えられます。
他我問題とは、他者の心の存在をどのように私たちは知り得るのか?という問題です(これは、さらに「他者の心の存在を知り得ないとしたら、他者には心がない、と断じてよいか?」という問題とも繋がります)。
上ではかなりデフォルメした形で描きましたが、しかし観念論は論理必然的に独我論をもたらします。
で、先日も述べたように、観念論は近代的な主客二元論(世界は主観と客観からなる)を前提としており、認識論(主観と客観の一致ないし対応を論じる哲学の一分野)の一部に観念論は含まれると考えられます。
したがって、認識論的な考え方はほぼ必然的に独我論をもたらし、かつ独我論を否定することは困難に思われます。
だとすれば、私たちには主客二元論を維持して独我論を抱え込むか、主客二元論を破棄して別の方途を探るか、いずれかの選択を迫られていると思われます。
で、僕自身は後者を選択するわけですが、その方途が言語ゲーム論になるわけです。
では、いよいよ言語ゲーム論による観念論批判、および小飼弾氏のブログエントリー批判へと(すなわち本題へと)突入していこうと思います。
この辺りの問題意識を扱った野矢茂樹氏の『哲学の謎』を、参考図書として一押ししておきます。
全然難解ではありませんが、哲学の謎が全く損なわれずに提示されております。
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