あの
生きてました。
ダメっすねぇ、一旦休むと休み癖がついちゃって。
リハビリを兼ねてボチボチやっていきます。
ところで、選挙も終わって10日も過ぎて今更、という感はありますが。
当ブログでも多少は政治的な話もしてきて、今回の政権交代についての感慨もあります。
国民の手で悪政に終止符を打った、今回の総選挙の結果を個人的には嬉しく思います(無血革命と呼ぶに相応しい、と思う)。
しかしいかんせん、自公の悪政によって日本社会はすでにかなりガタがきており、立て直すのは容易ではない(と思う)。
その立て直しまで、国民の辛抱が持つかどうか(あまり性急な結果を求めすぎてもいけないような気がする)。
もちろん、大勝に気が緩まないように、国民がしっかり監視していく必要があるだろうが、新政権は郵政選挙圧勝後の自公政権の末路を間近に見てきただけに、向こう数年間は大丈夫だと思う(しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのもまた人間の悲しいサガではある)。
新政権への注文も色々あるが、個人的には脱官僚(より正確には官僚主導から政治主導)を推し進めてもらいたいものだ。
そのために僕が提言したいのは、天下りや渡りの禁止ももちろんだが、キャリア制度の廃止である。
公的機関、それも国家の中枢機関である官庁において、キャリア/ノンキャリアという形で明らかな身分制度を放置しているのは異常だと思う。
幅広く優秀な人材を登用する、という観点からもキャリア組からだけ幹部を選ぶ、という現在のキャリア制度は不合理以外の何物でもない。
というか、このような制度が、キャリアの小役人どもに、「官僚=国民に奉仕する公僕」ではなく、「官僚=国民に指示・命令するお偉い役人」という勘違いを植え付けるのだろう。
ということで、キャリア制度の廃止、をなにとぞよろしくお願いします(もちろん、天下り全廃も)。
総選挙の総括、というほど大げさではないのですが、ここ10年ほどの政治のあり方から僕なりに教訓を得たいと思う。
小泉氏の前任者、公称(?)キングメーカーの森首相は、麻生氏を上回る(?)低支持率に喘いでいた(選任時のいかがわしさもあったかもしれないが、純粋に政治家の資質の問題だと思う)。
その「サメの脳みそ」森元首相が、首相辞任後も自民党のキングメーカー(?)として君臨してきた事実に、自民党のダメっぷりが凝縮されていると言えよう(自らの組織運営すらまともにできない人たちに、どうやって国民生活をよくすることができるだろうか?)。
そして、自民党支持が急落したところに、「自民党をぶっ壊す」と颯爽と(?)登場したのがかの小泉純一郎氏であった。
今思えば、改革の旗手として各種メディアが持ち上げたのが、強固な地盤に支えられた世襲三代目の小泉氏であったのも皮肉と言えば皮肉である(引退後は息子に禅譲)。
話は変わるが、日本の政治報道のあり方を考えてみたい。
日本の政治報道は政局に偏っている、とよく言われる(し、実際その通りだと思う)。
しかし、それは日本の政治のあり方と密接に関わっている(と思う)。
それを少し述べてみたい。
戦後の日本政治を牛耳ってきたのが自民党だった。
自民党における政治は、派閥による「疑似政権交代」によって、民主主義における(真の)政権交代を代替していた(と言われる)。
しかし、疑似政権交代は、所詮は「疑似」でしかなかった。
その意味は、どの派閥が優位に立とうと、結局のところ自民党が政権にあるという事態には変わりないし、その限りで政策の違いとして現れにくい、ということだ(政治生命をかけて政策の優位性を主張する意義に乏しい)。
政権に居座ることを前提に、権力闘争ごっこをしているに過ぎなかったわけだ(敗れても政権を外れるわけではない)。
従って、自民党が政権にある限り、日本における政治報道が派閥間の駆け引き(すなわち政局)に傾きがち(というかそれしかなかった)のは必然と言えるかもしれない。
その意味で、小泉政権の誕生も、所詮は政局の範囲内の出来事であった(自民党というコップの中の嵐に過ぎなかった)。
そして、今から振り返ってみれば、本来なら下野するはずだった自民党を生きながらえさせたのは、歴史の皮肉だった(ように思う)。
というのも、あの時に下野していれば、ひょっとしたら自民の再生もあり得たかもしれないからだ(公明党との連立も解消しただろうし)。
しかし、あの時、国民の多くは小泉氏(自民党)を支持した(僕もその例外ではなかったかも?)。
「自民党的なるものを否定するために、自民党を支持する」、矛盾に満ちたこのレトリックに国民が飛
びついたのは、メディアによる熱狂ゆえにか、民主党の頼りなさゆえか、日本社会の未熟性ゆえか…
その小泉政権も、所詮は自民党政権(連立ではあるが)でしかなかったわけで(しかもより劣化した)。
疑似政権交代(派閥持ち回り)は(真の)政権交代ではあり得ない、これが小泉政権誕生から得るべき教訓だろう。
民主党政権も、当面はさておいても長期政権になれば必ず腐敗する。
10年後を見据えて、政権交代ができる勢力を育て挙げなければならないだろう(民主党内にではなく)。
そして、その勢力は僕の独断では自民党ではあり得ない。
今回の総選挙で残った面々を眺めても、選挙後のドタバタ喜劇っぷりを見ても、自民党はもはや政党としての体裁をなしていないわけで(烏合の衆)、政権に返り咲くことは二度とないと僕は思う(自民党再生を夢見る人々に対してどうこう言うつもりはないが)。
そんな中で、麻生氏、安倍氏、小泉氏の三氏が盤石の強さを見せたことは、自民党のお笑いネトウヨ政党への脱皮(?)を心から願う僕としては頼もしい限りである(皮肉)。
冗談はさておき。
真の政権交代がなされた現在においても、相も変わらず政局に傾いた報道ばかりであるのも、自民党単独政権時代の名残なのかもしれない(ある意味では止むを得ないのかもしれない)。
しかし、そのような政局主体の報道は、やがて視聴者・購読者から見放されるのではないだろうか?
というのも、コップの中の嵐(政局)は、面白くはあるかもしれないが、所詮は国民の生活とは直接の関わりを持たないからだ(政治は、それによって国民生活に変化をもたらすことで、初めて意味を持つ)。
日本において、政策や理念を重視した語りが少しずつ社会に広がっていくことを願いたい(それが日本の政治的成熟のバロメーターとなるだろう)。
そのためにも、新政権によるメディア改革(記者クラブ開放、独立行政委員会の設置、クロスオーナーシップ規制など)を望みたい。
ということで、選挙前後の雑感をとりあえずまとめて、復活(?)のエントリーを〆たい。
今後は(どの程度の更新頻度になるかはわかりませんが)、少し政治的な話は控えめにして、ブログタイトルを裏切らず思索を巡らせていきたい。
ダメっすねぇ、一旦休むと休み癖がついちゃって。
リハビリを兼ねてボチボチやっていきます。
ところで、選挙も終わって10日も過ぎて今更、という感はありますが。
当ブログでも多少は政治的な話もしてきて、今回の政権交代についての感慨もあります。
国民の手で悪政に終止符を打った、今回の総選挙の結果を個人的には嬉しく思います(無血革命と呼ぶに相応しい、と思う)。
しかしいかんせん、自公の悪政によって日本社会はすでにかなりガタがきており、立て直すのは容易ではない(と思う)。
その立て直しまで、国民の辛抱が持つかどうか(あまり性急な結果を求めすぎてもいけないような気がする)。
もちろん、大勝に気が緩まないように、国民がしっかり監視していく必要があるだろうが、新政権は郵政選挙圧勝後の自公政権の末路を間近に見てきただけに、向こう数年間は大丈夫だと思う(しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのもまた人間の悲しいサガではある)。
新政権への注文も色々あるが、個人的には脱官僚(より正確には官僚主導から政治主導)を推し進めてもらいたいものだ。
そのために僕が提言したいのは、天下りや渡りの禁止ももちろんだが、キャリア制度の廃止である。
公的機関、それも国家の中枢機関である官庁において、キャリア/ノンキャリアという形で明らかな身分制度を放置しているのは異常だと思う。
幅広く優秀な人材を登用する、という観点からもキャリア組からだけ幹部を選ぶ、という現在のキャリア制度は不合理以外の何物でもない。
というか、このような制度が、キャリアの小役人どもに、「官僚=国民に奉仕する公僕」ではなく、「官僚=国民に指示・命令するお偉い役人」という勘違いを植え付けるのだろう。
ということで、キャリア制度の廃止、をなにとぞよろしくお願いします(もちろん、天下り全廃も)。
総選挙の総括、というほど大げさではないのですが、ここ10年ほどの政治のあり方から僕なりに教訓を得たいと思う。
小泉氏の前任者、公称(?)キングメーカーの森首相は、麻生氏を上回る(?)低支持率に喘いでいた(選任時のいかがわしさもあったかもしれないが、純粋に政治家の資質の問題だと思う)。
その「サメの脳みそ」森元首相が、首相辞任後も自民党のキングメーカー(?)として君臨してきた事実に、自民党のダメっぷりが凝縮されていると言えよう(自らの組織運営すらまともにできない人たちに、どうやって国民生活をよくすることができるだろうか?)。
そして、自民党支持が急落したところに、「自民党をぶっ壊す」と颯爽と(?)登場したのがかの小泉純一郎氏であった。
今思えば、改革の旗手として各種メディアが持ち上げたのが、強固な地盤に支えられた世襲三代目の小泉氏であったのも皮肉と言えば皮肉である(引退後は息子に禅譲)。
話は変わるが、日本の政治報道のあり方を考えてみたい。
日本の政治報道は政局に偏っている、とよく言われる(し、実際その通りだと思う)。
しかし、それは日本の政治のあり方と密接に関わっている(と思う)。
それを少し述べてみたい。
戦後の日本政治を牛耳ってきたのが自民党だった。
自民党における政治は、派閥による「疑似政権交代」によって、民主主義における(真の)政権交代を代替していた(と言われる)。
しかし、疑似政権交代は、所詮は「疑似」でしかなかった。
その意味は、どの派閥が優位に立とうと、結局のところ自民党が政権にあるという事態には変わりないし、その限りで政策の違いとして現れにくい、ということだ(政治生命をかけて政策の優位性を主張する意義に乏しい)。
政権に居座ることを前提に、権力闘争ごっこをしているに過ぎなかったわけだ(敗れても政権を外れるわけではない)。
従って、自民党が政権にある限り、日本における政治報道が派閥間の駆け引き(すなわち政局)に傾きがち(というかそれしかなかった)のは必然と言えるかもしれない。
その意味で、小泉政権の誕生も、所詮は政局の範囲内の出来事であった(自民党というコップの中の嵐に過ぎなかった)。
そして、今から振り返ってみれば、本来なら下野するはずだった自民党を生きながらえさせたのは、歴史の皮肉だった(ように思う)。
というのも、あの時に下野していれば、ひょっとしたら自民の再生もあり得たかもしれないからだ(公明党との連立も解消しただろうし)。
しかし、あの時、国民の多くは小泉氏(自民党)を支持した(僕もその例外ではなかったかも?)。
「自民党的なるものを否定するために、自民党を支持する」、矛盾に満ちたこのレトリックに国民が飛
びついたのは、メディアによる熱狂ゆえにか、民主党の頼りなさゆえか、日本社会の未熟性ゆえか…
その小泉政権も、所詮は自民党政権(連立ではあるが)でしかなかったわけで(しかもより劣化した)。
疑似政権交代(派閥持ち回り)は(真の)政権交代ではあり得ない、これが小泉政権誕生から得るべき教訓だろう。
民主党政権も、当面はさておいても長期政権になれば必ず腐敗する。
10年後を見据えて、政権交代ができる勢力を育て挙げなければならないだろう(民主党内にではなく)。
そして、その勢力は僕の独断では自民党ではあり得ない。
今回の総選挙で残った面々を眺めても、選挙後のドタバタ喜劇っぷりを見ても、自民党はもはや政党としての体裁をなしていないわけで(烏合の衆)、政権に返り咲くことは二度とないと僕は思う(自民党再生を夢見る人々に対してどうこう言うつもりはないが)。
そんな中で、麻生氏、安倍氏、小泉氏の三氏が盤石の強さを見せたことは、自民党のお笑いネトウヨ政党への脱皮(?)を心から願う僕としては頼もしい限りである(皮肉)。
冗談はさておき。
真の政権交代がなされた現在においても、相も変わらず政局に傾いた報道ばかりであるのも、自民党単独政権時代の名残なのかもしれない(ある意味では止むを得ないのかもしれない)。
しかし、そのような政局主体の報道は、やがて視聴者・購読者から見放されるのではないだろうか?
というのも、コップの中の嵐(政局)は、面白くはあるかもしれないが、所詮は国民の生活とは直接の関わりを持たないからだ(政治は、それによって国民生活に変化をもたらすことで、初めて意味を持つ)。
日本において、政策や理念を重視した語りが少しずつ社会に広がっていくことを願いたい(それが日本の政治的成熟のバロメーターとなるだろう)。
そのためにも、新政権によるメディア改革(記者クラブ開放、独立行政委員会の設置、クロスオーナーシップ規制など)を望みたい。
ということで、選挙前後の雑感をとりあえずまとめて、復活(?)のエントリーを〆たい。
今後は(どの程度の更新頻度になるかはわかりませんが)、少し政治的な話は控えめにして、ブログタイトルを裏切らず思索を巡らせていきたい。
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