静岡県知事選雑感 民主主義と希望など
本日は政局だ。
先日の静岡県知事選の結果ですが、保守王国(らしい)の静岡県で、かつ実質的な民主分裂選挙で自公推薦の候補者が敗れる、という事実もさることながら、投票率の高さ(45%→60%と、15%アップ)から市民の政権交代への揺るぎない意思を感じ取るのは僕だけではないはずだ(多分)。
ま、自公の負けを認めたくない人は、「国政と地方選挙は別だ!」と言い張るのでしょうが…
しかもこの間、某県知事騒動と鳩山代表でメディアジャックしていた(一方で、より悪質な与謝野氏の件スルーであった)にもかかわらず、だ。
つまり、客観的に見れば政権交代の情勢はもはや動かしようがない(ように僕には思える)。
民主党(を含む野党連合)が策を弄する必要はないし、自公は策を弄すれば弄するほど逆効果(貧すれば鈍する)、というのもまた明らかになったと思われる。
ま、自民の党内政局がウザいので、都議選が終わったころに内閣不信任案を出す、というのは一興だろう。
さて、ここで悪徳ペンタゴン(by 植草氏)の一角である、政と官と電(メディア)の出方に少し違いが出てきそうに思われる。
政(自公)は、どのみち野に下ることが確定的であれば、どれほど見苦しくても最後まであがき続けるだろう(それがさらに人心を離反させることを知ってか知らずか…)。
ま、自公のような反民主的政党は、早めに壊滅したほうが日本のためなので、別にそれを止めさせようとは思いませんが(毒を食らわば皿まで、でお願いします)。
電(メディア)も実質的には政(自公)と同様の心境だろう。
どれだけ民主党(を含む野党連合)に尻尾振ったところで、記者クラブ開放(に伴う既得権の喪失)は避けがたい。
となれば、どれほど無駄と知りつつも、現政権に媚を売り続けるのだろう(それが人心をさらに離反させることを知ってか知らずか…)。
というか、権力に媚を売る時点で、メディア(ジャーナリズム)としてはアウト(存在価値なし)なんですけどね(それすら分からないメディアは、逝ってよし、でしょうか)。
ところが、官は政・電とは微妙に立場を異にする。
つまり、政権交代をしても、官僚は官僚の立場を離れるわけではないのだ。
大多数(全て?)の官僚たちは、民主党(を含む野党連合)に政権交代したとして、その政権に引き続き仕えるわけだ。
したがって、(政権交代後の)新政権でより有利なポジションにつきたければ(ほとんどの官僚がそう思うだろう)、(政権交代が確実と見えれば)早めに野党連合に媚を売ったほうがよい(そういうインセンティブが働きやすい)。
まぁ、「自公の政策じゃなきゃ絶対に支持できない」と考えている官僚がもしいるとすれば、政権交代と同時に辞表を提出するだろう(そのような気概を持った官僚がいるとは、僕にはとても思えないのだが)。
つまり、「日本国民の幸福よりも自分の保身第一」の官僚は、悪徳ペンタゴン没落チキンレースからいち早く抜け出すインセンティブを有しているわけだ。
そう考えると、鳩山氏の問題で検察の動きが鈍いのも分かるような…(考えすぎかも?)
検察といえども官僚であり、政権交代すれば民主党議員達は、(間接的な)上司に当たるわけだ(議院内閣制の本義からすれば)。
まぁ、与野党同等の(=公正な)捜査・逮捕がなされているならまだしも、将来上司になることがほぼ確定的な民主党(しかも党代表)だけを狙い撃ちするような露骨な捜査・逮捕は今後難しくなるだろう(天下り先をがっちり確保できる人間は別かもしれませんが…)。
漆間官房副長官の、「自民党には捜査が及ばない」という言質があるから、与謝野氏の捜査には及びがたいのかもしれませんが、与謝野氏スルーの鳩山氏狙い撃ちはさすがに露骨過ぎてできないように思われるが…
ところでその与謝野氏ですが、静岡県知事選の結果を受けて、次のようにのたまったようですね(閣僚は都議選応援を=静岡知事選敗北に危機感−麻生首相より)。
いやぁ、ここまで「自分第一」を表明してくれると、却ってスガスガしいわ(んなわきゃないが)
一応突っ込んでおくと…
「アンタは自分の運命を心配する前に、大臣室で仲良く写真を撮った社長さんから、迂回献金をたんまりもらったことをしっかり説明して頂戴」ってところかな?
ほとんど説明らしい説明をしていない与謝野氏がこうやって大っぴらに発言できるのも、やっぱり漆間氏の上の言質(「自民党には捜査が及ばない」)が効いているのかなぁ?
さて、政局からやや離れてと。
日本人(に限らないのかもしれないが)はよく、「選挙に行っても政治は変わらない」という。
それは、市民社会の未発達ゆえの、市民の責任感の欠如でもある。
まぁ、自力で民主主義を勝ち取ったわけではない日本人にとっては、そのように考えるのもやむを得ないのかもしれないが。
しかし、2007年の参議院選から始まって、横須賀市長選、静岡県知事選などを見ると、「選挙でひょっとしたら政治は変わるかも?」という期待感が芽生えているようにも思われる。
そして、社会を動かすのはこの期待感に他ならない。
「期待感が(投票)行動を促し、それが現実を変え、更なる(投票)行動を促す」という具合に、ポジティブフィードバックが働いているように思われる(それが民主主義社会の希望の一形態だろう)。
よくよく考えれば期待感などはアテにはならないのだが、しかし民主主義はその期待感に基づいている(オバマを誕生させたのも、その期待感に他ならない)。
だからこそ、その期待感を失望に変えないように、政権は公約を実行する必要がある(し、市民はそれを監視する責任を有する)。
「政権交代をすれば万々歳というわけではないが、政権交代がなければ何も始まらない」
民主主義社会に住む以上は、この民主主義のアタリマエを皆が自覚する必要があるだろう(ここ最近の動きはやっとそのアタリマエが定着してきた証なのかもしれない)。
これは、民主主義社会にとっては希望だと思われるが、そこに閉塞感を感じる御仁もいるらしい。
んー、そういう人は民主主義者ではないと僕は思うし、少なくともリベラルではないと断言する。
先日の静岡県知事選の結果ですが、保守王国(らしい)の静岡県で、かつ実質的な民主分裂選挙で自公推薦の候補者が敗れる、という事実もさることながら、投票率の高さ(45%→60%と、15%アップ)から市民の政権交代への揺るぎない意思を感じ取るのは僕だけではないはずだ(多分)。
ま、自公の負けを認めたくない人は、「国政と地方選挙は別だ!」と言い張るのでしょうが…
しかもこの間、某県知事騒動と鳩山代表でメディアジャックしていた(一方で、より悪質な与謝野氏の件スルーであった)にもかかわらず、だ。
つまり、客観的に見れば政権交代の情勢はもはや動かしようがない(ように僕には思える)。
民主党(を含む野党連合)が策を弄する必要はないし、自公は策を弄すれば弄するほど逆効果(貧すれば鈍する)、というのもまた明らかになったと思われる。
ま、自民の党内政局がウザいので、都議選が終わったころに内閣不信任案を出す、というのは一興だろう。
さて、ここで悪徳ペンタゴン(by 植草氏)の一角である、政と官と電(メディア)の出方に少し違いが出てきそうに思われる。
政(自公)は、どのみち野に下ることが確定的であれば、どれほど見苦しくても最後まであがき続けるだろう(それがさらに人心を離反させることを知ってか知らずか…)。
ま、自公のような反民主的政党は、早めに壊滅したほうが日本のためなので、別にそれを止めさせようとは思いませんが(毒を食らわば皿まで、でお願いします)。
電(メディア)も実質的には政(自公)と同様の心境だろう。
どれだけ民主党(を含む野党連合)に尻尾振ったところで、記者クラブ開放(に伴う既得権の喪失)は避けがたい。
となれば、どれほど無駄と知りつつも、現政権に媚を売り続けるのだろう(それが人心をさらに離反させることを知ってか知らずか…)。
というか、権力に媚を売る時点で、メディア(ジャーナリズム)としてはアウト(存在価値なし)なんですけどね(それすら分からないメディアは、逝ってよし、でしょうか)。
ところが、官は政・電とは微妙に立場を異にする。
つまり、政権交代をしても、官僚は官僚の立場を離れるわけではないのだ。
大多数(全て?)の官僚たちは、民主党(を含む野党連合)に政権交代したとして、その政権に引き続き仕えるわけだ。
したがって、(政権交代後の)新政権でより有利なポジションにつきたければ(ほとんどの官僚がそう思うだろう)、(政権交代が確実と見えれば)早めに野党連合に媚を売ったほうがよい(そういうインセンティブが働きやすい)。
まぁ、「自公の政策じゃなきゃ絶対に支持できない」と考えている官僚がもしいるとすれば、政権交代と同時に辞表を提出するだろう(そのような気概を持った官僚がいるとは、僕にはとても思えないのだが)。
つまり、「日本国民の幸福よりも自分の保身第一」の官僚は、悪徳ペンタゴン没落チキンレースからいち早く抜け出すインセンティブを有しているわけだ。
そう考えると、鳩山氏の問題で検察の動きが鈍いのも分かるような…(考えすぎかも?)
検察といえども官僚であり、政権交代すれば民主党議員達は、(間接的な)上司に当たるわけだ(議院内閣制の本義からすれば)。
まぁ、与野党同等の(=公正な)捜査・逮捕がなされているならまだしも、将来上司になることがほぼ確定的な民主党(しかも党代表)だけを狙い撃ちするような露骨な捜査・逮捕は今後難しくなるだろう(天下り先をがっちり確保できる人間は別かもしれませんが…)。
漆間官房副長官の、「自民党には捜査が及ばない」という言質があるから、与謝野氏の捜査には及びがたいのかもしれませんが、与謝野氏スルーの鳩山氏狙い撃ちはさすがに露骨過ぎてできないように思われるが…
ところでその与謝野氏ですが、静岡県知事選の結果を受けて、次のようにのたまったようですね(閣僚は都議選応援を=静岡知事選敗北に危機感−麻生首相より)。
与謝野馨財務・金融相は「わたしの運命に大きな影響がある」と危機感をあらわにし
いやぁ、ここまで「自分第一」を表明してくれると、却ってスガスガしいわ(んなわきゃないが)
一応突っ込んでおくと…
「アンタは自分の運命を心配する前に、大臣室で仲良く写真を撮った社長さんから、迂回献金をたんまりもらったことをしっかり説明して頂戴」ってところかな?
ほとんど説明らしい説明をしていない与謝野氏がこうやって大っぴらに発言できるのも、やっぱり漆間氏の上の言質(「自民党には捜査が及ばない」)が効いているのかなぁ?
さて、政局からやや離れてと。
日本人(に限らないのかもしれないが)はよく、「選挙に行っても政治は変わらない」という。
それは、市民社会の未発達ゆえの、市民の責任感の欠如でもある。
まぁ、自力で民主主義を勝ち取ったわけではない日本人にとっては、そのように考えるのもやむを得ないのかもしれないが。
しかし、2007年の参議院選から始まって、横須賀市長選、静岡県知事選などを見ると、「選挙でひょっとしたら政治は変わるかも?」という期待感が芽生えているようにも思われる。
そして、社会を動かすのはこの期待感に他ならない。
「期待感が(投票)行動を促し、それが現実を変え、更なる(投票)行動を促す」という具合に、ポジティブフィードバックが働いているように思われる(それが民主主義社会の希望の一形態だろう)。
よくよく考えれば期待感などはアテにはならないのだが、しかし民主主義はその期待感に基づいている(オバマを誕生させたのも、その期待感に他ならない)。
だからこそ、その期待感を失望に変えないように、政権は公約を実行する必要がある(し、市民はそれを監視する責任を有する)。
「政権交代をすれば万々歳というわけではないが、政権交代がなければ何も始まらない」
民主主義社会に住む以上は、この民主主義のアタリマエを皆が自覚する必要があるだろう(ここ最近の動きはやっとそのアタリマエが定着してきた証なのかもしれない)。
これは、民主主義社会にとっては希望だと思われるが、そこに閉塞感を感じる御仁もいるらしい。
んー、そういう人は民主主義者ではないと僕は思うし、少なくともリベラルではないと断言する。




