児童ポルノ単純所持規制(2) 官僚主義社会の観点から +α
マダム寿司吼える、みたいな。
小池百合子氏、民主批判「首相の芽ない」
なるほど…
小池氏には、二階氏、与謝野氏などの職務権限を有する与党議員が(与謝野氏は所轄大臣である)、一体どういう処遇にあったのかを具体的に明らかにしてもらいたいものだ。
その単純な疑問を、民主党は小池氏に投げかければよいと思う。
ま、政局話はこれくらいにしてと。
児童ポルノの単純所持規制(1) 官僚主義社会の観点からの続きになります。
本エントリーでは、児童ポルノ単純所持規制のヤバさについて述べてみたい。
本題に入る前に、この問題を積極的に追及している社民党の保坂展人氏のブログの参考エントリーに再度リンクしておく。
「児童ポルノ単純所持」と表現の自由・内心の自由について
『Santa Fe』を1年間で処分すべしとする与党案に驚く
マンガ太郎の「表現規制」暴走は、なぜ?
児童ポルノ法の制定目的とかけ離れた監視国家への道(質疑動画付)
では、本題へ。
前エントリーのおさらいになるが、児童ポルノ単純所持規制には、みだりにとか自己の性的好奇心を満たす目的でといった実に曖昧模糊とした表現が取り入れられていました。
曖昧ということは、みだりにとか自己の性的好奇心を満たす目的でという条件を客観的に措定することができない、ということに他ならない(みだりではない、とか自己の性的好奇心を満たす目的でないということが、客観的に措定できない、と言い換えてもよいのだが)。
そして、客観的に措定できない、ということはそこには裁量が入る余地がある(というより、必然的に裁量が入り込まざるを得ない)、ということに他ならない。
もう一つの裁量として、何を児童ポルノと見做すか、も挙げられるだろう。
確かに、「18歳以下の子どもの登場するポルノを児童ポルノとする」、との定義は可能だろう。
しかし、「ポルノ/非ポルノ」の厳密な(=客観的な)線引きは可能だろうか?(例えば、裸で川遊びをする子どもを写した写真は?子どもの裸体を描いた芸術作品は?)
確かに、「これは間違いなくポルノだ」と万人が認めるものは存在するだろう。
しかしそのことは、「ポルノ/非ポルノ」の客観的な線引きが可能ということを、全く意味しない(むしろその不可能性を意味する)。
同様にして、「みだりである」、「自己の性的目的を満たす目的である」、ということを多くの人が同意できる状況はあるだろう(本棚やパソコンのメモリーが児童ポルノで溢れているなど)。
しかし繰り返すが、そのことは「みだり/みだりでない」「自己の性的好奇心を満たす目的である/ない」という線引きが客観的に可能ということを全く意味しない。
そして、児童ポルノ所持規制に裁量が入るとして(間違いなく入るのだが)、誰の裁量が入るかと言えば、当然捜査権限を有する警察・検察の裁量に他ならない。
つまり、児童ポルノ単純所持規制は始めから、警察・検察が裁量を最大限に発揮して、恣意的に逮捕・起訴できる権限を与えるような(つまり、日本を警察・検察国家にすることを意図された)規制だということだ。
具体的に言えば、次のようなストーリー(恣意的捜査)を可能にする。
政府に批判的な発言をする、影響力のある学者(ジャーナリスト、評論家その他)がいる。
その学者に対する、「児童ポルノ愛好家」との匿名の告発がなされる(あるいは告発がなされたことにされる)。
捜査をして、児童ポルノを見つけて、児童ポルノ所持罪で逮捕する。
メディアでは、「○○(逮捕された者の名前)は児童ポルノ愛好家で、パソコンには児童ポルノ画像・動画で溢れている」、との警察・検察リーク報道が垂れ流され、世の中にバッシングが巻き起こる。
足利事件で菅家氏に虚偽の自白を強要したように、(拷問的な手段が取られていない保証のない)密室での取調べで、「自己の性的好奇心を満たす目的」との自白を引き出す。
自白を最重視する裁判所によって有罪判決が下される。
仮に自白が得られないとしても、検察の「自己の性的好奇心を満たす目的の極めて悪質で卑劣な犯行」との言い分を裁判所が丸呑みして、有罪判決が下される。
さて、捜査で児童ポルノを実際に見つけたとしても、単純所持規制が有効であれば、謀略的に人を陥れることが実に容易になることだ(警察・検察自体が陥れることも容易だ)。
というのも、児童ポルノを思わせる紙切れ一枚、デジタル画像一枚あれば、児童ポルノ単純所持規制に引っかかるわけで、それをカバンや机に忍び込ませたり、メールで誰かに送りつけることは実に簡単だからだ(しかも、メールをゴミ箱に入れたとしても、それだけでは単純所持を否定できない)。
さて、こうして(権力を含む)他者に陥れられないように、ビクビクしながら生きなければならない。
例えば、「そういえば○○さんは、児童ポルノ禁止法違反でブタ箱にいかれましたなぁ」という脅迫が(特に権力者のは)、実に有効に機能するだろう(これは間違いなく脅迫と呼べるものだが、それを取り締まるもの警察・検察の裁量である)。
権力者に睨まれたら「児童ポルノ愛好家」とのレッテルが貼られて、社会的に抹殺される(権力者だけでなく、市民同士の監視が行われる可能性も高い)。
こうして権力者に唯々諾々と従う奴隷を大量生産する(警察・検察を始めとした権力者の思うがままに世の中を動かせる)。
児童ポルノ単純所持規制は、このような警察国家・監視国家・恐怖国家を生じさせる恐れが極めて高い(というかこれは歴史の必然だと思う)。
どうだろうか。
僕の杞憂であればよいのだが…(足利事件、志布志事件、宇和島事件、富山冤罪事件、植草事件も?などなどを思い起こせば、思い過ごしとはいえない気がするのだが…)
小池百合子氏、民主批判「首相の芽ない」
自民党の小池百合子元防衛相は「野党ぼけだ。与党ではそれでは済まない」と批判。
なるほど…
小池氏には、二階氏、与謝野氏などの職務権限を有する与党議員が(与謝野氏は所轄大臣である)、一体どういう処遇にあったのかを具体的に明らかにしてもらいたいものだ。
その単純な疑問を、民主党は小池氏に投げかければよいと思う。
ま、政局話はこれくらいにしてと。
児童ポルノの単純所持規制(1) 官僚主義社会の観点からの続きになります。
本エントリーでは、児童ポルノ単純所持規制のヤバさについて述べてみたい。
本題に入る前に、この問題を積極的に追及している社民党の保坂展人氏のブログの参考エントリーに再度リンクしておく。
「児童ポルノ単純所持」と表現の自由・内心の自由について
『Santa Fe』を1年間で処分すべしとする与党案に驚く
マンガ太郎の「表現規制」暴走は、なぜ?
児童ポルノ法の制定目的とかけ離れた監視国家への道(質疑動画付)
では、本題へ。
前エントリーのおさらいになるが、児童ポルノ単純所持規制には、みだりにとか自己の性的好奇心を満たす目的でといった実に曖昧模糊とした表現が取り入れられていました。
曖昧ということは、みだりにとか自己の性的好奇心を満たす目的でという条件を客観的に措定することができない、ということに他ならない(みだりではない、とか自己の性的好奇心を満たす目的でないということが、客観的に措定できない、と言い換えてもよいのだが)。
そして、客観的に措定できない、ということはそこには裁量が入る余地がある(というより、必然的に裁量が入り込まざるを得ない)、ということに他ならない。
もう一つの裁量として、何を児童ポルノと見做すか、も挙げられるだろう。
確かに、「18歳以下の子どもの登場するポルノを児童ポルノとする」、との定義は可能だろう。
しかし、「ポルノ/非ポルノ」の厳密な(=客観的な)線引きは可能だろうか?(例えば、裸で川遊びをする子どもを写した写真は?子どもの裸体を描いた芸術作品は?)
確かに、「これは間違いなくポルノだ」と万人が認めるものは存在するだろう。
しかしそのことは、「ポルノ/非ポルノ」の客観的な線引きが可能ということを、全く意味しない(むしろその不可能性を意味する)。
同様にして、「みだりである」、「自己の性的目的を満たす目的である」、ということを多くの人が同意できる状況はあるだろう(本棚やパソコンのメモリーが児童ポルノで溢れているなど)。
しかし繰り返すが、そのことは「みだり/みだりでない」「自己の性的好奇心を満たす目的である/ない」という線引きが客観的に可能ということを全く意味しない。
そして、児童ポルノ所持規制に裁量が入るとして(間違いなく入るのだが)、誰の裁量が入るかと言えば、当然捜査権限を有する警察・検察の裁量に他ならない。
つまり、児童ポルノ単純所持規制は始めから、警察・検察が裁量を最大限に発揮して、恣意的に逮捕・起訴できる権限を与えるような(つまり、日本を警察・検察国家にすることを意図された)規制だということだ。
具体的に言えば、次のようなストーリー(恣意的捜査)を可能にする。
政府に批判的な発言をする、影響力のある学者(ジャーナリスト、評論家その他)がいる。
その学者に対する、「児童ポルノ愛好家」との匿名の告発がなされる(あるいは告発がなされたことにされる)。
捜査をして、児童ポルノを見つけて、児童ポルノ所持罪で逮捕する。
メディアでは、「○○(逮捕された者の名前)は児童ポルノ愛好家で、パソコンには児童ポルノ画像・動画で溢れている」、との警察・検察リーク報道が垂れ流され、世の中にバッシングが巻き起こる。
足利事件で菅家氏に虚偽の自白を強要したように、(拷問的な手段が取られていない保証のない)密室での取調べで、「自己の性的好奇心を満たす目的」との自白を引き出す。
自白を最重視する裁判所によって有罪判決が下される。
仮に自白が得られないとしても、検察の「自己の性的好奇心を満たす目的の極めて悪質で卑劣な犯行」との言い分を裁判所が丸呑みして、有罪判決が下される。
さて、捜査で児童ポルノを実際に見つけたとしても、単純所持規制が有効であれば、謀略的に人を陥れることが実に容易になることだ(警察・検察自体が陥れることも容易だ)。
というのも、児童ポルノを思わせる紙切れ一枚、デジタル画像一枚あれば、児童ポルノ単純所持規制に引っかかるわけで、それをカバンや机に忍び込ませたり、メールで誰かに送りつけることは実に簡単だからだ(しかも、メールをゴミ箱に入れたとしても、それだけでは単純所持を否定できない)。
さて、こうして(権力を含む)他者に陥れられないように、ビクビクしながら生きなければならない。
例えば、「そういえば○○さんは、児童ポルノ禁止法違反でブタ箱にいかれましたなぁ」という脅迫が(特に権力者のは)、実に有効に機能するだろう(これは間違いなく脅迫と呼べるものだが、それを取り締まるもの警察・検察の裁量である)。
権力者に睨まれたら「児童ポルノ愛好家」とのレッテルが貼られて、社会的に抹殺される(権力者だけでなく、市民同士の監視が行われる可能性も高い)。
こうして権力者に唯々諾々と従う奴隷を大量生産する(警察・検察を始めとした権力者の思うがままに世の中を動かせる)。
児童ポルノ単純所持規制は、このような警察国家・監視国家・恐怖国家を生じさせる恐れが極めて高い(というかこれは歴史の必然だと思う)。
どうだろうか。
僕の杞憂であればよいのだが…(足利事件、志布志事件、宇和島事件、富山冤罪事件、植草事件も?などなどを思い起こせば、思い過ごしとはいえない気がするのだが…)




