感情の相対化について 「強欲」をめぐって
またもや私事ですが、一昨日めでたく(?)10000アクセスを超えました(パチパチ)。
7月初旬ごろにカウンター設置の記載があるから、約一年で一万越えです(メジャーブログは1日で難なくクリアしますが何か?)。
10000÷365≒27.4人/日のアクセスということですね…
吹けば飛ぶような弱小ブログではありますが、好き勝手書きながら続けていく所存であります。
では、本題へ。
感情の相対化についての応用編になります。
直接的には生と死について(あるいは脳死移植について)の続きになります。
以前もリンクした、愚樵空論さんのそれもまた「強欲」なのではないだろうか?というエントリーをめぐって、コメント欄および他のブログも参加してのちょっとした(?)議論が巻き起こっています(ここでは流れについては追いませんので、各自で語確認ください)。
ま、某騒動よりはよっぽど生産的かな、と思いますけど(個人的には)。
それはさておき。
「強欲」とは何だろうか?
あるいは、私たちは何をもって「強欲」と見做す「べき」だろうか?
一応お約束として辞書を引いておきますと(強欲 by 大辞泉)。
『強欲資本主義 ウォール街の自爆』という本も参考になるかもしれません。
非常にというかなり主観的な表現が入っているところがミソでしょうか(主観的であるがゆえに、何を持って「強欲」と見做すか、が個人的な感性に委ねられる)。
欲は誰もが持っている、しかし、非常な欲(=強欲)はごく一部の人たちだけが持っている、というイメージ(その根底には欲それ自体が望ましくないもの、との見做しがあるのかもしれない)。
こうして、ごく一部の(例外の)人たちが持っている、非常な欲(=強欲)が悪しきものとしてイメージされる。
そうであるがゆえに、「強欲」と名指しされれば、あるいは直接名指しされなくても自分が当てはまるものを「強欲」と指摘されれば、脊髄反射的に感情的に反発する。
僕流にいえば、この感情的な反発自体が、感情の相対化ができていない証なのである。
しかし、「強欲」と直接名指しされれば、感情が昂ぶるのはある程度止むを得ないかもしれない(それゆえ、相手をカッカさせたい場合は、名指ししてレッテル貼りをするのが手っ取り早い)。
逆に、「強欲」の自覚を促そうとするなら、相手を名指しすることなく(つまり、一般論的に)「強欲」を述べる必要がある(戦略が必要になる)。
しかし、それであっても感情的反発はなかなかに避け難い(「強欲」と名指されたものが個人の中心的な価値であればあるほど)。
であれば、戦略としては逆の道を取ることもあり得る。
つまり、「強欲」を人間にとって避け難い性(さが)として提示することである。
それが万人にとって反論困難なものであれば、人は自らを「強欲」を備えたものとして自覚せざるを得ない。
しかし、仮に万人が「強欲」であるとして、それを指摘することに一体どれほどの意味があるだろうか?(言い換えれば、人間は誰しも息をしている、という事実の指摘以上の意味合いはあるのだろうか?)
僕はあると言いたい。
つまり、人間のごく一部ではなく、(ごく一部の例外がいるにしても)殆ど全てが「強欲」であっても、それを指摘すること(ひいては人々に自らの強欲の「自覚」を促すこと)には意味(≒メリット)があると言いたい。
では人々が自らの「強欲」を自覚することのメリットとは何か?
それは他でもない。
正義を背負ってエラッソウな発言をすることに、一定の自制をかけ得る。
自らを強欲な人間との自覚を有している人間は、単純な正義をあてにすることはもはやできないだろうから(単純)。
逆に言えば、単純な正義を後ろ盾にしてエラッソウな発言をする人物を、自らの強欲さに自覚のない人物としてあぶり出すことが可能になる。
それがそんなに意味のあることか?と疑問に思う人もいるだろう。
僕は、それだけでも社会は随分風通しのよいものになると思う。
自らの「強欲」という性(さが)を自覚した人間は、他者の行為にあれこれ口出しすることはなくなるだろう(多分)。
というのも、自分は「強欲」などとは無縁だ(穢れのない正しい人間だ)と思っているから、他者の行為に介入しようとするのだろうから(某騒動に限らずウンザリするほど見慣れた風景だが)。
しかし、「強欲」の自覚が風通しのよい社会を作り出すとして、では、肝心の人間一般の「強欲」をどう描けばよいだろうか?
例えば、人間の歴史を振り返ってみればどうだろう?
人間の歴史は、戦争(より控えめに言っても争い)の歴史と言っても過言ではない(というか、歴史を学ぶ意義はそこにこそあると思うのだが)。
戦争とは、自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為(の一バリエーション)、と言ってもよいだろう。
ま、ウヨクの方々は「国を守る神聖な行為だ!」との念仏を唱えてくれるのかもしれませんが…
国の歴史もまた戦争の歴史である。
戦争によって命を亡くした膨大な犠牲の上に辛うじて成り立つのが国家である(神聖どころか血塗られているのが国家の宿命である)。
「だから国家をなくせ」、と言いたいわけではない(一応、僕自身はアナーキズムとは縁を切ったつもりである)。
国家を「神聖なもの」として、国家への犠牲を強いるような「強欲」を批判・非難したいだけである。
えー、ちょっとズレました。
自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為を「強欲」とするなら、脳死と「科学的に」判定された個体にメスを入れ、それなくしては生命を維持できない臓器をその個体から奪うことは「強欲」と呼ばずに一体なんと呼べるだろうか?
しかし、それを「強欲」と呼ぶとして、強欲だから止めろ、と言いたいわけでもない。
せめて、そのような行為が「強欲」であるとの認識は万人に有してほしい。
先にも言ったが、所詮人間は「強欲」な生き物である(その人間がもし滅ぶことがあるとしたら、「強欲」ゆえに、だと思っている)。
だとしたら、「強欲」を脱却しようとしても無駄なのかもしれない(そのような努力を否定するのではないが)。
より穏当なのは、人間の「強欲」を認めつつも、その「強欲」が他者を傷つけることがないような制度設計を工夫していくことだと思う。
その意味で、新自由主義(=市場原理主義)という制度設計は、強欲が他者を傷つけることを野放しにしたタチの悪い制度であったと言えるだろう(まさに強欲資本主義であった)。
まとまりに欠けますが、「強欲」をめぐっての雑感でした。
7月初旬ごろにカウンター設置の記載があるから、約一年で一万越えです(メジャーブログは1日で難なくクリアしますが何か?)。
10000÷365≒27.4人/日のアクセスということですね…
吹けば飛ぶような弱小ブログではありますが、好き勝手書きながら続けていく所存であります。
では、本題へ。
感情の相対化についての応用編になります。
直接的には生と死について(あるいは脳死移植について)の続きになります。
以前もリンクした、愚樵空論さんのそれもまた「強欲」なのではないだろうか?というエントリーをめぐって、コメント欄および他のブログも参加してのちょっとした(?)議論が巻き起こっています(ここでは流れについては追いませんので、各自で語確認ください)。
ま、某騒動よりはよっぽど生産的かな、と思いますけど(個人的には)。
それはさておき。
「強欲」とは何だろうか?
あるいは、私たちは何をもって「強欲」と見做す「べき」だろうか?
一応お約束として辞書を引いておきますと(強欲 by 大辞泉)。
ごう‐よく【強欲/強慾】
[名・形動]非常に欲が深いこと。また、そのさま。「―な高利貸し」「―非道」[派生] ごうよくさ[名]
『強欲資本主義 ウォール街の自爆』という本も参考になるかもしれません。
非常にというかなり主観的な表現が入っているところがミソでしょうか(主観的であるがゆえに、何を持って「強欲」と見做すか、が個人的な感性に委ねられる)。
欲は誰もが持っている、しかし、非常な欲(=強欲)はごく一部の人たちだけが持っている、というイメージ(その根底には欲それ自体が望ましくないもの、との見做しがあるのかもしれない)。
こうして、ごく一部の(例外の)人たちが持っている、非常な欲(=強欲)が悪しきものとしてイメージされる。
そうであるがゆえに、「強欲」と名指しされれば、あるいは直接名指しされなくても自分が当てはまるものを「強欲」と指摘されれば、脊髄反射的に感情的に反発する。
僕流にいえば、この感情的な反発自体が、感情の相対化ができていない証なのである。
しかし、「強欲」と直接名指しされれば、感情が昂ぶるのはある程度止むを得ないかもしれない(それゆえ、相手をカッカさせたい場合は、名指ししてレッテル貼りをするのが手っ取り早い)。
逆に、「強欲」の自覚を促そうとするなら、相手を名指しすることなく(つまり、一般論的に)「強欲」を述べる必要がある(戦略が必要になる)。
しかし、それであっても感情的反発はなかなかに避け難い(「強欲」と名指されたものが個人の中心的な価値であればあるほど)。
であれば、戦略としては逆の道を取ることもあり得る。
つまり、「強欲」を人間にとって避け難い性(さが)として提示することである。
それが万人にとって反論困難なものであれば、人は自らを「強欲」を備えたものとして自覚せざるを得ない。
しかし、仮に万人が「強欲」であるとして、それを指摘することに一体どれほどの意味があるだろうか?(言い換えれば、人間は誰しも息をしている、という事実の指摘以上の意味合いはあるのだろうか?)
僕はあると言いたい。
つまり、人間のごく一部ではなく、(ごく一部の例外がいるにしても)殆ど全てが「強欲」であっても、それを指摘すること(ひいては人々に自らの強欲の「自覚」を促すこと)には意味(≒メリット)があると言いたい。
では人々が自らの「強欲」を自覚することのメリットとは何か?
それは他でもない。
正義を背負ってエラッソウな発言をすることに、一定の自制をかけ得る。
自らを強欲な人間との自覚を有している人間は、単純な正義をあてにすることはもはやできないだろうから(単純)。
逆に言えば、単純な正義を後ろ盾にしてエラッソウな発言をする人物を、自らの強欲さに自覚のない人物としてあぶり出すことが可能になる。
それがそんなに意味のあることか?と疑問に思う人もいるだろう。
僕は、それだけでも社会は随分風通しのよいものになると思う。
自らの「強欲」という性(さが)を自覚した人間は、他者の行為にあれこれ口出しすることはなくなるだろう(多分)。
というのも、自分は「強欲」などとは無縁だ(穢れのない正しい人間だ)と思っているから、他者の行為に介入しようとするのだろうから(某騒動に限らずウンザリするほど見慣れた風景だが)。
しかし、「強欲」の自覚が風通しのよい社会を作り出すとして、では、肝心の人間一般の「強欲」をどう描けばよいだろうか?
例えば、人間の歴史を振り返ってみればどうだろう?
人間の歴史は、戦争(より控えめに言っても争い)の歴史と言っても過言ではない(というか、歴史を学ぶ意義はそこにこそあると思うのだが)。
戦争とは、自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為(の一バリエーション)、と言ってもよいだろう。
ま、ウヨクの方々は「国を守る神聖な行為だ!」との念仏を唱えてくれるのかもしれませんが…
国の歴史もまた戦争の歴史である。
戦争によって命を亡くした膨大な犠牲の上に辛うじて成り立つのが国家である(神聖どころか血塗られているのが国家の宿命である)。
「だから国家をなくせ」、と言いたいわけではない(一応、僕自身はアナーキズムとは縁を切ったつもりである)。
国家を「神聖なもの」として、国家への犠牲を強いるような「強欲」を批判・非難したいだけである。
えー、ちょっとズレました。
自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為を「強欲」とするなら、脳死と「科学的に」判定された個体にメスを入れ、それなくしては生命を維持できない臓器をその個体から奪うことは「強欲」と呼ばずに一体なんと呼べるだろうか?
しかし、それを「強欲」と呼ぶとして、強欲だから止めろ、と言いたいわけでもない。
せめて、そのような行為が「強欲」であるとの認識は万人に有してほしい。
先にも言ったが、所詮人間は「強欲」な生き物である(その人間がもし滅ぶことがあるとしたら、「強欲」ゆえに、だと思っている)。
だとしたら、「強欲」を脱却しようとしても無駄なのかもしれない(そのような努力を否定するのではないが)。
より穏当なのは、人間の「強欲」を認めつつも、その「強欲」が他者を傷つけることがないような制度設計を工夫していくことだと思う。
その意味で、新自由主義(=市場原理主義)という制度設計は、強欲が他者を傷つけることを野放しにしたタチの悪い制度であったと言えるだろう(まさに強欲資本主義であった)。
まとまりに欠けますが、「強欲」をめぐっての雑感でした。




