生と死について(あるいは脳死移植について)
本日二つ目のエントリーになります。
一応コチラがメイン(のつもり)。
僕がよく伺う愚樵空論というブログで、脳死臓器移植に関連してエントリーが立て続けに挙げられ(それもまた「強欲」なのではないだろうか?(コメント欄では強欲という表現をめぐってちょっとした議論になっていますが…)、「いのちは闇の中のまたたく光だ!」、「私」でも「あなた」でもないものになる)そこでのコメントも含めていくつか思ったことがあるので書いてみよう。
といっても、本エントリーは何らかの問題提起を目指すものではありません(そのように読まれることを拒絶もしませんが)。
というより、この手の問題に関わる苦悩は、この手の問題を議論の遡上に乗せなければならない、という事実にあるのかもしれません。
「ある問題を議論の遡上に乗せる」ということは、「その問題が公的な性質を帯びる」ということにならざるを得ません。
しかし、その問題が徹頭徹尾「私的な問題」であるとしたら?
どこまでいっても「個人で解決しなければならない性質の問題」だとしたら?
脳死移植をめぐる問題、あるいは生と死に関する問題は、そのような問題なのかもしれない。
ともあれ、本題へ進めてみよう。
私たちは、事実として既に生を生きてしまっている。
それが私たちの生との出会い(?)である。
いや、この表現は不正確かもしれない。
死という存在を意識することにより、初めて生が意識される、といったほうが正確だろう。
なんとなく、ハイデガーの実存哲学っぽくなってきたような気もしますが…
池田晶子氏風に言えば、「私たちは永遠に死を経験することができない。すなわち、私たちはどこまで行っても生を生きるほかない(死んだ瞬間に経験の主体も消え去るわけだから)。」、ということになるだろうか。つまり、「私たちは死ぬまで生き続ける(という表現はトートロジーでしかないのだが)」。
「私たちが経験するのは他者の死である他はない」と言い換えてもよいだろう。
しかし、このことは逆に言っても同じのような気もする。
すなわち、「私たちが経験するのは死だけである(私たちは永遠に生を経験することはできない)」、と(というのも、私たちは気がついたときには既に生きてしまっているのだから)。
ま、ジョーシキには反するでしょうが。
よりジョーシキにマッチする言い方をするなら、「生は死による逆照射によって、(初めて)その意味を帯びることができる」、ということになるだろうか。
その見方からすれば、逆説的だが、周りでバタバタ死人が出るような社会の方が、生をよりリアルなものとして感じられることになる(そのような社会が望ましい、と言いたいわけではないのだが)。
やや俗っぽいが、「現代においては生が希薄である」、という表現にもしリアリティがあるとしたら、その辺の事情が関係しているのかもしれない。
ところで、脳死(移植)の問題である。
脳死の問題は100%移植の問題であり、それは生死の問題ではない(と言い切っていいのか?)。
というか、脳死というものが仮にあったとしても(現にあるとしても)、特殊な状況以外では問題にならない。
というのも、特殊な状況以外では、脳死は必然的に(短時間のうちに)死へと向かわざるを得ないからだ(脳死→呼吸停止→心停止)。
特殊な状況というのが、人工呼吸器による(強制的)呼吸、という状況下である(先の脳死→呼吸停止という流れが阻害される)。
つまり、脳死の問題とは、「脳機能が全般的に不可逆的に損なわれたにもかかわらず(?)、人工呼吸器の補助により他の臓器がほぼ無傷で保たれている個体(それは一定の割合で生み出される)をどう扱うか?」、という極めて現実的(かつ現代的な)な問題なのである。
もちろん、脳死個体も、他の全ての個体と同様に、必ず心臓死(いわゆる死)へと至る。
それをもって死と見做す、という私たちの多くの死生観にマッチした道を選ぶことも可能だろう(もちろん、それをもって、脳死を死と見做してはならない、ことにはならないのだが)。
しかし、脳死問題の本質は、脳死個体においては他の臓器(少なくとも一部の臓器)はほぼ無傷で保たれており、それゆえ、ある臓器の提供を受ければ生き延びることができる人が少なからず存在する、という事実にある。
この一文、当事者の心情を全く顧みていない、という事に関しては批判を甘受いたします。
ところで、「脳死=人の死」という等号にはいくつかの前提が存在すると思われる。
それを思いつくまま書き上げてみる。
1.脳死という現象(診断)は脳の全般的ダメージという事実と対応している(つまり、脳死という状態は客観的に評価可能である)。
2.脳の全般的ダメージは不可逆的である(それゆえ、脳死という表現が用いられる)。
3.人の死とは人の人格的な死を意味している(この場合の人格とは刺激に対する反応、という極原初的なレベルも含む)。
4.人格は脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している。
1-4より、脳死と診断された個体は人格の死をむかえており、それは死んでいるということに他ならない。
ここで前提4に関しては、脳科学やそれに基づく認知科学の発展の貢献が大きいと思われる。
つまり、脳科学やそれに基づく認知科学の発展が、人間の人格が脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している、という信念を人々にもたらしたと思われる。
そのような目で昨今の脳ブームを振り返ると、何か意味深な気も…(さすがにそれは考えすぎでしょうが)
しかし、「科学が脳死と人の死を等しく見せているから『脳死=人の死』だ!」と見做すとすれば、それはある種の科学主義に他ならない。
しかし、私たちが脳死問題へ直面したのも歴史の必然なのかもしれない、とも思う。
私たちの生を規定しているのは、間違いなく生権力とフーコーが呼ぶものである(つまり、生死という極めて個人的な領域が、既にして政治の問題であるわけだ)。
その象徴が、私たちの多く(殆ど全て)が病院において生を受け、病院において死を迎える、という事実である。
つまり、病院(あるいは医療)というテクノロジカルな領域において、私たちの生死の象徴的な部分が支配されている(繰り返すが、そのことが悪いと言いたいわけでもない)。
私たちは生に執着する。
身も蓋もない言い方をすれば、「生に執着する個体のみが(進化の過程で)適応的であった」と言ってもよい。
そして、生への執着とテクノロジーの発展(と人々を助けようとする善意)が、人工呼吸器という医療器械を生み出し、その結果一定の割合で脳死状態の個体を生み出したのは歴史の必然と言えるのかもしれない(振り返って言えば、という後知恵バイアスに思いっきり依存した言い方ですが)。
もちろん、人工呼吸器によって救われた生命もまた数多くある(今後も数多くあるだろう)、ということも強調しなければならないのだが。
私たち人類を生み出した母なる自然は、同時に残酷でもある。
同種の個体からの移植を受けなければ、生き長らえることができない個体がある一定の割合で生み出される。
もちろん、臓器移植というテクノロジーが誕生する前は、その臓器の不全は必然的に死を意味していた。
しかし、生体間の臓器移植、さらには脳死体からの臓器移植が行えるようになった(つまり、臓器の不全が必ずしも死を意味しなくなった)。
先の脳科学の発展とも相まって、脳死移植が浮上するのも必然と言えよう。
それに対して、僕自身は何らかの歯止めをかけようとも思わない(し、何らかの歯止めをかけようとする人を非難・批判しようとも思わない)。
しかし、脳死移植問題において再び私たちが直面したように、私たちが「私的な領域」と思い込んでいた生死の問題もまた政治・テクノロジーの問題として浮上せざるを得ないのだ(そのような時代に生まれ落ちたわけだ)。
少なくともそのような事態に自覚的ではありたいと思う。
以上、冒頭にも述べた通り、何らかの問題提起を意図しているものではありませんが、生と死、あるいは脳死移植に関して思ったことを述べまてみました。
一応コチラがメイン(のつもり)。
僕がよく伺う愚樵空論というブログで、脳死臓器移植に関連してエントリーが立て続けに挙げられ(それもまた「強欲」なのではないだろうか?(コメント欄では強欲という表現をめぐってちょっとした議論になっていますが…)、「いのちは闇の中のまたたく光だ!」、「私」でも「あなた」でもないものになる)そこでのコメントも含めていくつか思ったことがあるので書いてみよう。
といっても、本エントリーは何らかの問題提起を目指すものではありません(そのように読まれることを拒絶もしませんが)。
というより、この手の問題に関わる苦悩は、この手の問題を議論の遡上に乗せなければならない、という事実にあるのかもしれません。
「ある問題を議論の遡上に乗せる」ということは、「その問題が公的な性質を帯びる」ということにならざるを得ません。
しかし、その問題が徹頭徹尾「私的な問題」であるとしたら?
どこまでいっても「個人で解決しなければならない性質の問題」だとしたら?
脳死移植をめぐる問題、あるいは生と死に関する問題は、そのような問題なのかもしれない。
ともあれ、本題へ進めてみよう。
私たちは、事実として既に生を生きてしまっている。
それが私たちの生との出会い(?)である。
いや、この表現は不正確かもしれない。
死という存在を意識することにより、初めて生が意識される、といったほうが正確だろう。
なんとなく、ハイデガーの実存哲学っぽくなってきたような気もしますが…
池田晶子氏風に言えば、「私たちは永遠に死を経験することができない。すなわち、私たちはどこまで行っても生を生きるほかない(死んだ瞬間に経験の主体も消え去るわけだから)。」、ということになるだろうか。つまり、「私たちは死ぬまで生き続ける(という表現はトートロジーでしかないのだが)」。
「私たちが経験するのは他者の死である他はない」と言い換えてもよいだろう。
しかし、このことは逆に言っても同じのような気もする。
すなわち、「私たちが経験するのは死だけである(私たちは永遠に生を経験することはできない)」、と(というのも、私たちは気がついたときには既に生きてしまっているのだから)。
ま、ジョーシキには反するでしょうが。
よりジョーシキにマッチする言い方をするなら、「生は死による逆照射によって、(初めて)その意味を帯びることができる」、ということになるだろうか。
その見方からすれば、逆説的だが、周りでバタバタ死人が出るような社会の方が、生をよりリアルなものとして感じられることになる(そのような社会が望ましい、と言いたいわけではないのだが)。
やや俗っぽいが、「現代においては生が希薄である」、という表現にもしリアリティがあるとしたら、その辺の事情が関係しているのかもしれない。
ところで、脳死(移植)の問題である。
脳死の問題は100%移植の問題であり、それは生死の問題ではない(と言い切っていいのか?)。
というか、脳死というものが仮にあったとしても(現にあるとしても)、特殊な状況以外では問題にならない。
というのも、特殊な状況以外では、脳死は必然的に(短時間のうちに)死へと向かわざるを得ないからだ(脳死→呼吸停止→心停止)。
特殊な状況というのが、人工呼吸器による(強制的)呼吸、という状況下である(先の脳死→呼吸停止という流れが阻害される)。
つまり、脳死の問題とは、「脳機能が全般的に不可逆的に損なわれたにもかかわらず(?)、人工呼吸器の補助により他の臓器がほぼ無傷で保たれている個体(それは一定の割合で生み出される)をどう扱うか?」、という極めて現実的(かつ現代的な)な問題なのである。
もちろん、脳死個体も、他の全ての個体と同様に、必ず心臓死(いわゆる死)へと至る。
それをもって死と見做す、という私たちの多くの死生観にマッチした道を選ぶことも可能だろう(もちろん、それをもって、脳死を死と見做してはならない、ことにはならないのだが)。
しかし、脳死問題の本質は、脳死個体においては他の臓器(少なくとも一部の臓器)はほぼ無傷で保たれており、それゆえ、ある臓器の提供を受ければ生き延びることができる人が少なからず存在する、という事実にある。
この一文、当事者の心情を全く顧みていない、という事に関しては批判を甘受いたします。
ところで、「脳死=人の死」という等号にはいくつかの前提が存在すると思われる。
それを思いつくまま書き上げてみる。
1.脳死という現象(診断)は脳の全般的ダメージという事実と対応している(つまり、脳死という状態は客観的に評価可能である)。
2.脳の全般的ダメージは不可逆的である(それゆえ、脳死という表現が用いられる)。
3.人の死とは人の人格的な死を意味している(この場合の人格とは刺激に対する反応、という極原初的なレベルも含む)。
4.人格は脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している。
1-4より、脳死と診断された個体は人格の死をむかえており、それは死んでいるということに他ならない。
ここで前提4に関しては、脳科学やそれに基づく認知科学の発展の貢献が大きいと思われる。
つまり、脳科学やそれに基づく認知科学の発展が、人間の人格が脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している、という信念を人々にもたらしたと思われる。
そのような目で昨今の脳ブームを振り返ると、何か意味深な気も…(さすがにそれは考えすぎでしょうが)
しかし、「科学が脳死と人の死を等しく見せているから『脳死=人の死』だ!」と見做すとすれば、それはある種の科学主義に他ならない。
しかし、私たちが脳死問題へ直面したのも歴史の必然なのかもしれない、とも思う。
私たちの生を規定しているのは、間違いなく生権力とフーコーが呼ぶものである(つまり、生死という極めて個人的な領域が、既にして政治の問題であるわけだ)。
その象徴が、私たちの多く(殆ど全て)が病院において生を受け、病院において死を迎える、という事実である。
つまり、病院(あるいは医療)というテクノロジカルな領域において、私たちの生死の象徴的な部分が支配されている(繰り返すが、そのことが悪いと言いたいわけでもない)。
私たちは生に執着する。
身も蓋もない言い方をすれば、「生に執着する個体のみが(進化の過程で)適応的であった」と言ってもよい。
そして、生への執着とテクノロジーの発展(と人々を助けようとする善意)が、人工呼吸器という医療器械を生み出し、その結果一定の割合で脳死状態の個体を生み出したのは歴史の必然と言えるのかもしれない(振り返って言えば、という後知恵バイアスに思いっきり依存した言い方ですが)。
もちろん、人工呼吸器によって救われた生命もまた数多くある(今後も数多くあるだろう)、ということも強調しなければならないのだが。
私たち人類を生み出した母なる自然は、同時に残酷でもある。
同種の個体からの移植を受けなければ、生き長らえることができない個体がある一定の割合で生み出される。
もちろん、臓器移植というテクノロジーが誕生する前は、その臓器の不全は必然的に死を意味していた。
しかし、生体間の臓器移植、さらには脳死体からの臓器移植が行えるようになった(つまり、臓器の不全が必ずしも死を意味しなくなった)。
先の脳科学の発展とも相まって、脳死移植が浮上するのも必然と言えよう。
それに対して、僕自身は何らかの歯止めをかけようとも思わない(し、何らかの歯止めをかけようとする人を非難・批判しようとも思わない)。
しかし、脳死移植問題において再び私たちが直面したように、私たちが「私的な領域」と思い込んでいた生死の問題もまた政治・テクノロジーの問題として浮上せざるを得ないのだ(そのような時代に生まれ落ちたわけだ)。
少なくともそのような事態に自覚的ではありたいと思う。
以上、冒頭にも述べた通り、何らかの問題提起を意図しているものではありませんが、生と死、あるいは脳死移植に関して思ったことを述べまてみました。




