信頼のパラドクス(2) 信頼を得ること
信頼のパラドクス(1) リベラリズムと信頼の続きになります。
えー、(1)では信頼とリベラリズムの関係について述べました(信頼とはリベラルな社会の土台だ、という風に)。
もう少し述べれば、信頼とリベラルな社会は、タマゴとニワトリ的な関係を有する。
信頼がリベラルな社会の土壌になり、リベラルな社会が人々の間に信頼という感情を醸成するわけだ。
ということは、信頼のパラドクスは自由主義のパラドクスと密接な関係を有するということになるのですが…
それを言うと一行で終わってしまうので、もう少し頑張ってみよう。
さらに別の観点から信頼について述べますと、信頼とは人間関係という財産の土台である、と言えるだろう。
これは、信頼に基づかない人間関係は脆(もろ)く儚(はかな)い、と言い換えてもよいのだが。
信頼に基づかないとは、打算とか損得計算によって成り立つ人間関係、ということなので(多分)。
そういう関係は、その関係による利得が得られないと当人によって認識されたなら、簡単に崩れ去ってしまうだろう(そして、そのような関係が利権の周りに張り巡らされていれば、利権を失わないためだけにそのような関係を維持しようとするだろう=組織の自己目的化)。
もちろん、打算や損得計算によって成り立つ人間関係がダメだ、と言いたいわけでもありません。
そのような関係しか築けないとしたら、僕は可哀相だと思いますが(余計なお世話でしょうが)。
というのも、関係が打算や損得勘定だけによるものだとしたら、もし他者との関係を継続したければ、常に他者の顔色を伺いつつ(他者が機嫌を損ねないように)、その関係から生じる利権を死守することだけを考えなければならないからだ(関係を維持したいのであれば)。
つまり、「自分がこうしたい」という希望や欲求を二の次、三の次にして関係維持に汲々としなければならないのだ。
そのような関係が厭なのであれば、私たちは信頼に基づく関係を他者と築く以外にない(し、そうやって信頼によって築かれた関係は人生の財産になるだろう)。
もっとも、あらゆる関係を「信頼による関係/打算・損得勘定による関係」に切り分けるのは不適切かもしれない。
両者をともに含む関係もあるかもしれないし、別の原理による関係もあるかもしれない(が、本エントリーではここには踏み込まない)。
どうです、信頼に基づく社会が望ましいと思うでしょう?
えっ?思わない?
そんなあなたはファシストの資格十分です、ってシツコイ?
ちょっと脱線しました。
ここからが信頼のパラドクスの本質になります。
さて、人々が信頼に基づく社会が望ましいと思うとしましょう(それが仮に、信頼に基づく関係が社会で一般的になれば、なんとなく自分にとって得になりそうだな、という邪な動機だとしても)。
しかし、前回述べたように、信頼(という感情)は自発性ないしは受動性をその肝とするものでした(その点で恋愛と類似する)。
そして、自発性ないし受動性は、個人の意志を超えたところに成立する(個人の意志ではどうにもならない)ものでした。
ということは、です。
私たちは、誰かを信頼しようとして信頼できるわけではないのです(信頼という感情が沸いてこない限り、そして信頼という感情は私たちの意志を超えたところにある)。
このことは逆も然りです。
つまり、私たちは、人から信頼されようとしたところで信頼されるわけではないのです(信頼されようと努力したところで、他者から信頼される保証はない)。
さらに絶望的な(?)ことを言えば、私たちは、他者から「本当に」信頼されているかを、未来永劫知ることができないかもしれないのです!
仮に他者から、「あなたのことを信頼している」と言われたとしても、それを本心からのものかどうかを確認するすべがないのです(本心を簡単に確認できるのであれば、私たちは他者に騙されることはない)。
いや、信頼のパラドクスとはこのような単純なものではなく、より根の深い(?)ものです。
他者との信頼関係を築きたいとしましょう。
しかし、他者の信頼を得る方法は決してマニュアル化できません(というか、マニュアル化などとは対極にあるのが信頼と言えましょう)。
さらに言えば、単にマニュアル化に馴染まないというより、マニュアル化などという発想が出た途端に、信頼の成立を不可能にすると言ってもいいでしょう(マニュアルとは最小限の努力で、ということだから、マニュアルによってあることを得るという発想は、損得勘定以外の何物でもない)。
したがって、「他者から信頼を得るには、云々」などと得意げに語る輩がいるとしたら、そんな言葉に耳を傾けるのは時間の無駄と言えましょう(これは、自分のエントリーの否定か?)。
つまり、こういうことです。
私たちが仮に信頼に基づく社会を望んだとしても、私たちはストレートに信頼を(他者へのであれ、他者からのであれ)求めるわけにはいかない(求めた瞬間に、信頼は手の届かないものとなってしまう)。
比喩的に言えば、逃げ水のように、追いかけども追いかけども(あるいは追いかければ追いかけるほど)決して捕まえることができないもの、それが信頼と言えましょう。
では、私たちは信頼については沈黙しなければならないのか?
前言を翻すようですが、必ずしもそうとも思いません。
しかし、ストレートに信頼を得ようとしても無駄だろうとは思います。
したがって、信頼を得ることは、地味で気の長い道のりにならざるを得ないでしょう(簡単に得ることができるならば、この世はとっくに信頼社会になっているだろうから)。
具体的には、他者からの信頼を失うような振る舞いをしない、という消極的な方法(?)によらざるを得ません(ストレートに信頼を得ることができない以上)。
しかも、そのように振る舞っても、他者から信頼を得られる保証は残念ながらありません。
どうです、信頼なんて嫌になりましたか?
本エントリーを読んで、もし「信頼などワシャいらん」という人が増えたとしたら遺憾ではありますが…
では、他者の信頼を失うのは、どのような振る舞いによってでしょうか?
そこは皆さんにも考えていただきたいので、本日のエントリーはここまでとします。
またもや簡単に前言を翻してしまいましたが、いよいよ次が本当にラストです(旬のネタを扱いたいので多分早めにアップします)。
えー、(1)では信頼とリベラリズムの関係について述べました(信頼とはリベラルな社会の土台だ、という風に)。
もう少し述べれば、信頼とリベラルな社会は、タマゴとニワトリ的な関係を有する。
信頼がリベラルな社会の土壌になり、リベラルな社会が人々の間に信頼という感情を醸成するわけだ。
ということは、信頼のパラドクスは自由主義のパラドクスと密接な関係を有するということになるのですが…
それを言うと一行で終わってしまうので、もう少し頑張ってみよう。
さらに別の観点から信頼について述べますと、信頼とは人間関係という財産の土台である、と言えるだろう。
これは、信頼に基づかない人間関係は脆(もろ)く儚(はかな)い、と言い換えてもよいのだが。
信頼に基づかないとは、打算とか損得計算によって成り立つ人間関係、ということなので(多分)。
そういう関係は、その関係による利得が得られないと当人によって認識されたなら、簡単に崩れ去ってしまうだろう(そして、そのような関係が利権の周りに張り巡らされていれば、利権を失わないためだけにそのような関係を維持しようとするだろう=組織の自己目的化)。
もちろん、打算や損得計算によって成り立つ人間関係がダメだ、と言いたいわけでもありません。
そのような関係しか築けないとしたら、僕は可哀相だと思いますが(余計なお世話でしょうが)。
というのも、関係が打算や損得勘定だけによるものだとしたら、もし他者との関係を継続したければ、常に他者の顔色を伺いつつ(他者が機嫌を損ねないように)、その関係から生じる利権を死守することだけを考えなければならないからだ(関係を維持したいのであれば)。
つまり、「自分がこうしたい」という希望や欲求を二の次、三の次にして関係維持に汲々としなければならないのだ。
そのような関係が厭なのであれば、私たちは信頼に基づく関係を他者と築く以外にない(し、そうやって信頼によって築かれた関係は人生の財産になるだろう)。
もっとも、あらゆる関係を「信頼による関係/打算・損得勘定による関係」に切り分けるのは不適切かもしれない。
両者をともに含む関係もあるかもしれないし、別の原理による関係もあるかもしれない(が、本エントリーではここには踏み込まない)。
どうです、信頼に基づく社会が望ましいと思うでしょう?
えっ?思わない?
そんなあなたはファシストの資格十分です、ってシツコイ?
ちょっと脱線しました。
ここからが信頼のパラドクスの本質になります。
さて、人々が信頼に基づく社会が望ましいと思うとしましょう(それが仮に、信頼に基づく関係が社会で一般的になれば、なんとなく自分にとって得になりそうだな、という邪な動機だとしても)。
しかし、前回述べたように、信頼(という感情)は自発性ないしは受動性をその肝とするものでした(その点で恋愛と類似する)。
そして、自発性ないし受動性は、個人の意志を超えたところに成立する(個人の意志ではどうにもならない)ものでした。
ということは、です。
私たちは、誰かを信頼しようとして信頼できるわけではないのです(信頼という感情が沸いてこない限り、そして信頼という感情は私たちの意志を超えたところにある)。
このことは逆も然りです。
つまり、私たちは、人から信頼されようとしたところで信頼されるわけではないのです(信頼されようと努力したところで、他者から信頼される保証はない)。
さらに絶望的な(?)ことを言えば、私たちは、他者から「本当に」信頼されているかを、未来永劫知ることができないかもしれないのです!
仮に他者から、「あなたのことを信頼している」と言われたとしても、それを本心からのものかどうかを確認するすべがないのです(本心を簡単に確認できるのであれば、私たちは他者に騙されることはない)。
いや、信頼のパラドクスとはこのような単純なものではなく、より根の深い(?)ものです。
他者との信頼関係を築きたいとしましょう。
しかし、他者の信頼を得る方法は決してマニュアル化できません(というか、マニュアル化などとは対極にあるのが信頼と言えましょう)。
さらに言えば、単にマニュアル化に馴染まないというより、マニュアル化などという発想が出た途端に、信頼の成立を不可能にすると言ってもいいでしょう(マニュアルとは最小限の努力で、ということだから、マニュアルによってあることを得るという発想は、損得勘定以外の何物でもない)。
したがって、「他者から信頼を得るには、云々」などと得意げに語る輩がいるとしたら、そんな言葉に耳を傾けるのは時間の無駄と言えましょう(これは、自分のエントリーの否定か?)。
つまり、こういうことです。
私たちが仮に信頼に基づく社会を望んだとしても、私たちはストレートに信頼を(他者へのであれ、他者からのであれ)求めるわけにはいかない(求めた瞬間に、信頼は手の届かないものとなってしまう)。
比喩的に言えば、逃げ水のように、追いかけども追いかけども(あるいは追いかければ追いかけるほど)決して捕まえることができないもの、それが信頼と言えましょう。
では、私たちは信頼については沈黙しなければならないのか?
前言を翻すようですが、必ずしもそうとも思いません。
しかし、ストレートに信頼を得ようとしても無駄だろうとは思います。
したがって、信頼を得ることは、地味で気の長い道のりにならざるを得ないでしょう(簡単に得ることができるならば、この世はとっくに信頼社会になっているだろうから)。
具体的には、他者からの信頼を失うような振る舞いをしない、という消極的な方法(?)によらざるを得ません(ストレートに信頼を得ることができない以上)。
しかも、そのように振る舞っても、他者から信頼を得られる保証は残念ながらありません。
どうです、信頼なんて嫌になりましたか?
本エントリーを読んで、もし「信頼などワシャいらん」という人が増えたとしたら遺憾ではありますが…
では、他者の信頼を失うのは、どのような振る舞いによってでしょうか?
そこは皆さんにも考えていただきたいので、本日のエントリーはここまでとします。
またもや簡単に前言を翻してしまいましたが、いよいよ次が本当にラストです(旬のネタを扱いたいので多分早めにアップします)。




