国家について 権力の原理から考えてみる(3)
あの、このところ拍手が異様に(?)伸びています。
嬉しい反面、そんなにもらってええんかないな、という罰当たりな気持ちにならないわけでもないのですが…
誓い四日目にして挫けそうなダメ人間ではありますが、義理拍手(もかなりの程度あると踏んでいるのですが)を本気の拍手に変えるべく、慢心せずに記事をアップしていく所存であります。
前置きはこれくらいにしてと。
権力の原理から国家を考えるシリーズ第3弾であります。
国家について 権力の原理から考えてみる(1)
国家について 権力の原理から考えてみる(2)
国家について 権力の原理から考えてみる 補足編
の続きです。
本シリーズでは、権力を「他者に対して、(自らの意向に関わらず)特定の行動をとらせる場合に想定される力」と定義しました。
言い換えれば、「社会のあるところ・秩序のあるところ権力あり」という「遍在する権力」的な権力観ですね。
このような権力観が、権力についての焦点をぼやけさせ、したがって権力批判の矛先を鈍くしてしまう、という批判があり得ることについては素直に認めます。
ただし、僕は(古典的)左翼的権力観、すなわち「悪い権力があって、それさえ叩けば社会は良くなるのだ!」的、お花畑思考も拒否します。
権力の不可避性を認識しつつ、いかに権力批判をしていくか。
そこに社会(科)学の醍醐味があると言っても過言ではないでしょう。
その意味でも、現代社会(科)学を論じるに当たって、やはりフーコーは避けて通れないと思われます(が、残念ながら僕にはフーコーについて論じる力量はありませんので、専門家が書いた図書をお勧めします。ちなみに、現代思想の6月号の特集がフーコーでした)。
シリーズ(1)、(2)では、権力には正統性(私たちが権力に従う理由)が必要である旨、そして権力の正統性は唯一性と排他性からなる旨を書きました。
本エントリーでは、このような性質を備える権力が、どのような現象を生み出すかを考察したい。
僕としては、権力の運動を、できるだけ自律的なプロセスとして描きたい。
自律的な、という意味は人々の意図とか思惑とは独立に、という意味なのだが(無期限休止中の行為と意図シリーズもこの辺りに関わってくるはずなのですが…)。
要するに僕は、権力を特定の人物の思惑や意図とは独立した事象として描きたいわけです(というのも、権力が特定の人物と密接に関わるとした途端に、権力=悪という左翼的権力観が頭をもたげてくるからです)。
ということで、権力の運動を自律したプロセスとして、すなわち、特定の人物の意図や思惑とは(相対的に)独立したプロセスとして記述すること、これが僕の権力論(と呼べるほど大げさなものではありませんが)の基本テーゼとなります。
なお、上記のように述べたからといって、「ヒトラーなくしてナチズムはあり得なかった」とか、「スターリニズムの成立にはスターリンという存在が不可欠であった」といった主張を否定するものでもありません(積極的に肯定するわけでもありませんが)。
長い前置きになりました。
権力にとって(少なくともそれが一定期間持続するために)正統性が不可欠であること、正統性が唯一性と排他性からなるとして、では権力はどのような現象として現れるだろうか?
結論から言いますと…
権力は特定の領域内でその効力を発揮する、ということだ(もっと踏み込んで、権力はそのテリトリーを画定する、と言い換えてもよい)。
権力のテリトリーとは、権力がその唯一性と排他性によって効力を発揮する領域に他ならない。
そして、テリトリー自体が権力の運動によって画定されるわけだ。
その意味で、僕のいう権力の運動は、生命に似ている(権力の運動を自律的なプロセスとして記述しようとしているから当然かもしれないが…)。
生命はその個体を画定すると同時に、その個体内でのみ生命が生命として存在できるのだ。
もちろん、このアナロジーには限界もあるのだが…
権力に戻って。
例えば、学校におけるルールは、通常は学校においてのみ、その効力を発揮する(子どもたちは学校というテリトリーにおいてのみ、一斉に授業を受け、先生の言うことを聞くという振る舞いをする)。
それは学校権力(学校のルールをルールたらしめる力)が学校内でのみその効力を発揮するからだ。
家族内のルールは、通常は家族外の人物には適用されない。
つまり、テリトリーごとに権力があり、逆に権力ごとにテリトリーが定まっている(あるいは、定まりつつある)。
このように考えれば、社会の(相対的に独立した)領域を、その作動権力によって特定することが可能になるだろう(もう少し踏み込んで言えば、テリトリーと作動権力は相互規定的である、ということだが)。
つまり、領域を特定するとはそこで働く権力を特定することに他ならず、権力を特定するとはその権力が効力を及ぼす領域を特定する、ということだ。
こうして、権力の作動領域として、様々な社会的領域が記述される(と同時に、その領域内の権力の作動形式も記述し得る)。
企業、学校、家族、社会運動体、地域の自治組織etc…
さて、おわかりかと思いますが、本シリーズで僕は、そのような権力の作動領域として国家を記述してみたい。
いよいよ佳境かな?
嬉しい反面、そんなにもらってええんかないな、という罰当たりな気持ちにならないわけでもないのですが…
誓い四日目にして挫けそうなダメ人間ではありますが、義理拍手(もかなりの程度あると踏んでいるのですが)を本気の拍手に変えるべく、慢心せずに記事をアップしていく所存であります。
前置きはこれくらいにしてと。
権力の原理から国家を考えるシリーズ第3弾であります。
国家について 権力の原理から考えてみる(1)
国家について 権力の原理から考えてみる(2)
国家について 権力の原理から考えてみる 補足編
の続きです。
本シリーズでは、権力を「他者に対して、(自らの意向に関わらず)特定の行動をとらせる場合に想定される力」と定義しました。
言い換えれば、「社会のあるところ・秩序のあるところ権力あり」という「遍在する権力」的な権力観ですね。
このような権力観が、権力についての焦点をぼやけさせ、したがって権力批判の矛先を鈍くしてしまう、という批判があり得ることについては素直に認めます。
ただし、僕は(古典的)左翼的権力観、すなわち「悪い権力があって、それさえ叩けば社会は良くなるのだ!」的、お花畑思考も拒否します。
権力の不可避性を認識しつつ、いかに権力批判をしていくか。
そこに社会(科)学の醍醐味があると言っても過言ではないでしょう。
その意味でも、現代社会(科)学を論じるに当たって、やはりフーコーは避けて通れないと思われます(が、残念ながら僕にはフーコーについて論じる力量はありませんので、専門家が書いた図書をお勧めします。ちなみに、現代思想の6月号の特集がフーコーでした)。
シリーズ(1)、(2)では、権力には正統性(私たちが権力に従う理由)が必要である旨、そして権力の正統性は唯一性と排他性からなる旨を書きました。
本エントリーでは、このような性質を備える権力が、どのような現象を生み出すかを考察したい。
僕としては、権力の運動を、できるだけ自律的なプロセスとして描きたい。
自律的な、という意味は人々の意図とか思惑とは独立に、という意味なのだが(無期限休止中の行為と意図シリーズもこの辺りに関わってくるはずなのですが…)。
要するに僕は、権力を特定の人物の思惑や意図とは独立した事象として描きたいわけです(というのも、権力が特定の人物と密接に関わるとした途端に、権力=悪という左翼的権力観が頭をもたげてくるからです)。
ということで、権力の運動を自律したプロセスとして、すなわち、特定の人物の意図や思惑とは(相対的に)独立したプロセスとして記述すること、これが僕の権力論(と呼べるほど大げさなものではありませんが)の基本テーゼとなります。
なお、上記のように述べたからといって、「ヒトラーなくしてナチズムはあり得なかった」とか、「スターリニズムの成立にはスターリンという存在が不可欠であった」といった主張を否定するものでもありません(積極的に肯定するわけでもありませんが)。
長い前置きになりました。
権力にとって(少なくともそれが一定期間持続するために)正統性が不可欠であること、正統性が唯一性と排他性からなるとして、では権力はどのような現象として現れるだろうか?
結論から言いますと…
権力は特定の領域内でその効力を発揮する、ということだ(もっと踏み込んで、権力はそのテリトリーを画定する、と言い換えてもよい)。
権力のテリトリーとは、権力がその唯一性と排他性によって効力を発揮する領域に他ならない。
そして、テリトリー自体が権力の運動によって画定されるわけだ。
その意味で、僕のいう権力の運動は、生命に似ている(権力の運動を自律的なプロセスとして記述しようとしているから当然かもしれないが…)。
生命はその個体を画定すると同時に、その個体内でのみ生命が生命として存在できるのだ。
もちろん、このアナロジーには限界もあるのだが…
権力に戻って。
例えば、学校におけるルールは、通常は学校においてのみ、その効力を発揮する(子どもたちは学校というテリトリーにおいてのみ、一斉に授業を受け、先生の言うことを聞くという振る舞いをする)。
それは学校権力(学校のルールをルールたらしめる力)が学校内でのみその効力を発揮するからだ。
家族内のルールは、通常は家族外の人物には適用されない。
つまり、テリトリーごとに権力があり、逆に権力ごとにテリトリーが定まっている(あるいは、定まりつつある)。
このように考えれば、社会の(相対的に独立した)領域を、その作動権力によって特定することが可能になるだろう(もう少し踏み込んで言えば、テリトリーと作動権力は相互規定的である、ということだが)。
つまり、領域を特定するとはそこで働く権力を特定することに他ならず、権力を特定するとはその権力が効力を及ぼす領域を特定する、ということだ。
こうして、権力の作動領域として、様々な社会的領域が記述される(と同時に、その領域内の権力の作動形式も記述し得る)。
企業、学校、家族、社会運動体、地域の自治組織etc…
さて、おわかりかと思いますが、本シリーズで僕は、そのような権力の作動領域として国家を記述してみたい。
いよいよ佳境かな?




