2009-06

民主的社会の二つの性質 寛容(包摂性)と多様性

実は、昨日(というか今日)ズルをしちゃいました。
というのも、6/2の記事は実際にアップしたのは今日に入ってからだったのですが、更新時間をちょっといじって昨日更新にしてしまいました。
6/1に毎日更新の誓いを立てたばかりで、二日目に誓いを破るのはさすがにアレなのと、実際の更新が本日0時5分くらいだったので、誤差5分くらいならギリギリセーフかなと(何が?)。
おかげで(?)、エントリーがエラく中途半端で誤字も多いのですが(言い訳)。
修正したり書き加えたりしております。

あ、どうでもいいことですね。
では本題へ。
以前に、民主的社会の二つの態度 妥協と連帯というエントリーを上げました。
妥協とは実現すべきイシューに優先順位をつけることであり、連帯とは当面のイシュー以外のことについては当面は不問に付すということだ。
一言で言えば、小異を捨てて(妥協)大同に付く(連帯)ということでありました。

さらには、次のように述べました。

「小異にされた人々に対する、大同による抑圧である」という批判も当然あるだろうし、その批判は正当でもある
しかし、先に述べた民主的社会における妥協と連帯が不可避であることを踏まえれば、「小異を捨てて大同に付く」という暴力性もまた不可避となる(暴力性を一切内包しない国家や政治は不可能である、ということもまた私たちは認識しておくべきだろう)。
だとすれば、私たちに必要なことは、「『小異を捨てて大同に付く』ことの暴力性を自覚しつつ、社会をよりよいものとするための連帯を深めていくこと」である他はない。
そして、そうやって連帯を深めていくことでしか、未来への希望は生じてこないのではないだろうか?



ここのところをもう少し展開してみたい。
暴力性を自覚しつつというのは、決して暴力性に居直るという意味ではない。
つまり、「いかなる国家や政治も暴力性を内包するのだから同罪だ!」、と思考停止的にDD論(どっちもどっち論)をぶちかますことが正当化されるわけではない。

二つの制度の暴力性を比較し、どちらが市民にとってより暴力性が少ないか、そのような消極的な選択を繰り返すことでしか、国家や政治の暴力性は解除できない(と思う)。
そういうレッサー・イビル(lesser evil)的な選択は、人によっては(一気に社会を理想的なものにしようとしたい人)不満に感じるかもしれない。
しかし、理想に燃えて社会を一気に理想的なものに変革しようとする情念が、却ってより抑圧的・暴力的な権力を現出させ(得)る旨を昨日の(本当は本日の)エントリーで述べました(スターリニズムや連合赤軍)。
したがって、歴史に学ぶならば、社会の欠点を一つ一つ修正していく他ないわけであります。

そして、引用部分で述べたように、暴力性を一切内包しない国家や政治は不可能である、ということを踏まえるならば、社会変革の(国家・社会の暴力性を解除する)プロセスには終わりがないこともまた私たちは認識しなければならないだろう。
このことも、人によっては受け入れ難いかもしれない。
私たちがいつか理想的な社会に到達できる、という見通しが得られなければ、相対主義やニヒリズムに陥ってしまう人が出てくるかもしれない。
そういう人は、社会を変革しようとする動機を見失い、政治から逃避してしまうかもしれない。
それはますます人々の分断を促進してしまうだろう。

だとすれば、私たちが社会を民主的に改善し(続け)たいと望むのであれば、民主制の壁(社会を徐々にマシなものに変えていく他ないという壁)を自覚しつつ、この変革のプロセスに参入する市民を生み出す仕組みを社会に組み込んでいかなければならないだろう。
具体的には、教育の変革が重要なイシューの一つになるだろう。

国家・社会が持つ暴力性(小異を切り捨てる暴力性)を自覚することは、少数者への想像力を持つことと言い換えられるだろう。
少数者への想像力を持つためには、私たちは(少数者を含む)多様な他者と接する機会を持たなければならない(同様の社会的境遇にいるもの同士でグループを作るなら、その他の社会的境遇のもの達への想像力は育めないだろう)。

そして、もし私たちが社会的リーダーを必要とするならば(政治家はその筆頭だろう)、その者は当然他者への想像力を持たなければならないだろう(他者への想像力が持てないならば、一体どうして他者という存在からなる社会を少しでもマシなものにしようと思うだろうか?)
小泉・安倍・福田・麻生という四代続いた世襲殿様首相は、世襲政治家という存在が、他者への想像力を絶望的に欠如させていること、したがって社会をマシなものにしようとする動機を完全に欠落させている(にもかかわらず政治家になるのみならず、首相にまで上り詰めてしまう)ことを証明して見せた。

話を戻してと。
他者への想像力を培うためには、多様な他者と接する機会を持てなければならない。
多様な他者と接するためには、社会に多様な他者が存在しなければならない。
社会に多様な他者が存在するには、社会が多様な生き方を許容しなければならない。
逆に社会が多様な生き方を許容すれば、現に多様な生き方をする他者が社会に存在して、その他者と接する機会が増えるだろう。
そうして、多様な他者と接することにより、私たちの他者への想像力が育まれていくわけである。

再び教育という問題に戻るなら、(学力のみならず)家庭の収入・資産によって選別する私学という制度は、そこに通う子ども達から多様な他者と接する機会を奪ってしまう(金持ち同士との接触機会しかなくなってしまう)わけで、(機会平等のみならず)民主的社会の維持という観点からも否定される。

こうして、寛容(ないし包摂性)と多様性が民主的社会の備えるべき性質となるだろう。

で、いつもの持論ですが。
寛容と多様性を備えるべき民主的社会においては、金持ちという同質な人々が集まることを許容する私学という制度は否定され、教育は(金持ちの子どもも庶民の子どももともに学ぶ)公的教育のみが正当化されるということになります。

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