国家について 権力の原理から考えてみる 補足編
シリーズの番外編です。
本編では、「遍在する権力(社会のあるところ・秩序のあるところ権力あり、的な権力観)」という観点から権力という原理について考察しようとしています。
そして、僕の目論みはそのような権力観から国家という現象を考えてみたい、というところにあります。
最終的には、カルデロン一家の事件(?)に見られたような事態が、権力の原理から捉えた国家という観点からはどのように見えるのか、というところを考察することにあります(ま、そこまでいけるかどうかは甚だ怪しいところではありますが…)。
本エントリーでは、上記の遍在する権力的な権力観と対立する権力観について述べようと思う。
というのも、対比的に述べた方が理解が進むと思っているので。
実際には、権力と言ったときに、フツーの人のイメージする権力だと僕は思っているのですが…
それを取り敢えず、(古典的)左翼的権力観と呼ぶことにします。
では、(古典的)左翼的権力観(と僕が考えるもの)はどのようなものか?
それは、(一般市民とは別に)権力を行使する権力者がおり、その権力者が自らの利権を確保するために、権力を行使してか弱い庶民を虐げる、風の権力観である。
(古典的)左翼的と表現するのは、(古典的)左翼は一般的に、反権力的なスタンスから権力を悪としてイメージするからである(多分)。
言い換えれば、「社会に矛盾があるのは悪い権力が存在するからであり(まあ、左翼的には権力がそもそも悪なのだが)、権力さえなくせば世の中は良くなるのだ」、というまあ素朴な信念である。
「権力=悪」→世の中を悪くする、ゆえに権力をなくせばよいのだ!、というのは確かに分かりやすいのだが…
そして、(古典的)左翼がその素朴さを反省することを余儀なくされたのが、スターリニズムという惨劇であった。
(古典的)左翼的に反権力で突き進み、(敵視していた)権力を放逐したはずが、より強大で独裁的な権力を現出させてしまった。
この歴史の皮肉に直面して、多くの左翼はその権力観を修正しなければならなくなっただろう。
あるいは、「あれはやり方が悪かっただけであって、反権力(=左翼)そのものが問題なのではない」、と思ったかもしれない(→確証バイアスですね)。
日本では全共闘運動から、連合赤軍に至るプロセスがその縮小版であった(連合赤軍のお話(そしてプラグマティズムへ)を参照)。
つまり、権力を打倒してよりよい社会を作ろうとするはずの運動が、当の権力よりさらに過激な権力を生み出すというアイロニー。
そのような事態に直面してしまったら、社会を変えようという動機を失い、政治から逃避しようとしてしうのも無理もないのかもしれない。
(社会変革を目指した)全共闘戦士の多くが、企業戦士へと躊躇なく(?)転向してしまったことを責めるのは酷なのかもしれない(その後の世代から突き上げを食らったのも故ないことではないが)。
ともあれ、庶民を痛めつける強大な権力があって、それをなくせば社会が良くなる、という考えが素朴に過ぎるとしても、じゃあ社会変革の道筋をどのように描けばよいのか。
その答えは単純ではないだろう。
その答えを出すことが本シリーズ一つの試みである。
その試みがうまくいくかどうかは定かではありませんが…
一応付け加えておくと、権力批判は重要である。
それは必ずしも(古典的)左翼的権力観(権力=悪)によるものではない。
ただし、権力批判においては、ではどのように権力を編成しなおすか、という建設的・生産的視点が伴わなければ、権力=悪という左翼的権力観に陥りがちになってしまうのかもしれない。
本編では、「遍在する権力(社会のあるところ・秩序のあるところ権力あり、的な権力観)」という観点から権力という原理について考察しようとしています。
そして、僕の目論みはそのような権力観から国家という現象を考えてみたい、というところにあります。
最終的には、カルデロン一家の事件(?)に見られたような事態が、権力の原理から捉えた国家という観点からはどのように見えるのか、というところを考察することにあります(ま、そこまでいけるかどうかは甚だ怪しいところではありますが…)。
本エントリーでは、上記の遍在する権力的な権力観と対立する権力観について述べようと思う。
というのも、対比的に述べた方が理解が進むと思っているので。
実際には、権力と言ったときに、フツーの人のイメージする権力だと僕は思っているのですが…
それを取り敢えず、(古典的)左翼的権力観と呼ぶことにします。
では、(古典的)左翼的権力観(と僕が考えるもの)はどのようなものか?
それは、(一般市民とは別に)権力を行使する権力者がおり、その権力者が自らの利権を確保するために、権力を行使してか弱い庶民を虐げる、風の権力観である。
(古典的)左翼的と表現するのは、(古典的)左翼は一般的に、反権力的なスタンスから権力を悪としてイメージするからである(多分)。
言い換えれば、「社会に矛盾があるのは悪い権力が存在するからであり(まあ、左翼的には権力がそもそも悪なのだが)、権力さえなくせば世の中は良くなるのだ」、というまあ素朴な信念である。
「権力=悪」→世の中を悪くする、ゆえに権力をなくせばよいのだ!、というのは確かに分かりやすいのだが…
そして、(古典的)左翼がその素朴さを反省することを余儀なくされたのが、スターリニズムという惨劇であった。
(古典的)左翼的に反権力で突き進み、(敵視していた)権力を放逐したはずが、より強大で独裁的な権力を現出させてしまった。
この歴史の皮肉に直面して、多くの左翼はその権力観を修正しなければならなくなっただろう。
あるいは、「あれはやり方が悪かっただけであって、反権力(=左翼)そのものが問題なのではない」、と思ったかもしれない(→確証バイアスですね)。
日本では全共闘運動から、連合赤軍に至るプロセスがその縮小版であった(連合赤軍のお話(そしてプラグマティズムへ)を参照)。
つまり、権力を打倒してよりよい社会を作ろうとするはずの運動が、当の権力よりさらに過激な権力を生み出すというアイロニー。
そのような事態に直面してしまったら、社会を変えようという動機を失い、政治から逃避しようとしてしうのも無理もないのかもしれない。
(社会変革を目指した)全共闘戦士の多くが、企業戦士へと躊躇なく(?)転向してしまったことを責めるのは酷なのかもしれない(その後の世代から突き上げを食らったのも故ないことではないが)。
ともあれ、庶民を痛めつける強大な権力があって、それをなくせば社会が良くなる、という考えが素朴に過ぎるとしても、じゃあ社会変革の道筋をどのように描けばよいのか。
その答えは単純ではないだろう。
その答えを出すことが本シリーズ一つの試みである。
その試みがうまくいくかどうかは定かではありませんが…
一応付け加えておくと、権力批判は重要である。
それは必ずしも(古典的)左翼的権力観(権力=悪)によるものではない。
ただし、権力批判においては、ではどのように権力を編成しなおすか、という建設的・生産的視点が伴わなければ、権力=悪という左翼的権力観に陥りがちになってしまうのかもしれない。




