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2009-05

国家について 権力の原理から考えてみる(1)

久々に思索をすることになりそうですが…(ブログタイトルに偽りあり?)

カルデロン一家のことが、ひところブログ界隈を賑わせました。

比較的初期のブログ記事をいくつか。
人道的な「もう一つの日本」へ、カルデロン一家に正規の滞在資格を!!
法と秩序~カルデロン家について
過去の親の不法行為と、現在の子どもの幸福と、現在の地元からの支援とを考えて (カルデロンのり子さん一家への在留特別許可を私は求めます)

その後の展開については村野瀬玲奈の秘書課広報室記事一覧からピックアップしてご覧になるのがよろしいかと。

さて、左派・リベラル系のブログでは、人権尊重の観点から一家に同情的な、あるいは入管・法務省に批判的な論調が多かったように記憶している。
一方、右派(≒ネトウヨ)系のブログでは、「法を破るのはケシカラン」とばかりに、国家権力に思いっきり一体化し(それで偉くなったつもり?的な)、排外主義(≒差別主義)を得意げにひけらかし、たまたま日本に生まれ落ちた幸運に思いを至らすことすらなく、その裏返しとしてたまたま不幸な境遇に生まれ落ちた人々への想像力を完全に欠落させた、独りよがりの感情論が多かった(というかそれ以外のものは認められなかった)ように記憶している。

えーっと、右派(≒ネトウヨ)の記述が若干(?)悪意的?
その自覚はありますのでご心配なく。

自分としても何か書こうという思いはあったのですが、(右派は論外として)左派・リベラル的な論調にも違和感があり、どのように書こうかと思案しているうちに月日ばかりが経ち、おまけに歴史的大謀略(?)の西松事件が勃発し、いつしか書くタイミングを逃してしまいましたが…(ま、言い訳ですが)
しかし、時間をあけることで却って本質的なところが抉り出せるのではないか、と自分に都合の良いように解釈し、自分が考えたことを開陳してみよう。

ということで(?)、権力の一完成形としての国家という観点から、今回の事件(?)を読み解いてみようと思う(ちょっと大それた気もしないでもないですが)。

さて、「権力とは何ぞや?」というのは社会科学系学問の一大テーマでありまして、僕のような門外漢が出る幕もないのかもしれないが(まぁ、そこは厚かましく)。
権力とは、一般には国家権力に象徴されるように、強大な権力としてイメージされ、その強大な権力がか弱い一般市民に睨みを利かせる、風の古典的左翼の権力観(悪としての権力)がわかりやすいでしょうが…

本エントリーでは、権力を大雑把に、「他者に対して、(自らの意向に関わらず)特定の行動をとらせる場合に想定される力」、とでも定義しておこう。
もっとも権力の作動形態としてイメージしやすいのは法であろう(私たちは悪法であっても法を守るように動機付けられている)。
権力のもっとも原初的な形態は、暴力を背景にした脅し的なものであろう。
警察権力は、ある意味でその最も原初的な形態を保った権力と考えられる。
権力のありようを分類したり分析することが主題ではないので大きくは踏み込みはしませんが、権力のある意味究極な形態は、「自発的に権力に服従する被支配者を生み出す」ことにあると言えるだろう(その場合に権力の正統性は最も確かなものとなる)。

ちなみに、現代において権力のことを多少ともマジに論じようとするならば、ミシェル・フーコーの仕事は無視できないと思われる(のだが、さすがの僕もフーコーを真正面から取り上げるのは多少の躊躇いがある)。

それはさておき、上記のように権力を定義した場合、そこから導かれる権力の性質がいくつか挙げられるだろう。
一つは権力には正統性が必要である、ということであり、正統性とは、唯一性および排他性を備えるということである。
正統性とは、被支配者が権力に従う理由がある、ということであり、権力は比較的長期にわたって持続するためには正統性が必要である(正統性なき権力は常に危機に瀕している、と言っていいだろう)。

正統性とは、前近代社会では特定の権威(教会の権威、天皇などの血統という権威など)であり、近代社会では民衆により支持されているということであったり、特定の手続き(選挙など)に則って権力を行使する、ということであったりする。

いずれにしても、正統性を有して初めて権力は生きながらえることができるわけだ(あるいは、生きながらえる権力は正当性を必要とする)。
そして、近代社会(民主的社会)においては、正統性は民衆の実質的な支持と何らかのかかわりを有していると考えられる(通常は支持は普通選挙を通じて確認される)。
実質的なの意味は、権力(者)による恣意的な介入を経ないで、ということである。
例えば、北朝鮮のような統制国家においても、権力(者)は民衆の支持を得ているように喧伝されるが、自由意志による選挙すら担保されていない彼の地では、民衆の実質的な支持を得ているとは見なすことはできないだろう。

西松事件では、「世論調査」を利用して「小沢辞任すべし」が世論として作り上げられ、報道機関各社の「小沢辞めろ」的な報道姿勢を正当化(正統化ではない)していた。
報道機関の「世論調査」なるものも、民衆の支持による正統化を狙ったものと言えるだろうが、大手メディアの報道が記者クラブに従属したものであり、記者クラブ自体が権力に迎合した存在であり、「世論調査」も(恣意的な)設問によっていくらでも数字を変えられるわけであり、その意味で「世論調査」を民衆の支持と直結させるのは短絡的という他はない。

というわけで、中途半端ではありますが、権力の大雑把な定義、権力に正統性が必要な理由、正統性の内訳について大雑把に記述しました。

次のエントリーでは、権力の唯一性と排他性をもう少し展開しようと思います。
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