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2009-05

「自白偏重」と「捜査・裁判」の劣化について(3)

えー、自白の問題、第3弾です。
「自白偏重」と「捜査・裁判の劣化」について(1)
「自白偏重」と「捜査・裁判」の劣化について(2)+α
の続きになります。

さて、上記2エントリーでは日本社会では(当然、警察・検察・裁判所・メディアにおいても)「自白の神話」、即ち「自白すると刑罰を受けることが分かっているのだから、無実の人は(もしその人が合理的ならば)自白なんかするわけがない(=自白をするということは、キ○ガイか犯人であるに違いない)」という神話が広く共有されていると書きました。
実際には、「自白の神話」が維持された方が、権力(警察・検察・裁判所)にとって都合が良い面もあり(後日言及)、権力側が「自白の神話」を維持しようとする動機も有していると思われる(当然のことながらメディアにとっても都合がよい)。

しかし、「自白の神話」と表現したように、上記の信念には何の現実的な根拠も有さない。
そこを述べてみたい。

といっても、そんなに複雑な話をするわけでもありません。
中学生程度の論理的思考力があれば、こんな神話は簡単に解体できるはずなのだが…
にもかかわらず、「自白の神話」が蔓延っているということは(警察・検察・裁判所にも!)、日本社会では中学生程度の論理性すら欠如しているということか?
まぁ、疑似科学バッシングもいいけど、こっちの方がよっぽど問題じゃないっスかね?
ま、いいけど。

論の展開を簡潔にするために、「自白の神話」を次のように単純化してみましょう。
もし容疑者が自白すれば、その容疑者は犯人である(これの対偶が、容疑者が犯人でなければ、その容疑者は自白しない、となる)」
「容疑者が自白する」をA、「容疑者が犯人である」をBとすると、「自白の神話」は「AならばB(対偶はBでないならばAでない)」と定式化できる。
ちなみに、一般に命題はその対偶と論理的には同値である。

とすれば、「自白の神話」の否定の条件は簡単である。
「AであるのにBでない」、すなわち「犯行の自白をしたが犯人ではない」容疑者が一人でもいれば(すなわち冤罪)この神話は明確に否定できる。
それが反証ということである。

では、「AであるのにBでない」、すなわち「犯行の自白をしたが犯人ではない」実例はあるだろうか?
言いかえれば、「犯人ではないにも関わらず、自白をした(結果、刑に服した)」実例はあるだろうか?
当然あります。取り敢えず僕の知っている範囲で2例ですね。
一例は『自白の心理学』で取り上げられている宇和島事件(by wikipedia)、もう一例は富山事件(by wikipedia)ですね。

どちらも、事件の容疑者として逮捕され、取り調べにおいて自白して起訴され、後に真犯人が現れて無実が証明された事件です。
前者では真犯人の出現が幸いにも(?)判決が出る前であったが、後者では実刑判決を受け、出所後に冤罪が判明した。

この二例は、繰り返しになりますが、「犯人ではないにも関わらず、虚偽の自白によって逮捕・起訴された」実例である(うち一例は刑罰まで受けている)。
当然のことながら、犯人ではないわけだから、犯行と結びつく物証など皆無である。
にもかからわず、起訴されたのみならず(この時点で検察の無能が明らかとなる)、有罪判決まで受けた(裁判所が物証の吟味を一切行わず、自白のみで有罪判決を下したことが明らかとなる)。

そして、シリーズ(2)で述べたように、自白が偏重されれば偏重されるほど、魔女裁判に近づいていく…

しかし、「自白の神話」を明確に否定する二事件の存在にも関わらず(実際にはもっと多いだろう)、「自白の神話」はいまだ根強く蔓延っているようにも思われる。
一つは繰り返しになるが、その方が警察・検察・裁判所・メディアにとって都合がよい故に。
もう一つは、宇和島事件や富山事件が例外事象として無視されるが故に(「あれは自白した奴がアホなんだよ(フツーは自白しないんだよ)」という風に)。

「AならばB」という信念が、それを明確に否定する実例(AなのにBでない例)の存在にも関わらず維持される事態。
それはまさに、当ブログでも何度か取り上げた確証バイアスに支配されていると言えよう(確証バイアス(人間が陥りやすい思考の罠)参照)。
要は批判的思考の欠如である。

確証バイアスは、疑似科学とも関わるが、いま述べてきたように裁判や警察・検察の捜査にも(したがって、市民の人権にも)関わってくる問題である。
にもかかわらず、警察・検察のみならず、裁判所まで批判的思考を欠如させ、確証バイアスによって「自白をした人間は犯人である(犯人でなければ自白しない)」という誤った信念を維持している現実に直面すると、背筋が寒くなってしまう。

確証バイアスに支配された、自白偏重の捜査・裁判が続く限りは、宇和島事件や富山事件のような冤罪事件が今後も起こることを予防しえない
そして、裁判員として市民が関わる裁判員制度を前提とすれば、市民が直に冤罪を生み出す構造に巻き込まれていくことに他ならない(おまけに、裁判員制度の問題点は、守秘義務によって表に出にくくされている)。

超党派による裁判員制度の凍結・見直しの動きの行方には注視していきたい(しかし、この議連に共産党議員が一人も参加していないのは何故?共産党は裁判員制度には全面的に賛成なのか?)。
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