構築主義(2)
ベーシックインカムについての新書が出ました。
『ベーシックインカム入門』
まだほとんど読んでいないのですが、書評を読む限りではその思想史的な記述に力点が置かれているようですね。
まあ、ベーシックインカムを主題とする新書が出ただけでも意義のあることかなと。
ただ、今は新書も多いからなぁ…
えー、いつになく同一シリーズが続いておりますが…
ちなみに、終わりはいまだ見えておりませんので、いつまで続くやらという感じなのですが。
それはさておき、本題からはやや逸れて構築主義の続き。
性についての本質主義的な語りを概観しました。
それは、性の本質を生物学(自然)に求め(sex)、そこから社会的な性(gender)のありよう(規範)を導こうとするあり方でした(そこでは「sex/gender」の二分法が自明視されていました)。
さらにわき道に逸れますが、これ(本質主義)は特定の規範を流通させるのに効率的なやり方であります。
一般化すれば、次のように定式化できます。
「自然は素晴らしいものだ」という風に、自然という抽象的なものに(正の)価値を持たせます(自然という概念の持つ抽象性が重要です)。
そのやり方は比較的容易で、自然に対して正の感情(美しさなど)をアピールする場面を流せばよいわけです(視覚に訴えるのが最も感情を揺さぶると思われます)。
例えば、自然の美しい風景(いくらでも見出せますね)、自然に生きる動物達の美しい親子愛(人間が勝手に読み込んだものでありますが)など。
一旦自然が価値あるものとされれば、後は自然をアピールれば、「自然はよいものだ」という信念は強化されます(既に自然を価値あるものと見做すようになっており、自然をみれば「自然はいいなぁ」と条件反射が起こるから)。
さて、こうして自然という抽象的なものに、(盲目的に)正の価値を置くようになれば、特定の規範に人々を従わせることは容易になります。
「これこれこのような役割は自然なのだよ、ほら動物の世界をみてごらん」とやる。
「自然はよいものだ」「この役割は自然なものだ」→「この役割はよいものだ」
こうしてある役割が自然であると記述されれば、(その実態がどうであれ)自明視されることになります。
特に性とは生物学的に(自然的存在として)あまりにも自明なものですから、そこから導かれる性役割もまた自明なもの(自明によいもの)となるわけです。
こうして、抽象的なものに価値を付与する思考(言説)、には注意をする必要があります。
それは、人々を特定の規範に無意識のうちに従わせる(=ファシズムの)手段になり得るからです。
そのような抽象的な概念の代表的なものが「自然」であるわけですが。
結論を先取りして言えば、僕は「心」もそのような(抽象的で、人々がよいものと見做しがちな)概念だと考えているわけです。
だいぶ脱線してしまいましたが、本質主義の問題点が見えてきたのではないでしょうか?(そうでもないかな?)
本質主義は、例えば日本人の本質(伝統とか天皇とか)を措定して、日本人はこうあるべきだ、みたいな語りを誘発するわけです。
さて、では構築主義はそのような、「本質を措定して、その本質に人々を従わせようとする言説(本質主義的言説)」にどのように批判を加えていったのでしょうか?
冒頭の「sex/gender」の二分法に戻ります。
本質主義(的な性別観)は、性の本質はsex(生物学=自然)にあり、genderはそれに規定されるもの、と見做しました(で、自然であることがよいことであれば、それに規定されるgenderが当然の規範と見做される)。
それに対して、哲学的に「事実命題(生物学的事実=sex)から価値命題(性規範=gender)を導き出すことはできない」と批判することももちろん可能です。
構築主義は、よりラディカルに(?)本質主義への批判を展開しました。
その批判は「sex/gender」の二分法そのものへと向かいました。
私たちはsexを厳然たる事実と見做しています(顔つき、肉付き、性器など)。
一方、genderは性役割に関する様々な言説からなります。
「男は仕事、女は家庭」「男は強く、女は優しく(古い?)」「浮気は男の甲斐性だ!(コレも古い?)」「女は男を立てるもの(死語?)」「主人(と夫人)」「未亡人」etc…。こうした男女に関する様々な語り(言説)が、総体として男女のあり方(gender)を規定しています。
さて、こうしてジョーシキ的に考えれば、一方(sex)は厳然たる事実、もう一方(gender)は言説(の総体)であるわけで、「sex/gender」の二分法は当然と思われるでしょう。
しかし、であります。
「事実」とは、「事実そのもの」があるのではなく、「私たちがこれこれという事実と見做した」ということと独立ではありません(そもそも、認識ということが「あることをそれ『として』見る」ということであるわけです)。
「~として見る」とは「~と解釈(ないしは理解)する」ことに他ならず、そこには必ず言語的な契機が含まれます。
つまり、「あることが事実である」と語ることは、「私たちはこれこれを事実と解釈している」ということに他ならず、その事実に関する様々な語り(言説)と独立ではあり得ません。
そして、言説はホーリスティック(全体論的)な性質を有しています。
ホーリズム(全体論)については、詳細は省きますが、言語的な意味(単語にしろ、文にしろ、説話にしろ)は単独で確定するのではなく、言語システム全体のなかではじめて特定される、という風に表現できます。
例えば、「犬」ということばにしても、「生き物」、「動物」、「哺乳類」、「ペット」、「人懐っこい」etcの様々な性質を有するものとして一つの概念をなすわけですし、「猫」「狼」「人」といった「犬」とは異なる生物と対比されて一つの概念をなすわけですし、「セントバーナード」「柴犬」「ブルドッグ」といった概念を統合するものとして一つの概念をなすわけです。
さて、以上を踏まえて考えれば、生物学的事実と見做されているsexは、sexについての語り(言説)と独立ではありませんし、ホーリスティックに考えれば言説は互いに関連しあっていますからsexについての語り(言説)とgenderに対する語り(言説)を厳密に切り分けることはできません(相互浸透的であります)。
より踏み込んで言えば、生物学的性(=sex)は社会的性(=gender)と無関係ではあり得ない。
つまり、厳然たる事実と私たちが見做しているsexは、性に関する我われの規範(gender)とは独立ではあり得ない。
要するに、sexは性規範(gender)に関する我われの語り(言説)によって社会的に構築されている(側面もある)。
こうして、構築主義を次のように定式化できるだろう。
構築主義:(社会的)現実とは、単なる事実の集積なのではなく、事実に関する様々な語り(言説)によって構築されている(あるいは、事実そのものが言説的に構築されている)、ということを明らかにしようとする立場
まあ、バトラーの議論とは違うかもしれませんが、構築主義のエッセンスは述べることができたのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
行為と意図がなかなか出てきませんが…
次ももう少し構築主義について述べます(多分、構築主義については次で一旦終了の予定です)。
『ベーシックインカム入門』
まだほとんど読んでいないのですが、書評を読む限りではその思想史的な記述に力点が置かれているようですね。
まあ、ベーシックインカムを主題とする新書が出ただけでも意義のあることかなと。
ただ、今は新書も多いからなぁ…
えー、いつになく同一シリーズが続いておりますが…
ちなみに、終わりはいまだ見えておりませんので、いつまで続くやらという感じなのですが。
それはさておき、本題からはやや逸れて構築主義の続き。
性についての本質主義的な語りを概観しました。
それは、性の本質を生物学(自然)に求め(sex)、そこから社会的な性(gender)のありよう(規範)を導こうとするあり方でした(そこでは「sex/gender」の二分法が自明視されていました)。
さらにわき道に逸れますが、これ(本質主義)は特定の規範を流通させるのに効率的なやり方であります。
一般化すれば、次のように定式化できます。
「自然は素晴らしいものだ」という風に、自然という抽象的なものに(正の)価値を持たせます(自然という概念の持つ抽象性が重要です)。
そのやり方は比較的容易で、自然に対して正の感情(美しさなど)をアピールする場面を流せばよいわけです(視覚に訴えるのが最も感情を揺さぶると思われます)。
例えば、自然の美しい風景(いくらでも見出せますね)、自然に生きる動物達の美しい親子愛(人間が勝手に読み込んだものでありますが)など。
一旦自然が価値あるものとされれば、後は自然をアピールれば、「自然はよいものだ」という信念は強化されます(既に自然を価値あるものと見做すようになっており、自然をみれば「自然はいいなぁ」と条件反射が起こるから)。
さて、こうして自然という抽象的なものに、(盲目的に)正の価値を置くようになれば、特定の規範に人々を従わせることは容易になります。
「これこれこのような役割は自然なのだよ、ほら動物の世界をみてごらん」とやる。
「自然はよいものだ」「この役割は自然なものだ」→「この役割はよいものだ」
こうしてある役割が自然であると記述されれば、(その実態がどうであれ)自明視されることになります。
特に性とは生物学的に(自然的存在として)あまりにも自明なものですから、そこから導かれる性役割もまた自明なもの(自明によいもの)となるわけです。
こうして、抽象的なものに価値を付与する思考(言説)、には注意をする必要があります。
それは、人々を特定の規範に無意識のうちに従わせる(=ファシズムの)手段になり得るからです。
そのような抽象的な概念の代表的なものが「自然」であるわけですが。
結論を先取りして言えば、僕は「心」もそのような(抽象的で、人々がよいものと見做しがちな)概念だと考えているわけです。
だいぶ脱線してしまいましたが、本質主義の問題点が見えてきたのではないでしょうか?(そうでもないかな?)
本質主義は、例えば日本人の本質(伝統とか天皇とか)を措定して、日本人はこうあるべきだ、みたいな語りを誘発するわけです。
さて、では構築主義はそのような、「本質を措定して、その本質に人々を従わせようとする言説(本質主義的言説)」にどのように批判を加えていったのでしょうか?
冒頭の「sex/gender」の二分法に戻ります。
本質主義(的な性別観)は、性の本質はsex(生物学=自然)にあり、genderはそれに規定されるもの、と見做しました(で、自然であることがよいことであれば、それに規定されるgenderが当然の規範と見做される)。
それに対して、哲学的に「事実命題(生物学的事実=sex)から価値命題(性規範=gender)を導き出すことはできない」と批判することももちろん可能です。
構築主義は、よりラディカルに(?)本質主義への批判を展開しました。
その批判は「sex/gender」の二分法そのものへと向かいました。
私たちはsexを厳然たる事実と見做しています(顔つき、肉付き、性器など)。
一方、genderは性役割に関する様々な言説からなります。
「男は仕事、女は家庭」「男は強く、女は優しく(古い?)」「浮気は男の甲斐性だ!(コレも古い?)」「女は男を立てるもの(死語?)」「主人(と夫人)」「未亡人」etc…。こうした男女に関する様々な語り(言説)が、総体として男女のあり方(gender)を規定しています。
さて、こうしてジョーシキ的に考えれば、一方(sex)は厳然たる事実、もう一方(gender)は言説(の総体)であるわけで、「sex/gender」の二分法は当然と思われるでしょう。
しかし、であります。
「事実」とは、「事実そのもの」があるのではなく、「私たちがこれこれという事実と見做した」ということと独立ではありません(そもそも、認識ということが「あることをそれ『として』見る」ということであるわけです)。
「~として見る」とは「~と解釈(ないしは理解)する」ことに他ならず、そこには必ず言語的な契機が含まれます。
つまり、「あることが事実である」と語ることは、「私たちはこれこれを事実と解釈している」ということに他ならず、その事実に関する様々な語り(言説)と独立ではあり得ません。
そして、言説はホーリスティック(全体論的)な性質を有しています。
ホーリズム(全体論)については、詳細は省きますが、言語的な意味(単語にしろ、文にしろ、説話にしろ)は単独で確定するのではなく、言語システム全体のなかではじめて特定される、という風に表現できます。
例えば、「犬」ということばにしても、「生き物」、「動物」、「哺乳類」、「ペット」、「人懐っこい」etcの様々な性質を有するものとして一つの概念をなすわけですし、「猫」「狼」「人」といった「犬」とは異なる生物と対比されて一つの概念をなすわけですし、「セントバーナード」「柴犬」「ブルドッグ」といった概念を統合するものとして一つの概念をなすわけです。
さて、以上を踏まえて考えれば、生物学的事実と見做されているsexは、sexについての語り(言説)と独立ではありませんし、ホーリスティックに考えれば言説は互いに関連しあっていますからsexについての語り(言説)とgenderに対する語り(言説)を厳密に切り分けることはできません(相互浸透的であります)。
より踏み込んで言えば、生物学的性(=sex)は社会的性(=gender)と無関係ではあり得ない。
つまり、厳然たる事実と私たちが見做しているsexは、性に関する我われの規範(gender)とは独立ではあり得ない。
要するに、sexは性規範(gender)に関する我われの語り(言説)によって社会的に構築されている(側面もある)。
こうして、構築主義を次のように定式化できるだろう。
構築主義:(社会的)現実とは、単なる事実の集積なのではなく、事実に関する様々な語り(言説)によって構築されている(あるいは、事実そのものが言説的に構築されている)、ということを明らかにしようとする立場
まあ、バトラーの議論とは違うかもしれませんが、構築主義のエッセンスは述べることができたのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
行為と意図がなかなか出てきませんが…
次ももう少し構築主義について述べます(多分、構築主義については次で一旦終了の予定です)。
スポンサーサイト