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2008-10

世間と道徳、社会とルール (1)

本編をどこから始めるか思案中ですが…

今年最も世間を騒がせた(?)秋葉原の殺傷事件を参照したい。
事件発生当初は意識的にこの事件には触れなかった。
このような大きな事件の発生当初は、どうしても人々は感情に流され「がち」であり、冷静な議論を望むのは難しいと思っているからなのだが。
従って、僕の個人的な信念でもあるのだが、生産的な議論をするにはある程度の時間を置いて、事件を人々が客観的に見られるようになる(クールダウンする)のを待つ必要があると考えている。
それを率先して行うのが真のジャーナリズムだと思っているのだが、日本の報道機関は人々の感情を煽る(それは決して生産的な議論を生むことは出来ないのだが)ことにしか関心を持っていないようだ。それが報道の商業主義の必然的な帰結なのかもしれないな。

報道の商業主義の問題もまたいずれは触れたい。

さて、秋葉原の事件(に限らず凶悪な事件)が起きた場合に、まず犯人とされる人物の特異性(異常性)が非常に誇張される形で描写される。
無理のないところもある。
異常性を誇張することで、(誇張された)異常性を持たない自分(や周りの人間)はそのような事件を起こさない、と安心したい。
異常性が誇張されることで、切断操作が容易になる(社会の問題として引き受け「ない」ことの口実になる)。
異常性の誇張には、このような人間の自然感情にマッチする側面がある。
また、単に異常性(の誇張)が人をひきつける面もある(異常性を誇張すればするほど「売れる」)。
そういう報道側の都合もある。

参考図書
アキバ通り魔事件をどう読むか!?
この図書でも基本線は「特殊性への焦点化」であるように思う。

ほとんどの人間が同様の事件を起こさない中で、ある特定の人物が事件を起こす。
その場合に、特定の人物の特異性(異常性)を見つけようとするのは人間の自然感情ではある。
特殊事例には特殊な要因がある、と考えるのは思考のあり方としては自然だろう(逆に言えば特殊な要因がなければ特殊事例は起こらないだろう、という信念である)。
しかし、自然であること(自然な思考や自然感情)が正しい(あるいは有益)とは限らない。
本テーマ(世間と道徳、社会とルール)に即して考えると、異常性の誇張という側面から考えるよりは、むしろ逆方向から考えたほうが良いと思う。

逆方向とはこういうことである。
「同様の境遇にあるにもかかわらず、他の人々はどうして同様の事件を起こさないのか?」と考えることである。
秋葉原事件の犯人(とされる人物)は、ネットの一部では神扱いされたとか、されないとか。
もちろん、それは一つのネタである可能性は十分あるのだが、一定の人からは共感を得た可能性も十分にある。ちょうど、911事件が起こったときに快哉を叫んだ人が(間違いなく)いただろうことと同じように。
だとすれば、その犯人(とされる人物)に共感を覚える人が同様の事件を起こさない理由は何か?
もちろん、ジョーシキ的な理解として、「フツーの人間にはそのような陰惨な事件を起こすことは出来ないのだ(その程度のモラルは備えているものだ)」という考えはあり得る(し、僕もそのような考えを否定しない)。

しかし、僕は一歩その先に思考を進めてみたい。
「なぜ、同様の境遇にあり、共感を覚えたであろう人々は、同様の事件を起こさないのだろうか?」、と。
特殊事例の特殊さ(異常さ)ではなく、一般事例の非特殊性(普通性)に目を向けたい。
これが、このテーマ(世間と道徳、社会とルール)を読み解く鍵になりそうな気がするので。

とりあえず問題提起まで。
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