組織の自己目的化(2)
龍、二日で陥落。
まだまだ修行が足らんね。
と、またまた誰にもわからないネタ振り炸裂。
失礼いたしました。
述べたばかりだが、もう少し論じておこうと思う。
前回は、いまや公明党や自民党という「組織」は、国民のための政策を立案、実現するという目的よりも、組織の保持自体を目的化しているのではないか、と述べました。
そして僕の見るところ、(当初の目的を見失って)自己目的化した組織は、自壊する可能性が高い。
そこを述べてみたい。
まず、順調に機能している組織を考えてみる。
ある目的のために、その目的を共有する人たちが、目的達成のために協働している。
ここに存在するのは、明確な目的と、人々の間での目的の共有と、その目的のために労力を惜しまないモチベーションである。
例えば、企業という組織が順調に機能するためには、利益を上げるという目的の共有、及びその目的達成のためのモチベーションが必要である。
さらには、企業はその利益が成員(社員)の生活基盤の保障に結びつく形で還元しなければならないだろう(それもモチベーションの重要な構成要素になる)。
ということで、組織が機能するための条件(必要条件)を箇条書きにすると、
1.明確な目的の保持とその共有
2.目的達成のためのモチベーションが成員間で維持されること
3.組織へのコミットにより生活基盤が脅かされないこと
が挙げられるだろう。
3.について若干補足すると、通常はその組織へのコミットにより報酬(所得)が得られるということになろうが、例えば十分な所得を有する人間がボランティア活動をする場合なども考慮している(過剰な負担とならず、本業に支障が出ない程度である必要があるだろう)。
さて、では順調に機能していた(?)組織が自己目的化する場合を考えてみる。
まず1が自明視されなくなった状況を考えてみる。
目的自体が達成された場合、あるいは時代の変化により、目的の妥当性が疑念にさらされる場合がそれに相当するだろう。
ただ、「時代の変化」は一種のマジックワードとして機能する場合が多いので、注意を要するということは指摘しておきたい。
ある事柄(詰め込み学習など)を批判する場合に、「かつてはうまく機能していたが、時代が変化してしまったために(例えば、高度成長期から低成長期へ)、時代にそぐわなくなった云々」、といった風に。
これは何かを説明しているように見えて、全く何の説明にもなっていない。
「時代の変化」によって物事(の変化)を説明した気になっている文章に対しては、まず懐疑を投げかけて間違いない。
具体的に時代にどのような変化が生じたか、を説明していればまだ議論の余地はあるが。
それはさておき、目的が自明ではなくなる、ということはあり得る。
例えば、大気汚染の被害に対する運動体(という組織)があったとする。
科学技術により、汚染の原因物質が取り除かれ、その大気汚染そのものがなくなった場合、目的が消失したと見做してよいだろう。
ただし、他の様々な環境汚染に対する運動体として、その組織が生き残る理由は存在するかもしれない。
その場合は、目的の刷新(大気汚染から環境汚染へ)が不可欠となる。
こうして、目的が自明でなくなった場合に、組織の自己目的化という事態が起こる可能性がある(必然的に起こるわけではない)。
次に2について考えてみる。
もちろん、これは1と密接に関連している。
一般にはモチベーションのためには目的が必要であり、目的の自明性の消失は、モチベーションの消失へと容易に結びつくからだ。
従って、モチベーションの保持のためには、新たな目的の創出が必要となるが、一般にはそのような目的は組織保持という目的となりがちだろう。
それは、組織の自己目的化に他ならない。
また、2に関しては、目的は明確であっても、組織運営により成員のモチベーションが上がらなくなる、という事態も考えられる。
これは、一般には経営や人事の問題として表れるだろう。
モチベーションが成員間で維持されるには、成員が一丸となって目的に向かっている、という実感(連帯感)が必要だろう。つまりは、目的の共有である。
目的を共有するためには、一般には成員間で信頼関係が作り上げられる必要があるだろう。
で、近年組織運営の原理としてもてはやされる競争原理は、目的の共有とは相反するように機能する。
競争原理は他者と協力するよりもむしろ、他者を出し抜く(さらには他者の足を引っ張る)ように機能してしまう。
これは、目的を共有し、その達成に成員が一丸となって向かう、ということからますます遠ざかってしまう。
この点からも、人事などの競争原理による評価は否定される。
要するに、競争原理は成員間の連帯よりは分断に働いてしまうのだ。
同様の理屈で、教育における競争原理も否定されなければならない。
競争原理を推し進める恐れのある全国一斉テストの批判の根拠となるだろう。
フィンランドや犬山市は、教育において競争原理を廃止して成功した事例と言える。
上記のような事情にもかかわらず、組織内で(例えば企業で)競争原理が濃厚に働いているとすれば、それはどのような目的によるか、ということを考えた方がよい。
例えば、競争原理は他者との差異化を必然的に伴う(それは給与抑制、即ちコストカットの大義名分として使用される恐れが多分にある)。
競争原理により多くの報酬を得るものからは当然不満が出るはずもなく、報酬を抑制されたものは努力不足(自己責任!)のため異議を封印される。
これはさらに組織内の分断を進めるはずだが、買い手市場においては、そのような企業が存続してしまうのも避けられないのかもしれない。
これを避けるためには、労働者が団結する必要があるだろうが(組合)、現時点では正規社員と非正規社員の間で分断されているのが実態だろう(それは上記の経営を維持するのに役立つ)。
ただし、競争原理については、トップアスリートやアーティスト、世界レベルの科学者など、己のプライドを懸ける分野については機能する可能性はあるだろうし、個々人がライバルを設定して努力の源泉とすることについては、無理やり否定する必要はないだろう。
否定すべきは、外側から競争原理を強制する制度を作り上げることである。
ということで、ややまとまりに欠ける感じはありますが、今回は組織が順調に機能するための2条件について概観してみました。
もう少し続きます。
最後に組織の自己目的化シリーズは以下の通りです(本エントリーは除外)。
手段の目的化について
自衛隊の自殺について(組織の自己目的化の観点から)
手段の自己目的化(3) 組織と所得とベーシックインカム
組織の自己目的化(4) 自己目的化した組織の命運
組織の自己目的化(5) 終章 権力が腐敗する時
まだまだ修行が足らんね。
と、またまた誰にもわからないネタ振り炸裂。
失礼いたしました。
述べたばかりだが、もう少し論じておこうと思う。
前回は、いまや公明党や自民党という「組織」は、国民のための政策を立案、実現するという目的よりも、組織の保持自体を目的化しているのではないか、と述べました。
そして僕の見るところ、(当初の目的を見失って)自己目的化した組織は、自壊する可能性が高い。
そこを述べてみたい。
まず、順調に機能している組織を考えてみる。
ある目的のために、その目的を共有する人たちが、目的達成のために協働している。
ここに存在するのは、明確な目的と、人々の間での目的の共有と、その目的のために労力を惜しまないモチベーションである。
例えば、企業という組織が順調に機能するためには、利益を上げるという目的の共有、及びその目的達成のためのモチベーションが必要である。
さらには、企業はその利益が成員(社員)の生活基盤の保障に結びつく形で還元しなければならないだろう(それもモチベーションの重要な構成要素になる)。
ということで、組織が機能するための条件(必要条件)を箇条書きにすると、
1.明確な目的の保持とその共有
2.目的達成のためのモチベーションが成員間で維持されること
3.組織へのコミットにより生活基盤が脅かされないこと
が挙げられるだろう。
3.について若干補足すると、通常はその組織へのコミットにより報酬(所得)が得られるということになろうが、例えば十分な所得を有する人間がボランティア活動をする場合なども考慮している(過剰な負担とならず、本業に支障が出ない程度である必要があるだろう)。
さて、では順調に機能していた(?)組織が自己目的化する場合を考えてみる。
まず1が自明視されなくなった状況を考えてみる。
目的自体が達成された場合、あるいは時代の変化により、目的の妥当性が疑念にさらされる場合がそれに相当するだろう。
ただ、「時代の変化」は一種のマジックワードとして機能する場合が多いので、注意を要するということは指摘しておきたい。
ある事柄(詰め込み学習など)を批判する場合に、「かつてはうまく機能していたが、時代が変化してしまったために(例えば、高度成長期から低成長期へ)、時代にそぐわなくなった云々」、といった風に。
これは何かを説明しているように見えて、全く何の説明にもなっていない。
「時代の変化」によって物事(の変化)を説明した気になっている文章に対しては、まず懐疑を投げかけて間違いない。
具体的に時代にどのような変化が生じたか、を説明していればまだ議論の余地はあるが。
それはさておき、目的が自明ではなくなる、ということはあり得る。
例えば、大気汚染の被害に対する運動体(という組織)があったとする。
科学技術により、汚染の原因物質が取り除かれ、その大気汚染そのものがなくなった場合、目的が消失したと見做してよいだろう。
ただし、他の様々な環境汚染に対する運動体として、その組織が生き残る理由は存在するかもしれない。
その場合は、目的の刷新(大気汚染から環境汚染へ)が不可欠となる。
こうして、目的が自明でなくなった場合に、組織の自己目的化という事態が起こる可能性がある(必然的に起こるわけではない)。
次に2について考えてみる。
もちろん、これは1と密接に関連している。
一般にはモチベーションのためには目的が必要であり、目的の自明性の消失は、モチベーションの消失へと容易に結びつくからだ。
従って、モチベーションの保持のためには、新たな目的の創出が必要となるが、一般にはそのような目的は組織保持という目的となりがちだろう。
それは、組織の自己目的化に他ならない。
また、2に関しては、目的は明確であっても、組織運営により成員のモチベーションが上がらなくなる、という事態も考えられる。
これは、一般には経営や人事の問題として表れるだろう。
モチベーションが成員間で維持されるには、成員が一丸となって目的に向かっている、という実感(連帯感)が必要だろう。つまりは、目的の共有である。
目的を共有するためには、一般には成員間で信頼関係が作り上げられる必要があるだろう。
で、近年組織運営の原理としてもてはやされる競争原理は、目的の共有とは相反するように機能する。
競争原理は他者と協力するよりもむしろ、他者を出し抜く(さらには他者の足を引っ張る)ように機能してしまう。
これは、目的を共有し、その達成に成員が一丸となって向かう、ということからますます遠ざかってしまう。
この点からも、人事などの競争原理による評価は否定される。
要するに、競争原理は成員間の連帯よりは分断に働いてしまうのだ。
同様の理屈で、教育における競争原理も否定されなければならない。
競争原理を推し進める恐れのある全国一斉テストの批判の根拠となるだろう。
フィンランドや犬山市は、教育において競争原理を廃止して成功した事例と言える。
上記のような事情にもかかわらず、組織内で(例えば企業で)競争原理が濃厚に働いているとすれば、それはどのような目的によるか、ということを考えた方がよい。
例えば、競争原理は他者との差異化を必然的に伴う(それは給与抑制、即ちコストカットの大義名分として使用される恐れが多分にある)。
競争原理により多くの報酬を得るものからは当然不満が出るはずもなく、報酬を抑制されたものは努力不足(自己責任!)のため異議を封印される。
これはさらに組織内の分断を進めるはずだが、買い手市場においては、そのような企業が存続してしまうのも避けられないのかもしれない。
これを避けるためには、労働者が団結する必要があるだろうが(組合)、現時点では正規社員と非正規社員の間で分断されているのが実態だろう(それは上記の経営を維持するのに役立つ)。
ただし、競争原理については、トップアスリートやアーティスト、世界レベルの科学者など、己のプライドを懸ける分野については機能する可能性はあるだろうし、個々人がライバルを設定して努力の源泉とすることについては、無理やり否定する必要はないだろう。
否定すべきは、外側から競争原理を強制する制度を作り上げることである。
ということで、ややまとまりに欠ける感じはありますが、今回は組織が順調に機能するための2条件について概観してみました。
もう少し続きます。
最後に組織の自己目的化シリーズは以下の通りです(本エントリーは除外)。
手段の目的化について
自衛隊の自殺について(組織の自己目的化の観点から)
手段の自己目的化(3) 組織と所得とベーシックインカム
組織の自己目的化(4) 自己目的化した組織の命運
組織の自己目的化(5) 終章 権力が腐敗する時
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