属人議論(論法)
こちらのエントリーでチラッと触れたが、きちっと論じておいた方がいいかな、などと思い直してエントリーを上げることとしました。
どうも属人とは法律用語であって、属人議論(論法)というものが辞書的に定義できるわけでもないようだが。
一番下に参考になりそうなサイトを列挙しておきました。
一応定義らしきものを述べておくと(quine10オリジナル)
属人議論(論法):ある主張の是非が、それを発した人物とは切り離せないと見做す論(つまり、論の正否を発言者の人格に帰属させる議論)
では、属人議論(論法)が含意する帰結をいくつか述べてみる。
論の是非を人格との関係でしか決められない以上、ある主張Aの真偽(妥当性)はその主張を吟味するだけでは決まらないことになる。
つまり、誰が言ったかを一々確認する。
まあ、これは手間の問題であるが、クリアできなくはない。
次々にソースをたどっていけばよい(問題点は山のようにあるが、ここでは問わない)。
上記の属人議論(論法)が正しいと仮定してみよう。
主張の是非が発言者が誰かによるわけだから、Aが主張Cをした場合はその主張は正しく、Bが主張Cをした場合は主張が間違っている、ということが起こり得るということだ。
そうなると、必然的に人々は主張の正しさよりも、誰が言ったかを気にするようになる(Aが言えば白いものも黒になるのだから)。
こうして属人議論(論法)は、真実を見極めようとする動機、を人々から奪ってしまうだろう(「何が正しいか」よりも「誰が言ったか」を気にするようになる)。
それは望ましいことか?
たしかに、権力者にとっては喜ばしいことこの上ない。
「正しさ」が「誰が言ったか」に帰属するとなれば、権力がその誰かを手懐けてしまえばよい。
権力にとって、誰かを手懐けることは実に容易いだろう(一部の例外を除く)。
手懐けそこなった人物が、植草氏であり、天木氏であろう(僕の独断)。
また、属人議論(論法)は、この上なく非科学的な態度と言える。
そりゃそうだ。
「地球が太陽の周りを回っている」は別にガリレオが言ったから正しいわけじゃない。
ニュートン力学をはじめとする物理学理論、および科学的に確立された観測の結果がその正しさを担保しているのだ。
「主張する人間によって『地球が太陽の周りを回っている』の真理値(正しいか間違っているか)が異なる」、と述べるとすれば、それはトンデモ以外の何物でもない。
ついでに言えば、「人間の遺伝情報を担う物質はDNAである」「水分子は酸素原子1個と水素原子2個からなる」「宇宙はどんどん膨張している」は、その発言者の属性にかかわらず(誰が言ったかに関わらず)科学的に正しいとされる。
要するに、誰が言ったかに関わらず正しい(あるいは間違っている)、というのが科学的言明の特徴である。
多分、異論のある方はいないだろうけど…
ということは、少なくとも属人論法を駆使する人間は、科学という営みをまるで理解していない(少なくとも科学的態度とは程遠い)、ということが帰結する。
従って、疑似科学を批判するような人間が、「仮に」属人議論(論法)を積極的に肯定するとしたら(そんな人間がいるかどうかわかりませんよ)、その人間は科学の何たるかをまるで理解していない人間に他ならない(少なくともその態度は科学的態度とは対極にある)。
科学的態度とは程遠い人間が、疑似科学を批判する。
なんというか、悪いジョークとしか思えないのだが…(あ、もしいるとしたら、ですよ念のため)
ということで、このエントリーを読まれた方は、決して属人議論(論法)に陥らないようにお願いします。
ついでに述べると、属人議論(論法)を見かけた折には、「君のは属人議論(論法)でダメな議論の典型だ!quine10のブログのこのエントリーでも読んで勉強したまえ!」と、当エントリーを紹介頂ければありがたく存じます。
属人議論(論法)のネットで見かけた参考サイトはこの辺り(上記の定義もあながち的外れではないかな)
1.有名人こそ、匿名を援護せよ
2.匿名さんは属人論法が大好き
3.属人的議論の正帰還ループ
1は2のブログ主が述べた記事に対する批判のようだ(で、1 2はそれに対するレスポンス。何かややこしくてすみません)。当ブログのコアな読者がいるとしたら、僕が1に賛同することを理解するでしょう。
3は今一よくわかっていないのですが、こういう見方もあるのかなと。
それでは、拍手コーナーへどうぞ。
どうも属人とは法律用語であって、属人議論(論法)というものが辞書的に定義できるわけでもないようだが。
一番下に参考になりそうなサイトを列挙しておきました。
一応定義らしきものを述べておくと(quine10オリジナル)
属人議論(論法):ある主張の是非が、それを発した人物とは切り離せないと見做す論(つまり、論の正否を発言者の人格に帰属させる議論)
では、属人議論(論法)が含意する帰結をいくつか述べてみる。
論の是非を人格との関係でしか決められない以上、ある主張Aの真偽(妥当性)はその主張を吟味するだけでは決まらないことになる。
つまり、誰が言ったかを一々確認する。
まあ、これは手間の問題であるが、クリアできなくはない。
次々にソースをたどっていけばよい(問題点は山のようにあるが、ここでは問わない)。
上記の属人議論(論法)が正しいと仮定してみよう。
主張の是非が発言者が誰かによるわけだから、Aが主張Cをした場合はその主張は正しく、Bが主張Cをした場合は主張が間違っている、ということが起こり得るということだ。
そうなると、必然的に人々は主張の正しさよりも、誰が言ったかを気にするようになる(Aが言えば白いものも黒になるのだから)。
こうして属人議論(論法)は、真実を見極めようとする動機、を人々から奪ってしまうだろう(「何が正しいか」よりも「誰が言ったか」を気にするようになる)。
それは望ましいことか?
たしかに、権力者にとっては喜ばしいことこの上ない。
「正しさ」が「誰が言ったか」に帰属するとなれば、権力がその誰かを手懐けてしまえばよい。
権力にとって、誰かを手懐けることは実に容易いだろう(一部の例外を除く)。
手懐けそこなった人物が、植草氏であり、天木氏であろう(僕の独断)。
また、属人議論(論法)は、この上なく非科学的な態度と言える。
そりゃそうだ。
「地球が太陽の周りを回っている」は別にガリレオが言ったから正しいわけじゃない。
ニュートン力学をはじめとする物理学理論、および科学的に確立された観測の結果がその正しさを担保しているのだ。
「主張する人間によって『地球が太陽の周りを回っている』の真理値(正しいか間違っているか)が異なる」、と述べるとすれば、それはトンデモ以外の何物でもない。
ついでに言えば、「人間の遺伝情報を担う物質はDNAである」「水分子は酸素原子1個と水素原子2個からなる」「宇宙はどんどん膨張している」は、その発言者の属性にかかわらず(誰が言ったかに関わらず)科学的に正しいとされる。
要するに、誰が言ったかに関わらず正しい(あるいは間違っている)、というのが科学的言明の特徴である。
多分、異論のある方はいないだろうけど…
ということは、少なくとも属人論法を駆使する人間は、科学という営みをまるで理解していない(少なくとも科学的態度とは程遠い)、ということが帰結する。
従って、疑似科学を批判するような人間が、「仮に」属人議論(論法)を積極的に肯定するとしたら(そんな人間がいるかどうかわかりませんよ)、その人間は科学の何たるかをまるで理解していない人間に他ならない(少なくともその態度は科学的態度とは対極にある)。
科学的態度とは程遠い人間が、疑似科学を批判する。
なんというか、悪いジョークとしか思えないのだが…(あ、もしいるとしたら、ですよ念のため)
ということで、このエントリーを読まれた方は、決して属人議論(論法)に陥らないようにお願いします。
ついでに述べると、属人議論(論法)を見かけた折には、「君のは属人議論(論法)でダメな議論の典型だ!quine10のブログのこのエントリーでも読んで勉強したまえ!」と、当エントリーを紹介頂ければありがたく存じます。
属人議論(論法)のネットで見かけた参考サイトはこの辺り(上記の定義もあながち的外れではないかな)
1.有名人こそ、匿名を援護せよ
2.匿名さんは属人論法が大好き
3.属人的議論の正帰還ループ
1は2のブログ主が述べた記事に対する批判のようだ(で、
3は今一よくわかっていないのですが、こういう見方もあるのかなと。
それでは、拍手コーナーへどうぞ。
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