疑似科学批判考(4)
昨日のエントリーで今月中と書いたが、よく考えると今日で6月は終わりだった…
ずいぶん間隔が開いてしまった。
どういう風に書こうとしていたか、忘れてしまいそうです(半分忘れた)。
取り敢えずおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
番外編は省略
疑似科学批判考(3)までで、疑似科学的言説の構造分析を行った。
せっかく4類型に分類したので、それぞれの類型別にその批判の根拠を洗い出したいと思うのだが、うまくいかないかも?
さて、疑似科学を批判する以上、その批判には何らかの根拠、理由が必要なはずである(それがなければ、批判とは呼べないはずである)。
ならばその根拠はどのようなものになるだろうか?
番外編1で述べたように、科学という営みは絶えざる修理を受けつつ、海に浮かんでいる船のような存在である。
すなわち、自ら(科学)を(絶対的に)正しいものとして、自分とは違うもの、すなわち疑似科学を批判するわけにはいかない。
そもそもどうして疑似科学が生まれるのか、あるいは疑似科学的なものに(ある種の)人々が吸引されるのか?
超自然的なもの(神秘的なもの、と言い換えてもよい)、あるいは道徳的なものへの志向は、おそらく大なり小なりたいていの人間が持っているだろう(全く持っていない人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも超自然志向、道徳志向の疑似科学的なものへの関心すら持たないだろう)。科学的なものへの志向も多くの人が持っているだろう。
しかし、疑似科学はそれだけではなく、「科学を装う」というところに問題がある(と思われる)。
先日トラックバック頂いたブログに、科学を装わない神秘主義思想は疑似科学ではなく、それ故(疑似科学)批判の対象にはならないという旨のことが書かれていた(トラックバック頂いたエントリーはこちら)。
それに対しては特に反論はない。
僕の疑似科学定義にも科学の装いを有する(科学の権威を活用する)、と書きましたので(ある神秘主義思想が全く科学的装いを有さないなら、定義によりそれは疑似科学ではない)。
では、疑似科学は、本来(とくに自然)科学が対象とすべきでない(と思われている)ことがらを、なぜあたかも自然科学であるかのように装うのか?という疑問が生じる。
この答えにはいくつかのレイヤーが存在するように思われる。
ずいぶん間隔が開いてしまった。
どういう風に書こうとしていたか、忘れてしまいそうです(半分忘れた)。
取り敢えずおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
番外編は省略
疑似科学批判考(3)までで、疑似科学的言説の構造分析を行った。
せっかく4類型に分類したので、それぞれの類型別にその批判の根拠を洗い出したいと思うのだが、うまくいかないかも?
さて、疑似科学を批判する以上、その批判には何らかの根拠、理由が必要なはずである(それがなければ、批判とは呼べないはずである)。
ならばその根拠はどのようなものになるだろうか?
番外編1で述べたように、科学という営みは絶えざる修理を受けつつ、海に浮かんでいる船のような存在である。
すなわち、自ら(科学)を(絶対的に)正しいものとして、自分とは違うもの、すなわち疑似科学を批判するわけにはいかない。
そもそもどうして疑似科学が生まれるのか、あるいは疑似科学的なものに(ある種の)人々が吸引されるのか?
超自然的なもの(神秘的なもの、と言い換えてもよい)、あるいは道徳的なものへの志向は、おそらく大なり小なりたいていの人間が持っているだろう(全く持っていない人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも超自然志向、道徳志向の疑似科学的なものへの関心すら持たないだろう)。科学的なものへの志向も多くの人が持っているだろう。
しかし、疑似科学はそれだけではなく、「科学を装う」というところに問題がある(と思われる)。
先日トラックバック頂いたブログに、科学を装わない神秘主義思想は疑似科学ではなく、それ故(疑似科学)批判の対象にはならないという旨のことが書かれていた(トラックバック頂いたエントリーはこちら)。
それに対しては特に反論はない。
僕の疑似科学定義にも科学の装いを有する(科学の権威を活用する)、と書きましたので(ある神秘主義思想が全く科学的装いを有さないなら、定義によりそれは疑似科学ではない)。
では、疑似科学は、本来(とくに自然)科学が対象とすべきでない(と思われている)ことがらを、なぜあたかも自然科学であるかのように装うのか?という疑問が生じる。
この答えにはいくつかのレイヤーが存在するように思われる。
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