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2023-05

敵は分かりやすさか?

欲張って二つ目のエントリーを上げます。

まずは、NewsOLさんの魂のエントリーをご覧ください(必ずこちらを読んでから僕のエントリーを読むこと!)。

さて、NewsOLさんは、重大な問題提起をされていると思う。

それはつまり、「私たち市民一人一人が政治のことを真っ当に考える必要があるとすれば、それには必ず『分かりやすく政治に入っていく通路』が必要なのではないか?」、ということだ(僕はこの考えに100%同意する)。
これに反対する人間は、「私は政治に関心を持ったときから、難しく政治を考えることができたのだ、エッヘン」、という「自分は優秀だ(特別だ)」人間以外にはいないであろう。

数学を理解する上では通常は算数を通過する必要があるし、複雑な英文を解釈する上では「This is a pen」を通過する必要があるだろうし、そもそも議論をする上では、言語を習得する必要があるが、言語習得には当然「幼児言葉」を通過する必要がある(「幼児言葉」を通過せずに言語習得した例があるなら、ソースを示せってもんですわ)。
千里の道も一歩から、は言いえて妙だと思う。

民主主義社会(市民一人一人が政治にコミットすることを保障する社会)においては、上記の「分かりやすく政治に入っていく通路」は肯定される(少なくとも否定されない)と考える僕はが、それ(「分かりやすく政治に入っていく通路」)を否定する人間は少なくとも民主主義を否定していると見做して言っても(7/17訂正)過言ではないと思う。

例えば、僕は民主主義においては、小学生、中学生の段階から徐々に民主的なものの考え方を学んでいく必要があると考えているが、その場合は当然、誰にでも分かりやすい内容となる必要があると考えている(いきなり難しい話をして、「理解できる人間だけが理解できればいい」、などと言うとしたら、諭しがたいエリーティズムだと思う)。

具体的に言えば、「分かりやすさ」をポピュリズムとして否定的に捉えてしまうとしたら(そう捉える人もいるようだが)、「小学生、中学生に政治を教えるな」と言っているも同然であろう。
そして、それは必然的に民主主義をこの上なく弱体化してしまうであろう(教育において政治が忌避されている日本の政治の惨状はいまさら述べるまでもないだろう)。

もちろん政治のことをロクロク考えてこなかったとしたら、政治の結果は市民の自業自得的な側面もある(その意味で民主主義は過酷だ)。しかし、その事実に気付いて政治を考えようとしたときに、まずは「分かりやすく政治に入っていく通路」が必要不可欠になる。
この段階で、「分かりやすく政治に入っていく通路」をポピュリズムとしてシャットアウトするとすれば、繰り返しになりますが、民主主義は必然的に死へと至るだろう(それは現在権力の地位にある自公政治家、官僚たちをこの上なく喜ばせてくれるだろう)。

そもそもブログはポピュリズムの温床となり得るか?という疑問を持ったほうがよいと思う。
一般にポピュリズム(もっと言えばファシズム)は視聴覚に訴えるメディアと親和性がある(小泉は実に巧みに視聴覚メディアを利用したと思う)。
どのような形であれ、文字を媒介にせざるを得ないブログというあり方は、そもそもポピュリズムとの親和性が低いのではないか?
もちろん、2ちゃんねるやブログ炎上のように祭り的な盛り上がりを見せることもあるが、それが即政治的なポピュリズムへと至ると危惧するとすれば、杞憂だと思う(2ちゃんやブログ炎上は、匿名性の関与が高いように思われる)。

そもそも政治ブログなんてマイナーな存在だし、政治に関心を持った人間が自らアクセスしてくるものだ(そもそもがポピュリズムへの志向のリスクが極めて小さい)。
そうやって特定のブログを「ポピュリズムだ!」と批判することに一体どの程度の意味があるのか?
「ポピュリズムを指弾する自分に酔っているのだ!」と言われたら黙るしかないですが…

まあ冗談はさておき。

インターネットのよいところは、ほぼ素人同然(というか素人なのだが)の人間からプロまで実に幅広い関心を持った人々が参入し得る、ということだ。つまり、その気になれば自分の理解力に応じたサイトを探すことができるだろう(ソースは忘れましたが、言語別ブログ数では日本語ブログが最多らしい)。
これまで政治にあまり関心を持っていなかった人間は、まずは「分かりやすい」サイトを探そうとするだろう、でそのサイトに飽き足らなくなれば更なる理解を求めて、より深く掘り下げたサイトを探すだろう。

分かりやすさをポピュリズムとして指弾する人は、このような時間軸を考慮していない。
分かりやすさの追求が分かりやすさで留まってしまうと思い込んでいる(疑似科学的信念とまるで違わない信念だと思う)。
つまり、近視眼的に「分かりやすさを敵視している」に過ぎないのだ(実は敵は「分かりやすさ」ではなくこの「近視眼性」なのだが…)。
たしかにポピュリズム(およびそれを生み出すメディアのあり方)は厄介である。
しかし、だからと言ってポピュリズムを敵視して、「分かりやすさ」を糾弾したところで得られるものは何もない(と思う)。

僕は断言します。
敵は「分かりやすさ」ではない。
「分かりやすさ」を糾弾したところで、ポピュリズムは痛くも痒くもない、と。
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「希望は戦争だ」について(釈明エントリー)

あらかじめ述べておくと、このエントリーは左派への注文(希望を語ろう)でNewsOLさんから頂いたコメントに対する釈明エントリーです。

ですが、NewsOLさんに対して、ではなく左翼の皆さん(特に赤木論文に批判的な人々)に宛てたエントリーでもあります(反発は承知の上です)。
怒りに任せて書いた部分もあり、その点は気分不快に感じるかたもいらっしゃるかもしれません。
でも、全部表示としておきます。

「希望は戦争だ」は、赤木智弘氏の論座に掲載された論文「丸山真男をひっぱたきたい 31歳フリーター 希望は戦争」からとったものです。彼の著書としては「若者を見殺しにする国」があります(これに上記の論文も収録されています)。
で、この論文は、貧困を日々拡大再生産する社会の中で、底辺に位置する者(著者も含め)の希望、すなわち社会の状況を一変するものはもはや戦争しかない(戦争は富める者も貧しいも者同じ生命の危機に直面させるという意味での平等さがあると)、という深い絶望から発したものです。
そしてこの論文は、主に左派から総批判とでも言うべき反応を引き出しました(赤木氏を擁護するものは皆無に近い状態だったらしいです)。

曰く
「戦争をしても苦しむのは、現在貧困で苦しんでいる人々であって、富める者は痛くも痒くもない」
「お前はまだ恵まれている(もっと苦しんでいる人はいくらでもいる)」
「社会の不正は運動や選挙によって変えていかなければならない。希望がないから戦争はあまりにも短絡的だ(そんなものは民主主義ではない)」
「君は敵を見誤っている。敵は従米路線に邁進した小泉・竹中新自由主義である」
などなど…(批判論文はほとんど読んでいないので、想像の部分もあるかもしれませんが…)

これらの批判はいちいちもっともな正論でしょう。
付け加えるなら、日本の「優等生左翼」の典型的な物言いでしょうね。
しかし、赤木氏に対して「優等生左翼」的物言いをして、一体どれほどの意味をもつのでしょうか?
かれは、従来の「優等生左翼」に心底絶望しているのです。
「優等生左翼たれ」という説教が赤木氏の心に響くとでも思っているのでしょうか?(だとすれば能天気にも程があると思う)

赤木氏の心中を代弁すれば、「お前たち優等生左翼がしっかりしていないからではないか!」となるでしょう。
もちろん、これが100%もっともだとも思いません(逆恨み的な要素も多分にあるでしょう)。

しかし、です。
仮にも(十分とは言えないまでも)発言の場を与えられてきた社民党党首や左派論客が、「君のは逆恨みだ」みたいなことを言うとしたら、そら左翼が一般市民から見放されても文句は言えないと思う(そんな物言いは新自由主義のいう自己責任論と何ら変わりはない)。
そんな物言いに対しては、僕なら「新自由主義を偉そうに批判するだけなら誰でもできる。弱者からの左翼批判を真摯に受け止めることができないのなら、左翼なんかやめてしまえ!」と言いたいですね。
一体何のための左翼なのか?
自分自身に問い直したほうがよい(萱野稔人を少しは見習え!)。

左翼が、少しでも自分の責任というものを考えているのなら(無責任に左翼政党の党首となったり、無責任に左派論壇に書き散らしているなら別ですが)、せめて「すまない、君がそのような状況に陥ってしまったのは、我々左翼がしっかりしていなかったせいだ。全てとは言えないが、我々にも間違いなく責任の一端はある。しかし、敵(新自由主義)はあまりにも強大だ。君の力もできるならお借りして新自由主義と闘っていきたい」くらいのことは言えなければ嘘だと思う。
それすら言えないのなら(その程度の責任の自覚すらないのなら)、繰り返しますが、「左翼なんてやめてしまえ!」と僕は言いたいですね。

またもや興奮して怒りにまかせたエントリーとなってしまった…(僕の人間性の未熟ゆえでございます)
こういう怒りにまかせたエントリーの方がサクサク進むんですけどね。
冷静に赤木氏擁護のエントリーを挙げた喜八ログの下記のエントリーをご参照ください。

いまさらながら「赤木問題」
続・いまさらながら「赤木問題」

左派への注文(希望を語ろう)

「ロスジェネ」を読んでみた(まだ半分くらいだが)。
言葉を失ってしまった…
これをどうやって政治に反映させていけばいいのか?
アンチネオリベ(小泉構造改革批判、経団連批判)、公務員制度改革(天下り反対)、利権根絶、消費税増税反対、ガソリン暫定税率廃止、後期高齢者医療制度反対、所得税・法人税の累進強化etc…
すべての言葉が虚しく思えてしまった…
いや、これらがダメというわけでは決してない(絶対に必要なことだ)。
しかし何かが決定的に足りない気がする…それは何だろうか?
それをじっくり考えてみたいところだが、答えが出てくるかどうかは分からない。
でも堂々めぐりをするのも、決して無意味ではないだろう。

ということで前置きが長くなったので(?)、本日の注目記事はお休み(ネタ切れではありません、多分)。

さて、では本題へ。
僕ごとき弱小ブログの住人が言ったところで、どれほどの効果があるか甚だ疑問なのだが…
まあ、バタフライ効果(注)っつーものもあるので、それに期待しよう!(何という投げやりな…)

それはそれとして。

右派、左派についてquine10流の定義によると、社会的正義(=公正)なるものを信じる立場が左派である(誰かのをパクったかもしれないがどこからか忘れた)。
そうすると、右派とは社会的正義なるものに懐疑的な立場と言うことになるが、より積極的に定義すると、「自生的なものにもそれなりの意味・意義がある(それゆえ、積極的に是正する必要はない)」とする立場だ(もちろん、ここで言う自生的なものが本当に自生的なものか?、が大問題なのだがそれは措く)。
まあ、右派と左派の定義は人の数だけあるだろうから、別に声高に主張するつもりもないのだが。
上記の「ロスジェネ」に載っていた、萱野稔人の文章(「なぜ私はサヨクなのか」)の右翼・左翼の定義は自分としては凄く納得できるものだった(興味があれば読んでみてください)。

それもさておき。

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