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2023-05

善意とパターナリズム 番外編(善意と心と主観)

えー、前回は善意とパターナリズムについて述べました。
善意とパターナリズムは似て(?)非なるものである、ということが示せたのではないかと思います。


で、今回は善意とパターナリズムという主題からはズレるものの、元検事の某氏とのやり取りで少し興味深かったところを掘り下げてみたい。
では、その部分を少し(?)編集して書き出してみます。



某氏の発言(「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」)をパターナリズム剥き出しの言説と僕(quine10)が決めつけたことに対して

某氏(以下某):「この人にとっては、助言は全てパターナリズムなんだろうな。」
quine10(以下q):「善意から発したものを除けば、パターナリズムと断じてよろしいかと…」
某:「なんだ、主観で区別するのか。善意からでないと決めつけてるし。」
q:「『多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う』が善意から発しているとでも?」
某:「いないとでも?」
q:「うん、それは断言できる!」
某:「なぜ?あなたは人の心が読めるのか?」
q:「貴方程度の単純なお方なら…」

と、とりあえずこんな感じで対話(?)は終了してしまったわけですが。
ま、今書き起こしても某氏を不快にさせたであろう僕の書き方もなかなかのものかもしれないな(自慢ではないが)。
某氏の、常に相手に立証させようとするテクニックは、議論を勝ち負けと捉えている人には参考になるかもしれないな(立証するのは大変だから)。
まぁ、それはさておき。


ここには某氏の善意に対する興味深い考え方が述べられている。

一つは「善意は主観の問題である」という考え方であり、もう一つは「善意は心の問題である」という見方である。
もっとも、「主観とは心の問題である」という世間一般にも受け入れられている(だろう)テーゼを前提にすれば、この二つの考え方は同一のものだと見做せるのだが…


さて、某氏の言い方からすれば、「善意とは心の問題であり、それは他者からはうかがい知れないものだ」と某氏が考えているだろうことを読み取るのはそれほど難しいことではないだろう。
というのも、某氏は「あなたは人の心が読めるのか?」と問うているからです。
これは質問というよりは、「人の心など読めるはずがない」という反語表現と見做すべきでありましょう。


「主観」という表現も同様でありましょう。
(通常「主観」の対義語とされる)「客観」とは「誰にとっても」ということを含意します。
それに対して「主観」とは「この私にとって」といことを含意します(それは「他者にはうかがい知れない」を含意するでしょう)。


さて、「心」や「主観」についての某氏の見方は、多くの人にとってはむしろ常識に属することかもしれません。
「『心』や『主観』はこの私のみがわかるものであり、他者からはうかがい知れないものなのだ」、というわけです。


しかし、「心」や「主観」が他者からうかがい知れないのだとしたら、私たちはなぜ石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていないと思うのでしょうか?(それともあなたは石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていると見做すでしょうか?)
フムフム、石ころや自転車やパソコンや新聞紙には、(「心」や「主観」を生み出すはずの)脳神経系がないからと?
それでは、脳神経系が「心」や「主観」を生み出すことをあなたはどのように証明するのか?
あるいは、あなたが「心」や「主観」を持っている(だろう)と見做す他者が、実際に脳神経系を有していることをあなたはいつ、どうやって確認したのか?
まぁ、こう畳み掛けられるとカチンとくるかもしませんが…


しかし、少なくとも「心」や「主観」を他者からうかがい知れない領域であると某氏のように見做すならば、これらの問いに答えることができなければならない。
上記の問いに答えることができないとすれば、私たちは「心」や「主観」が他者からはうかがい知れない領域である、という見方を捨てなければならない。


だとしたらどのように見做すべきか。
前回のエントリーで、善意と見做す根拠、あるいはパターナリズムと見做す根拠について簡単に述べました。
おさらいするなら、「多くの人」という誰だかわからない人を論拠とする意見は善意に基づくものではない。
あるいは、「利益」を示して他者の行為を誘導するのは善意に基づくものではないと。


つまりはこういうことです。
私たちは他者の目に見える様々な振る舞い(その多くは言語活動を伴う)から他者の心を類推するのであって、その逆ではない。
そしてこの場合の類推はもっと正確に言えば、構築である(私たちは他者の心を構築する)。
しかし私たちは、「心」から「行為」が生まれるという因果関係を、世間に流通する様々な言説から常識化しており、それゆえ行為は「(他者からはうかがい知れない)心」がなすものである、と見做してしまうのである(某氏の発言は、このような常識に某氏がどっぷりと浸かっていることを表している)。


もちろん、私たちが構築した「(他者の)心」が「正しい」かどうかはわからない。
しかしそのことは「私の心は私だけが知っている(他者からはうかがい知ることができない)」風の常識的な「心」の見方が正しいことを全く意味しないのだ。
そして、以上の考察は、「私の『心』に接近することについては、必ずしも私が特権を有するわけではない」、ということを帰結するだろう。
おそらく多くの人にとってこの帰結は心地よくないだろうことを僕は想像するのだが…
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国家の実体化(あるいは国家を巡る言語ゲーム)について

えー、先日のエントリー(鳩山首相の苦悩 沖縄の絶望)は、我ながら国家主義的な言説を内包していたように思う。
一部取り出してみますと・・・

そしてこれは、日本を植民地扱いするアメリカの縮小再生産に他ならない(沖縄を植民地扱いする日本)。


自分としては、(ナショナリズムに象徴される)国家を実体化して主体性を持たせる言説(=国家主義的言説)をできるだけとらないように(というか、むしろそのような物言いを解体するように)努めてきたつもりなのに・・・
その反省も込めて(?)、本エントリーでは国家を実体化させる言語ゲームのありようを記述することを試みたい。


私たちは、様々の仕方で国あるいは国家(例えば日本)を語る。
言い換えれば、国あるいは国家を巡る様々な言語ゲームがある(日々そこここで、それらの言語ゲームが繰り広げられている)。
国あるいは国家を巡る様々の言語ゲームの中には、私たちの生活と密接に関わるような言語ゲームも含まれる。


「私たちは国に税金を払っている」
「私たちの投票した政治家が国の運営に関わっている」
「この国道(国立大学、国立病院)は国がつくったのだ」
etc・・・

このような語りが、私たちの日常と国あるいは国家を自然に結びつける。


私たちの日常は生き生きとした実感を伴っている。
上記のような様々な語りによって、私たちの(生き生きとした)日常と結び付けられた国あるいは国家もまた、自明な存在として現れる。
こうして実体化された国あるいは国家が、さらなる私たちの語り(言語ゲーム)の前提となる(国あるいは国家の存在を前提とした語りを語り始める)。


個人的には、国あるいは国家を実体化(自明化)する、最も象徴的(でありながら、おそらく多くの人がその自覚を有さない)キーワードが「国益」であると考えている。
「国益」とは、文字通り「国家の利益」と考えられるだろう。
例えば、「○○は国益に叶う(から○○すべし)」と言われる。
もちろん、本当に○○が「国益」に叶うかどうかは検証の余地があるだろう(「国益」なるものが有意味として)。
しかし、仮に「○○が国益に叶う」とするならば、○○という選択肢を選ばないことは難しい。


こうして、一旦「国益(すなわち国家の利益)」なるものを受け入れれば、その利益の受益者たる「国家」の存在もまた受け入れざるを得ない。
とするなら、自分を国民(の一人)と規定する人間が、国益(国家の利益)を受け入れないことは難しい。
こうして、一旦「国益」(という言葉)を受け入れるならば、利益を受け取る「国家」の存在、そして「国家」を構成する国民の一人である自分が、一つのつながりとして現れてくることになる(自分の利益と全く関わらないと考えるなら、私たちは一体どうして「国益」なるものを志向するだろうか?)。


少し「国益」という言葉に拘りすぎているのかもしれませんが・・・
私たちの身の回りには、国あるいは国家を実体化する様々な言語ゲームに溢れている。
というより、言語ゲーム抜きに、国あるいは国家の実体化はあり得ない。
だとしたら、国家主義的言説に陥ることなく、国や国家を語ることはできるだろうか?


国家主義的言説は、国あるいは国家を主語とする語りである。
上記のようなメカニズムにより、国あるいは国家が実体視されれば、国あるいは国家が主語となること(行為の主体となること)もまた自明となる。
しかし、国あるいは国家なる一枚岩の存在があるわけでもない。
そこには、様々の利益を巡って、異なるプレイヤーが関わっている。
それをできる限り明らかにしつつ語ること。
それが国家主義的言説を回避する一つの指針だろう(と同時に国家主義的言説を一つ一つ脱構築することもまた必要だろう)。

哲学・思想と常識・権威について

世の中に、哲学や思想に関心を持っている人がどれくらいいるのかわかりませんが…
僕は、割と(いや、大いに?)好きです。
もちろん、プロ(哲学・思想関連の著書で飯を食っている人)やその予備軍(哲学・思想専攻の学生など)に遠く及ばないのは言うまでもなく、あくまでも趣味として、ではありますが。
個人的に好きな分野は、言語哲学・分析哲学から派生したところで、人で言えばヴィトゲンシュタイン、クワイン、デイヴィドソン、ローティ辺りですね。
真理を言語使用に帰着させる(結果、真理の形而上学を脱構築する)、というところが共通したモチーフでしょうか。
脱構築と言えば、デリダなんでしょうけど…
デリダは読んでいません。
フーコー辺りも当然そのあたりを論じているはずですが…(フーコーはチト重いかなぁ?)


まぁ、個人的な哲学・思想遍歴はどうでもよいのですが。
しかし、哲学・思想へと人々が入り込む動機というのは、一体どの辺りにあるだろうか?
もちろん、十人十色に違いなく、共通の動機などを想定するのがそもそも間違っているのでしょうけど…
頭のいい、早熟の秀才タイプは、えらく難しいことを書いている、というだけで興味を持つかもしれません(「俺(私)ってこんなムズカシイことでも簡単にわかっちゃうぜ!」的な)。
まぁ、凡人(当然僕を含む)がウンウン唸りながら何とか読むカントやらヘーゲルやらフッサールやらをスラスラ読み進めるだけでも相当な優越感に浸れるかもしれません。
あるいは、「それはカント的にはこうだよね」とか「現象学的にはこう説明するのさ」とか「それちょっとフーコーチックだよね」とか、哲学・思想的なフレーバーをちりばめることで、「哲学・思想的に深い話をしているのだぜ!」的雰囲気を醸し出せるのかもしれません(あっ、これは僕も時々やっちゃいます)。
別に、これらの動機で哲学・思想に入ることも、責められることではないでしょう。
しかし、これらの動機はいずれも私的である(公的な意義は認められない)。


もしも、哲学・思想に少なくとも公共的な意義があるとしたら、それは一体どの辺りにあるだろうか?
個人的には、少なくともその一つは、常識・権威への懐疑(あるいは解体)にあると言いたい。


社会にできた約束事(その多くは権力者にとって有利な決まりごとである)は、しばしば「常識」や「権威」となり、その成立や存続の妥当性への疑義を封じてしまう。
「これは(社会的)常識でしょう」とか、「○○のいうことには黙って従えばいいのだ」みたいな(○○が権威とされる)。
このような発言は、常識や権威を皆が信じるべきこと(疑義を持たないこと)を当然のごとく前提としている。


では、社会の皆が常識や権威を当然のものとして受け取ればどうなるか?
常識や権威に疑義を発するものが、社会的に抹殺されていくことになる。
具体的に言えば、北朝鮮?あっ、日本にも記者クラブという、北朝鮮も真っ青の常識と権威が蔓延る世界がありますね。
ちょっと、ズレました。
哲学・思想に意義があるとすれば、このような常識や権威に対して疑義を発し、その成立や存続の妥当性を常に問い続ける(結果、権力の濫用・私物化を防ぐ)ことにあるでしょう。
もちろん、その結果、その常識や権威の妥当性を導き出すかもしれませんが、それはそれでよいでしょう(常識や権威を前提としない、というところが大事でしょう)。
もし、哲学や思想を称する人間が、常識や権威によって人の発言を封じようとするなら、その人は上記の公共的な意味での哲学・思想にコミットしているわけではない、と断じてよいと思う。


哲学・思想が常識や権威への懐疑から成り立っているとすれば(少なくともそれを含んでいるとすれば)、哲学・思想に若者がのめりこむのも当然と言えば当然かもしれない(この物言いが、すでに年寄りじみているが…)。
というのも、自我を確立した若者にとって、社会は理不尽で欺瞞に満ちた決まりごと(=常識・権威)で溢れているからだ(若いときのことを思い出そう!)。
つまり、始めて社会に放り出された若者にとって、常識や権威への懐疑を有する哲学・思想は、親和性が高いわけだ。
特に、早熟の秀才達にとってはなおさら…
そう考えれば、哲学・思想にかぶれた学生が、権威に対して生意気な物言いをするのは当然と言えば当然だろう。
誤解を恐れずに言えば、「学生の特権」と言ってもよいと思う(より穏当には、「若気の至り」ってところか)。


人は年を取れば取るほど、相対的な社会的地位は上昇するため、(権力者を利する)常識や権威にすがろうとする。
それは、多分人間の自然な性向である。
年を取り、社会的な地位が上がれば保守的になる、というのもその表れの一つだろう。
別にそれを責めるつもりはない。


しかし、(常識や権威への疑義により成立する)哲学・思想にコミットし社会的地位を築いた人間が、常識や権威に思いっきり寄りかかって(=思考停止状態で)他者(の行為)を非難するとすれば、それは別だろう。
常識や権威に寄りかかった物言いしかできないのであれば、哲学・思想なんて捨てろと言いたい。
学生が生意気な口を聞いて、カチンとくることもあるだろう。
しかし、いやしくも哲学・思想を称するのであれば、(常識や権威ではなく)論理によって生意気な口を封じるべきである。


えー、いつになく(?)熱く語ってしまいましたが、twitterで某著名批評家が、

「面識もない学生が生意気な口を聞くな」ってあたりまえのことなんじゃないの?w そんな常識も通用しないのか。ネット、すごすぎるなw



などと書き込んでいるのを読んで、色々と考えることがあったので書いてみました。
別に隠す必要もないので書きますと、東浩紀氏です。
『動物化するポストモダン』とか『存在論的、郵便的』(未読)とか書かれています。
早くから論壇で活躍され、学生時代は相当にヤンチャ(生意気どころではない)だったろうと想像しますが、そういう人がこのような発言をされると、些かゲンナリしてしまいます。
ひょっとして、常識やら権威やらに従順な学生だったのでしょうか?

えー、東氏あてにオブラートにくるんで(?)tweetしたところ、ものの見事にブロックされてしまいましたが、それを恨みに思ってのエントリーではありません(?)

価値の言語ゲーム依存性について 感情と価値と行為

先日は、価値を巡る言語ゲーム(その一つが政治である)について、ごくごく大雑把に記述しました。
取り敢えず、そこでは価値は自明なもの(言語ゲームに先立って存在するもの)として取り扱いました。
最終的には、その自明性を覆すつもりでいますが、本エントリーでもとりあえずその前提を維持したまま(?)、考察を進めていきたいと思います。

さて、一口に価値と言っても、その内実は様々でありましょう。
至極個人的なものから、全国民的なものまで。
いずれにしても、価値はそれを重んじる人々の行為を、大なり小なり拘束するものでありましょう。
逆に、特定の個人が、あるものを価値あるものとしながら、それを全く顧みることなく行為するとしたら、あるものを本当に価値あるものと見做しているか、根本的な疑問が生じるでしょう。


こうして、「あるものを価値あるものとみなす」ことは、「あるものが(それを価値あるものとみなす人の)行為に何らかの拘束力を及ぼす」ことと非常に近い(あるいは同じ)と言えるでしょう。


さて、人の行為に影響を及ぼすもの、とは具体的になんでしょうか?
私たちの行為は、何によって決定されているでしょうか?
認知科学系の心理学によれば、私たちの行為は感情によって強く規定されています。
ちなみに言えば、「感情によって左右される人間の行動」という点から、人々の経済的行為を読み解こうとするのが、行動経済学ですね(参考図書:『行動経済学 経済は「感情」で動いている』)。
そう考えれば、価値とは私たちの感情に働きかけるもの、と言い換えてもいいかも知れません(認知科学的に言えば)。


そして、どのような形で私たちの感情に働きかけるかと言えば、「維持・拡大するような形で、私たちに働きかける」でしょう。
言い換えれば、「あるものを維持・拡大するような形で、ある人が振る舞っている」場合に、私たちは「その人があるものを価値あるものと見做している」と考えるでしょう。


価値に関する考察とは直接関係ないですが、感情は一般的には自然に由来するものと考えられ(特に日本では)、それゆえ感情それ自体は批判的に考察されることがあまりありません。
感情を剥き出しにすることは感情論として批判されることはありますが、「それは感情論だ!」との批判それ自体が感情的になされることもあり、なかなか状況は錯綜しています。
自称「理性的人間」の論が、剥き出しの感情論だったりすることは何ら珍しいことではなく、それ故しばしばネット上の議論が不毛に終わったりします(某騒動もその例)。

以上のことを敷衍して述べれば、ある人にとってある価値が自明であればあるほど、その価値はその人の感情と密接に結びついており、それゆえ、価値を巡るやり取り(象徴的には政治的議論)はしばしば不毛に終わってしまいます。
その結果、予めある価値を自明視した疑似共同体の「ヌルいやり取り」のみが残ってしまうことになります。
ひょっとしたら、そのような事態が、日本人を「政治嫌い」にさせているのかもしれません。


この論考での僕の目的は、価値を感情から相対的に独立させることにより、価値の問題について、よりスマートに議論を行うことにあるような気がします。
それが引いては日本における政治的議論の活発化を促すなら嬉しいことです。
ちょっと話題がそれました。


取り敢えず、ここまで述べてきたことをまとめます(順不同)。

一つ、価値は人々の行為に影響を与え(行為を拘束し)、その与え方は価値を維持・拡大するような形である。
一つ、それゆえ価値は、(人々の行為を促す)感情と密接なかかわりを持つ。
一つ、それゆえ価値を巡るやり取りは、不毛な感情論の応酬になりがちである(当事者にその自覚がないまま)。


んー、なかなか、価値の言語ゲーム依存性に至りませんが…

価値の言語ゲーム依存性について プロローグ的に

さて、以前に「価値とは優れて言語ゲーム的状況である」、という風に述べました。
その辺りはまた後日詳しく述べることにして。
お約束ではありますが、ひとまず本日は導入として、価値の辞書的定義を取り上げておきたい。

まず、大辞泉より引用

か ‐ち【価値】

1 その事物がどのくらい役に立つかの度合い。値打ち。「読む―のある本」「―のある一勝」

2 経済学で、商品が持つ交換価値の本質とされるもの。→価値学説

3 哲学で、あらゆる個人・社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質。真・善・美など。



大辞泉で見る限りは、価値は取り敢えずは言語ゲームとは相対的に別物に見える(言語ゲームに先立って存在し得るように見える)。
しかし、僕からすれば価値は言語ゲーム抜きには存在しない。
そこをいずれは述べてみたい。
本日のところは、少し回り道になるかもしれませんが、イントロダクション的に。

私達は、様々なものに価値を見出し、それを占有したいと欲したり、他者と共有したいと思う。
そして、実際にそのためのアクションを起こしたり、それが叶わずガックリしたりする。
あるいは、価値を占有できない、あるいは他者と共有できない(かもしれない)ために、アクションを躊躇するかもしれない。

このように書くと、価値は私たちの行為に先行して存在するもののように見えるかもしれない。
そして、私達はしばしばそのように(価値が行為に先行するように)思い込んでしまうのだが…
だとすれば(価値が行為に先行するならば)、価値は言語ゲームから独立している、と言わざるを得なくなるだろう。
そうではない、と僕は言いたい。
繰り返しになりますが、そこは後日に。


さて、価値を巡る言語ゲームの中で、もっとも象徴的なのは政治でありましょう。
政治とは集団的な意思決定のプロセス、と取り敢えずは定義できるでしょう。
ちなみにいえば、集団の意思決定に集団の成員がコミットする政治形態を民主主義(あるいは民主的)と呼ぶことができるでしょう。
その集団が国家である場合に、いわゆる(大文字の)政治と呼ばれるわけです。


さて、意思決定を行うとは、明示的あるいは非明示的な選択肢の中から、特定の選択を行うということに他なりません。
その場合に私達は何を選択しているのでしょうか?
一つの選択肢を選択しているのは間違いありませんが、それでは当たり前過ぎます。
例えば、税金を課す場合、所得税を課す選択があるかもしれませんし、消費税を課す選択があるかもしれません。
あるいは、所得税にしてもフラット税にするか、累進課税にするかの選択があるでしょう。
これは単に特定の税制を選択するという表面上の意思決定を表しているのでしょうか?
そうではない、と僕は考えます。
その税制が体現する、社会はこうあるべきという理念を含めて、その都度社会は意思決定をしている、と見做すべきでしょう。
そして、この場合の理念も価値に他ならない。

こうして、政治とは集団的な価値選択である、ということも言えるでしょう。
先に述べた、政治は価値を巡るもっとも象徴的な言語ゲームである、とはこのような意味においてであります。

とりあえず本日述べたことは、価値を巡る言語ゲームが存在する(その象徴が政治である)、ということであって、価値の言語ゲーム依存性ではありません。
しつこいですが、それはまた後日。

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