物事の多面性と科学主義・権威主義
ここのところやや(?)硬めのエントリーを挙げてきました。
ちょっと、肩がこった感もあるので、本日は少し系統の違うエントリーにしてみたい。
といいましても、当ブログ本来の(?)趣旨に近いエントリーなのかもしれませんが…
前置きはこれくらいにして本題へ。
私たちは、というか(特に)科学者は、「科学的な見方が一番偉い」風の発言をすることがある(あるいは目にすることがある)。
「君ぃ~、それは科学的じゃないよ」(と相手の発言を却下したり)
「科学的に考えれば、君の言っていることは妄想だよ」(と相手を見下したり)
みたいな。
ま、疑似科学バッシングの背後に見え隠れする、権威主義的態度ですね(この権威主義的態度は陰謀論バッシングにも同様に隠れている)。
自らは「正義」と思ってやっているのでしょうが、それだけに厄介ですね(権威主義を自覚することができない)。
「(素朴でわかりやすい)正義」と「権威主義」の合体を、私たちは警戒すべきなのかもしれません(それが某騒動の教訓と言えるでしょう)。
もちろん、科学者として一流の実績を挙げた人物が、その分野において発言をする限りは、ある意味当然のことだと思う(些か僭越な言い方をすれば、そのような発言をする権利を有する)。
何しろ、人生を賭して(というと大げさか?)、ある科学的事実を立証してきたわけだから。
それを許さないとすれば、逆に「科学って何だ?」ということになるだろう。
しかし、自らは何の努力もしてこなかった人物が、あることが科学的に明らかになっているという(社会的)事実に全面的に依拠して、その事実に反することを述べる人を口を極めてバッシングするとしたら、科学者(科学の発展に貢献した名もない無数の科学者も含め)の努力にフリーライド(ただ乗り)しているに過ぎない。
チトずれました。
本題へ戻すと。
(自然)科学は物理的事象を説明したり、予測したりする上では、確かに強力なツールで、恐らく何かが(自然)科学に取って代わることはないだろう。
しかし、そのことは、私たちがどんな場合でも科学的な見方を第一に取らなければならない(=科学主義)ということを意味しない。
繰り返すが、(自然)科学は物理的事象を説明したり、予測したりする上で、きわめて有用なツールであるに過ぎず、その場面において(のみ)科学が最重視されることが正当化されるに過ぎない。
言い換えれば、物事には、科学的な側面以外にも、実に多種多様な側面がある(あるいは、多種多様な側面を捉える、私たちの多種多様な視点がある)。
そして、様々な側面を捉える、私たちの様々な視点は絶えず生み出されている。
ローティ(アメリカの哲学者)流にいえば、多種多様な側面に関する多種多様な語りが、語彙を増殖させて社会を豊かにしていく、ということになるだろうか。
もしも、その語りに序列が作られるとしたら(序列を作ろうとする試みはウンザリするほどあるが)、権威が蔓延る社会になってしまうだろう(それはリベラルな社会とは程遠い)。
つまり、いかなる語りも排除することなく、同等なものとして捉えること。
それがリベラルな社会に他ならない。
というと、「お前は人を差別するような語りや名誉を傷つける語りも同等だと言うのか?」とのツッコミが入るかもしれません。
リベラルは、他者に対する侵害(だけ)は許容しない。
ゆえに、ある語りが他者を侵害するためのものであるなら(差別や名誉毀損はそのようなものと考えられる)、そのような語りには一定の制限が加えられてしかるべきだろう(逆に言えば、それ以外の語りを規制する理由はない)。
さて、やや抽象的な話をしてまいりました。
ここからが僕の言いたかったことです。
様々な語りが同等である、ということは、「AはBである」「AはCである」「AはDである」…という捉え方が互いに排他的ではなく両立し得る、ということです。
ただし、論理学的にいえば、「AはBである」と「AはBではない」は両立不可とされます(排中律という奴ですね)。
つまり、「AはBである」が仮に正しいとしても、それが直ちに「AはCである」を却下するわけではありません(排中律などの論理的両立不可能性が示されない限り)。
ところが往々にして人は、「AはCである」を否定したいためだけに、「AはBである(「AはCである」と違った見方)」を持ち出すわけですね。
しかし、先にも述べたように、ものの見方は多様であり、それが互いに両立していると考えられるわけです(それが論理的に両立不可能と示されない限り)。
盲人の象さわりの寓話を思い起こせば、それは簡単に示すことができるでしょう。
逆に言えば、特定のものの見方を示すことで、別のものの見方を却下できる(その見方を間違いと談じることができる)と考えている人は、語りの序列化を目指しているのかもしれません(それは権威主義的態度だと僕には思われます)。
具体的に何を言いたいかは、コチラのエントリーのコメント欄のやり取りを参照していただければと思います。
ちょっと、肩がこった感もあるので、本日は少し系統の違うエントリーにしてみたい。
といいましても、当ブログ本来の(?)趣旨に近いエントリーなのかもしれませんが…
前置きはこれくらいにして本題へ。
私たちは、というか(特に)科学者は、「科学的な見方が一番偉い」風の発言をすることがある(あるいは目にすることがある)。
「君ぃ~、それは科学的じゃないよ」(と相手の発言を却下したり)
「科学的に考えれば、君の言っていることは妄想だよ」(と相手を見下したり)
みたいな。
ま、疑似科学バッシングの背後に見え隠れする、権威主義的態度ですね(この権威主義的態度は陰謀論バッシングにも同様に隠れている)。
自らは「正義」と思ってやっているのでしょうが、それだけに厄介ですね(権威主義を自覚することができない)。
「(素朴でわかりやすい)正義」と「権威主義」の合体を、私たちは警戒すべきなのかもしれません(それが某騒動の教訓と言えるでしょう)。
もちろん、科学者として一流の実績を挙げた人物が、その分野において発言をする限りは、ある意味当然のことだと思う(些か僭越な言い方をすれば、そのような発言をする権利を有する)。
何しろ、人生を賭して(というと大げさか?)、ある科学的事実を立証してきたわけだから。
それを許さないとすれば、逆に「科学って何だ?」ということになるだろう。
しかし、自らは何の努力もしてこなかった人物が、あることが科学的に明らかになっているという(社会的)事実に全面的に依拠して、その事実に反することを述べる人を口を極めてバッシングするとしたら、科学者(科学の発展に貢献した名もない無数の科学者も含め)の努力にフリーライド(ただ乗り)しているに過ぎない。
チトずれました。
本題へ戻すと。
(自然)科学は物理的事象を説明したり、予測したりする上では、確かに強力なツールで、恐らく何かが(自然)科学に取って代わることはないだろう。
しかし、そのことは、私たちがどんな場合でも科学的な見方を第一に取らなければならない(=科学主義)ということを意味しない。
繰り返すが、(自然)科学は物理的事象を説明したり、予測したりする上で、きわめて有用なツールであるに過ぎず、その場面において(のみ)科学が最重視されることが正当化されるに過ぎない。
言い換えれば、物事には、科学的な側面以外にも、実に多種多様な側面がある(あるいは、多種多様な側面を捉える、私たちの多種多様な視点がある)。
そして、様々な側面を捉える、私たちの様々な視点は絶えず生み出されている。
ローティ(アメリカの哲学者)流にいえば、多種多様な側面に関する多種多様な語りが、語彙を増殖させて社会を豊かにしていく、ということになるだろうか。
もしも、その語りに序列が作られるとしたら(序列を作ろうとする試みはウンザリするほどあるが)、権威が蔓延る社会になってしまうだろう(それはリベラルな社会とは程遠い)。
つまり、いかなる語りも排除することなく、同等なものとして捉えること。
それがリベラルな社会に他ならない。
というと、「お前は人を差別するような語りや名誉を傷つける語りも同等だと言うのか?」とのツッコミが入るかもしれません。
リベラルは、他者に対する侵害(だけ)は許容しない。
ゆえに、ある語りが他者を侵害するためのものであるなら(差別や名誉毀損はそのようなものと考えられる)、そのような語りには一定の制限が加えられてしかるべきだろう(逆に言えば、それ以外の語りを規制する理由はない)。
さて、やや抽象的な話をしてまいりました。
ここからが僕の言いたかったことです。
様々な語りが同等である、ということは、「AはBである」「AはCである」「AはDである」…という捉え方が互いに排他的ではなく両立し得る、ということです。
ただし、論理学的にいえば、「AはBである」と「AはBではない」は両立不可とされます(排中律という奴ですね)。
つまり、「AはBである」が仮に正しいとしても、それが直ちに「AはCである」を却下するわけではありません(排中律などの論理的両立不可能性が示されない限り)。
ところが往々にして人は、「AはCである」を否定したいためだけに、「AはBである(「AはCである」と違った見方)」を持ち出すわけですね。
しかし、先にも述べたように、ものの見方は多様であり、それが互いに両立していると考えられるわけです(それが論理的に両立不可能と示されない限り)。
盲人の象さわりの寓話を思い起こせば、それは簡単に示すことができるでしょう。
逆に言えば、特定のものの見方を示すことで、別のものの見方を却下できる(その見方を間違いと談じることができる)と考えている人は、語りの序列化を目指しているのかもしれません(それは権威主義的態度だと僕には思われます)。
具体的に何を言いたいかは、コチラのエントリーのコメント欄のやり取りを参照していただければと思います。
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属人議論(論法)
こちらのエントリーでチラッと触れたが、きちっと論じておいた方がいいかな、などと思い直してエントリーを上げることとしました。
どうも属人とは法律用語であって、属人議論(論法)というものが辞書的に定義できるわけでもないようだが。
一番下に参考になりそうなサイトを列挙しておきました。
一応定義らしきものを述べておくと(quine10オリジナル)
属人議論(論法):ある主張の是非が、それを発した人物とは切り離せないと見做す論(つまり、論の正否を発言者の人格に帰属させる議論)
では、属人議論(論法)が含意する帰結をいくつか述べてみる。
論の是非を人格との関係でしか決められない以上、ある主張Aの真偽(妥当性)はその主張を吟味するだけでは決まらないことになる。
つまり、誰が言ったかを一々確認する。
まあ、これは手間の問題であるが、クリアできなくはない。
次々にソースをたどっていけばよい(問題点は山のようにあるが、ここでは問わない)。
上記の属人議論(論法)が正しいと仮定してみよう。
主張の是非が発言者が誰かによるわけだから、Aが主張Cをした場合はその主張は正しく、Bが主張Cをした場合は主張が間違っている、ということが起こり得るということだ。
そうなると、必然的に人々は主張の正しさよりも、誰が言ったかを気にするようになる(Aが言えば白いものも黒になるのだから)。
こうして属人議論(論法)は、真実を見極めようとする動機、を人々から奪ってしまうだろう(「何が正しいか」よりも「誰が言ったか」を気にするようになる)。
それは望ましいことか?
たしかに、権力者にとっては喜ばしいことこの上ない。
「正しさ」が「誰が言ったか」に帰属するとなれば、権力がその誰かを手懐けてしまえばよい。
権力にとって、誰かを手懐けることは実に容易いだろう(一部の例外を除く)。
手懐けそこなった人物が、植草氏であり、天木氏であろう(僕の独断)。
また、属人議論(論法)は、この上なく非科学的な態度と言える。
そりゃそうだ。
「地球が太陽の周りを回っている」は別にガリレオが言ったから正しいわけじゃない。
ニュートン力学をはじめとする物理学理論、および科学的に確立された観測の結果がその正しさを担保しているのだ。
「主張する人間によって『地球が太陽の周りを回っている』の真理値(正しいか間違っているか)が異なる」、と述べるとすれば、それはトンデモ以外の何物でもない。
ついでに言えば、「人間の遺伝情報を担う物質はDNAである」「水分子は酸素原子1個と水素原子2個からなる」「宇宙はどんどん膨張している」は、その発言者の属性にかかわらず(誰が言ったかに関わらず)科学的に正しいとされる。
要するに、誰が言ったかに関わらず正しい(あるいは間違っている)、というのが科学的言明の特徴である。
多分、異論のある方はいないだろうけど…
ということは、少なくとも属人論法を駆使する人間は、科学という営みをまるで理解していない(少なくとも科学的態度とは程遠い)、ということが帰結する。
従って、疑似科学を批判するような人間が、「仮に」属人議論(論法)を積極的に肯定するとしたら(そんな人間がいるかどうかわかりませんよ)、その人間は科学の何たるかをまるで理解していない人間に他ならない(少なくともその態度は科学的態度とは対極にある)。
科学的態度とは程遠い人間が、疑似科学を批判する。
なんというか、悪いジョークとしか思えないのだが…(あ、もしいるとしたら、ですよ念のため)
ということで、このエントリーを読まれた方は、決して属人議論(論法)に陥らないようにお願いします。
ついでに述べると、属人議論(論法)を見かけた折には、「君のは属人議論(論法)でダメな議論の典型だ!quine10のブログのこのエントリーでも読んで勉強したまえ!」と、当エントリーを紹介頂ければありがたく存じます。
属人議論(論法)のネットで見かけた参考サイトはこの辺り(上記の定義もあながち的外れではないかな)
1.有名人こそ、匿名を援護せよ
2.匿名さんは属人論法が大好き
3.属人的議論の正帰還ループ
1は2のブログ主が述べた記事に対する批判のようだ(で、1 2はそれに対するレスポンス。何かややこしくてすみません)。当ブログのコアな読者がいるとしたら、僕が1に賛同することを理解するでしょう。
3は今一よくわかっていないのですが、こういう見方もあるのかなと。
それでは、拍手コーナーへどうぞ。
どうも属人とは法律用語であって、属人議論(論法)というものが辞書的に定義できるわけでもないようだが。
一番下に参考になりそうなサイトを列挙しておきました。
一応定義らしきものを述べておくと(quine10オリジナル)
属人議論(論法):ある主張の是非が、それを発した人物とは切り離せないと見做す論(つまり、論の正否を発言者の人格に帰属させる議論)
では、属人議論(論法)が含意する帰結をいくつか述べてみる。
論の是非を人格との関係でしか決められない以上、ある主張Aの真偽(妥当性)はその主張を吟味するだけでは決まらないことになる。
つまり、誰が言ったかを一々確認する。
まあ、これは手間の問題であるが、クリアできなくはない。
次々にソースをたどっていけばよい(問題点は山のようにあるが、ここでは問わない)。
上記の属人議論(論法)が正しいと仮定してみよう。
主張の是非が発言者が誰かによるわけだから、Aが主張Cをした場合はその主張は正しく、Bが主張Cをした場合は主張が間違っている、ということが起こり得るということだ。
そうなると、必然的に人々は主張の正しさよりも、誰が言ったかを気にするようになる(Aが言えば白いものも黒になるのだから)。
こうして属人議論(論法)は、真実を見極めようとする動機、を人々から奪ってしまうだろう(「何が正しいか」よりも「誰が言ったか」を気にするようになる)。
それは望ましいことか?
たしかに、権力者にとっては喜ばしいことこの上ない。
「正しさ」が「誰が言ったか」に帰属するとなれば、権力がその誰かを手懐けてしまえばよい。
権力にとって、誰かを手懐けることは実に容易いだろう(一部の例外を除く)。
手懐けそこなった人物が、植草氏であり、天木氏であろう(僕の独断)。
また、属人議論(論法)は、この上なく非科学的な態度と言える。
そりゃそうだ。
「地球が太陽の周りを回っている」は別にガリレオが言ったから正しいわけじゃない。
ニュートン力学をはじめとする物理学理論、および科学的に確立された観測の結果がその正しさを担保しているのだ。
「主張する人間によって『地球が太陽の周りを回っている』の真理値(正しいか間違っているか)が異なる」、と述べるとすれば、それはトンデモ以外の何物でもない。
ついでに言えば、「人間の遺伝情報を担う物質はDNAである」「水分子は酸素原子1個と水素原子2個からなる」「宇宙はどんどん膨張している」は、その発言者の属性にかかわらず(誰が言ったかに関わらず)科学的に正しいとされる。
要するに、誰が言ったかに関わらず正しい(あるいは間違っている)、というのが科学的言明の特徴である。
多分、異論のある方はいないだろうけど…
ということは、少なくとも属人論法を駆使する人間は、科学という営みをまるで理解していない(少なくとも科学的態度とは程遠い)、ということが帰結する。
従って、疑似科学を批判するような人間が、「仮に」属人議論(論法)を積極的に肯定するとしたら(そんな人間がいるかどうかわかりませんよ)、その人間は科学の何たるかをまるで理解していない人間に他ならない(少なくともその態度は科学的態度とは対極にある)。
科学的態度とは程遠い人間が、疑似科学を批判する。
なんというか、悪いジョークとしか思えないのだが…(あ、もしいるとしたら、ですよ念のため)
ということで、このエントリーを読まれた方は、決して属人議論(論法)に陥らないようにお願いします。
ついでに述べると、属人議論(論法)を見かけた折には、「君のは属人議論(論法)でダメな議論の典型だ!quine10のブログのこのエントリーでも読んで勉強したまえ!」と、当エントリーを紹介頂ければありがたく存じます。
属人議論(論法)のネットで見かけた参考サイトはこの辺り(上記の定義もあながち的外れではないかな)
1.有名人こそ、匿名を援護せよ
2.匿名さんは属人論法が大好き
3.属人的議論の正帰還ループ
1は2のブログ主が述べた記事に対する批判のようだ(で、
3は今一よくわかっていないのですが、こういう見方もあるのかなと。
それでは、拍手コーナーへどうぞ。
議論について(いくつかの覚書)
「理解」と「説得」エントリーを書いて、乗りかかった小舟のこちらのエントリーを読んで(ひょっとしたら、前後逆、あるいは「理解」と「説得」エントリーそれ自体が、乗りかかった小舟のエントリーに無意識のうちに触発されたのかもしれない)、議論のメタファーで述べたことと一つに繋がったような感じがした。
それを覚書風に述べてみたいと思う。
議論のメタファー(ネット議論のあり方) part1
議論のメタファー(ネット議論のあり方) part2
議論は、「理解」を主な目的としたものと、「説得」を目的としたものがある(他にもあるかな?)。
で、進化のメタファーによる議論観と闘争のメタファーによる議論観がこの二つの議論に重なるような感じがした。
以下簡単に述べてみる。
説得というからには、「自分の意見は正しい」、ということを前提になされる(少なくとも自分が間違っていると思うことを相手に説得しようとする人間はいないだろう)。
ということは、説得的議論をする者にとって、「自分の意見とは違う相手の意見は間違っている」、ということだ(相手が正しいことを言っていると思っている人間が、相手を説得しようとは思わないだろう)。
そして、「正しい論/間違った論」を議論の「勝ち/負け」に結び付けようとする(場合がある)。
ということで、相手の間違いを見すことに主眼が置かれがちである(それがどんなに些細で、揚げ足取り的なものであっても)。
相手の間違い(=負け)が確定すれば、自分は勝った(=正しい)ことになる。
こうして、説得的な議論は闘争的な議論と親和性が高い(説得的な議論が必然的に闘争的になるわけではないのでこう言っておきます)。
一方、理解を主眼とした議論はどうなるか。
「理解」とは「論理の繋がりを辿れる」ということだ。
そして、実質的に論理の繋がりは無限である(生物の多様性が実質的に無限であるように)。
多様な意見が混じり合うことにより、さらに多様な意見が生まれる(それがさらに…)。
例えば、たった五つの公理からなるユークリッド幾何学から膨大な定理が論理的に導かれるように…
そうすると、議論とは「論理で辿れる様々な論(=理解可能な論)を生み出す」、という風に理解できる。
だとすれば、議論に加わる人々は、そのような多様な論を生み出す(=進化)共同作業者という風に捉えることができる。
どうかなあ
自分としてはスッキリ繋がった感じはあるのだが。
それを覚書風に述べてみたいと思う。
議論のメタファー(ネット議論のあり方) part1
議論のメタファー(ネット議論のあり方) part2
議論は、「理解」を主な目的としたものと、「説得」を目的としたものがある(他にもあるかな?)。
で、進化のメタファーによる議論観と闘争のメタファーによる議論観がこの二つの議論に重なるような感じがした。
以下簡単に述べてみる。
説得というからには、「自分の意見は正しい」、ということを前提になされる(少なくとも自分が間違っていると思うことを相手に説得しようとする人間はいないだろう)。
ということは、説得的議論をする者にとって、「自分の意見とは違う相手の意見は間違っている」、ということだ(相手が正しいことを言っていると思っている人間が、相手を説得しようとは思わないだろう)。
そして、「正しい論/間違った論」を議論の「勝ち/負け」に結び付けようとする(場合がある)。
ということで、相手の間違いを見すことに主眼が置かれがちである(それがどんなに些細で、揚げ足取り的なものであっても)。
相手の間違い(=負け)が確定すれば、自分は勝った(=正しい)ことになる。
こうして、説得的な議論は闘争的な議論と親和性が高い(説得的な議論が必然的に闘争的になるわけではないのでこう言っておきます)。
一方、理解を主眼とした議論はどうなるか。
「理解」とは「論理の繋がりを辿れる」ということだ。
そして、実質的に論理の繋がりは無限である(生物の多様性が実質的に無限であるように)。
多様な意見が混じり合うことにより、さらに多様な意見が生まれる(それがさらに…)。
例えば、たった五つの公理からなるユークリッド幾何学から膨大な定理が論理的に導かれるように…
そうすると、議論とは「論理で辿れる様々な論(=理解可能な論)を生み出す」、という風に理解できる。
だとすれば、議論に加わる人々は、そのような多様な論を生み出す(=進化)共同作業者という風に捉えることができる。
どうかなあ
自分としてはスッキリ繋がった感じはあるのだが。
「理解」と「説得」
えー、本日より、僕の徘徊するブログの注目記事をピックアップして掲示することにします(独断と偏見により大体3個くらいかな、毎日になるかどうかも分かりません)。
ジャンルは問わず(政治的なネタの比重が大きくなると思います)、その日の自分のエントリーとかぶらないネタ、メジャーどころは控えめに(取り上げた方、気分を害さないでください)、好意的に受け止めた記事です(もちろん、例外はあり得ます)。
まだ、ブログを始めて一ヶ月ちょっとで、自分のブログのあり方を模索中です。
では、本日の注目記事
裁判員制度ーーこんなひどいものとは:裁判員制度については知っておいたほうがよいでしょう
社会に出る前に捨てておくべき3つの財産:なかなかに面白い。社会に出からでも遅くはないのではないかな。
世界に君臨したつもりの米国とお先棒を担ぐ日本~USーVISIT進化形:諸外国らの信用を喜んで捨てでも利権が欲しいのでしょうか?
では、本題へ。
いくらか反発されることを予想して書きます。
唐突ですが、僕はこのブログでは、「ブログ記事を読んだ人がある事柄を『理解』する」ということを最重視しています。
比喩的な表現をしばしば用いています。
それは読者の想像力を喚起しようと企むものですが、それも「理解」の一助となることを期待してのものです(比喩的に何かカッコいいことを言ってやろうとか、そういう下心では決してありません………多分)。
僕はこのブログにおいて(というか生活一般において)、他者に何事かを「説得」しようという動機は薄いです(全くないわけでもありませんが)。
まず前提として、僕は人々が自由意思によって何事かをなす(あるいはなさない)ということを重視しています。
例えば、人から見て、どんなに立派な、正しい、善良な行為を行ったとしても、それが「説得された(より強い表現を用いるなら、強制された)」結果なら僕はそれほど立派なこととも、正しいこととも、善良なこととも思わない。
逆に、人から見てどんなに下らなく、つまらなく、些細なことに見えようとも、それが自由意思に発する限りは尊重したいと思う(それが他者に害をなすものでない限り)。
このことをまず確認しておきます(自由を重視しない人には以下の記述は何も響かないかもしれない)。
ジャンルは問わず(政治的なネタの比重が大きくなると思います)、その日の自分のエントリーとかぶらないネタ、メジャーどころは控えめに(取り上げた方、気分を害さないでください)、好意的に受け止めた記事です(もちろん、例外はあり得ます)。
まだ、ブログを始めて一ヶ月ちょっとで、自分のブログのあり方を模索中です。
では、本日の注目記事
裁判員制度ーーこんなひどいものとは:裁判員制度については知っておいたほうがよいでしょう
社会に出る前に捨てておくべき3つの財産:なかなかに面白い。社会に出からでも遅くはないのではないかな。
世界に君臨したつもりの米国とお先棒を担ぐ日本~USーVISIT進化形:諸外国らの信用を喜んで捨てでも利権が欲しいのでしょうか?
では、本題へ。
いくらか反発されることを予想して書きます。
唐突ですが、僕はこのブログでは、「ブログ記事を読んだ人がある事柄を『理解』する」ということを最重視しています。
比喩的な表現をしばしば用いています。
それは読者の想像力を喚起しようと企むものですが、それも「理解」の一助となることを期待してのものです(比喩的に何かカッコいいことを言ってやろうとか、そういう下心では決してありません………多分)。
僕はこのブログにおいて(というか生活一般において)、他者に何事かを「説得」しようという動機は薄いです(全くないわけでもありませんが)。
まず前提として、僕は人々が自由意思によって何事かをなす(あるいはなさない)ということを重視しています。
例えば、人から見て、どんなに立派な、正しい、善良な行為を行ったとしても、それが「説得された(より強い表現を用いるなら、強制された)」結果なら僕はそれほど立派なこととも、正しいこととも、善良なこととも思わない。
逆に、人から見てどんなに下らなく、つまらなく、些細なことに見えようとも、それが自由意思に発する限りは尊重したいと思う(それが他者に害をなすものでない限り)。
このことをまず確認しておきます(自由を重視しない人には以下の記述は何も響かないかもしれない)。
議論のメタファー(ネット議論のあり方) part 2
えー、読みやすくなるようブログデザインを一新しました(読者獲得を狙って)。
さて、part 1では、ネット議論においてごくごく一般的に見られる、闘争のメタファー(議論を勝ち負けと見做す議論観)では実りある議論を期待することはできない旨を書きました。
では、私たちは(少なくともネット上における)議論をどのように捉えるのがいいのか?
どのようなメタファーが議論を実りある、生産的なものにするだろうか?
「議論は他者との共同作業」これは僕が掲示板に出入りしていた頃からスローガンで、現在に至るまでこの議論観は変わっていない(成長していないと言われるかもしれないが)。
僕の考える議論のメタファーは「進化」である。
ある人の心に生じた「未熟な論」が、大勢の人の間でやり取りされることにより、徐々に鍛えられ「成熟した論」になっていく。
それは、環境のなかで発生した、か弱い「生物」が環境による淘汰を受け、環境に適した「生物」に進化していくイメージと重ねられる。
このように議論を捉えた場合、他者の批判は論をより鍛えられたものとする、進化の促進要因と捉えられよう。
「淘汰」は、その論が現実にどれだけ深く切り込めるか、という部分に関わってくる(現実に対してインパクトを持てない論は徐々に淘汰されていくだろう)。
進化のメタファーで議論を捉えた場合、他者(の批判)の存在は自論に対する攻撃よりもむしろ、自論を鍛える進化促進要因と見做すことが可能となる。当然他者の論への批判も他者の論を鍛える、という観点からなされるべきとなる(まあこれは倫理的要請であって、そうあるように自分で自分に言い聞かせるしかないのですが…)。したがって、進化のメタファーによって議論に臨む人々は、闘争のメタファーによって議論に臨む人々を無視してよい(自論を鍛えてくれそうな批判のみを受け止めればよい)し、逆に他者の論に対する批判もどのような批判が他者の論をより強靭なものとするか、という観点から批判を行うことになる。
このように、進化のメタファーによって、他者(あるいは議論相手)の存在は自論を鍛え上げる「共同作業者」とイメージされることになる(「議論は他者との共同作業」)。
進化のメタファーをイメージするキーワードを挙げるなら、多様性、連帯、信頼になるだろうか。
さて、part 1では、ネット議論においてごくごく一般的に見られる、闘争のメタファー(議論を勝ち負けと見做す議論観)では実りある議論を期待することはできない旨を書きました。
では、私たちは(少なくともネット上における)議論をどのように捉えるのがいいのか?
どのようなメタファーが議論を実りある、生産的なものにするだろうか?
「議論は他者との共同作業」これは僕が掲示板に出入りしていた頃からスローガンで、現在に至るまでこの議論観は変わっていない(成長していないと言われるかもしれないが)。
僕の考える議論のメタファーは「進化」である。
ある人の心に生じた「未熟な論」が、大勢の人の間でやり取りされることにより、徐々に鍛えられ「成熟した論」になっていく。
それは、環境のなかで発生した、か弱い「生物」が環境による淘汰を受け、環境に適した「生物」に進化していくイメージと重ねられる。
このように議論を捉えた場合、他者の批判は論をより鍛えられたものとする、進化の促進要因と捉えられよう。
「淘汰」は、その論が現実にどれだけ深く切り込めるか、という部分に関わってくる(現実に対してインパクトを持てない論は徐々に淘汰されていくだろう)。
進化のメタファーで議論を捉えた場合、他者(の批判)の存在は自論に対する攻撃よりもむしろ、自論を鍛える進化促進要因と見做すことが可能となる。当然他者の論への批判も他者の論を鍛える、という観点からなされるべきとなる(まあこれは倫理的要請であって、そうあるように自分で自分に言い聞かせるしかないのですが…)。したがって、進化のメタファーによって議論に臨む人々は、闘争のメタファーによって議論に臨む人々を無視してよい(自論を鍛えてくれそうな批判のみを受け止めればよい)し、逆に他者の論に対する批判もどのような批判が他者の論をより強靭なものとするか、という観点から批判を行うことになる。
このように、進化のメタファーによって、他者(あるいは議論相手)の存在は自論を鍛え上げる「共同作業者」とイメージされることになる(「議論は他者との共同作業」)。
進化のメタファーをイメージするキーワードを挙げるなら、多様性、連帯、信頼になるだろうか。