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2024-04

村木厚子さんのこと

郵便不正事件
その概要は『私は無実です』に詳しい(まだ途中ですけど…)。
魚住昭氏の『冤罪法廷』もこの事件を扱っています。


『私は無実です』の62-69ページに、公判前整理手続きで絞られた争点が挙げられている。
誰が誰に頼んで偽造証明書を発行したのか、非常に詳細に描かれている(そこには当然、被告であった村木厚子さんの関与も描かれている)。


しかし、ご承知の通り、村木さんには無罪の判決があり、大阪地検は控訴を断念したため、無罪が確定した。


つまり、上記の所に描かれた詳細なストーリーは、大阪地検特捜部による全くのでっちあげだったことが、明らかとなったわけだ。
大阪地検特捜部(に限らず、特捜検察一般)の関与する事件は、(事実とは全く無関係に)そのストーリーをあらかじめ検察が作成し、密室での強圧的な取り調べ(脅迫・恫喝)によって、弱い立場の被疑者や参考人にストーリー通りの自白を強要することによって完成する。
つまり、特捜事件とは、特捜検察と被疑者・参考人が作り上げる、壮大な虚構に他ならない。


まぁ、ぶっちゃけて言えば、特捜検察=冤罪製造機関である(検察のその冤罪製造体質は特捜に限られないが…)。


なぜ、特捜検察はここまでの冤罪製造(=権力犯罪)に成り果ててしまったのか?(まぁ、「元から」という説もあるが…)
ぶっちゃけて言えば、検察は、起訴権限を(自由裁量で)独占し、捜査権限まで有している(しかも、どの事件をするかも裁量で選べる!)強大な権力機関である。
しかも民主的なチェックは無きに等しく、ほとんど法務大臣の指揮権のみである。
指揮権発動は、捜査機関への政治介入という批判を誘発するのでおいそれとは使えない(検察寄りのメディアは批判しまくるだろう)。
権力批判の一端を担うべきマスメディアは、記者クラブという利権温存のために、検察の犬(というか奴隷状態?)に成り下がっており、批判を望むべきもない。


つまり、強大な権力を有する組織が、ほとんど民主的なチェックが入らなければ、自分たちの利権を温存し、それを拡張するために、権力を濫用するのは、ほとんど必然と言っても過言ではない。


それが表面に現れたのが、たまたま今回の郵便不正事件であるにすぎない(ずーと体質としては有してきた)。
そして、その民主的なチェックが入らないために暴走する権力を最も象徴的に体現したのが検察組織ではあったが、それは現在の官僚組織一般の有する体質に他ならない。
現在の官僚組織は、建前上は国民に選ばれた政治家が監視することにはなっているが、それはほとんど建前としてしか機能しない(官僚のやりたい放題)。
自民党はもとより、現在の菅・仙石政権も、もはや官僚の操り人形である(彼らが独自になしえたことなどあるだろうか?)。


言いたいことは、日本はいまだに官僚主権・官僚独裁国家である、ということだ。
それを端的に見せつけたのが、郵便不正事件であったわけだ。
そのやり方があまりにも杜撰過ぎ、かつ村木さんが(検察の予想外に)否認を続け、かつ証人が次々に供述調書を翻す証言をしたために、その杜撰さを取り繕えなくなったために露見したわけだ。
あくまでも郵便不正事件はたまたま発覚しただけで、その裏には膨大な数の冤罪事件(=権力犯罪)の存在が示唆される。


ここで村木さんの話にもどります。


村木さんは無事(?)、本人の願い通り元の職場へと復帰されました。
それはおめでたい、というより本来は至極当然と看做すべきでしょう。
というのも、日本は(少なくとも建前上は)推定無罪原則に基づく民主国家のはずですから、起訴の段階(有罪判決の出ていない段階)で、休職や懲戒免職になるとしたら、それは人権侵害に他ならないからです(無罪の人間に対する扱いとしては不当極まりないものである)。


それは本題ではありません。


先に、検察の暴走が、民主的チェックの入らない権力機構一般(官僚機構)に当てはまる図式であることを述べました。
村木さんは、その官僚機構のまさに中枢にいた人です(厚労省の局長で、女性初の事務次官が有力視されていた)。
その人柄が官僚一般からは想像できないほど、市民と近い人柄らしいのですが(だからこそ、多くの支援者が現れた)。
しかし、これもまた強調すべきことだが、権力機構は、その構成員の人柄とは無関係に存続する(一人の善良なる個人がいたところで、権力機構はびくともしない)。
言いかえれば、権力機構は組織一体として自己保存(権力保持)に働く。


冤罪被害者は恐らく、そのことを誰よりも身をもって経験するだろう(村木さんもそのことを恐らく痛いほど実感しただろう)。


しかし、村木さんが特異なのは、他ならぬ村木さん自身が、権力機構を担う官僚の一員だということである。
しかも、無罪が確定している。


言いたいことはこうである。
民主的なチェックの入らない検察が暴走したとしたら、同じく民主的なチェックの入らないたの権力機構も同様に暴走し得るし、それを個人として押しとどめることはできない(よしんば一時的にできたとしても、それを押しとどめ続けることはできない)。
その権力機構には村木さんの所属する厚労省も当然含まれる。
村木さんが、もしそこに、たんに復職するだけだとしたら、それはそのような権力機構をそのまま温存することに他ならない。


もちろん、村木さんは全く身に覚えのないことで長期間拘留され、裁判も戦わざるを得なかった。
それは理不尽極まりないことだ。
しかし、同じく権力を預かる人間として、権力犯罪に自ら直面したとすれば、その権力のあり方そのものへと関心を向けなければウソだと思う。
官僚機構の権力暴走に直面しつつ、自らその権力の元へ復帰することは、その権力の暴走を容認し、加担することに他ならないと思う。


理不尽な言いがかりだと自覚しつつ、批判を覚悟であえて言う。
村木さんは、もし今後も障害者問題など福祉にかかわり続けたいのであれば、そして権力の横暴を批判したいのであれば(民主主義を重視するのであれば)、厚労省に復職するのではなく、政治家になるべきだ。
政治家は少なくとも、選挙という民主的なチェックを受ける(ポピュリズムと批判されようとも)。


おそらく既存政党のいくつかは村木さんに打診はしているだろう(当選は間違いないだろうから)。
それでもなお厚労省に復職したということは、たぶん村木さんには政治家になる意思はないのだろう。


権力が自らに批判的な目を向けるとしたら、それは権力の理不尽さ(冤罪被害はその象徴だろう)に直面した時をおいて他にはないと思うのだが…
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「信頼」と「信用」

昨日のエントリーで信頼という言葉を出しました(進化メタファーの議論観のキーワードの一つが信頼ということで)。
というわけでもないのですが、大分前に書き上げていたエントリーを個人的な関心事第3弾としてアップします。

とあるブログのコメント欄で、「信頼」と「信用」の違いについて話題にした。
というのも、そのブログ主がブログ上で、自分(quine10)なら「信頼」を用いるほうがベターと思われる文脈で、「信用」と解釈せざるを得ない用い方で「信じる」という言葉を用いていたので、その真意を確かめるために。
ところが聞いてビックリ、そのお方は、「信頼と信用に違いはありません(あるのは慣用的な用法の違いのみである)」、とお答えになるではありませんか。正直、その方の言語センスに疑問を抱かずにはいられませんでした。ウィトゲンシュタイン(哲学者、意味の観念論(注1)を否定し、意味の語用論(注2)を提示した)も草葉の陰で泣いているかもしれません。

というわけで、緊急アンケート。
あなたは、「信頼」と「信用」の意味(というかニュアンス)の違いをどう認識していますか?

(1)全くない(あるのは慣用的な用法のみ)
(2)少しはある
(3)大いにある
(4)どちらともいえない(この設問自体、またここへ答えが集中するのは日本特有の現象らしいですね。ま、余談ですが。)
(5)わからない(これも日本では多い)

(2)、(3)が論理的に排他的ではありませんが、それは気にしない。

さて、僕の答えは当然(?)、(3)である。
それはもう、「信頼が社会を覆いつくすことは望ましいが(ま、ありえないでしょうが)、信頼が社会から失われ信用のみが社会を覆い尽くすことはおぞましい」、と考えるほどである(シャレではありません、念のため)。
まあ、僕の思いばかりを述べてもしょうがないので、まずは以下のリンクを参照してみよう。

信頼

ここでは「信頼」と「信用」の違いに関して、「積極的(信頼)/消極的(信用)」という違いを挙げていますが、僕は少し違った認識を持っています。

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比喩を語ること(比喩を語ることを自己目的化しないために)

個人的な関心事第二弾です。
比喩(というより暗喩、隠喩)…僕は多用します。
論理がコツコツ地道な積み上げのイメージに対し、比喩は物事の本質を一瞬で見通すような、華やかなイメージを供給する。
それゆえ僕は比喩を多用するのだが、それだけに比喩の持つデメリットというかそういうものには一応敏感である「つもり」です。
(議)論の本質は、あくまでコツコツ・地道の「論理」にあるのであって、華やかな「比喩」にあるのではありません。
つまり、比喩は最終的に論理に着地すべきであり、言いっ放しは単に比喩(的に物事)を述べることを目的にしている、との誹りを免れ得ません。

回りくどくて何を言わんとしているか、今一つ掴み切れないでしょうから、一言でいいます。

「比喩を述べることを自己目的化してはいけない」

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医師の世襲(あるいは教育と格差)について

えー、書いてはみたものの、あまりにも個人的な関心によるもので(他のエントリーも個人的な動機には違いないが、他の人も問題意識を共有してもらえるのではないか、と幾分かでも期待して書いている)、アップを躊躇している記事がいくつかあります。
といういことで、毎週日曜日を「個人的な関心事アップデー」に指定したいと思います(毎週アップするとも限りませんが)。

では本日のお題へ。
前者に関しては、政治家の世襲ならいざ知らず、多分このブログを読んでいる人の99%は関心がないでしょう。

こちらのブログエントリーで「医師の世襲など幻である」風なことが述べられていた。
言いたいことは山ほどあるが、要点を絞って述べる。

先のブログ記事では医師の産出には国家試験というフィルターが掛かるがゆえに、医師の世襲などないという論陣を張りたいようだが、そうはイカの何とやらである。

政治家の産出には選挙というフィルターが掛かるがゆえに、政治家の世襲などありえないなどと言っても鼻で笑われるだろう。
政治家となる上で、集票の基礎となる地盤(世襲政治家は何の苦労もなくこれを引き継ぐ)が大きくものを言う。

では、医師となる上での地盤とは何か?

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