田代不起訴 検察の腐敗と民主主義の危機について
「田代また覚醒剤やっちゃった?」と思ったアナタ…
それは田代違いです!
あ、いきなりムチャ振りしてすみません、何しろ久々な更新なもので…
検察審査会で小沢氏(陸山会事件で検察は不起訴にした)を強制起訴するため(検察審査会で2回連続して起訴相当が出されると自動的に強制起訴される)、捜査報告書を捏造した田代正弘元検事…
以下の動画をご参照ください
「田代不起訴」に見る日本の病理
当然、ありもしない内容の報告書をでっち上げ、無実の小沢氏を強制起訴に誘導したわけですから、ジョーシキ的には田代氏がなした行為は犯罪(権力を悪用した非常に悪質な犯罪)以外の何物でもないでしょう。
実際、(検察が望む結論に誘導し得る)密室の検察審査会が下した結論は「不起訴不当」なのであります。
つまり、(強制起訴を避けるためにあらゆる手を打ったであろう)検察ですら起訴相当を避けるのがせいぜいという、明々白々な犯罪行為があったとみるべきなのです。
そして、この明々白々な犯罪行為を検察は不起訴にした。
(密室であるがゆえに検察が好き勝手に望む結論に誘導し得る)検察審査会ですら「不起訴不当」を出さざるを得ないほどの明々白々な犯罪行為を検察は不起訴にした。
田代元検事がなした以上の明白な犯罪行為もそうそうないでありましょう。
要するに、検察は完全に反民主的組織であることを自ら証明してしまったわけです(国民が納めた税金で食っている検察組織が、その国民に敵対しているということ!)。
田代氏不起訴が意味することとは、「検察は実質的にある人物を貶める(例えば、報告書を偽造して検察審査会の審議を強制起訴に誘導する)ために何をしても罪に問われることはない」、ということになるでしょう。
つまりは検察はある人物を社会的に抹殺するための免罪符を手に入れたに等しい。
官僚機構は、現在の検察・検察審査会を有している限り、未来永劫にわたって安泰ということになる。
結果から見れば、官僚主義社会の集大成が、検察審査会の法改正(起訴相当2回→強制起訴)であったということだ。
これによって日本の民主主義は完全に息の根を止められたとみるべきだろう。
もちろん、日本に民主主義が根付いたことは本来の意味ではなかったのかもしれないが…
それは田代違いです!
あ、いきなりムチャ振りしてすみません、何しろ久々な更新なもので…
検察審査会で小沢氏(陸山会事件で検察は不起訴にした)を強制起訴するため(検察審査会で2回連続して起訴相当が出されると自動的に強制起訴される)、捜査報告書を捏造した田代正弘元検事…
以下の動画をご参照ください
「田代不起訴」に見る日本の病理
当然、ありもしない内容の報告書をでっち上げ、無実の小沢氏を強制起訴に誘導したわけですから、ジョーシキ的には田代氏がなした行為は犯罪(権力を悪用した非常に悪質な犯罪)以外の何物でもないでしょう。
実際、(検察が望む結論に誘導し得る)密室の検察審査会が下した結論は「不起訴不当」なのであります。
つまり、(強制起訴を避けるためにあらゆる手を打ったであろう)検察ですら起訴相当を避けるのがせいぜいという、明々白々な犯罪行為があったとみるべきなのです。
そして、この明々白々な犯罪行為を検察は不起訴にした。
(密室であるがゆえに検察が好き勝手に望む結論に誘導し得る)検察審査会ですら「不起訴不当」を出さざるを得ないほどの明々白々な犯罪行為を検察は不起訴にした。
田代元検事がなした以上の明白な犯罪行為もそうそうないでありましょう。
要するに、検察は完全に反民主的組織であることを自ら証明してしまったわけです(国民が納めた税金で食っている検察組織が、その国民に敵対しているということ!)。
田代氏不起訴が意味することとは、「検察は実質的にある人物を貶める(例えば、報告書を偽造して検察審査会の審議を強制起訴に誘導する)ために何をしても罪に問われることはない」、ということになるでしょう。
つまりは検察はある人物を社会的に抹殺するための免罪符を手に入れたに等しい。
官僚機構は、現在の検察・検察審査会を有している限り、未来永劫にわたって安泰ということになる。
結果から見れば、官僚主義社会の集大成が、検察審査会の法改正(起訴相当2回→強制起訴)であったということだ。
これによって日本の民主主義は完全に息の根を止められたとみるべきだろう。
もちろん、日本に民主主義が根付いたことは本来の意味ではなかったのかもしれないが…
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検察が田代(佐久間、大鶴、斉藤、木村)を起訴できないワケ 補足編
あっ、決してアクセス数稼ぎがしたい訳ではありません…
ちょっと前回言い足りないことがあったので、本日はその補足ということで…
別に言い訳するようなこっちゃないけど。
さて、一つ目の補足は、検察全体が犯してしまっている虚偽公文書作成(同行使)という犯罪についてです。
あえて書くまでもないとも思ったのですが、一応書いておきます。
言うまでもなく、供述調書なるものですね。
長期間の取調べ(弁護士の立ち会いも、可視化もない)で精神的に追い詰められる(否認しようがそんなことはお構いなし、というか否認は無反省とすり替えられる)。
場合によっては、家族や友人までが取調べを受ける(あるいはそれを脅しとして使われる)。
そうしてやってもいない犯罪の、まったくでっち上げの調書(=虚偽公文書)が作成される。
もちろん、(物証を軽視して)そんなもの(不可視の取調室で作成された供述調書)を証拠として採用する裁判所の問題も大いにある。
その根拠が供述調書の迫真性だったりして笑えるのだが、その迫真性ある供述調書がまったくでっち上げであったことは、数々の冤罪事件を振り返れば珍しくもなんともない(足利事件や布川事件など)。
供述調書の迫真性など、検察が小説家顔負けの作文能力を有する(かもしれない)、ということを示すものでしかない。
まぁ、作文ばっかしていればそれなりに作文能力も上達するわなぁ…
ということで、これが一つ目の補足です。
ところで、森ゆう子参議員が一連の小沢事件(西松事件、陸山会事件)の検察のデタラメっぷりについて書かれた『検察の罠』(あっ、お世辞ではなく国民必読の書です)に実に興味深いことが書かれています(後述)。
ここからは先日のエントリーのおさらいとなりますが…
検察史上稀にみる不祥事と検察内外から総バッシングを受け、検察もソッコーで(報道された当日?翌日?)動いたフロッピー前田の証拠改竄事件(と大坪・佐賀の犯人隠避)。
しかし、小川前法相も立件されないのは明らかにおかしいと認めた、田代検事の捜査報告書捏造という、虚偽公文書作成(同行使)という疑惑(というか、流出した資料を合わせれば、疑惑とも言えないほどその犯罪性はあきらかである)については、見苦しいまでのあがきを見せて不起訴。
この検察を正義の組織と思っている人(そんな人いるのか?)には不可解極まりないであろう事態。
それほど明らかな犯罪を犯した田代を検察が起訴できないワケは、検察全体が同様の犯罪にどっぷり浸かっているからだ、というのが先日のエントリーの趣旨でした。
「まぁ、確かに田代の虚偽公文書作成は犯罪かもしれないが(まぁ、立派な犯罪だが)、前田ほど悪質じゃないっしょ(だから不起訴に目くじら立てなさんな)」、という向きもあるかもしれません。
が、しかし。
そこで、参照にすべきが上記の森議員の『検察の罠』であります。
一部引用します
201ページより
一応、刑の重さで単純に犯罪の悪質性を云々できるわけではない、という留保を仮につけたとしても、少なくとも前田並の犯罪を犯した人間が起訴(どころか逮捕)もされずにのうのうと大手を振って(?)歩いているのが、検察という組織なわけです。
そして、犯罪者が大手を振って(?)のさばっているいるのに、それを咎める人間が誰一人としていない(唯一いるのがすでに検事を辞めた郷原氏)のが、正義を称する検察組織なわけです。
そんな組織が正義を称するところが笑えるっちゃあ笑える(笑いごっちゃないけど)。
そして再度述べますが、明らかな犯罪者を逮捕・起訴できないのは、検察全体が同じ犯罪に手を染めているからです(検察=犯罪組織)。
前田の証拠改竄事件が検察史上類を見ない不祥事というのなら、検察史上類を見ない不祥事がゴロゴロしているのが現在の(過去もか?)の検察なわけです。
そこいらにゴロゴロしているものを、検察史上類を見ないなどとは決し表現しませんが…
やや(?)脱線しましたが、これが補足の二点目。
脱線ついでに(?)本題とは大いにズレるがもうちょいと言いたい。
本来なら、『検察の罠』という本は、ジャーナリストが書くべきだろう。
もちろん、大手メディア(=記者クラブメディア)の記者は決してジャーナリストではなく権力の犬に過ぎないから、そんなものが書くなどとは全く期待していないが…
フリージャーナリスト諸君、君らにもしジャーナリストの矜持があるのなら、本職ではない一国会議員に自らの仕事を奪われたことを大いに恥じ入ってもらいたい。
ジャーナリスト冥利に尽きる垂涎のネタが、間違いなく目の前に転がっているのに、それを指を咥えてみているだけなのか君たちは?(上杉隆氏は『暴走検察』を書いていたな)
だったら今すぐジャーナリストの看板を下ろすべきだ。
と、まぁちょっと(?)興奮気味に書いてしまいましたが…
未来の歴史家は小沢事件を日本史上でも稀にみる謀略事件と表現するだろう。
せめて、その歴史資料として今回のこの事件を詳細に纏めるジャーナリスト(じゃなくてもよいけど)が出て欲しいところだ。
あっ、僕は素人なのでその辺はちょっと…
ちょっと前回言い足りないことがあったので、本日はその補足ということで…
別に言い訳するようなこっちゃないけど。
さて、一つ目の補足は、検察全体が犯してしまっている虚偽公文書作成(同行使)という犯罪についてです。
あえて書くまでもないとも思ったのですが、一応書いておきます。
言うまでもなく、供述調書なるものですね。
長期間の取調べ(弁護士の立ち会いも、可視化もない)で精神的に追い詰められる(否認しようがそんなことはお構いなし、というか否認は無反省とすり替えられる)。
場合によっては、家族や友人までが取調べを受ける(あるいはそれを脅しとして使われる)。
そうしてやってもいない犯罪の、まったくでっち上げの調書(=虚偽公文書)が作成される。
もちろん、(物証を軽視して)そんなもの(不可視の取調室で作成された供述調書)を証拠として採用する裁判所の問題も大いにある。
その根拠が供述調書の迫真性だったりして笑えるのだが、その迫真性ある供述調書がまったくでっち上げであったことは、数々の冤罪事件を振り返れば珍しくもなんともない(足利事件や布川事件など)。
供述調書の迫真性など、検察が小説家顔負けの作文能力を有する(かもしれない)、ということを示すものでしかない。
まぁ、作文ばっかしていればそれなりに作文能力も上達するわなぁ…
ということで、これが一つ目の補足です。
ところで、森ゆう子参議員が一連の小沢事件(西松事件、陸山会事件)の検察のデタラメっぷりについて書かれた『検察の罠』(あっ、お世辞ではなく国民必読の書です)に実に興味深いことが書かれています(後述)。
ここからは先日のエントリーのおさらいとなりますが…
検察史上稀にみる不祥事と検察内外から総バッシングを受け、検察もソッコーで(報道された当日?翌日?)動いたフロッピー前田の証拠改竄事件(と大坪・佐賀の犯人隠避)。
しかし、小川前法相も立件されないのは明らかにおかしいと認めた、田代検事の捜査報告書捏造という、虚偽公文書作成(同行使)という疑惑(というか、流出した資料を合わせれば、疑惑とも言えないほどその犯罪性はあきらかである)については、見苦しいまでのあがきを見せて不起訴。
この検察を正義の組織と思っている人(そんな人いるのか?)には不可解極まりないであろう事態。
それほど明らかな犯罪を犯した田代を検察が起訴できないワケは、検察全体が同様の犯罪にどっぷり浸かっているからだ、というのが先日のエントリーの趣旨でした。
「まぁ、確かに田代の虚偽公文書作成は犯罪かもしれないが(まぁ、立派な犯罪だが)、前田ほど悪質じゃないっしょ(だから不起訴に目くじら立てなさんな)」、という向きもあるかもしれません。
が、しかし。
そこで、参照にすべきが上記の森議員の『検察の罠』であります。
一部引用します
201ページより
私は、前田検事の事件と、田代検事の事件の取り扱いがバランスを失している決定的なポイントを突くことにした。
「じゃあ、証拠の捏造と捜査報告書の捏造は、罪はどちらが重いんですか?」
「えーと、法的な意味というか、社会的な意味ということでしょうか?」
「両方です」
「それはやはり、同程度の深刻な事態だとは思います」
また質問の意味をわざと取り違えている。私は聞き返した。
「罪は?」
黒川官房長はすぐには答えなかった。
「虚偽有印公文書作成罪の方が……」とっさに答えたのは、同席していた法務省刑事局の担当者だった。
前田検事のやった証拠偽造の法定刑は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金。
田代検事のやった虚偽有印公文書作成ざは、1年以上10年以下の懲役。
検察官にとっては常識だ。とっさに答えが出てこないほうがおかしい。もちろん、黒川官房長がしらないわけがない。
つまり、意地でも田代検事の罪のほうが重いとは認めたくないのだ。
一応、刑の重さで単純に犯罪の悪質性を云々できるわけではない、という留保を仮につけたとしても、少なくとも前田並の犯罪を犯した人間が起訴(どころか逮捕)もされずにのうのうと大手を振って(?)歩いているのが、検察という組織なわけです。
そして、犯罪者が大手を振って(?)のさばっているいるのに、それを咎める人間が誰一人としていない(唯一いるのがすでに検事を辞めた郷原氏)のが、正義を称する検察組織なわけです。
そんな組織が正義を称するところが笑えるっちゃあ笑える(笑いごっちゃないけど)。
そして再度述べますが、明らかな犯罪者を逮捕・起訴できないのは、検察全体が同じ犯罪に手を染めているからです(検察=犯罪組織)。
前田の証拠改竄事件が検察史上類を見ない不祥事というのなら、検察史上類を見ない不祥事がゴロゴロしているのが現在の(過去もか?)の検察なわけです。
そこいらにゴロゴロしているものを、検察史上類を見ないなどとは決し表現しませんが…
やや(?)脱線しましたが、これが補足の二点目。
脱線ついでに(?)本題とは大いにズレるがもうちょいと言いたい。
本来なら、『検察の罠』という本は、ジャーナリストが書くべきだろう。
もちろん、大手メディア(=記者クラブメディア)の記者は決してジャーナリストではなく権力の犬に過ぎないから、そんなものが書くなどとは全く期待していないが…
フリージャーナリスト諸君、君らにもしジャーナリストの矜持があるのなら、本職ではない一国会議員に自らの仕事を奪われたことを大いに恥じ入ってもらいたい。
ジャーナリスト冥利に尽きる垂涎のネタが、間違いなく目の前に転がっているのに、それを指を咥えてみているだけなのか君たちは?(上杉隆氏は『暴走検察』を書いていたな)
だったら今すぐジャーナリストの看板を下ろすべきだ。
と、まぁちょっと(?)興奮気味に書いてしまいましたが…
未来の歴史家は小沢事件を日本史上でも稀にみる謀略事件と表現するだろう。
せめて、その歴史資料として今回のこの事件を詳細に纏めるジャーナリスト(じゃなくてもよいけど)が出て欲しいところだ。
あっ、僕は素人なのでその辺はちょっと…
取り調べ可視化は裁判所の問題でもある
究極的にはそういうことになるな、多分。
というのも、事後的な検証が一切できない密室での取り調べの結果できあがった(とされる)供述調書を、証拠として採用するか否か、判断するのは裁判官だからだ(裁判員制度ができて以降は、裁判官と裁判員ということになる)。
では、なぜ(本当に被告人がその通りに述べたかどうか全く不明の)供述調書を裁判所が採用し続けたかというと…
これは推測になる他ありませんが(個々の裁判官の心情などわからないので)…
(同じ司法試験に合格したエリート?である)検察官が、よもや全くデタラメな供述調書をでっちあげたりはしないだろう、という裁判官の(唾棄すべき)エリート意識ゆえか?
被告人と検察官では、当然検察官の言っていることの方が正しいだろう、という予断ゆえか(もし、この予断を持っているとすれば、裁判官失格であることは言うまでもない)?
あるいは、判検交流(裁判官と検察官が互いに行き来すること)から醸成された、仲間意識ゆえにか(あるいは判検交流こそが、このような仲間意識のために意図されている)?
それとも、「自分の出世が第一」的なヒラメ裁判官の事なかれ主義ゆえか(とりあえず、検察官の言うとおりに有罪判決出しときゃ出世できる)?
他にもあるかもしれませんが…
しかし、どのような理由をあげようとも、事後的な検証を不可能にしている密室で出来上がるものである以上、供述調書の内容を「合理的な疑いを超えて信ずるたる」と見做す根拠などありえないのであります。
もし、密室で出来上がった供述調書を「信ずるにたる」と見做すとすれば、「検察様のやることに間違があろうはずなどございません」とばかりに不合理な信念(信仰?)を有していることを吐露することに他なりません。
裁判官が検察官に対して「(検察官が間違うはずなどない、という)不合理な信念(信仰?)」を有しているとしたら…、有罪率99.9%というとても近代裁判制度を有している国家とは思えない異常に高い有罪率も納得なのであります(それは決して近代裁判制度とは言えないから)。
しかし、検察官には、事後的に決して検証できない密室での取り調べを利用(悪用?)して、ムチャをしてデタラメな供述調書を得る、つまり、脅迫や恫喝を駆使して事実とまったく異なる(検察の描いたストーリー通りの)供述調書を得る動機が存在します。
一つは、無罪判決を出すと、ダメ検事の烙印が押される(出世できなくなる)ため、少々無理をしてでも供述調書を得ようとする(供述調書第一主義をとる裁判官はどんなに無理のある供述調書でも採用してくれる)。
二つは、大きな事件をやる(当然有罪判決を得る)ことで、検察を辞めた後の再就職先が引く手あまたになる(「あの事件は俺がやったんだぜ」的な)。
ロッキード事件の堀田氏、リクルート事件の宗像氏などのように、テレビで大きな面ができる。
そのような、検察官の名誉欲というか利己心のために、冤罪事件のターゲットになるとしたら、理不尽極まりないのだが、そのような事件に裁判官が当然のように有罪判決を出していた(少なくとも郵便不正事件以前は)。
さて、郵便不正事件は、供述調書の多くを不採用としたということで、画期的な裁判でありました(密室で出来上がった供述調書を証拠として採用し続けたこれまでの裁判が異常だった、というべきですが)。
検察が被疑者や参考人に、いかにデタラメな供述調書を書かせてきたのか、明らかになったわけです。
つまり、密室での取り調べ内容など、信用するに値しないという実態が、ようやく裁判所で認められたわけです(まぁ、デタラメな供述調書のみならず、証拠品のフロッピーディスクの改竄までやっちゃったようですが…)。
(これまで数多くの冤罪事件が作られてきたわけで)遅きに失した感はありますが、しかしそれでも重要な判決に違いないでしょう。
今後、裁判官が勇気を持って(というか、市民感覚からすれば当たり前ですが)、「事後的な検証が一切不可能な密室で作られた供述調書など、採用することはまかりならん」という判断を連発し、供述調書のみに頼った検察の立証をことごとく却下して無罪判決を連発すれば、検察の方から、「頼むから取り調べを可視化してください」と懇願するようになります(懇願せざるを得なくなります)。
つまり、取り調べ可視化の問題は、近代裁判の大原則である「推定無罪原則」を、裁判所が有することができるかどうか(日本の刑事司法制度が近代化するかどうか)にかかっている、と言っても過言ではありません。
その意味で、「取り調べ可視化」は、裁判所の問題でもあるわけです。
最後に蛇足ながら、刑事弁護の戦略に関して私見を述べますと…
まず、取り調べ段階では、検察の言う通り、供述する(供述調書にサインする)。
次に、裁判では一転して否認する。
その際に、密室の取り調べで、脅しすかして事実ではない供述調書を勝手に作られた、と主張する。
郵便不正事件で採用を却下されたデタラメな供述調書を引き合いに、今回の供述調書も同様の手口で作成されたものだと主張する。
もちろん、このような戦略が通用するかどうかは、裁判官しだいではあるだろう。
しかし、郵便不正事件において、デタラメな供述調書作成の事実が裁判所によって認定された以上、密室で作成された供述調書を採用するとすれば、それをなぜ「合理的な疑いを超えて信ずるに値する」と判断したかを、裁判官自身が述べなければならなくなる(がそれは既にみたように不可能である)。
よほど面の皮の厚い裁判官でなければ、そのようなあからさまな検察擁護はできなくなった、と思われるが…
しかし、裁判官の面の厚さは、常識を超えているのかも?
最後に、郵便不正事件については以下の二冊をどうぞ(僕は『私は無実です』だけを読みました)。
『私は無実です』
『冤罪法廷』
というのも、事後的な検証が一切できない密室での取り調べの結果できあがった(とされる)供述調書を、証拠として採用するか否か、判断するのは裁判官だからだ(裁判員制度ができて以降は、裁判官と裁判員ということになる)。
では、なぜ(本当に被告人がその通りに述べたかどうか全く不明の)供述調書を裁判所が採用し続けたかというと…
これは推測になる他ありませんが(個々の裁判官の心情などわからないので)…
(同じ司法試験に合格したエリート?である)検察官が、よもや全くデタラメな供述調書をでっちあげたりはしないだろう、という裁判官の(唾棄すべき)エリート意識ゆえか?
被告人と検察官では、当然検察官の言っていることの方が正しいだろう、という予断ゆえか(もし、この予断を持っているとすれば、裁判官失格であることは言うまでもない)?
あるいは、判検交流(裁判官と検察官が互いに行き来すること)から醸成された、仲間意識ゆえにか(あるいは判検交流こそが、このような仲間意識のために意図されている)?
それとも、「自分の出世が第一」的なヒラメ裁判官の事なかれ主義ゆえか(とりあえず、検察官の言うとおりに有罪判決出しときゃ出世できる)?
他にもあるかもしれませんが…
しかし、どのような理由をあげようとも、事後的な検証を不可能にしている密室で出来上がるものである以上、供述調書の内容を「合理的な疑いを超えて信ずるたる」と見做す根拠などありえないのであります。
もし、密室で出来上がった供述調書を「信ずるにたる」と見做すとすれば、「検察様のやることに間違があろうはずなどございません」とばかりに不合理な信念(信仰?)を有していることを吐露することに他なりません。
裁判官が検察官に対して「(検察官が間違うはずなどない、という)不合理な信念(信仰?)」を有しているとしたら…、有罪率99.9%というとても近代裁判制度を有している国家とは思えない異常に高い有罪率も納得なのであります(それは決して近代裁判制度とは言えないから)。
しかし、検察官には、事後的に決して検証できない密室での取り調べを利用(悪用?)して、ムチャをしてデタラメな供述調書を得る、つまり、脅迫や恫喝を駆使して事実とまったく異なる(検察の描いたストーリー通りの)供述調書を得る動機が存在します。
一つは、無罪判決を出すと、ダメ検事の烙印が押される(出世できなくなる)ため、少々無理をしてでも供述調書を得ようとする(供述調書第一主義をとる裁判官はどんなに無理のある供述調書でも採用してくれる)。
二つは、大きな事件をやる(当然有罪判決を得る)ことで、検察を辞めた後の再就職先が引く手あまたになる(「あの事件は俺がやったんだぜ」的な)。
ロッキード事件の堀田氏、リクルート事件の宗像氏などのように、テレビで大きな面ができる。
そのような、検察官の名誉欲というか利己心のために、冤罪事件のターゲットになるとしたら、理不尽極まりないのだが、そのような事件に裁判官が当然のように有罪判決を出していた(少なくとも郵便不正事件以前は)。
さて、郵便不正事件は、供述調書の多くを不採用としたということで、画期的な裁判でありました(密室で出来上がった供述調書を証拠として採用し続けたこれまでの裁判が異常だった、というべきですが)。
検察が被疑者や参考人に、いかにデタラメな供述調書を書かせてきたのか、明らかになったわけです。
つまり、密室での取り調べ内容など、信用するに値しないという実態が、ようやく裁判所で認められたわけです(まぁ、デタラメな供述調書のみならず、証拠品のフロッピーディスクの改竄までやっちゃったようですが…)。
(これまで数多くの冤罪事件が作られてきたわけで)遅きに失した感はありますが、しかしそれでも重要な判決に違いないでしょう。
今後、裁判官が勇気を持って(というか、市民感覚からすれば当たり前ですが)、「事後的な検証が一切不可能な密室で作られた供述調書など、採用することはまかりならん」という判断を連発し、供述調書のみに頼った検察の立証をことごとく却下して無罪判決を連発すれば、検察の方から、「頼むから取り調べを可視化してください」と懇願するようになります(懇願せざるを得なくなります)。
つまり、取り調べ可視化の問題は、近代裁判の大原則である「推定無罪原則」を、裁判所が有することができるかどうか(日本の刑事司法制度が近代化するかどうか)にかかっている、と言っても過言ではありません。
その意味で、「取り調べ可視化」は、裁判所の問題でもあるわけです。
最後に蛇足ながら、刑事弁護の戦略に関して私見を述べますと…
まず、取り調べ段階では、検察の言う通り、供述する(供述調書にサインする)。
次に、裁判では一転して否認する。
その際に、密室の取り調べで、脅しすかして事実ではない供述調書を勝手に作られた、と主張する。
郵便不正事件で採用を却下されたデタラメな供述調書を引き合いに、今回の供述調書も同様の手口で作成されたものだと主張する。
もちろん、このような戦略が通用するかどうかは、裁判官しだいではあるだろう。
しかし、郵便不正事件において、デタラメな供述調書作成の事実が裁判所によって認定された以上、密室で作成された供述調書を採用するとすれば、それをなぜ「合理的な疑いを超えて信ずるに値する」と判断したかを、裁判官自身が述べなければならなくなる(がそれは既にみたように不可能である)。
よほど面の皮の厚い裁判官でなければ、そのようなあからさまな検察擁護はできなくなった、と思われるが…
しかし、裁判官の面の厚さは、常識を超えているのかも?
最後に、郵便不正事件については以下の二冊をどうぞ(僕は『私は無実です』だけを読みました)。
『私は無実です』
『冤罪法廷』
取り調べ可視化 証拠捏造事件から
郵便不正事件のあまりの杜撰な捜査(デタラメな筋書き、理不尽な取調べ、挙句の果てには主任検事による証拠捏造)で、ようやく(問題は早くから指摘されていたものの、マスメディアでは無視されてきた)検察問題が国民の知るところとなってきたようですね。
まぁ、その証拠捏造事件で、相も変わらず最高検は「ストーリーを作成して、そのストーリーに合致する供述を密室の取調べで得る」という、批判を浴びまくっている冤罪製造的捜査手法を踏襲し、「オレ達どんなに批判されようとも、捜査手法は変えないもんね」と固い決意を見せているようですが…
この調子だと、検察による冤罪は今後も決して減ることはないでしょう…
端っから期待はしておりませんが、裏金問題を組織的に隠蔽するなど、腐敗しきった検察組織には自浄作用というものを期待することはできませんね。
だとしたら、その検察を正すのは、政治以外にはあり得ないのですが(司法も検察と同じ穴の狢)、検察を政治権力の道具としてしか見ない菅・仙谷政権では、残念ながらそれも期待できませんね…
検察の取調室での横暴をチェックするためには、一にも二にも、取調べの全面可視化以外はあり得ません(もちろん、裏金問題告発で検察に口封じ逮捕された三井環氏が指摘される通り、可視化だけでは冤罪は防げませんが、冤罪防止のためには不可欠である)。
どうやら報道によると、証拠捏造事件で逮捕された、大坪元大阪地検特捜部長(佐賀副部長だっけ?)が、「検察のストーリー通りには供述しない」とか、「(冤罪被害にあわないため)取り調べの可視化をしてくれ」とか言っているようですが…
「検察のストーリー通りには供述しない」とは、自分達が冤罪製造機関(ストーリーを作成してそれに合う供述を、恫喝・脅迫を駆使して得る)であることを図らずも(?)露呈していますね。
あるいは、自分達(検察)が、密室をいいことに被疑者や参考人を、権力を傘に横暴の限りを尽くしてストーリーに合致する供述を強要しておいて、いざ自分が取調べを受ける段になると、「取調べを可視化してくれ」とは随分虫のいい話ではあります。
市民感情(?)として、「なにをいまさら」と言いたい気持ちは痛いほど理解できます。
しかし、であります。
捜査対象が誰であれ(世間的にどれほど悪人と思われていようと)、感情的にどれほど「許せない」と思われようと、適正な手続きで捜査を受け、裁判を受ける権利は何人たりとも保障されなければなりません。
そして、裁判の結果有罪判決が確定されるまでは、無罪と推定されなければなりません(前田検事、大坪元特捜部長、佐賀元特捜副部長もその例外ではありません)。
それが民主主義というものです。
その意味で、民主主義は必ずしも市民感情(?)に心地いいとは限らないのです(市民感情は「悪人は吊るせ!」になりがちであり、現在のメディアはその感情を煽る方向にある)。
そして、適正な手続きで捜査を受ける権利の一つとして、「取り調べ可視化」を要求していくことは至極当然と申せましょう。
密室で、どのようなとりしその取調べ過程がどのような取調べを行おうと、その過程が事後的に一切明らかにならないとすれば、絶大な権力を有する警察・検察が、一体どのような取調べを行うか、数々の冤罪事件を紐解けば明らかでありましょう(一部修正しました)。
取り調べ可視化第一号が、散々密室での取調べで自白を強要してきた検察官にもしもなるとしたら、当然僕にも「理不尽だ」という感情が湧き上がってきます。
しかし、より民主的な捜査手法を確立するためには、そのような感情を一旦脇に置いて、「取り調べ全面可視化」を一刻も早く導入しなければなりません。
そのためには、「大坪元特捜部長が取調べの可視化を要求している」という事実を利用して、取り調べ可視化への世論の関心を高めていくべきでしょう。
大坪元特捜部長の取り調べ可視化要求を、揶揄的に受け止めるか(「今更何言ってんだか」)、取り調べ可視化への好機と受け止めるか(「納得いかんが、しかし可視化は必要だから利用させてもらう」)。
そこにこの社会の民主的成熟の成否が試されている、と言っても過言ではないでしょう。
なお、取り調べ可視化は検察だけの問題ではありません。
同様に、密室で日常的にヤクザまがいの取調べを行っている警察の問題でもあります。
警察のヤクザ顔負けの取調べについては、以下の動画をどうぞ。
まぁ、その証拠捏造事件で、相も変わらず最高検は「ストーリーを作成して、そのストーリーに合致する供述を密室の取調べで得る」という、批判を浴びまくっている冤罪製造的捜査手法を踏襲し、「オレ達どんなに批判されようとも、捜査手法は変えないもんね」と固い決意を見せているようですが…
この調子だと、検察による冤罪は今後も決して減ることはないでしょう…
端っから期待はしておりませんが、裏金問題を組織的に隠蔽するなど、腐敗しきった検察組織には自浄作用というものを期待することはできませんね。
だとしたら、その検察を正すのは、政治以外にはあり得ないのですが(司法も検察と同じ穴の狢)、検察を政治権力の道具としてしか見ない菅・仙谷政権では、残念ながらそれも期待できませんね…
検察の取調室での横暴をチェックするためには、一にも二にも、取調べの全面可視化以外はあり得ません(もちろん、裏金問題告発で検察に口封じ逮捕された三井環氏が指摘される通り、可視化だけでは冤罪は防げませんが、冤罪防止のためには不可欠である)。
どうやら報道によると、証拠捏造事件で逮捕された、大坪元大阪地検特捜部長(佐賀副部長だっけ?)が、「検察のストーリー通りには供述しない」とか、「(冤罪被害にあわないため)取り調べの可視化をしてくれ」とか言っているようですが…
「検察のストーリー通りには供述しない」とは、自分達が冤罪製造機関(ストーリーを作成してそれに合う供述を、恫喝・脅迫を駆使して得る)であることを図らずも(?)露呈していますね。
あるいは、自分達(検察)が、密室をいいことに被疑者や参考人を、権力を傘に横暴の限りを尽くしてストーリーに合致する供述を強要しておいて、いざ自分が取調べを受ける段になると、「取調べを可視化してくれ」とは随分虫のいい話ではあります。
市民感情(?)として、「なにをいまさら」と言いたい気持ちは痛いほど理解できます。
しかし、であります。
捜査対象が誰であれ(世間的にどれほど悪人と思われていようと)、感情的にどれほど「許せない」と思われようと、適正な手続きで捜査を受け、裁判を受ける権利は何人たりとも保障されなければなりません。
そして、裁判の結果有罪判決が確定されるまでは、無罪と推定されなければなりません(前田検事、大坪元特捜部長、佐賀元特捜副部長もその例外ではありません)。
それが民主主義というものです。
その意味で、民主主義は必ずしも市民感情(?)に心地いいとは限らないのです(市民感情は「悪人は吊るせ!」になりがちであり、現在のメディアはその感情を煽る方向にある)。
そして、適正な手続きで捜査を受ける権利の一つとして、「取り調べ可視化」を要求していくことは至極当然と申せましょう。
密室で、
取り調べ可視化第一号が、散々密室での取調べで自白を強要してきた検察官にもしもなるとしたら、当然僕にも「理不尽だ」という感情が湧き上がってきます。
しかし、より民主的な捜査手法を確立するためには、そのような感情を一旦脇に置いて、「取り調べ全面可視化」を一刻も早く導入しなければなりません。
そのためには、「大坪元特捜部長が取調べの可視化を要求している」という事実を利用して、取り調べ可視化への世論の関心を高めていくべきでしょう。
大坪元特捜部長の取り調べ可視化要求を、揶揄的に受け止めるか(「今更何言ってんだか」)、取り調べ可視化への好機と受け止めるか(「納得いかんが、しかし可視化は必要だから利用させてもらう」)。
そこにこの社会の民主的成熟の成否が試されている、と言っても過言ではないでしょう。
なお、取り調べ可視化は検察だけの問題ではありません。
同様に、密室で日常的にヤクザまがいの取調べを行っている警察の問題でもあります。
警察のヤクザ顔負けの取調べについては、以下の動画をどうぞ。
三井環氏について
えー、私事ですが、ブログ拍手がようやく900を超えました。
多いか少ないかはわかりませんが、塵も積もれば山となるで、マイナーブログなりに細々とやってきた甲斐もあるというものです(もっとも、ここ最近は更新頻度がめっきり減ってきておりますが…)。
ここ最近は、開始当初からは想像もつかないほど政治色が色濃くなってきた気もしますが…
まぁ、それはそれでよいでしょう。
ここまで来たら、1000拍手を目指していきますので、よいと思ったエントリーに拍手いただければと存じます(できれば少し甘めにお願いします)。
えー、ここ最近、検察批判がやや(?)ヒートアップしていたかもしれません。
まぁ、(民主的なチェックが無きに等しい)強大な権力を有する検察の暴走を、本来ならきっちり批判するべきマスメディアがほとんど「検察の犬」状態で、批判どころか「リーク情報無批判垂れ流し」ですからねぇ…
週刊朝日や週刊金曜日やインターネットなどの一部のメディアと一部のフリージャーナリストが頑張っていますが、数的には多勢に無勢でしょう。
まぁ、細々ではあっても市民が少しずつ声を上げる必要があると思って、ボチボチやっています。
本日は日曜日でもあるので、少し軽め(?)に。
なんども言及してきた検察の裏金問題(調査活動費の私的流用と、それを現役幹部として内部告発しようとした三井環氏の口封じ逮捕)。
ここ最近の検察の劣化は裏金問題と切っても切り離せない(元々組織として持っていた体質の問題も大きいが)。
実刑判決を受け、今年満期出所したのちは、著書を出版されたり、いろんなシンポジウム等での発言されるなど、検察批判の急先鋒として活躍されています。
まぁ、現在のところ、「検察の犬」と化している「記者クラブメディア=機密費メディア」にはほぼ黙殺状態のようですが…(『ザ・スクープ』の特集が放映されましたが)
本日は著書と動画の紹介をメインに
『「権力」に操られる検察』(双葉書房)
検察は、裏金問題を政治権力(小泉政権)に泣きついてもみ消した(「けもの道」)。
その結果、政治権力に大きな借りを作り、それが検察の捜査に大きな影を落とすことになった。
その詳細が記述されている。
やはり、検察の立て直しには、裏金問題を解決することなしには不可能だと思わされる(検察が裏金問題を隠す限り、そこを政治権力に付け込まれ、その結果捜査が歪められ恐れは常にある)。
『検察の大罪』(講談社)
自身が経験した口封じ逮捕(そこには今話題の大坪元大阪地検特捜部長が関わっている!)を始め、検察の大罪が詳細に描かれ、そこにはやはり裏金問題が大きく影を落としていることがわかる。
三井氏の考える検察改革(取り調べ可視化、残記録の開示、証拠の全開示と地検・高検・最高検察庁のトップの公選制)が記されている。
『検察との戦い』(創出版)
だいぶ前に読んだ本なので詳細はちょっと忘れてしまいましたが…
糖尿病で苦しんでいる間も、ほとんど治療らしい治療が受けられず、命の危険を感じたらしい…
また、仮釈放に検察から横槍が入って、(暴力団や過激派などの例外にしかない)満期出所になったらしい…
もちろん、内容的には重複する部分があるのは仕方ないですが、しかしいずれの著書も読みどころがあり、検察問題を理解する上での必読書でしょう。
今回の証拠捏造事件が、前田検事(や大坪元特捜部長)の個人的な問題ではなく、検察組織としての問題であることがよくわかるでしょう。
以下には動画を貼り付けます。
多いか少ないかはわかりませんが、塵も積もれば山となるで、マイナーブログなりに細々とやってきた甲斐もあるというものです(もっとも、ここ最近は更新頻度がめっきり減ってきておりますが…)。
ここ最近は、開始当初からは想像もつかないほど政治色が色濃くなってきた気もしますが…
まぁ、それはそれでよいでしょう。
ここまで来たら、1000拍手を目指していきますので、よいと思ったエントリーに拍手いただければと存じます(できれば少し甘めにお願いします)。
えー、ここ最近、検察批判がやや(?)ヒートアップしていたかもしれません。
まぁ、(民主的なチェックが無きに等しい)強大な権力を有する検察の暴走を、本来ならきっちり批判するべきマスメディアがほとんど「検察の犬」状態で、批判どころか「リーク情報無批判垂れ流し」ですからねぇ…
週刊朝日や週刊金曜日やインターネットなどの一部のメディアと一部のフリージャーナリストが頑張っていますが、数的には多勢に無勢でしょう。
まぁ、細々ではあっても市民が少しずつ声を上げる必要があると思って、ボチボチやっています。
本日は日曜日でもあるので、少し軽め(?)に。
なんども言及してきた検察の裏金問題(調査活動費の私的流用と、それを現役幹部として内部告発しようとした三井環氏の口封じ逮捕)。
ここ最近の検察の劣化は裏金問題と切っても切り離せない(元々組織として持っていた体質の問題も大きいが)。
実刑判決を受け、今年満期出所したのちは、著書を出版されたり、いろんなシンポジウム等での発言されるなど、検察批判の急先鋒として活躍されています。
まぁ、現在のところ、「検察の犬」と化している「記者クラブメディア=機密費メディア」にはほぼ黙殺状態のようですが…(『ザ・スクープ』の特集が放映されましたが)
本日は著書と動画の紹介をメインに
『「権力」に操られる検察』(双葉書房)
検察は、裏金問題を政治権力(小泉政権)に泣きついてもみ消した(「けもの道」)。
その結果、政治権力に大きな借りを作り、それが検察の捜査に大きな影を落とすことになった。
その詳細が記述されている。
やはり、検察の立て直しには、裏金問題を解決することなしには不可能だと思わされる(検察が裏金問題を隠す限り、そこを政治権力に付け込まれ、その結果捜査が歪められ恐れは常にある)。
『検察の大罪』(講談社)
自身が経験した口封じ逮捕(そこには今話題の大坪元大阪地検特捜部長が関わっている!)を始め、検察の大罪が詳細に描かれ、そこにはやはり裏金問題が大きく影を落としていることがわかる。
三井氏の考える検察改革(取り調べ可視化、残記録の開示、証拠の全開示と地検・高検・最高検察庁のトップの公選制)が記されている。
『検察との戦い』(創出版)
だいぶ前に読んだ本なので詳細はちょっと忘れてしまいましたが…
糖尿病で苦しんでいる間も、ほとんど治療らしい治療が受けられず、命の危険を感じたらしい…
また、仮釈放に検察から横槍が入って、(暴力団や過激派などの例外にしかない)満期出所になったらしい…
もちろん、内容的には重複する部分があるのは仕方ないですが、しかしいずれの著書も読みどころがあり、検察問題を理解する上での必読書でしょう。
今回の証拠捏造事件が、前田検事(や大坪元特捜部長)の個人的な問題ではなく、検察組織としての問題であることがよくわかるでしょう。
以下には動画を貼り付けます。