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2023-05

妬み(というより感情一般)について

っていうか、twitterってスゴい!
何がスゴイって、フォロワーの多い人と少しやり取りしただけで、ブログアクセス数鰻上り、みたいな…
こうなったら、有名人に片っ端から絡んでみるか、と邪な考えを抱く今日この頃。


ま、前置きはこれくらいにして。


昨日はタイトルにつけながら殆ど触れなかった妬み。
本日は少し(?)述べてみたいと思う。


前置きとして、昨日述べた某心理学者とのやり取りを簡単に振り返っておこう。
以下やり取りの大雑把な(=不正確な)再現


quine10(以下q):妬みの存在を否定するのは難しいよね

某心理学者(以下某):というより、ないことを証明することはできない。存在の妥当性を検討するできるだけ(ここやや不正確かも)。

q:妬みの存在を言うには、その認知の一般条件に言及しなければならない(だったかな?)。

某:そうは思わない。

一部スキップ

q:ここはこだわりたいのですが、感情の存在について、その一般的条件に言及することなく云々することはできるか?

某:勝手にこだわりなさい。

q:じゃあ、こだわってみます。


先に述べたように、正確さには欠きますのでご了承ください(僕の都合のよいように編集されている恐れあります)。
あと、妬みという感情に焦点化されているのですが、僕の狙いとしては感情一般の存在について、というところがありました(そこが焦点化されなかったのはちょっと残念でした)。


さて、僕のこだわりは、端的に言うと次のようになります。


私たちが他者の感情を認知するのはいかにしてか?


私たちは当たり前のように、「あの人あんなことで怒っちゃって」とか「あいつがあんなに悲しむのは意外だよな」とか「そんなことで妬むなんてみっともないよ」という風に、他者の感情を(その他者になんらの確認をすることなく)云々する。
しかし一方で私たちは、(自らの感情を指摘されたときに)「オレは全然怒ってないよ」とか「私は悲しんじゃいないよ」とか「自分は妬んでなどいない」という風に、自らの感情に言及する。


ここにはある種の捩れがあるように思われる。


つまり、「私たちは(他者の)感情については観察によって云々することができる」という立場と、「私たちは自分の感情は自分が一番よく分かる(自分の感情について何か言えるのは自分だけである)」という立場の間の揺れ動きである。


さて、僕自身も二つの立場のいずれも「心情的には」理解できるが、しかし、私たちが社会関係においてお互いの感情を理解するようになる、という観点からも後者の立場、すなわち「私たちは自分の感情は自分が一番よく分かる」という立場は拒否せざるを得ない、と結論します。


ということで、「私たちは他者の感情を観察によって云々できる」として、一体感情をどのように捉えればよいのか?
過去エントリーで同様のテーマについて述べてきたと思いますが、再度考えてみたい。

to be continued
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妬みについて

えーっと、ぶっちゃけ存在を忘れてましたね。
リツイートに勤しんでというかなんというか…
ま、あえて書こうというネタがなかっただけなんですが。
是非書きたい!というネタに遭遇してしまった…
でも、多分ブロックされてしまいそう…(東浩紀氏、モトケン氏に続いてか…)

まぁ、それはさておき。


某心理学者がtwitterで「東大以外の出身で東大以外に所属する学者で東大が好きな人なんかいません」というツイートをされました。
僕は、(愛媛大や上智大や埼玉医大でもよいだろうに)なぜあえて「東大」なんだろう?と理由を考えました。
さらには、ツイートがもし「愛媛大以外の…愛媛大が好きな人なんかいません」であったとしたら、一体どれくらいのインパクトを持ちえただろうか?と考えました。
えー、愛媛大学の方すみません、先に謝っておきます。


つまり、この一文の○○大のところに、あえて東大を入れなければならなかった、というところにこの心理学者の心理が表れている、と感じざるをえませんでした。
そこで、些か(?)挑発的に、以下のようにツイートしました。


「多分そのうちの一部は、自分が東大に入れなかった妬み・僻みに由来すると思われる」と。
そこで、返ってきたツイートが「あなたが東大なら…、東大以外なら××」というものでした(…、××は伏せておきます)。
こういう返事が返ってくればしめたものです。
というのも、僕が返事をした文の妥当性は、僕の属性(東大であるか、そうでないか)によって左右されるものではないからです。
純粋に、「東大を好きでない学者」の心理状態から妥当性を云々できる問題だからです(妥当であるかどうか、あるいはその心理状態を確定できるか、は別問題ですが)。
僕の返事(妬み・僻みに由来する)の妥当性が、僕の属性に矮小化された時点で、議論としては終わりではありますけどね(後は議論というよりは、漫才みたいなもんでしょうか?)。


ということで本日の教訓


「○○は××である」という一般命題(例えば「○○大以外の出身で○○大以外に所属する学者で○○大が好きな人なんかいません」)の特殊解(例えば、東大)にあえて言及するときは、僕のような粘着質の人間が「なぜ東大なの?なぜ高知大ではいけないの?」と聞いてくるかもしれませんので、その心積もりをしておきましょう。


あれ?妬みはどこへ?


to be continued

権力の非人称的作動(自律的運動)について

権力は非人称的に作動する、言いかえれば実際に権力につくのが誰であるかに関わらず、作動の仕方には類似性が出てくる(権力の作動には一定の法則性がある)。
それは言い換えれば、権力は誰が権力の座にあるか、ということとは相対的に無関係に、独自のロジックによって作動する、ということだ。
つまり、権力には自律性がある


しかし、念のために付け加えておくと…
権力の作動の仕方が、誰が権力の座にあるかによって、全く同様になるというわけでもない。
しかし、人間の本性が大体似たり寄ったりということを考えると…
権力についてとことん考え抜いた人でなければ(権力が非人称的に作動するということを理解した人でなければ)、権力を行使することはできない(権力の自律性に取り込まれてしまう=権力に行使される)。


そこをボチボチ述べてみたい。


さて、本題に入る前に、「権力は非人称的に作動する」という権力観とは対立する権力観を述べますと…
それは、「権力は、それを持つ人物によって、その様相(発動)をガラッと変える」、という風な権力観である。
その権力観を、一般的な権力批判と絡めて考えますと…
権力が悪をなすのは、権力の座につく人物が悪人だからである(=善人が権力の座につけば権力は善を成す)、風の素朴な権力観となります。


この権力観は実に素朴ではありますが、それゆえ一定の説得力を有しているように思われます(人物批判のみに帰着する権力批判は、まさにこの素朴な権力批判を前提にしていると言えます)。
さて、この素朴な権力観(権力の発動の仕方は権力の座にある人物の性質に依存する、的な)を、以降では「人称依存的権力観」と呼ぶことにしよう。
それに対して、権力は、誰が権力の座にあるかとは相対的に独立に、自律的に(独自のロジックによって)作動する、風の権力観を、「自律的権力観」と呼ぶことにしよう。


僕の当面の目的は、この素朴な(ゆえに、多くの人が自然に前提していると思われる)人称依存的権力観を打破する(ことによって、多くの人が自律的権力観にシフトする)ことにあります。


では本日は短いですが、とりあえずはプロローグ的に。

一年を終えるにあたって ネット言論の雑感

えー、2008年も終わりですね。
今年もいろいろとありました。
個人的にはブログを始めたりして。
弱小ブログではありますが、たわいもない独り言を読んで頂いてありがたく思っております。
個人的には天木氏のブログが読めなくなるのが痛恨ではありますが(クレジットカードを持っていないので)。
一刻も早くwebmoneyなどの決済方法を取り入れてもらいたいもんだと思う。
そういえば、世に倦む日々も有料化されるようですね。
世に倦む日々に関しては、気が向いたときに読む程度なので、多分読まないと思いますが。
ブログ言論もまだまだあるべき道を模索中なのかもしれませんね。
アルファブロガーなんてのもあるが、植草氏周辺を巻き込んだ騒動にも見られるように、やや政治的なきな臭さが漂っているし。
ネット工作員とか政治ブログランキング操作など、ブログ言論周辺の胡散臭いはなしもありますし。

そもそもネット言論は、いわゆる論壇的な権威によるゲームとは別の道をとるべきだと思う。
ただし、僕は論壇的な言論空間を否定したいわけではない。
予防線を張っておくと、「正論」や「諸君」みたいなネトウヨに毛の生えたようなものは、僕は論壇とは呼びたくないのだが。
それはさておき。

いわゆる論壇とは、アカデミズムにおいて、玄人たちのハイレベルな議論を、一般向けに噛み砕いて放出したものであろう。
もちろんそれは、人の金で研究をするアカデミズムの社会に負う義務でもあろう(このような義務の観念を有さないアカデミシャンもいるかもしれないが)。
つまり、そもそもいわゆる論壇における論者は、そもそも特定の観点から(つまり、その分野のプロである学者という形で)選別を受けている。
ということは、その学者がその分野において果たしてきた様々な実績とも無縁ではなく、その実績はその分野そのものの様々な集積(成果)に依拠するわけで、その意味で「その分野における権威」という相貌を良くも悪くも帯びてしまう。
再度繰り返すが、僕はそのことを必ずしも否定しない(否定するとしたら、いわゆる論壇的なものを全否定しなければならないだろう)。
ただ、受け取る側は、そういうこと(いわゆる論壇が、各分野のそれまでの集積により権威付けられていること、および受け取る側もそのように権威付けられているものとして受け取らざるを得ないこと)を肝に銘じておくべきだろう。

さて、ネット言論に戻って。
そもそも、ネット言論はパソコン端末さえ有していれば誰でも参入可能で、しかも自らの素性を明らかにすることはそもそも必要とされない(そのことの是非は措くが、僕は肯定的に捉える)。
もちろん、ブログなどのネット言論において、自らの素性を明らかにしている人もいる(特にプロ)。
それは必要に駆られての場合もあるだろうし、プロ意識に基づく場合もあるだろうし、計算づくの場合もあるだろう(著名人の場合はそれだけでアクセス数を見込める)。
もちろん、素性を明らかにしたがゆえの、批判や誹謗中傷などのリスクもあるだろうから、そこも比較考量した上でなされるだろうが。

しかし、ネット言論の多くはそもそもそれほどのマスを見込めるあてもなく、(相互リンク的なものを含めて)口コミ的に広がるケースが圧倒的だろう。
そんな中で、多くの読者の支持を得たブログが現出してくる。
これはネット言論に限るものではなく、世の中の様々な現象に広範に認められるものである。
例えば、科学研究においても、輝かしい発見は氷山の一角であり、その水面下には膨大な有象無象の研究が溢れ返っている(逆に言えばその有象無象がなければ、一握りの栄光もないということだが)。
しかも、その輝かしい発見も、偶然に満ちている。
これは、自由主義が正当化される理由でもある(強調しておきますが、自由主義と新自由主義はまったく別物であり、新自由主義は上記のことからはまったく正当化されません)。
人々が自由に振舞う結果、一握りではあるかもしれないが、人類にとっての素晴らしい成果がもたらされる(ことがある)。
それは必ずしも物質的な成果には限らない。
芸術・文学や学問的な成果などもそのひとつに数えられるだろう。

有象無象のブログ(当ブログは間違いなくこの部類だが)の中から、プロ顔負けの言論人が出てくる(まあ、プロも元々は素人だったのから、それも当然といえば当然だが)。
しかも、不特定多数の人々が無償でアクセスできる。
そのようなネット言論人の中からひょっとしたら、プロの書き手が生まれてくるかもしれない。
それはそれで素晴らしいことだと思う。

しかし、そのためにも、不特定多数の人々が参入できるネット言論を僕としては大事にしたい。
ひょっとしたら、有象無象のブログの存在を快く思っていない人もいるかもしれない。
しかし、そのような人は(もしいるとしてだが)、上質な言論は有象無象の言論の存在抜きにはありえないということ、かつ有象無象の言論が豊かであればあるほど上質な言論も豊かになるということ、上質な言論を操る人もかつては有象無象の言論と戯れるに一人に過ぎなかったこと、などに思い至らないのかもしれない。

ま、ちょっと散漫な書き連ねになってしまいましたが。
年の瀬を迎え、代表的な左派ブロガーの有料化というニュース(?)を目にして、思うところを書いてみました。
いずれにしても、ネット言論はまだその端緒についたところで、今後そのあり方をどんどん進化させていくだろう。
そのためにもネット規制という、公権力におけるネット言論弾圧には注意したいと思う。

本年一年ありがとうございました。
来年も不定期につらつら思うままに更新していきたいと思います。

植草氏のブログの件

えー、植草氏のブログのアクセス禁止の件
色々と論じられているようですが…

気になったことをいくつか。
比較的どうでもいいことから。

植草氏は、自らの事件に関する報道について、報道機関を相手にいくつか訴訟を起こしている。
すでに多くのものについては判決が出ており、いずれも報道機関の敗訴が確定している。
その中のひとつに毎日新聞社を相手取った訴訟がある。
毎日新聞の言いがかり(全文引用は著作権侵害?)は、訴訟に負けた腹いせ以上のものではないように思われる(それとも同様の言いがかりを毎日新聞はしょっちゅうやっているのだろうか?)。
権力が裏から働きかけをしたようにはとても思えないのだが…

しかし、この裁判の判決も、「セクハラ癖はあるが、それが業界で有名であるという事実はない」というワケのわからない判決であった。要するに、否定されたのは「業界で有名」ということであって、「セクハラ癖」ではない。
こういうワケのわからない判決を読むと、謀略事件説も説得力が増すように思えるなぁ…(なんとか痴漢事件は有罪としたい、という権力の執念と言いますか)

しかし、仮にこの毎日新聞の言いがかりが、「敗訴の腹いせ」という私的怨念に発するものであったとしても、これを既成事実として権力が言論弾圧の足掛かりとする可能性は十分にある(し、すでにその歩みを着々と進めているように思われる)。
ネット言論はいまだマイナーとはいえ、権力や既成マスメディアにとらわれない市民の自由な言論空間として貴重なものである。(ネット空間での批判を恐れる)権力や、(ネットに顧客を奪われることを恐れる)既成マスメディアがネット言論を不自由なものにしようとする動機は十分にある。
ネット言論人はそのような動きに対しては断固としてNoの動きを上げていかないといけないだろう。

もう一点も関連することだが、ココログでの植草氏のブログが表示されないことについて、「アクセスが禁止されています」と記されていたことだ。
これは言語使用の「悪しきあいまいさ」の典型的な一事例である。
ここには「禁止した主体」のありかが全く示されていない
Niftyが主体的に禁止したのか?だとすればその根拠はなにか?
Niftyが禁止の主体でないとしたら、いったい誰がアクセス禁止としたのか?それにNiftyが従う理由はなにか?
毎日新聞がちゃちゃをいれてきたことか?
毎日新聞のちゃちゃいれには「法的な」根拠があるのか?
「法的な」根拠なしに大新聞がちゃちゃいれをすれば、Niftyは言論を封殺するのか?
大新聞ごときで言論封殺が行われるとしたら、正真正銘の国家権力がいちゃもんをつけてきた場合はなおさらだろう。
自分がもし権力者で、Niftyのこのような対応を見たとすれば、まず間違いなく権力に批判的なブログにいちゃもんをつけるだろう(もちろん、本人にではなくNiftyに)。

最後に、そもそも毎日新聞が植草氏のブログ記事に対して言いたいことがあるのなら、本人に言えばいいだけのことである。
それを(本人ではなく)サーバーであるNiftyに告げ口をすることろが、この問題の一番おかしなところだ。しかも、毎日新聞という、「言論が命」のはずの言論機関である。それが正々堂々と論陣を張ることなく、陰でコソコソと文句を言う(やっていることは「お母さんに言ってやる」の幼稚園児と変わりない)。こんなのは言論機関の自己否定だと思うが、日本の既成マスメディアの体質なのだなぁ…

上杉隆氏の『ジャーナリズム崩壊』
日隅 一雄氏の『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか』
を参照

プリンスホテルの日教組大会のキャンセル
映画『靖国』上映の自主規制
これらはいずれも「右翼団体」の街宣(による周囲の迷惑)を言い訳としていたが、言論弾圧という側面からも語られる「べき」だろう。
同様に今回の件もネット言論規制の足掛かりとなる恐れがあるかもしれない。

とりあえず、簡単ですが11月の初陣ってことで。

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