疑似科学批判考(極私的雑感)
カテゴリー「疑似科学」は、疑似科学についてのエントリーと読み取られる恐れが多分にあると考え、「疑似科学批判考」にしました。
それに伴い、疑似科学批判のタイトルも疑似科学批判考に変更しました。
以上マイナーチェンジ報告でした。
さて、「疑似科学批判考」は当ブログの初期のメインテーマ(の一つ)でありました。
しかし、7月21日を最後にエントリーを上げておりません。
「書くことなくなったなぁ」というのが正直なところで、実際書く予定は特にありませんでした。
ただ、本日某ブログを読んで、フツフツと湧き上がるものがあったので、書き留めておこうと思います。
単発のエントリーになりますし、内容的にも非常に私的な雑感であり、どちらかというと覚書的な内容なのですが…
あと、本日よりエントリー末に認知心理学シリーズと題して、小話を散りばめて行こうと思います。
これも思いつきといえば思いつきなのですが、一応目的あってのものです。
私たちは、日頃様々なことを「考えながら」生活していますが、その「考える」ということが意外とわかっていないのではないか。
「考えたつもり」になっているだけではないか。
僕が当ブログで何度か取り上げた確証バイアスはその「考えたつもり」の代表的な事例なのですが。
というわけでもないですが、人間がその思考過程において、いかに「誤りやすいか(思考の罠にいかに陥りやすいか)」を実証的に研究してきた認知心理学の知見を紹介しつつ、思考の罠を避けるには何に気をつければいいか、を皆さんとともに考えてみたい。
ま、いつものことではありますが、いつまで続くかは定かではありませんが…
では、本日のお題へ。
あくまでも雑感の類ですが。
えー、とあるブログのコメント欄で疑似科学(ニセ科学?)の定義が話題になってました。
で、ある疑似科学批判派(と取り敢えずレッテル張りさせてもらいます)の人が、「あなたの言っていることは、周回遅れだ」だの「あなたのニセ科学についての認識はまるでなっていない」だのとおっしゃっていたのであります。
いやね、いいんですよ。
その昔、現代思想ブームなんてのがありました。
デリダだのバルトだのアルチュセールだのフーコーだのラカンだのクリステヴァだのボードリヤールだのetc…
いや、これらの哲学者や思想家がダメというのではないですよ(ほとんど読んでないですし)。
僕はいわゆる現代思想ブームにはチョイ(?)乗り遅れだったのですがね(それはどうでも良いですが)。
日本だと浅田彰の『構造と力』かな(これを『構造とか』と読んだ人もいたらしい)。
僕もほとんど読んじゃいないが、現代思想ブームとは、「いかに小難しい図書を読んで、さも分かった風な態度を取れるかゲーム」だったというとさすがに言い過ぎか?
なんと言うか、日本はオタク社会だとつくづく思う。
オタク社会というのは、「そのエッセンスだとか、本質的な部分というか、これだけは共有しなければならない、という部分を重視する」よりも、「先端的な、先鋭的な、より直截的に言えば枝葉末節に込み入った部分にこだわる(他者との差異化をいかに図るかにこだわる)」、という傾向のことを表している。
例えば、僕がしばしば感じるのは、「科学を一般人にも分かりやすく、しかも面白く書かれた図書は、圧倒的に翻訳書に多い」ということだ。
これはひょっとしたら偏見のなせる業なのかもしれないが…
もちろん、日本にも良質な一般書を書く専門家は数多くいる。
例えば、前回紹介した『行動経済学』はその一つだ。
しかし、日本の一般書・入門書の類は、なんというかお堅いのだなぁ…
ということで、やや(?)こじ付けの感はありますが、オタク社会においては、共有することよりも差異化することに力点が置かれがちになる。
例えば、それを象徴するのが、上記の疑似科学批判派による「周回遅れ」とか「まるでなってない」とかいった明らかに他者を見下す言説である。
2ちゃん辺りをかる~く眺めれば(あまりお勧めはしないが)、この手の言い回しは掃いて捨てるほど見つけることが出来るだろう。
政治系ブログもその例外ではない。
タイムリーなことに天木氏が人を「見下す事はいけない事だ」というエントリーを上げていらっしゃる。
タイトルがあまりにもベタな気はしますが。
ここまでは一般的な話をしてきました。ここからは疑似科学批判に焦点を絞って(絞り切れないかもしれませんが)。
疑似科学批判の目的はなんだろうか?
僕はマジに疑似科学批判にコミットしたことはないので想像になってしまうのですが、「人々が疑似科学的言説を見抜き、疑似科学を用いた詐欺などに騙されないこと」ではないだろうか?
あるいは、「人々が疑似科学(に限らないが)を鵜呑みにすることなく、健全な批判精神を持って物事を見、判断するようになること」ではないだろうか?
違うのだろうか?
それとも、「いかに洗練された(周回遅れでない)疑似科学の定義を編み出すか」にあるのだろうか?
あるいは、「洗練されていない(周回遅れの)科学の定義を持ち出す人に対して、『あんたの認識はなっておらん』と見下すこと」にあるのだろうか?
前二者であるなら、疑似科学批判は、あらゆる人が身につけることが望ましいだろう。
ということは、なるべく多くの人の間で共有可能な言説として、疑似科学批判が構築されなければならないだろう。
「周回遅れ」だの「まるでなってない」だのと見下すことは、その対極にある態度と言える。
疑似科学批判の目的が後二者であるなら、実に正しい態度だと言えるのかもしれないが…
まあ僕自身は、「批判的態度を養うのに、必ずしも疑似科学批判は必要ない(素材としては大いに使えるが)」という立場であり、しかもネットで見られる疑似科学叩きは、疑似科学志向を減らす上ではほとんど無効(ないよりマシ程度)と思っているので、「疑似科学批判はこうあるべし」などという意見もないのですが…(大きなお世話を承知で述べています)
「周回遅れ」だの「まるでなっていない」発言は、「疑似科学批判」批判を行うブログのコメント欄で見られたものです。
で、そのコメント欄には批判派がそれなりに顔を出していたようですが、件の発言をたしなめるようなコメントは皆無でした(むしろ同調するコメントだらけといったほうがよいくらいでした)。
ということは、疑似科学批判派は、揃いも揃って「いかに正しい疑似科学を定義するかが重要なのだ」とでも思っているのだろうか?
結論は疑似科学批判派が最終的に何を求めているのかよく分からん、ということでした。
別になんとしても分かりたい、というわけでもないのであえて尋ねませんでしたが。
まあ、これも手段の自己目的化の一象徴事例なのかもしれない。
手段であるはずの疑似科学批判が目的となってしまうと。
それを後押しするのがオタク社会なのかもしれない。
枝葉末節にこだわるあまりに、当初の目的を見失ってしまうというか…
やっぱりプラグマティックな思考が大事だと思いました。
以上、感想文でした。
さて、本日の認知心理学講座(偉そう?)
あなたはとある有名進学校の中学二年生の親です。
ある日、テストでvery goodな点数を取って帰ってきました。
あなたは嬉しくなって、子供を思いっきり褒めてあげました。
次のテストでは、特別良い点ではありませんでした。
また別の日、テストでbadな点数を取って帰ってきました。
あなたは怒り心頭に発し、子供をこっぴどく叱り付けました。
次のテストでは、点数は上がっていました。
さて、この経験からあなたは、「子供は褒めるとダメになる、叱ると伸びる(一般の日本人が持っていそうな教育観であるが)」、と結論付けてよいでしょうか?
理由とともに述べなさい。
回答編は次回のエントリーで。
それに伴い、疑似科学批判のタイトルも疑似科学批判考に変更しました。
以上マイナーチェンジ報告でした。
さて、「疑似科学批判考」は当ブログの初期のメインテーマ(の一つ)でありました。
しかし、7月21日を最後にエントリーを上げておりません。
「書くことなくなったなぁ」というのが正直なところで、実際書く予定は特にありませんでした。
ただ、本日某ブログを読んで、フツフツと湧き上がるものがあったので、書き留めておこうと思います。
単発のエントリーになりますし、内容的にも非常に私的な雑感であり、どちらかというと覚書的な内容なのですが…
あと、本日よりエントリー末に認知心理学シリーズと題して、小話を散りばめて行こうと思います。
これも思いつきといえば思いつきなのですが、一応目的あってのものです。
私たちは、日頃様々なことを「考えながら」生活していますが、その「考える」ということが意外とわかっていないのではないか。
「考えたつもり」になっているだけではないか。
僕が当ブログで何度か取り上げた確証バイアスはその「考えたつもり」の代表的な事例なのですが。
というわけでもないですが、人間がその思考過程において、いかに「誤りやすいか(思考の罠にいかに陥りやすいか)」を実証的に研究してきた認知心理学の知見を紹介しつつ、思考の罠を避けるには何に気をつければいいか、を皆さんとともに考えてみたい。
ま、いつものことではありますが、いつまで続くかは定かではありませんが…
では、本日のお題へ。
あくまでも雑感の類ですが。
えー、とあるブログのコメント欄で疑似科学(ニセ科学?)の定義が話題になってました。
で、ある疑似科学批判派(と取り敢えずレッテル張りさせてもらいます)の人が、「あなたの言っていることは、周回遅れだ」だの「あなたのニセ科学についての認識はまるでなっていない」だのとおっしゃっていたのであります。
いやね、いいんですよ。
その昔、現代思想ブームなんてのがありました。
デリダだのバルトだのアルチュセールだのフーコーだのラカンだのクリステヴァだのボードリヤールだのetc…
いや、これらの哲学者や思想家がダメというのではないですよ(ほとんど読んでないですし)。
僕はいわゆる現代思想ブームにはチョイ(?)乗り遅れだったのですがね(それはどうでも良いですが)。
日本だと浅田彰の『構造と力』かな(これを『構造とか』と読んだ人もいたらしい)。
僕もほとんど読んじゃいないが、現代思想ブームとは、「いかに小難しい図書を読んで、さも分かった風な態度を取れるかゲーム」だったというとさすがに言い過ぎか?
なんと言うか、日本はオタク社会だとつくづく思う。
オタク社会というのは、「そのエッセンスだとか、本質的な部分というか、これだけは共有しなければならない、という部分を重視する」よりも、「先端的な、先鋭的な、より直截的に言えば枝葉末節に込み入った部分にこだわる(他者との差異化をいかに図るかにこだわる)」、という傾向のことを表している。
例えば、僕がしばしば感じるのは、「科学を一般人にも分かりやすく、しかも面白く書かれた図書は、圧倒的に翻訳書に多い」ということだ。
これはひょっとしたら偏見のなせる業なのかもしれないが…
もちろん、日本にも良質な一般書を書く専門家は数多くいる。
例えば、前回紹介した『行動経済学』はその一つだ。
しかし、日本の一般書・入門書の類は、なんというかお堅いのだなぁ…
ということで、やや(?)こじ付けの感はありますが、オタク社会においては、共有することよりも差異化することに力点が置かれがちになる。
例えば、それを象徴するのが、上記の疑似科学批判派による「周回遅れ」とか「まるでなってない」とかいった明らかに他者を見下す言説である。
2ちゃん辺りをかる~く眺めれば(あまりお勧めはしないが)、この手の言い回しは掃いて捨てるほど見つけることが出来るだろう。
政治系ブログもその例外ではない。
タイムリーなことに天木氏が人を「見下す事はいけない事だ」というエントリーを上げていらっしゃる。
タイトルがあまりにもベタな気はしますが。
ここまでは一般的な話をしてきました。ここからは疑似科学批判に焦点を絞って(絞り切れないかもしれませんが)。
疑似科学批判の目的はなんだろうか?
僕はマジに疑似科学批判にコミットしたことはないので想像になってしまうのですが、「人々が疑似科学的言説を見抜き、疑似科学を用いた詐欺などに騙されないこと」ではないだろうか?
あるいは、「人々が疑似科学(に限らないが)を鵜呑みにすることなく、健全な批判精神を持って物事を見、判断するようになること」ではないだろうか?
違うのだろうか?
それとも、「いかに洗練された(周回遅れでない)疑似科学の定義を編み出すか」にあるのだろうか?
あるいは、「洗練されていない(周回遅れの)科学の定義を持ち出す人に対して、『あんたの認識はなっておらん』と見下すこと」にあるのだろうか?
前二者であるなら、疑似科学批判は、あらゆる人が身につけることが望ましいだろう。
ということは、なるべく多くの人の間で共有可能な言説として、疑似科学批判が構築されなければならないだろう。
「周回遅れ」だの「まるでなってない」だのと見下すことは、その対極にある態度と言える。
疑似科学批判の目的が後二者であるなら、実に正しい態度だと言えるのかもしれないが…
まあ僕自身は、「批判的態度を養うのに、必ずしも疑似科学批判は必要ない(素材としては大いに使えるが)」という立場であり、しかもネットで見られる疑似科学叩きは、疑似科学志向を減らす上ではほとんど無効(ないよりマシ程度)と思っているので、「疑似科学批判はこうあるべし」などという意見もないのですが…(大きなお世話を承知で述べています)
「周回遅れ」だの「まるでなっていない」発言は、「疑似科学批判」批判を行うブログのコメント欄で見られたものです。
で、そのコメント欄には批判派がそれなりに顔を出していたようですが、件の発言をたしなめるようなコメントは皆無でした(むしろ同調するコメントだらけといったほうがよいくらいでした)。
ということは、疑似科学批判派は、揃いも揃って「いかに正しい疑似科学を定義するかが重要なのだ」とでも思っているのだろうか?
結論は疑似科学批判派が最終的に何を求めているのかよく分からん、ということでした。
別になんとしても分かりたい、というわけでもないのであえて尋ねませんでしたが。
まあ、これも手段の自己目的化の一象徴事例なのかもしれない。
手段であるはずの疑似科学批判が目的となってしまうと。
それを後押しするのがオタク社会なのかもしれない。
枝葉末節にこだわるあまりに、当初の目的を見失ってしまうというか…
やっぱりプラグマティックな思考が大事だと思いました。
以上、感想文でした。
さて、本日の認知心理学講座(偉そう?)
あなたはとある有名進学校の中学二年生の親です。
ある日、テストでvery goodな点数を取って帰ってきました。
あなたは嬉しくなって、子供を思いっきり褒めてあげました。
次のテストでは、特別良い点ではありませんでした。
また別の日、テストでbadな点数を取って帰ってきました。
あなたは怒り心頭に発し、子供をこっぴどく叱り付けました。
次のテストでは、点数は上がっていました。
さて、この経験からあなたは、「子供は褒めるとダメになる、叱ると伸びる(一般の日本人が持っていそうな教育観であるが)」、と結論付けてよいでしょうか?
理由とともに述べなさい。
回答編は次回のエントリーで。
スポンサーサイト
疑似科学批判考(番外編3 aliceさんへの応答)
このエントリーは、基本的には疑似科学批判考(5)に頂いた、aliceさんのコメントに対する返答ですが、少し長くなったこともあり、また一連のシリーズの流れにあると判断し、エントリーとして上げることにしました。
関心のある方は、考え方の一つとして読んでいただければと思います。
口調はいつもと違って対話口調になっています。
>2点、コメントさせていただきます。
うーむ、結構な難題を出されてしまいましたね(aliceさんのイジワル)。
でも一応首を突っ込んだものの宿題として考えてみます。
散漫にならないように、要点を絞って。
関心のある方は、考え方の一つとして読んでいただければと思います。
口調はいつもと違って対話口調になっています。
>2点、コメントさせていただきます。
うーむ、結構な難題を出されてしまいましたね(aliceさんのイジワル)。
でも一応首を突っ込んだものの宿題として考えてみます。
散漫にならないように、要点を絞って。
疑似科学批判考(5) まとめ
7月に入っていいペースでブログ更新してたのに、ついに途切れてしまった…
まあ、ブログタイトルに偽りなしってことで(100%言い訳ですが)。
それはさておき。
昨日の訪問者数は突出しておりますな(理由はよーく分かっておりますよ、ありがとうございますNewsOLさん)。
コメント欄もいつになく盛況ですし。
コメントをくださった皆さん、ありがとうございます(お返事はいつになるか分かりませんが、返すつもりでいます)。
今日は注目記事を上げます。この時期ならサミットなんでしょうけど、僕は天邪鬼なので。
PTAの会議に出て先生たちにメディア・リテラシー教育を要望しよう:個人的にメディアリテラシーは非常に重要だと考えているので、ついつい反応してしまいます。
アフガンへは丸腰で:国際情勢も大事ですね(自戒も込めて)。
御殿場冤罪事件など、お上的判決は裁判所の官僚体質、法曹一元化(原則、弁護仕上がりの裁判官ばかりに)せよ:かなり専門的な内容ですが・・・。現在の裁判制度の問題点が分かりやすく述べられていると思います。
さて本題へ。
まずはおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
疑似科学批判考(4)
一応これでまとめです。
さて、疑似科学の定義、から言説の構造分析(「自然志向/超自然志向」「価値志向/価値無志向」という軸による分類をしたが、どうもあまり意味がなかったようだ)を行い、疑似科学的言説の一側面、即ち、「なぜ科学を装うのか?」、「科学的なものであろうとするのか?」、をその社会的要因(科学が真理の言葉として流通している)、精神分析的要因(科学の上位に立つことで優越感を得られる)によって考察した。
さて、以上を総括して、疑似科学批判をどのように捉えているか、そのような言説に対してどのように対処するのがよいのか、プラグマティックな観点から論じてみたい。
自由主義社会においては、人々は基本的にはどのような志向(趣味、性癖、信仰、思想etc…)を持とうが自由である(それが他者の自由を侵害するものでない限り)。
したがって、単に疑似科学的なものに没入する個人を、そのことを理由に批判することはできない(疑似科学への没入それ自体は他者危害ではない)。
つまり、疑似科学的志向それ自体を批判するわけにはいかない。
とすれば、自由な社会において疑似科学的なものを批判する上で、どのような形があり得るか?
まあ、ブログタイトルに偽りなしってことで(100%言い訳ですが)。
それはさておき。
昨日の訪問者数は突出しておりますな(理由はよーく分かっておりますよ、ありがとうございますNewsOLさん)。
コメント欄もいつになく盛況ですし。
コメントをくださった皆さん、ありがとうございます(お返事はいつになるか分かりませんが、返すつもりでいます)。
今日は注目記事を上げます。この時期ならサミットなんでしょうけど、僕は天邪鬼なので。
PTAの会議に出て先生たちにメディア・リテラシー教育を要望しよう:個人的にメディアリテラシーは非常に重要だと考えているので、ついつい反応してしまいます。
アフガンへは丸腰で:国際情勢も大事ですね(自戒も込めて)。
御殿場冤罪事件など、お上的判決は裁判所の官僚体質、法曹一元化(原則、弁護仕上がりの裁判官ばかりに)せよ:かなり専門的な内容ですが・・・。現在の裁判制度の問題点が分かりやすく述べられていると思います。
さて本題へ。
まずはおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
疑似科学批判考(4)
一応これでまとめです。
さて、疑似科学の定義、から言説の構造分析(「自然志向/超自然志向」「価値志向/価値無志向」という軸による分類をしたが、どうもあまり意味がなかったようだ)を行い、疑似科学的言説の一側面、即ち、「なぜ科学を装うのか?」、「科学的なものであろうとするのか?」、をその社会的要因(科学が真理の言葉として流通している)、精神分析的要因(科学の上位に立つことで優越感を得られる)によって考察した。
さて、以上を総括して、疑似科学批判をどのように捉えているか、そのような言説に対してどのように対処するのがよいのか、プラグマティックな観点から論じてみたい。
自由主義社会においては、人々は基本的にはどのような志向(趣味、性癖、信仰、思想etc…)を持とうが自由である(それが他者の自由を侵害するものでない限り)。
したがって、単に疑似科学的なものに没入する個人を、そのことを理由に批判することはできない(疑似科学への没入それ自体は他者危害ではない)。
つまり、疑似科学的志向それ自体を批判するわけにはいかない。
とすれば、自由な社会において疑似科学的なものを批判する上で、どのような形があり得るか?
疑似科学批判考(4)
昨日のエントリーで今月中と書いたが、よく考えると今日で6月は終わりだった…
ずいぶん間隔が開いてしまった。
どういう風に書こうとしていたか、忘れてしまいそうです(半分忘れた)。
取り敢えずおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
番外編は省略
疑似科学批判考(3)までで、疑似科学的言説の構造分析を行った。
せっかく4類型に分類したので、それぞれの類型別にその批判の根拠を洗い出したいと思うのだが、うまくいかないかも?
さて、疑似科学を批判する以上、その批判には何らかの根拠、理由が必要なはずである(それがなければ、批判とは呼べないはずである)。
ならばその根拠はどのようなものになるだろうか?
番外編1で述べたように、科学という営みは絶えざる修理を受けつつ、海に浮かんでいる船のような存在である。
すなわち、自ら(科学)を(絶対的に)正しいものとして、自分とは違うもの、すなわち疑似科学を批判するわけにはいかない。
そもそもどうして疑似科学が生まれるのか、あるいは疑似科学的なものに(ある種の)人々が吸引されるのか?
超自然的なもの(神秘的なもの、と言い換えてもよい)、あるいは道徳的なものへの志向は、おそらく大なり小なりたいていの人間が持っているだろう(全く持っていない人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも超自然志向、道徳志向の疑似科学的なものへの関心すら持たないだろう)。科学的なものへの志向も多くの人が持っているだろう。
しかし、疑似科学はそれだけではなく、「科学を装う」というところに問題がある(と思われる)。
先日トラックバック頂いたブログに、科学を装わない神秘主義思想は疑似科学ではなく、それ故(疑似科学)批判の対象にはならないという旨のことが書かれていた(トラックバック頂いたエントリーはこちら)。
それに対しては特に反論はない。
僕の疑似科学定義にも科学の装いを有する(科学の権威を活用する)、と書きましたので(ある神秘主義思想が全く科学的装いを有さないなら、定義によりそれは疑似科学ではない)。
では、疑似科学は、本来(とくに自然)科学が対象とすべきでない(と思われている)ことがらを、なぜあたかも自然科学であるかのように装うのか?という疑問が生じる。
この答えにはいくつかのレイヤーが存在するように思われる。
ずいぶん間隔が開いてしまった。
どういう風に書こうとしていたか、忘れてしまいそうです(半分忘れた)。
取り敢えずおさらい。
疑似科学批判考(1)
疑似科学批判考(2)
疑似科学批判考(3)
疑似科学批判考(3)の若干の(?)修正ないし補足
番外編は省略
疑似科学批判考(3)までで、疑似科学的言説の構造分析を行った。
せっかく4類型に分類したので、それぞれの類型別にその批判の根拠を洗い出したいと思うのだが、うまくいかないかも?
さて、疑似科学を批判する以上、その批判には何らかの根拠、理由が必要なはずである(それがなければ、批判とは呼べないはずである)。
ならばその根拠はどのようなものになるだろうか?
番外編1で述べたように、科学という営みは絶えざる修理を受けつつ、海に浮かんでいる船のような存在である。
すなわち、自ら(科学)を(絶対的に)正しいものとして、自分とは違うもの、すなわち疑似科学を批判するわけにはいかない。
そもそもどうして疑似科学が生まれるのか、あるいは疑似科学的なものに(ある種の)人々が吸引されるのか?
超自然的なもの(神秘的なもの、と言い換えてもよい)、あるいは道徳的なものへの志向は、おそらく大なり小なりたいていの人間が持っているだろう(全く持っていない人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも超自然志向、道徳志向の疑似科学的なものへの関心すら持たないだろう)。科学的なものへの志向も多くの人が持っているだろう。
しかし、疑似科学はそれだけではなく、「科学を装う」というところに問題がある(と思われる)。
先日トラックバック頂いたブログに、科学を装わない神秘主義思想は疑似科学ではなく、それ故(疑似科学)批判の対象にはならないという旨のことが書かれていた(トラックバック頂いたエントリーはこちら)。
それに対しては特に反論はない。
僕の疑似科学定義にも科学の装いを有する(科学の権威を活用する)、と書きましたので(ある神秘主義思想が全く科学的装いを有さないなら、定義によりそれは疑似科学ではない)。
では、疑似科学は、本来(とくに自然)科学が対象とすべきでない(と思われている)ことがらを、なぜあたかも自然科学であるかのように装うのか?という疑問が生じる。
この答えにはいくつかのレイヤーが存在するように思われる。
疑似科学批判考(番外編2)
本日はちょっと息抜き
久しぶりに疑似科学関係(か?)
本編は今月中に完結させる予定(もう関心のない方が大半かもしれませんが…)。
物理学と神秘主義
これらは水と油のように考えられる。
しかし、「物理学の最先端にいる人たちは、神を見る」、時折このようなことを見聞きする。
「人間原理」という言葉を聞いたことはあるだろうか?
「宇宙があたかも人間を生み出すことを目的としているかのように思われる(宇宙の存在原理は人間にあるとでも表現できる)」事態を表している(かなーり誤解があるやもしれません)。
つまり、宇宙の創造主がいて、その創造主が知性を有する人間(という生物)を生み出すために宇宙を作り上げたように思われるということだ。あたかも、創造主の存在に気付いてほしいかのように。
それは、ダーウィン以前には生物界の多様性、あまりにも合目的的な構造を目の当たりにした人間が、生物を作り上げる創造主(=神)の存在に思いを馳せずにはいられなかったことにも類似する。
いかがだろうか?
神秘主義的な香りはしないだろうか?
しかし、「人間原理」は大まじめに(?)物理学者の間で語られていた(る)事柄である。
大きく分けると「弱い人間原理」と「強い人間原理(上記の人間原理はこちら)」に分けられるらしいのだが、僕も詳しくないのでリンク先を参照。
久しぶりに疑似科学関係(か?)
本編は今月中に完結させる予定(もう関心のない方が大半かもしれませんが…)。
物理学と神秘主義
これらは水と油のように考えられる。
しかし、「物理学の最先端にいる人たちは、神を見る」、時折このようなことを見聞きする。
「人間原理」という言葉を聞いたことはあるだろうか?
「宇宙があたかも人間を生み出すことを目的としているかのように思われる(宇宙の存在原理は人間にあるとでも表現できる)」事態を表している(かなーり誤解があるやもしれません)。
つまり、宇宙の創造主がいて、その創造主が知性を有する人間(という生物)を生み出すために宇宙を作り上げたように思われるということだ。あたかも、創造主の存在に気付いてほしいかのように。
それは、ダーウィン以前には生物界の多様性、あまりにも合目的的な構造を目の当たりにした人間が、生物を作り上げる創造主(=神)の存在に思いを馳せずにはいられなかったことにも類似する。
いかがだろうか?
神秘主義的な香りはしないだろうか?
しかし、「人間原理」は大まじめに(?)物理学者の間で語られていた(る)事柄である。
大きく分けると「弱い人間原理」と「強い人間原理(上記の人間原理はこちら)」に分けられるらしいのだが、僕も詳しくないのでリンク先を参照。