教育と権力
社会の効果的な再生産のためには教育は不可欠である。
この論考では、教育とは「社会に存在する様々な無形財産(知識や思考様式)を、次世代に伝えていく営み」と広く定義しておく。
民主主義社会(日本も一応含めておく)においては、民主的な作法を教育することが不可欠である。
というのも、民主主義とは社会の成員一人ひとりが社会の意思決定プロセス(すなわち「政治」)に参加することを保障する政治制度であり、従って民主主義社会は、社会の成員一人ひとりが民主的作法を身につけることなしには成立しがたいからだ。
したがって、教育が社会の再生産に不可欠であるとするなら、民主主義社会にとって何より重要なことは、次世代の社会を担う子供たちに民主的作法を身につけさせることであるはずだ。
逆に言えば、将来社会の意思決定に関与する(=主権者たる)子供たちに民主的作法を身につけさせることを疎かにするなら、そのような社会は民主主義社会とは到底言えない。
そして、現在の日本社会は、子供たちに民主的作法を身につけさせることを、悲しいほどに重視していない(よって、実質的には日本を民主主義社会と呼ぶことは適切ではないと思う)。
少しわき道に逸れてしまいましたが。
上記のように教育を定義した場合、教育には不可避的に権力作用が入り込んでしまう。
というのも、知識を教え込むことも、思考様式を身につけさせることも、子供たちをある種の型に嵌めることを不可避に伴ってしまうからだ(この型に嵌める行為は、権力作用そのものである)。
(もう一つの権力作用は、子供たちに教える知識や思考様式の選択に関わっている)
注意すべきは、この権力作用は、その動機に関わらず行使されてしまう、ということだ。
つまり、子供たちのためを思って、という(善なる)動機は、教育において行使される権力作用を些かも減じることはない。
むしろ事態は逆であり、善なる動機は非常にしばしば権力の行使に対する歯止めをなくしてしまう。
権力の暴走は大抵、善なる動機(ないしは正義感)に発すると見て間違いはない(だろう)。
権力欲を隠蔽するために善なる動機をでっち上げることもあり得るから事態は錯綜するわけだが…
自分が正義の側にある、と信じ込んでいる人間にとって権力の行使を抑制することは難しい(その人物が権力を行使する立場にいるのなら)。
しかし、教育に不可避に権力作用が伴うから教育を止めるべし、とは当然ならない。
冒頭に述べたように、社会の効果的な再生産には教育が不可欠だからだ。
だからと言って、「教育に権力作用が伴うのは避けようがない」と居直るのもまた権力の暴走の温床になる(自らの権力行使に居直る人間も、当然のことながら権力行使を抑制しようとは思わないだろう)。
とすれば、でき得ることは、教育に権力作用が不可避に伴うことを自覚しつつ、暴走しない形で権力作用に歯止めをかけることでしかないだろう。
これは大抵の人には居心地が悪く感じられるだろう。
というのも、教育に携わる人(広い定義ではほとんど全ての人)は、自らの教育を善なる動機に発するものと考え、権力とは無縁と思いたいからだ。
しかし、繰り替えすが、そのような願望は教育の権力作用を些かも減じることはない。
権力の行使を抑止する動機は、自らの振る舞い(例えば教育)に権力作用が伴うことを自覚することでしか発しない(もちろん、権力行使の自覚は権力抑止の動機を保障はしないが)。
である以上、上記の居心地の悪さとは生涯付き合っていく以外にない。
居心地の悪さを忘れたとき(動機の善性への疑いを忘れたとき、あるいは権力行使に居直るとき)教育に伴う権力の暴走が始まるだろう。
それは教育の危機であると同時に、社会の危機でもある。
この論考では、教育とは「社会に存在する様々な無形財産(知識や思考様式)を、次世代に伝えていく営み」と広く定義しておく。
民主主義社会(日本も一応含めておく)においては、民主的な作法を教育することが不可欠である。
というのも、民主主義とは社会の成員一人ひとりが社会の意思決定プロセス(すなわち「政治」)に参加することを保障する政治制度であり、従って民主主義社会は、社会の成員一人ひとりが民主的作法を身につけることなしには成立しがたいからだ。
したがって、教育が社会の再生産に不可欠であるとするなら、民主主義社会にとって何より重要なことは、次世代の社会を担う子供たちに民主的作法を身につけさせることであるはずだ。
逆に言えば、将来社会の意思決定に関与する(=主権者たる)子供たちに民主的作法を身につけさせることを疎かにするなら、そのような社会は民主主義社会とは到底言えない。
そして、現在の日本社会は、子供たちに民主的作法を身につけさせることを、悲しいほどに重視していない(よって、実質的には日本を民主主義社会と呼ぶことは適切ではないと思う)。
少しわき道に逸れてしまいましたが。
上記のように教育を定義した場合、教育には不可避的に権力作用が入り込んでしまう。
というのも、知識を教え込むことも、思考様式を身につけさせることも、子供たちをある種の型に嵌めることを不可避に伴ってしまうからだ(この型に嵌める行為は、権力作用そのものである)。
(もう一つの権力作用は、子供たちに教える知識や思考様式の選択に関わっている)
注意すべきは、この権力作用は、その動機に関わらず行使されてしまう、ということだ。
つまり、子供たちのためを思って、という(善なる)動機は、教育において行使される権力作用を些かも減じることはない。
むしろ事態は逆であり、善なる動機は非常にしばしば権力の行使に対する歯止めをなくしてしまう。
権力の暴走は大抵、善なる動機(ないしは正義感)に発すると見て間違いはない(だろう)。
権力欲を隠蔽するために善なる動機をでっち上げることもあり得るから事態は錯綜するわけだが…
自分が正義の側にある、と信じ込んでいる人間にとって権力の行使を抑制することは難しい(その人物が権力を行使する立場にいるのなら)。
しかし、教育に不可避に権力作用が伴うから教育を止めるべし、とは当然ならない。
冒頭に述べたように、社会の効果的な再生産には教育が不可欠だからだ。
だからと言って、「教育に権力作用が伴うのは避けようがない」と居直るのもまた権力の暴走の温床になる(自らの権力行使に居直る人間も、当然のことながら権力行使を抑制しようとは思わないだろう)。
とすれば、でき得ることは、教育に権力作用が不可避に伴うことを自覚しつつ、暴走しない形で権力作用に歯止めをかけることでしかないだろう。
これは大抵の人には居心地が悪く感じられるだろう。
というのも、教育に携わる人(広い定義ではほとんど全ての人)は、自らの教育を善なる動機に発するものと考え、権力とは無縁と思いたいからだ。
しかし、繰り替えすが、そのような願望は教育の権力作用を些かも減じることはない。
権力の行使を抑止する動機は、自らの振る舞い(例えば教育)に権力作用が伴うことを自覚することでしか発しない(もちろん、権力行使の自覚は権力抑止の動機を保障はしないが)。
である以上、上記の居心地の悪さとは生涯付き合っていく以外にない。
居心地の悪さを忘れたとき(動機の善性への疑いを忘れたとき、あるいは権力行使に居直るとき)教育に伴う権力の暴走が始まるだろう。
それは教育の危機であると同時に、社会の危機でもある。
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アクシデント(事故)と社会問題
社会にはアクシデント(事故)は不可避である。
それはささやかなこともあれば、悲劇的な(さらには破局的な)場合もある。
ここではアクシデントに、一般には事件と呼ばれる出来事も含めて考える。
一般に事故は意図されざるもの、事件は意図的に起こされるもの、という含意があるだろう。
ここで、意図を考慮に入れず、起きてしまった望まれざる出来事として、(事件も含めて)アクシデント(事故)と呼ぶことにする。
アクシデント(事故)には人的な要因が不可避的に関わっている(完全に自然的な出来事は事故とは呼ばれないだろう)。
そのせいだろうか、事故が起こった場合、しばしば私たちはそれは避け得たのではないか?と考える。
実際は、それはしばしば願望的な感情に過ぎなかったりするのだが。
社会が事故から教訓を得る、というのは、人間は失敗から学ぶということとパラレルである。
より踏み込んで、人間は失敗からしか学べない、とすれば、私たちは事故からしか教訓を得ることができない。
だとすれば、一つの事故にできるだけ多くの問題を見て取ること(そしてその問題の解決策を得ようとすること)は、社会を少しでもよくするためには不可欠であるとさえ言えるだろう。
そして、この努力は事故の当事者(直接かかわった人)には難しい。
だから、事故から最大の教訓を得ることは、事故の当事者以外の者たちの義務である。
これを仮に第三者と呼ぶとしても、同じ社会を生きるものとしては当事者である以外にない(この社会に完全なる第三者は存在しない)。
一点注意しよう。
事故から社会の問題を見出すにしても、そのことはその社会の問題が事故に因果的に関係していることを意味しない(もっと言えば意味するべきではない)。
事故の直接の因果とは関係なく、私たちは社会の問題を見出すことができるし、見出すべきだろう。
一つ例をあげて考えてみる。
秋葉原の大量殺人事件が起きた時、非正規雇用の問題が出てきた。
非正規雇用の問題が、あの事件を起こしたとは言えない(事件との因果性は言えない)が、非正規雇用の問題は間違いなく社会が取り上げるべき問題だろう。
そして、事件は確かに悲劇的だが、あの事件がなければ非正規雇用の問題に目を向ける人がいなかったこともまた事実だろう。
「事件が起こらなくても、非正規雇用の問題に目を向けるべきだ」と言ってもあまり意味はない(そのこと自体は妥当であるとしても)。
まとめます。
いかに悲劇的だろうと、事故の発生は社会に問題が存在することを告げる格好の機会である。
ただし、その社会の問題は、事故に因果的に関係していると考えるべきではない(事故を契機に考えるが、事故とは独立に考える)。
そのためには私たち一人一人に、同じ社会を生きるものとしての当事者性が不可欠であろう。
そしてこの当事者性は恐らく自然発生的には出てこない(し、万人が持ち得るものでもないだろう)。
しかし、教育によって一人でも多くの人がこの当事者性を持つことが望ましいと思う。
それはささやかなこともあれば、悲劇的な(さらには破局的な)場合もある。
ここではアクシデントに、一般には事件と呼ばれる出来事も含めて考える。
一般に事故は意図されざるもの、事件は意図的に起こされるもの、という含意があるだろう。
ここで、意図を考慮に入れず、起きてしまった望まれざる出来事として、(事件も含めて)アクシデント(事故)と呼ぶことにする。
アクシデント(事故)には人的な要因が不可避的に関わっている(完全に自然的な出来事は事故とは呼ばれないだろう)。
そのせいだろうか、事故が起こった場合、しばしば私たちはそれは避け得たのではないか?と考える。
実際は、それはしばしば願望的な感情に過ぎなかったりするのだが。
社会が事故から教訓を得る、というのは、人間は失敗から学ぶということとパラレルである。
より踏み込んで、人間は失敗からしか学べない、とすれば、私たちは事故からしか教訓を得ることができない。
だとすれば、一つの事故にできるだけ多くの問題を見て取ること(そしてその問題の解決策を得ようとすること)は、社会を少しでもよくするためには不可欠であるとさえ言えるだろう。
そして、この努力は事故の当事者(直接かかわった人)には難しい。
だから、事故から最大の教訓を得ることは、事故の当事者以外の者たちの義務である。
これを仮に第三者と呼ぶとしても、同じ社会を生きるものとしては当事者である以外にない(この社会に完全なる第三者は存在しない)。
一点注意しよう。
事故から社会の問題を見出すにしても、そのことはその社会の問題が事故に因果的に関係していることを意味しない(もっと言えば意味するべきではない)。
事故の直接の因果とは関係なく、私たちは社会の問題を見出すことができるし、見出すべきだろう。
一つ例をあげて考えてみる。
秋葉原の大量殺人事件が起きた時、非正規雇用の問題が出てきた。
非正規雇用の問題が、あの事件を起こしたとは言えない(事件との因果性は言えない)が、非正規雇用の問題は間違いなく社会が取り上げるべき問題だろう。
そして、事件は確かに悲劇的だが、あの事件がなければ非正規雇用の問題に目を向ける人がいなかったこともまた事実だろう。
「事件が起こらなくても、非正規雇用の問題に目を向けるべきだ」と言ってもあまり意味はない(そのこと自体は妥当であるとしても)。
まとめます。
いかに悲劇的だろうと、事故の発生は社会に問題が存在することを告げる格好の機会である。
ただし、その社会の問題は、事故に因果的に関係していると考えるべきではない(事故を契機に考えるが、事故とは独立に考える)。
そのためには私たち一人一人に、同じ社会を生きるものとしての当事者性が不可欠であろう。
そしてこの当事者性は恐らく自然発生的には出てこない(し、万人が持ち得るものでもないだろう)。
しかし、教育によって一人でも多くの人がこの当事者性を持つことが望ましいと思う。
権力について
権力についてつらつら考えることが多い。
まぁ、たいていはうまく纏まらないのだが…
少し書きながら考えてみたいと思うのだが、あまりきれいな(?)結論を出すことを目指さず、思いついたことを思いついたままに書き連ねてみようと思う。
突然だが、社会には秩序がある。
それは客観的な事物についても当てはまるし、人々の振る舞いについても当てはまる。
本来的には(という言い方は完全なる誤解なのだが)、人々は自由に振る舞い得るわけで、そこにある種の秩序がうまれることは不思議と言えば不思議なのかもしれない。
この不思議感の前提には、「自由・勝手な振る舞いはカオス(混沌)をもたらす」という前提があるのだが。
そしてこの前提に従うなら、秩序があるとすれば(実際に私たちは秩序を認識する)、それは(自由気ままな人々の振る舞いに抗して)秩序を形成する力が働いたに違いない、ということになろう。
つまり、(本来的ならば)自由気まま・勝手気ままに振る舞いがもたらし得るのはカオス(混沌)であるはずなのに、秩序が生じているとすれば、人々の自由・勝手に対抗するだけの力が働いたに違いない、ということだ。
一様なはずの宇宙に、星、惑星系、銀河、銀河団といった秩序が生成するには、物理的力が働いている(に違いない)、という推察とどこか似通っているかもしれない。
まぁ、これは余談だが。
そうして、この秩序形成力を権力と呼ぼう。
注意すべきは、ここでの権力は、いまだ反実仮想的な仮説体に過ぎないということだ。
もう一点、同じことだが、私たちは恐らく誰も、本当の無秩序を知らない(つまり、権力のない状態を見ることはない)。
この事態は、「慣性の法則(物体に力が働かない限り、物体は静止または等速直線運動を続ける)」成り立っているところを私たちが誰も見ることはない、ということと相同かもしれない。
再度権力(僕の権力観に基づくものだが)について述べておく。
もしも権力が働かないとすれば、この世界には勝手気ままな人々の振る舞いが存在するだけで、カオス(混沌)しかないだろう(反実仮想)。
しかし実際には社会は秩序で溢れている。
つまり、この世は権力(仮説体としてではあれ)が存在している。
ここから権力の分析が始まるだろう。
ひとつは社会(秩序)を生み出すものとして。
もうひとつは、一つの社会(秩序)を別の社会(秩序)へと変化させる原動力として。
そして、権力分析が本当に実効性のあるものなら、2番目の意味の権力を記述できなければならないだろう。
まぁ、たいていはうまく纏まらないのだが…
少し書きながら考えてみたいと思うのだが、あまりきれいな(?)結論を出すことを目指さず、思いついたことを思いついたままに書き連ねてみようと思う。
突然だが、社会には秩序がある。
それは客観的な事物についても当てはまるし、人々の振る舞いについても当てはまる。
本来的には(という言い方は完全なる誤解なのだが)、人々は自由に振る舞い得るわけで、そこにある種の秩序がうまれることは不思議と言えば不思議なのかもしれない。
この不思議感の前提には、「自由・勝手な振る舞いはカオス(混沌)をもたらす」という前提があるのだが。
そしてこの前提に従うなら、秩序があるとすれば(実際に私たちは秩序を認識する)、それは(自由気ままな人々の振る舞いに抗して)秩序を形成する力が働いたに違いない、ということになろう。
つまり、(本来的ならば)自由気まま・勝手気ままに振る舞いがもたらし得るのはカオス(混沌)であるはずなのに、秩序が生じているとすれば、人々の自由・勝手に対抗するだけの力が働いたに違いない、ということだ。
一様なはずの宇宙に、星、惑星系、銀河、銀河団といった秩序が生成するには、物理的力が働いている(に違いない)、という推察とどこか似通っているかもしれない。
まぁ、これは余談だが。
そうして、この秩序形成力を権力と呼ぼう。
注意すべきは、ここでの権力は、いまだ反実仮想的な仮説体に過ぎないということだ。
もう一点、同じことだが、私たちは恐らく誰も、本当の無秩序を知らない(つまり、権力のない状態を見ることはない)。
この事態は、「慣性の法則(物体に力が働かない限り、物体は静止または等速直線運動を続ける)」成り立っているところを私たちが誰も見ることはない、ということと相同かもしれない。
再度権力(僕の権力観に基づくものだが)について述べておく。
もしも権力が働かないとすれば、この世界には勝手気ままな人々の振る舞いが存在するだけで、カオス(混沌)しかないだろう(反実仮想)。
しかし実際には社会は秩序で溢れている。
つまり、この世は権力(仮説体としてではあれ)が存在している。
ここから権力の分析が始まるだろう。
ひとつは社会(秩序)を生み出すものとして。
もうひとつは、一つの社会(秩序)を別の社会(秩序)へと変化させる原動力として。
そして、権力分析が本当に実効性のあるものなら、2番目の意味の権力を記述できなければならないだろう。
再度 人称依存的権力観について
先日のエントリーで、単純素朴な人称依存的権力観(権力が悪をなすのは、悪人が権力の座についているだからだ、風の)を批判的に見てきました。
少し言い足りなかった部分もあるので、本日はその補足的なエントリーになります。
なぜ「人称依存的権力観」がダメなのか、という理由は何となく理解してもらえたかもしれません(自信なし)。
しかし、大事なことは、どのような発言が「人称依存的権力観」に依拠しているか、を見極めることです(そして、自分がそのような発言をしたら、それを謙虚に振り返って反省することです)。
と、上から目線でずいぶん偉そうに語ってしまいましたが…
しかし、繰り返しになりますが、私たちが「人称依存的権力観」に依拠する限り(「社会が悪いのは、権力者が悪人あるいは無能だから」、だ風の)、本当の意味での権力批判にはなり得ないのであります(権力への問いを封印してしまうから)。
では、「人称依存的権力観」に依拠した権力批判は、一体どのような形をとるでしょうか?
人称依存的権力観とは、「権力の性質は、権力者の性質に依存する」、という考え方ですので…
社会で起こる問題を、特定の人物(権力者)に帰属させるタイプの権力批判は、人称依存的権力観に依拠している、と申せましょう。
「こんな問題が起こったのは、アイツのせいだ(アイツが諸悪の根源だ)」、的な。
もちろん、政治責任とは結果責任でありますが、責任と原因は別問題であります(そこを意図的に混同するとすれば、悪質極まりない)。
詳しくは、だいぶ以前に「責任追及と原因究明について(1)」というエントリーで述べたので参考にしていただきたいと思います。
例えば、今巷でホットなネタを例にあげますと…
尖閣問題では、菅(仙谷)がすべて悪い、的な発言が随所で見られますが、このタイプの発言はすべて人称依存的権力観に依拠していると言えます。
検察の証拠捏造問題では、前田(大坪、佐賀)が悪い、というタイプの発言が同様です。
繰り返しますが、問題が起こった時に、特定の人物を悪者にして事足れり、とするタイプの発言は人称依存的権力観に依拠していると申せましょう(特定の人物が権力者ではないとしても)。
そしてこのタイプの権力批判は、ストレス解消にはなり得ても、社会の変化には結び付き得ないのであります。
と言いますのも、この手の言説は、「権力者の首を挿げ替えろ!」という帰結にしかなりえず、その問題に横たわる組織的、あるいは構造的要因を放置させてしまうからです(せいぜいのところ、発生した問題をいかに隠蔽するか、に労力を割かせるくらいである)。
逆に、組織的、構造的要因から利益を得ている人々(既得権者)からすれば…
特定の人物を悪者として生贄(スケープゴート)にすることによって、組織的・構造的要因に目を向けないようにしようとするでしょう。
そして、自分たちの言いなりになるメディアが存在するならば…
そのメディアを最大限に活用して、特定の人物をとんでもない大悪人だとして吊し上げようとするでしょう。
それに感情的に反応して吊し上げに加担する(?)庶民を尻目で嘲笑いつつ…
こうして、権力内部にある組織的・構造的問題には決して人々の目が届かないように煙幕を張ろうとするでしょう。
その結果、組織的・構造的問題から利益を貪り続ける。
人称依存的権力観(権力が悪をなすのは、権力者が悪人だからだ、風の)は、こうして社会に存在する組織的・構造的問題から人々の目を背けさせる(ことで、組織的・構造的問題から利益を得る人々を利する)働きしか持ち得ない。
それは、社会悪だと僕は言い切りたい。
とすれば…
特定の人物(権力者)を悪として断罪するタイプの権力批判(人称依存的権力観)を私たちは拒絶しなければならない、と思う。
では、人称依存的権力観を拒絶した先にある権力観、僕の言葉でいえば自律的権力観、とはどのようなものか?
それは権力独自のロジック(自律性)をとことん突き詰めることでしか到達し得ない、権力観ではある。
しかし、そうやって突き詰めること抜きには、真の意味での権力批判は行い得ないのではないか、と思う。
僕が今後提示する権力観が、そこまで突き詰めたものとは到底言えないのかもしれませんが…
権力独自のロジックを、僕なりに示していきたいと思う。
少し言い足りなかった部分もあるので、本日はその補足的なエントリーになります。
なぜ「人称依存的権力観」がダメなのか、という理由は何となく理解してもらえたかもしれません(自信なし)。
しかし、大事なことは、どのような発言が「人称依存的権力観」に依拠しているか、を見極めることです(そして、自分がそのような発言をしたら、それを謙虚に振り返って反省することです)。
と、上から目線でずいぶん偉そうに語ってしまいましたが…
しかし、繰り返しになりますが、私たちが「人称依存的権力観」に依拠する限り(「社会が悪いのは、権力者が悪人あるいは無能だから」、だ風の)、本当の意味での権力批判にはなり得ないのであります(権力への問いを封印してしまうから)。
では、「人称依存的権力観」に依拠した権力批判は、一体どのような形をとるでしょうか?
人称依存的権力観とは、「権力の性質は、権力者の性質に依存する」、という考え方ですので…
社会で起こる問題を、特定の人物(権力者)に帰属させるタイプの権力批判は、人称依存的権力観に依拠している、と申せましょう。
「こんな問題が起こったのは、アイツのせいだ(アイツが諸悪の根源だ)」、的な。
もちろん、政治責任とは結果責任でありますが、責任と原因は別問題であります(そこを意図的に混同するとすれば、悪質極まりない)。
詳しくは、だいぶ以前に「責任追及と原因究明について(1)」というエントリーで述べたので参考にしていただきたいと思います。
例えば、今巷でホットなネタを例にあげますと…
尖閣問題では、菅(仙谷)がすべて悪い、的な発言が随所で見られますが、このタイプの発言はすべて人称依存的権力観に依拠していると言えます。
検察の証拠捏造問題では、前田(大坪、佐賀)が悪い、というタイプの発言が同様です。
繰り返しますが、問題が起こった時に、特定の人物を悪者にして事足れり、とするタイプの発言は人称依存的権力観に依拠していると申せましょう(特定の人物が権力者ではないとしても)。
そしてこのタイプの権力批判は、ストレス解消にはなり得ても、社会の変化には結び付き得ないのであります。
と言いますのも、この手の言説は、「権力者の首を挿げ替えろ!」という帰結にしかなりえず、その問題に横たわる組織的、あるいは構造的要因を放置させてしまうからです(せいぜいのところ、発生した問題をいかに隠蔽するか、に労力を割かせるくらいである)。
逆に、組織的、構造的要因から利益を得ている人々(既得権者)からすれば…
特定の人物を悪者として生贄(スケープゴート)にすることによって、組織的・構造的要因に目を向けないようにしようとするでしょう。
そして、自分たちの言いなりになるメディアが存在するならば…
そのメディアを最大限に活用して、特定の人物をとんでもない大悪人だとして吊し上げようとするでしょう。
それに感情的に反応して吊し上げに加担する(?)庶民を尻目で嘲笑いつつ…
こうして、権力内部にある組織的・構造的問題には決して人々の目が届かないように煙幕を張ろうとするでしょう。
その結果、組織的・構造的問題から利益を貪り続ける。
人称依存的権力観(権力が悪をなすのは、権力者が悪人だからだ、風の)は、こうして社会に存在する組織的・構造的問題から人々の目を背けさせる(ことで、組織的・構造的問題から利益を得る人々を利する)働きしか持ち得ない。
それは、社会悪だと僕は言い切りたい。
とすれば…
特定の人物(権力者)を悪として断罪するタイプの権力批判(人称依存的権力観)を私たちは拒絶しなければならない、と思う。
では、人称依存的権力観を拒絶した先にある権力観、僕の言葉でいえば自律的権力観、とはどのようなものか?
それは権力独自のロジック(自律性)をとことん突き詰めることでしか到達し得ない、権力観ではある。
しかし、そうやって突き詰めること抜きには、真の意味での権力批判は行い得ないのではないか、と思う。
僕が今後提示する権力観が、そこまで突き詰めたものとは到底言えないのかもしれませんが…
権力独自のロジックを、僕なりに示していきたいと思う。
人称依存的権力観(素朴な権力観)を打破しなければならないワケ
えー、昨日のエントリーでは、人称依存的権力観と自律的権力観という二つの対立する権力観について述べました。
一応二つの権力観をおさらいして述べますと…
人称依存的権力観:権力の行使が、誰が権力の座にあるかに大きく影響を受ける、風の権力観(それに従えば、人が変われば権力のあり方が変わる、という風に捉えられる)。権力を行使するのは実在する人物(権力者)であることを考えれば、実にジョーシキ的な(その意味で素朴な)権力観と申せましょう。
自律的権力観:権力は、誰が権力の座にあるかとは相対的に独立に、つまりは権力独特のロジックによって、その影響力を行使する。言い換えれば、権力には自律性がある。この権力観によれば、人が変わるだけでは権力の様態は(容易には)変わらない、ということになる。
繰り返しになりますが、よりジョーシキにマッチするのは、人称依存的権力観でありましょう。
簡単にいえば、「権力が悪をなすのは、権力の座にある人物が悪人だからだ」風の。
このような捉え方を正当化する、素朴で実に分かりやすい人称依存的権力観は、それゆえ「善人が権力の座に就けば、権力は善をなす」、と安易に結論付けてしまう。
本エントリーでは、この素朴で分かりやすいジョーシキにマッチした権力観(人称依存的権力観)をなぜ打破しなければならないのか、そこを述べたいと思う。
まぁ、最も単純にいえば、「人称依存的権力観は間違いだから」ということになりますが、それでは納得されないでしょう(人称依存的権力観を有している人は)。
人称依存的権力観は、「権力がどのように発生するのか?」という問いをスキップして、権力の存在を自明視してしまう(ある人物が自明視される権力の座に就くことで、実際に権力を行使する=権力者になる)。
「権力というものがいかに発生してくるのか?」を問うことなく、権力について(深く?)考察する(権力の作動を理解する)ことはできない。
繰り返しますと…
権力者が権力に就く→権力を行使する
このような図式では、権力の存在が自明視されており、むしろ権力への問いが封印されてしまう。
それは却って、権力批判を底の浅いものにしてしまう…
その結果、権力批判は権力の実態には届かず、それゆえ今ある権力を温存してしまうことになる…
つまり、単純素朴な人称依存的権力観からの権力批判(権力が悪をなすのは権力者が悪人だからだ、風の)は、本当の権力批判にはなり得ないのだ。
それゆえ、真に権力を批判したければ、この素朴な権力観を拒否しなければならない。
もう一つ、人称依存的権力観を保持した場合の、実際的なデメリットも述べておこう。
この権力観は、次のように素朴に権力批判を行う。
「権力が悪をなすのは、権力者が悪人だからだ」。
それゆえ、次のように結論する。
「善人を権力者につければ、権力は善をなす」。
しかし、権力についての深い洞察抜きに、権力者の首を挿げ替えたところで、自律的に(非人称的に)作動する権力はびくともしない(権力の作動に大きな変化はない)。
とすれば、人々はどのように結論をするか…
「誰がやっても社会は変わらない」
という諦めであろう。
人々が、社会をよりよいものへと変えようとするモチベーションを失えばどうなるか…
ニヒリズムやシニシズムが世に蔓延り、それが人々の社会を変えようとするモチベーションをさらに阻害する…
こうして社会に閉塞感が蔓延する。
こう書くと、多くの人は絶望感に打ちひしがれてしまうのではないだろうか?
しかし、社会の中には、変化を望まない人々、つまりは多くの人が絶望感に打ちひしがれることを歓迎する人々が間違いなく存在する。
つまり、人々がニヒリズムに陥り、社会の変化をあきらめることで利益を受ける人が間違いなく存在する。
だから、人々を絶望へと導いてしまう人称依存的権力観を私達は拒絶しなければならないと思う。
人称依存的権力観を拒否するとすれば…
私達は、人称に依存しない権力観、つまりは自律的権力観へとシフトしなければならない(詳細は後日に)。
ということで、人称依存的権力観を打破しなければならないワケをまとめます。
1.人称依存的権力観は端的に間違いである。
2.人称依存的権力観は権力を自明視してしまう(つまり、権力への問いを封印してしまう)。それは思考停止へと人々を陥らせる。
3.人称依存的権力観は、権力者が変わっても社会が変わらないことに対処する術がない(そのような事態に陥ったときに、人々を絶望させてしまう)。
一応二つの権力観をおさらいして述べますと…
人称依存的権力観:権力の行使が、誰が権力の座にあるかに大きく影響を受ける、風の権力観(それに従えば、人が変われば権力のあり方が変わる、という風に捉えられる)。権力を行使するのは実在する人物(権力者)であることを考えれば、実にジョーシキ的な(その意味で素朴な)権力観と申せましょう。
自律的権力観:権力は、誰が権力の座にあるかとは相対的に独立に、つまりは権力独特のロジックによって、その影響力を行使する。言い換えれば、権力には自律性がある。この権力観によれば、人が変わるだけでは権力の様態は(容易には)変わらない、ということになる。
繰り返しになりますが、よりジョーシキにマッチするのは、人称依存的権力観でありましょう。
簡単にいえば、「権力が悪をなすのは、権力の座にある人物が悪人だからだ」風の。
このような捉え方を正当化する、素朴で実に分かりやすい人称依存的権力観は、それゆえ「善人が権力の座に就けば、権力は善をなす」、と安易に結論付けてしまう。
本エントリーでは、この素朴で分かりやすいジョーシキにマッチした権力観(人称依存的権力観)をなぜ打破しなければならないのか、そこを述べたいと思う。
まぁ、最も単純にいえば、「人称依存的権力観は間違いだから」ということになりますが、それでは納得されないでしょう(人称依存的権力観を有している人は)。
人称依存的権力観は、「権力がどのように発生するのか?」という問いをスキップして、権力の存在を自明視してしまう(ある人物が自明視される権力の座に就くことで、実際に権力を行使する=権力者になる)。
「権力というものがいかに発生してくるのか?」を問うことなく、権力について(深く?)考察する(権力の作動を理解する)ことはできない。
繰り返しますと…
権力者が権力に就く→権力を行使する
このような図式では、権力の存在が自明視されており、むしろ権力への問いが封印されてしまう。
それは却って、権力批判を底の浅いものにしてしまう…
その結果、権力批判は権力の実態には届かず、それゆえ今ある権力を温存してしまうことになる…
つまり、単純素朴な人称依存的権力観からの権力批判(権力が悪をなすのは権力者が悪人だからだ、風の)は、本当の権力批判にはなり得ないのだ。
それゆえ、真に権力を批判したければ、この素朴な権力観を拒否しなければならない。
もう一つ、人称依存的権力観を保持した場合の、実際的なデメリットも述べておこう。
この権力観は、次のように素朴に権力批判を行う。
「権力が悪をなすのは、権力者が悪人だからだ」。
それゆえ、次のように結論する。
「善人を権力者につければ、権力は善をなす」。
しかし、権力についての深い洞察抜きに、権力者の首を挿げ替えたところで、自律的に(非人称的に)作動する権力はびくともしない(権力の作動に大きな変化はない)。
とすれば、人々はどのように結論をするか…
「誰がやっても社会は変わらない」
という諦めであろう。
人々が、社会をよりよいものへと変えようとするモチベーションを失えばどうなるか…
ニヒリズムやシニシズムが世に蔓延り、それが人々の社会を変えようとするモチベーションをさらに阻害する…
こうして社会に閉塞感が蔓延する。
こう書くと、多くの人は絶望感に打ちひしがれてしまうのではないだろうか?
しかし、社会の中には、変化を望まない人々、つまりは多くの人が絶望感に打ちひしがれることを歓迎する人々が間違いなく存在する。
つまり、人々がニヒリズムに陥り、社会の変化をあきらめることで利益を受ける人が間違いなく存在する。
だから、人々を絶望へと導いてしまう人称依存的権力観を私達は拒絶しなければならないと思う。
人称依存的権力観を拒否するとすれば…
私達は、人称に依存しない権力観、つまりは自律的権力観へとシフトしなければならない(詳細は後日に)。
ということで、人称依存的権力観を打破しなければならないワケをまとめます。
1.人称依存的権力観は端的に間違いである。
2.人称依存的権力観は権力を自明視してしまう(つまり、権力への問いを封印してしまう)。それは思考停止へと人々を陥らせる。
3.人称依存的権力観は、権力者が変わっても社会が変わらないことに対処する術がない(そのような事態に陥ったときに、人々を絶望させてしまう)。