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2024-02

道徳への懐疑の理由(ワケ) 番外編(やや下系?)

欲張って本日二つ目のエントリーです。

格好のネタが転がっていたので、賞味期限が切れる前に(既に期限切れ?)
久々の道徳シリーズになりますが。
特に予定していた話題ではないのですが、このネタに食いつかないわけにもいかないでしょう。
というわけで(?)、道徳シリーズ番外編になります。

早速本題へ。
鴻池祥肇(by wikipedia)参議院議員(自民党) 現内閣官房副長官
いや~、やってくれますねぇ。

<鴻池官房副長官>首相らは擁護 与党内から辞任要求も鴻池官房副長官「W不倫疑惑」 週刊誌報じる
議員宿舎はラブホ? 鴻池官房副長官にW不倫疑惑

普段から愛国心の強制など、道徳をこよなく愛しているらしい自民党議員達(特に日本会議系)から、さぞ非難轟々説教されるだろうと期待していましたが…
そう言えば、鴻池議員自身も「親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」(上記wikipediaより引用)など、道徳的言辞を垂れ流してくれていたようですが…
今となってはギャグとしか思えませんが、『お天道さんがみてござる』なんていう著書もあるようですね(興味ある方は読んで是非感想を聞かせてください)。

若干(?)シモ系に走ってしまいそうなので、続きは自己責任で。

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「水伝」校長会の件(注:疑似科学批判ではありません)

えー、3か月ほど前ですか。
某騒動に合わせたわけでもあるまいが、このような話があった。
疑似科学系ブログの多くは当然の如く取り上げたようだ。
喩えて言えば(あくまでも喩えね)、「腹を空かしたピラニアの大群が待ち受けるアマゾン川で、脂のたっぷりのった牛が無邪気にも水遊びをした図」、とでも言えようか。
その食いつきっぷりは、スガスガしいものですらあった。

いえね、そのすっかりしゃぶりつくされた牛の骨(骨すら残っていないかも?)にいまさら食いつこうってわけじゃありません(翻訳:これをネタに疑似科学批判をやりたいわけではありません)。
当ブログでは、正面から疑似科学批判をすることもないでしょうし(多分)。

しかし、これって「校長会」の問題なのかなぁ?
校長って年の頃は60手前位か。
ってことは40年前くらいに学校教育を受けたんだな、多分。
で、まぁ校長ってのは教員の上がりで、それほどトンデモな人がなるわけでもないでしょう(多少人よりは権力欲はあるかもしれないが)。
一般的な人よりはちょっとばかし教養はある方々でしょう(教員は社会ジョーシキがない、などと揶揄されることが多いからこれもなんとも言えないかも?)。
これが問題だとしたら、40年前から(科学)教育に問題があり、それが40年大きく改善されることなく今日に至っている、っつーことではないのかな。
特定の疑似科学を叩いたところで、この40年間の教育の問題が改善されるとも思えないのだが…

まぁ、これだけ疑似科学ネタへの食い付きが良いなら、「(多くの人はピラニアの餌になることを恐れるために)ひょっとしたら疑似科学がなくなるかも?」、なんて思ったりして(まぁ、でも賭けるなら「疑似科学はなくならない」の方ですけどね)。
しかし、これで疑似科学がなくなるとして(つまり、バッシングによって臭いものに蓋的に疑似科学的なものが表に出てこなくなったとして)、それでよいのかな?
よくわからんが。

さて、前置きはこれくらいにしてと。
僕は道徳に結び付けて論じてみたい。
詳しくは道徳関連エントリーを参照して頂くとして。
道徳とは行為の評価であって、通常は目上の者から目下の者へと説教的に(~すべし、~すべからずといった形で)語られる、というquine10流の定義にのっとって考えてみる。

校長とは、学校という共同体(本来的には機能を重視する組織であるべきだが、実体的には共同体的側面が肥大化している)の一番目上の存在が校長である。
で、僕のこれまでのエントリーによれば、目上の者になればなるほど道徳を語るメリットは大きくなり(自分が偉いことを言っているという自己満足&自分の言うことに目下の者が従う)、それゆえ道徳教育への志向は強まると思われる。

で、「水伝」には疑似科学的側面と道徳主義的側面(きれいな言葉を使いましょう)が組み合わさっている(それ故に、道徳好きの=共同体主義的な日本人に受け入れられたのではないだろうか?)。
いまさら「心のノート」を持ち出すまでもないでしょうし。

つまり、道徳的なものを導入したくてしょうがない校長会という存在に、「たまたま」科学的な香りを身につけた道徳主義的言説である「水伝」が目に留まった。
もちろん、そこに認められた疑似科学的側面をスルーした、という部分を批判するのはもっともだとは思う。
しかし、校長会が「水伝」を取り上げたのは疑似科学的側面故になのだろうか?
あるいは、そのことを批判するとして、それは「水伝」の疑似科学的側面故になのだろうか?

先ほども述べたように、学校という人間集団において、道徳が過度に重視されるなら、それは組織としての側面(機能面)よりも共同体的な側面を肥大させる。
だとすれば、それは必然的に組織としての側面を弱体化させる(だろう)。
で、科学教育は間違いなく、組織としての側面であろう。
今回の騒動は、(少なくとも40年前から)科学教育をはじめとした批判的思考力を身に付ける、という学校の機能面(組織としての側面)がないがしろにされてきた(=道徳的側面が重視され過ぎてきた)ことの表れではないだろうか?
疑似科学が望ましくないものだとして(そのことに異論を唱えるわけでもないですが)、特定の疑似科学をバッシングすれば済む問題なのだろうか?

地道に見えても、批判的思考を身に付ける教育をしていく他ないと僕は思っているのだが(というより地道に進める以外にはないと思う)。
批判的思考のためのお勧めサイトは
中学生からの論理的な議論の仕方
おざわさん、コメントありがとうございます。
またまた勝手に紹介させていただきます。

我ながら、やや無理やりな感じがしないでもないですが…

「水伝」と校長会、道徳的観点から、でした。
本日の認知心理学講座はお休みです。

道徳について(4) 道徳への懐疑の理由(ワケ)(3)

えー、現在読んでいる本
「世界陰謀史事典」
誰かの神経を逆撫でするような本かもしれませんが…
まだ途中ですが、実に面白い。
しかし、悲しいかな自分には世界史の素養がないので、読むのに非常に苦労する。
こんなことなら真面目に歴史を勉強しておけばよかった。
それはさておき、いずれはこの本をネタにしたエントリーを上げたいと思う。

それにつけても思うのは、周りを様々な国と接したヨーロッパでは、外交的な駆け引き・戦略は国という形態を保持する上で、必要不可欠であったということだ(駆け引きに遅れを取るとあっという間に飲み込まれてしまう)。そうやって興亡を繰り返してきたのがヨーロッパであった。
それに引き換えと言いたくはないが、やはり島国で江戸時代の300年弱、外国の脅威にさらされることなく、国内統治のみを考えればよかった日本外交の稚拙さは際立つのだなぁ…
しかし、そういう駆け引き・戦略のためにこそ、一本筋の通った原理原則が必要だと思うのだ。
比喩的な言えば、キャッチボールもろくにできないのに変化球を投げようとしても無理な話だ、ということだ(まずは基本・基礎が十分に出来てからの話だ)。
駆け引き・戦略というのは、決して日和見的なあり方ではない。
つまり、強いものの顔色をみて、弱いものに対して居丈高に出ることが戦略や駆け引きではない。
今のところうまく言えないが、いずれは自分の頭の中でまとまれば述べてみたいと思う。

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道徳について(3) 徳治主義の不可能性

道徳について(1) introduction
道徳について(2) 道徳への懐疑の理由(ワケ)(1)
の続きです。

前回はチト風呂敷を広げ過ぎました(それほど大きな飛躍があったとは思っていませんが)。
段階を追って、小さな(身近な)話から大きな話へと繋げていこうと思います。

今回のエントリーでは、前回少し触れた、「目上から目下へと語られる道徳が、社会の統治原理となることはあり得ない(徳治主義はあり得ない)」、ということを述べようと思う(これは道徳なるものへの懐疑の本質的な部分を占めるだろう)。

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道徳について(2) 道徳への懐疑の理由(ワケ)(1)

道徳について(1) introductionの続きです。

なぜquine10が道徳なるものに懐疑的なのか?
それを本エントリーでは述べていきたい。

ただし、本文に入る前にいくつかの留保はつけておきたい。
あらゆる道徳に対して懐疑的なわけではない。
道徳として社会に存在していいものはある(ずいぶん不遜な言い方ですが)。
しかし、僕の考える道徳は、おそらくは現在流通しているものとは似ても似つかぬものになるだろう。
それは道徳と呼ぶよりは倫理と呼んだ方がよいだろうか…
ま、これについてはエントリーを改めて述べることとします。

では、本題へ。

まずは、道徳がどのような社会的文脈で述べられるのか、考えてみたい。
年少者が年長者に道徳的訓示を述べ垂れる、という事態は通常は考えられない。
通常は年長者から年少者へ「説教的に」道徳的訓示が語られる。
親から子へ、上司から部下へ、教師から生徒へ、極めつけは政治家から国民へだ。
あるいは、ワイドショーのコメンテーターから視聴者へ(時にはアナウンサーまでもが道徳的説教を垂れ流してくれる)。

この関係は道徳にとって、結構本質的である(と思う)。
水平的な関係(友人や同僚など)でも道徳的言辞は目にするかな?どうだろう?(経験上は、道徳的説教をやたら語りたがる人は間違いなくいるな)
以下では、「道徳とは一般に目上の者から目下の者へと語られるものである」、という前提で話を進めたい。

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