森元さん
あっ、また広告が出てる…
それはいいとして…
皆さん、ご存知でしたか?
石川県では、朝っぱらから酔っ払って車でコンビニに突っ込んでも、現行犯逮捕されないし、毛髪・尿の検査もされないし、翌日には釈放されて、書類送検らしいです…
まさか、元首相の息子の県議さんだからってことはないですよね…
一応日本は法の下の平等が謳われているはずですし…
石川県は治外法権ってことはないですよね?
一説にはお塩さんの手記発表に動揺しまくったって噂も…
酒じゃなくって、ク○リでラリってたって噂もございますが…
あ、あくまでも噂ですので勘違いなさらぬよう。
えーっと、復帰第一号(?)が、こんなスキャンダルネタでよいのだろうか?
ま、ありってことで。
それはいいとして…
皆さん、ご存知でしたか?
石川県では、朝っぱらから酔っ払って車でコンビニに突っ込んでも、現行犯逮捕されないし、毛髪・尿の検査もされないし、翌日には釈放されて、書類送検らしいです…
まさか、元首相の息子の県議さんだからってことはないですよね…
一応日本は法の下の平等が謳われているはずですし…
石川県は治外法権ってことはないですよね?
一説にはお塩さんの手記発表に動揺しまくったって噂も…
酒じゃなくって、ク○リでラリってたって噂もございますが…
あ、あくまでも噂ですので勘違いなさらぬよう。
えーっと、復帰第一号(?)が、こんなスキャンダルネタでよいのだろうか?
ま、ありってことで。
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あの
生きてました。
ダメっすねぇ、一旦休むと休み癖がついちゃって。
リハビリを兼ねてボチボチやっていきます。
ところで、選挙も終わって10日も過ぎて今更、という感はありますが。
当ブログでも多少は政治的な話もしてきて、今回の政権交代についての感慨もあります。
国民の手で悪政に終止符を打った、今回の総選挙の結果を個人的には嬉しく思います(無血革命と呼ぶに相応しい、と思う)。
しかしいかんせん、自公の悪政によって日本社会はすでにかなりガタがきており、立て直すのは容易ではない(と思う)。
その立て直しまで、国民の辛抱が持つかどうか(あまり性急な結果を求めすぎてもいけないような気がする)。
もちろん、大勝に気が緩まないように、国民がしっかり監視していく必要があるだろうが、新政権は郵政選挙圧勝後の自公政権の末路を間近に見てきただけに、向こう数年間は大丈夫だと思う(しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのもまた人間の悲しいサガではある)。
新政権への注文も色々あるが、個人的には脱官僚(より正確には官僚主導から政治主導)を推し進めてもらいたいものだ。
そのために僕が提言したいのは、天下りや渡りの禁止ももちろんだが、キャリア制度の廃止である。
公的機関、それも国家の中枢機関である官庁において、キャリア/ノンキャリアという形で明らかな身分制度を放置しているのは異常だと思う。
幅広く優秀な人材を登用する、という観点からもキャリア組からだけ幹部を選ぶ、という現在のキャリア制度は不合理以外の何物でもない。
というか、このような制度が、キャリアの小役人どもに、「官僚=国民に奉仕する公僕」ではなく、「官僚=国民に指示・命令するお偉い役人」という勘違いを植え付けるのだろう。
ということで、キャリア制度の廃止、をなにとぞよろしくお願いします(もちろん、天下り全廃も)。
総選挙の総括、というほど大げさではないのですが、ここ10年ほどの政治のあり方から僕なりに教訓を得たいと思う。
小泉氏の前任者、公称(?)キングメーカーの森首相は、麻生氏を上回る(?)低支持率に喘いでいた(選任時のいかがわしさもあったかもしれないが、純粋に政治家の資質の問題だと思う)。
その「サメの脳みそ」森元首相が、首相辞任後も自民党のキングメーカー(?)として君臨してきた事実に、自民党のダメっぷりが凝縮されていると言えよう(自らの組織運営すらまともにできない人たちに、どうやって国民生活をよくすることができるだろうか?)。
そして、自民党支持が急落したところに、「自民党をぶっ壊す」と颯爽と(?)登場したのがかの小泉純一郎氏であった。
今思えば、改革の旗手として各種メディアが持ち上げたのが、強固な地盤に支えられた世襲三代目の小泉氏であったのも皮肉と言えば皮肉である(引退後は息子に禅譲)。
話は変わるが、日本の政治報道のあり方を考えてみたい。
日本の政治報道は政局に偏っている、とよく言われる(し、実際その通りだと思う)。
しかし、それは日本の政治のあり方と密接に関わっている(と思う)。
それを少し述べてみたい。
戦後の日本政治を牛耳ってきたのが自民党だった。
自民党における政治は、派閥による「疑似政権交代」によって、民主主義における(真の)政権交代を代替していた(と言われる)。
しかし、疑似政権交代は、所詮は「疑似」でしかなかった。
その意味は、どの派閥が優位に立とうと、結局のところ自民党が政権にあるという事態には変わりないし、その限りで政策の違いとして現れにくい、ということだ(政治生命をかけて政策の優位性を主張する意義に乏しい)。
政権に居座ることを前提に、権力闘争ごっこをしているに過ぎなかったわけだ(敗れても政権を外れるわけではない)。
従って、自民党が政権にある限り、日本における政治報道が派閥間の駆け引き(すなわち政局)に傾きがち(というかそれしかなかった)のは必然と言えるかもしれない。
その意味で、小泉政権の誕生も、所詮は政局の範囲内の出来事であった(自民党というコップの中の嵐に過ぎなかった)。
そして、今から振り返ってみれば、本来なら下野するはずだった自民党を生きながらえさせたのは、歴史の皮肉だった(ように思う)。
というのも、あの時に下野していれば、ひょっとしたら自民の再生もあり得たかもしれないからだ(公明党との連立も解消しただろうし)。
しかし、あの時、国民の多くは小泉氏(自民党)を支持した(僕もその例外ではなかったかも?)。
「自民党的なるものを否定するために、自民党を支持する」、矛盾に満ちたこのレトリックに国民が飛
びついたのは、メディアによる熱狂ゆえにか、民主党の頼りなさゆえか、日本社会の未熟性ゆえか…
その小泉政権も、所詮は自民党政権(連立ではあるが)でしかなかったわけで(しかもより劣化した)。
疑似政権交代(派閥持ち回り)は(真の)政権交代ではあり得ない、これが小泉政権誕生から得るべき教訓だろう。
民主党政権も、当面はさておいても長期政権になれば必ず腐敗する。
10年後を見据えて、政権交代ができる勢力を育て挙げなければならないだろう(民主党内にではなく)。
そして、その勢力は僕の独断では自民党ではあり得ない。
今回の総選挙で残った面々を眺めても、選挙後のドタバタ喜劇っぷりを見ても、自民党はもはや政党としての体裁をなしていないわけで(烏合の衆)、政権に返り咲くことは二度とないと僕は思う(自民党再生を夢見る人々に対してどうこう言うつもりはないが)。
そんな中で、麻生氏、安倍氏、小泉氏の三氏が盤石の強さを見せたことは、自民党のお笑いネトウヨ政党への脱皮(?)を心から願う僕としては頼もしい限りである(皮肉)。
冗談はさておき。
真の政権交代がなされた現在においても、相も変わらず政局に傾いた報道ばかりであるのも、自民党単独政権時代の名残なのかもしれない(ある意味では止むを得ないのかもしれない)。
しかし、そのような政局主体の報道は、やがて視聴者・購読者から見放されるのではないだろうか?
というのも、コップの中の嵐(政局)は、面白くはあるかもしれないが、所詮は国民の生活とは直接の関わりを持たないからだ(政治は、それによって国民生活に変化をもたらすことで、初めて意味を持つ)。
日本において、政策や理念を重視した語りが少しずつ社会に広がっていくことを願いたい(それが日本の政治的成熟のバロメーターとなるだろう)。
そのためにも、新政権によるメディア改革(記者クラブ開放、独立行政委員会の設置、クロスオーナーシップ規制など)を望みたい。
ということで、選挙前後の雑感をとりあえずまとめて、復活(?)のエントリーを〆たい。
今後は(どの程度の更新頻度になるかはわかりませんが)、少し政治的な話は控えめにして、ブログタイトルを裏切らず思索を巡らせていきたい。
ダメっすねぇ、一旦休むと休み癖がついちゃって。
リハビリを兼ねてボチボチやっていきます。
ところで、選挙も終わって10日も過ぎて今更、という感はありますが。
当ブログでも多少は政治的な話もしてきて、今回の政権交代についての感慨もあります。
国民の手で悪政に終止符を打った、今回の総選挙の結果を個人的には嬉しく思います(無血革命と呼ぶに相応しい、と思う)。
しかしいかんせん、自公の悪政によって日本社会はすでにかなりガタがきており、立て直すのは容易ではない(と思う)。
その立て直しまで、国民の辛抱が持つかどうか(あまり性急な結果を求めすぎてもいけないような気がする)。
もちろん、大勝に気が緩まないように、国民がしっかり監視していく必要があるだろうが、新政権は郵政選挙圧勝後の自公政権の末路を間近に見てきただけに、向こう数年間は大丈夫だと思う(しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのもまた人間の悲しいサガではある)。
新政権への注文も色々あるが、個人的には脱官僚(より正確には官僚主導から政治主導)を推し進めてもらいたいものだ。
そのために僕が提言したいのは、天下りや渡りの禁止ももちろんだが、キャリア制度の廃止である。
公的機関、それも国家の中枢機関である官庁において、キャリア/ノンキャリアという形で明らかな身分制度を放置しているのは異常だと思う。
幅広く優秀な人材を登用する、という観点からもキャリア組からだけ幹部を選ぶ、という現在のキャリア制度は不合理以外の何物でもない。
というか、このような制度が、キャリアの小役人どもに、「官僚=国民に奉仕する公僕」ではなく、「官僚=国民に指示・命令するお偉い役人」という勘違いを植え付けるのだろう。
ということで、キャリア制度の廃止、をなにとぞよろしくお願いします(もちろん、天下り全廃も)。
総選挙の総括、というほど大げさではないのですが、ここ10年ほどの政治のあり方から僕なりに教訓を得たいと思う。
小泉氏の前任者、公称(?)キングメーカーの森首相は、麻生氏を上回る(?)低支持率に喘いでいた(選任時のいかがわしさもあったかもしれないが、純粋に政治家の資質の問題だと思う)。
その「サメの脳みそ」森元首相が、首相辞任後も自民党のキングメーカー(?)として君臨してきた事実に、自民党のダメっぷりが凝縮されていると言えよう(自らの組織運営すらまともにできない人たちに、どうやって国民生活をよくすることができるだろうか?)。
そして、自民党支持が急落したところに、「自民党をぶっ壊す」と颯爽と(?)登場したのがかの小泉純一郎氏であった。
今思えば、改革の旗手として各種メディアが持ち上げたのが、強固な地盤に支えられた世襲三代目の小泉氏であったのも皮肉と言えば皮肉である(引退後は息子に禅譲)。
話は変わるが、日本の政治報道のあり方を考えてみたい。
日本の政治報道は政局に偏っている、とよく言われる(し、実際その通りだと思う)。
しかし、それは日本の政治のあり方と密接に関わっている(と思う)。
それを少し述べてみたい。
戦後の日本政治を牛耳ってきたのが自民党だった。
自民党における政治は、派閥による「疑似政権交代」によって、民主主義における(真の)政権交代を代替していた(と言われる)。
しかし、疑似政権交代は、所詮は「疑似」でしかなかった。
その意味は、どの派閥が優位に立とうと、結局のところ自民党が政権にあるという事態には変わりないし、その限りで政策の違いとして現れにくい、ということだ(政治生命をかけて政策の優位性を主張する意義に乏しい)。
政権に居座ることを前提に、権力闘争ごっこをしているに過ぎなかったわけだ(敗れても政権を外れるわけではない)。
従って、自民党が政権にある限り、日本における政治報道が派閥間の駆け引き(すなわち政局)に傾きがち(というかそれしかなかった)のは必然と言えるかもしれない。
その意味で、小泉政権の誕生も、所詮は政局の範囲内の出来事であった(自民党というコップの中の嵐に過ぎなかった)。
そして、今から振り返ってみれば、本来なら下野するはずだった自民党を生きながらえさせたのは、歴史の皮肉だった(ように思う)。
というのも、あの時に下野していれば、ひょっとしたら自民の再生もあり得たかもしれないからだ(公明党との連立も解消しただろうし)。
しかし、あの時、国民の多くは小泉氏(自民党)を支持した(僕もその例外ではなかったかも?)。
「自民党的なるものを否定するために、自民党を支持する」、矛盾に満ちたこのレトリックに国民が飛
びついたのは、メディアによる熱狂ゆえにか、民主党の頼りなさゆえか、日本社会の未熟性ゆえか…
その小泉政権も、所詮は自民党政権(連立ではあるが)でしかなかったわけで(しかもより劣化した)。
疑似政権交代(派閥持ち回り)は(真の)政権交代ではあり得ない、これが小泉政権誕生から得るべき教訓だろう。
民主党政権も、当面はさておいても長期政権になれば必ず腐敗する。
10年後を見据えて、政権交代ができる勢力を育て挙げなければならないだろう(民主党内にではなく)。
そして、その勢力は僕の独断では自民党ではあり得ない。
今回の総選挙で残った面々を眺めても、選挙後のドタバタ喜劇っぷりを見ても、自民党はもはや政党としての体裁をなしていないわけで(烏合の衆)、政権に返り咲くことは二度とないと僕は思う(自民党再生を夢見る人々に対してどうこう言うつもりはないが)。
そんな中で、麻生氏、安倍氏、小泉氏の三氏が盤石の強さを見せたことは、自民党のお笑いネトウヨ政党への脱皮(?)を心から願う僕としては頼もしい限りである(皮肉)。
冗談はさておき。
真の政権交代がなされた現在においても、相も変わらず政局に傾いた報道ばかりであるのも、自民党単独政権時代の名残なのかもしれない(ある意味では止むを得ないのかもしれない)。
しかし、そのような政局主体の報道は、やがて視聴者・購読者から見放されるのではないだろうか?
というのも、コップの中の嵐(政局)は、面白くはあるかもしれないが、所詮は国民の生活とは直接の関わりを持たないからだ(政治は、それによって国民生活に変化をもたらすことで、初めて意味を持つ)。
日本において、政策や理念を重視した語りが少しずつ社会に広がっていくことを願いたい(それが日本の政治的成熟のバロメーターとなるだろう)。
そのためにも、新政権によるメディア改革(記者クラブ開放、独立行政委員会の設置、クロスオーナーシップ規制など)を望みたい。
ということで、選挙前後の雑感をとりあえずまとめて、復活(?)のエントリーを〆たい。
今後は(どの程度の更新頻度になるかはわかりませんが)、少し政治的な話は控えめにして、ブログタイトルを裏切らず思索を巡らせていきたい。
静岡県知事選雑感 民主主義と希望など
本日は政局だ。
先日の静岡県知事選の結果ですが、保守王国(らしい)の静岡県で、かつ実質的な民主分裂選挙で自公推薦の候補者が敗れる、という事実もさることながら、投票率の高さ(45%→60%と、15%アップ)から市民の政権交代への揺るぎない意思を感じ取るのは僕だけではないはずだ(多分)。
ま、自公の負けを認めたくない人は、「国政と地方選挙は別だ!」と言い張るのでしょうが…
しかもこの間、某県知事騒動と鳩山代表でメディアジャックしていた(一方で、より悪質な与謝野氏の件スルーであった)にもかかわらず、だ。
つまり、客観的に見れば政権交代の情勢はもはや動かしようがない(ように僕には思える)。
民主党(を含む野党連合)が策を弄する必要はないし、自公は策を弄すれば弄するほど逆効果(貧すれば鈍する)、というのもまた明らかになったと思われる。
ま、自民の党内政局がウザいので、都議選が終わったころに内閣不信任案を出す、というのは一興だろう。
さて、ここで悪徳ペンタゴン(by 植草氏)の一角である、政と官と電(メディア)の出方に少し違いが出てきそうに思われる。
政(自公)は、どのみち野に下ることが確定的であれば、どれほど見苦しくても最後まであがき続けるだろう(それがさらに人心を離反させることを知ってか知らずか…)。
ま、自公のような反民主的政党は、早めに壊滅したほうが日本のためなので、別にそれを止めさせようとは思いませんが(毒を食らわば皿まで、でお願いします)。
電(メディア)も実質的には政(自公)と同様の心境だろう。
どれだけ民主党(を含む野党連合)に尻尾振ったところで、記者クラブ開放(に伴う既得権の喪失)は避けがたい。
となれば、どれほど無駄と知りつつも、現政権に媚を売り続けるのだろう(それが人心をさらに離反させることを知ってか知らずか…)。
というか、権力に媚を売る時点で、メディア(ジャーナリズム)としてはアウト(存在価値なし)なんですけどね(それすら分からないメディアは、逝ってよし、でしょうか)。
ところが、官は政・電とは微妙に立場を異にする。
つまり、政権交代をしても、官僚は官僚の立場を離れるわけではないのだ。
大多数(全て?)の官僚たちは、民主党(を含む野党連合)に政権交代したとして、その政権に引き続き仕えるわけだ。
したがって、(政権交代後の)新政権でより有利なポジションにつきたければ(ほとんどの官僚がそう思うだろう)、(政権交代が確実と見えれば)早めに野党連合に媚を売ったほうがよい(そういうインセンティブが働きやすい)。
まぁ、「自公の政策じゃなきゃ絶対に支持できない」と考えている官僚がもしいるとすれば、政権交代と同時に辞表を提出するだろう(そのような気概を持った官僚がいるとは、僕にはとても思えないのだが)。
つまり、「日本国民の幸福よりも自分の保身第一」の官僚は、悪徳ペンタゴン没落チキンレースからいち早く抜け出すインセンティブを有しているわけだ。
そう考えると、鳩山氏の問題で検察の動きが鈍いのも分かるような…(考えすぎかも?)
検察といえども官僚であり、政権交代すれば民主党議員達は、(間接的な)上司に当たるわけだ(議院内閣制の本義からすれば)。
まぁ、与野党同等の(=公正な)捜査・逮捕がなされているならまだしも、将来上司になることがほぼ確定的な民主党(しかも党代表)だけを狙い撃ちするような露骨な捜査・逮捕は今後難しくなるだろう(天下り先をがっちり確保できる人間は別かもしれませんが…)。
漆間官房副長官の、「自民党には捜査が及ばない」という言質があるから、与謝野氏の捜査には及びがたいのかもしれませんが、与謝野氏スルーの鳩山氏狙い撃ちはさすがに露骨過ぎてできないように思われるが…
ところでその与謝野氏ですが、静岡県知事選の結果を受けて、次のようにのたまったようですね(閣僚は都議選応援を=静岡知事選敗北に危機感-麻生首相より)。
いやぁ、ここまで「自分第一」を表明してくれると、却ってスガスガしいわ(んなわきゃないが)
一応突っ込んでおくと…
「アンタは自分の運命を心配する前に、大臣室で仲良く写真を撮った社長さんから、迂回献金をたんまりもらったことをしっかり説明して頂戴」ってところかな?
ほとんど説明らしい説明をしていない与謝野氏がこうやって大っぴらに発言できるのも、やっぱり漆間氏の上の言質(「自民党には捜査が及ばない」)が効いているのかなぁ?
さて、政局からやや離れてと。
日本人(に限らないのかもしれないが)はよく、「選挙に行っても政治は変わらない」という。
それは、市民社会の未発達ゆえの、市民の責任感の欠如でもある。
まぁ、自力で民主主義を勝ち取ったわけではない日本人にとっては、そのように考えるのもやむを得ないのかもしれないが。
しかし、2007年の参議院選から始まって、横須賀市長選、静岡県知事選などを見ると、「選挙でひょっとしたら政治は変わるかも?」という期待感が芽生えているようにも思われる。
そして、社会を動かすのはこの期待感に他ならない。
「期待感が(投票)行動を促し、それが現実を変え、更なる(投票)行動を促す」という具合に、ポジティブフィードバックが働いているように思われる(それが民主主義社会の希望の一形態だろう)。
よくよく考えれば期待感などはアテにはならないのだが、しかし民主主義はその期待感に基づいている(オバマを誕生させたのも、その期待感に他ならない)。
だからこそ、その期待感を失望に変えないように、政権は公約を実行する必要がある(し、市民はそれを監視する責任を有する)。
「政権交代をすれば万々歳というわけではないが、政権交代がなければ何も始まらない」
民主主義社会に住む以上は、この民主主義のアタリマエを皆が自覚する必要があるだろう(ここ最近の動きはやっとそのアタリマエが定着してきた証なのかもしれない)。
これは、民主主義社会にとっては希望だと思われるが、そこに閉塞感を感じる御仁もいるらしい。
んー、そういう人は民主主義者ではないと僕は思うし、少なくともリベラルではないと断言する。
先日の静岡県知事選の結果ですが、保守王国(らしい)の静岡県で、かつ実質的な民主分裂選挙で自公推薦の候補者が敗れる、という事実もさることながら、投票率の高さ(45%→60%と、15%アップ)から市民の政権交代への揺るぎない意思を感じ取るのは僕だけではないはずだ(多分)。
ま、自公の負けを認めたくない人は、「国政と地方選挙は別だ!」と言い張るのでしょうが…
しかもこの間、某県知事騒動と鳩山代表でメディアジャックしていた(一方で、より悪質な与謝野氏の件スルーであった)にもかかわらず、だ。
つまり、客観的に見れば政権交代の情勢はもはや動かしようがない(ように僕には思える)。
民主党(を含む野党連合)が策を弄する必要はないし、自公は策を弄すれば弄するほど逆効果(貧すれば鈍する)、というのもまた明らかになったと思われる。
ま、自民の党内政局がウザいので、都議選が終わったころに内閣不信任案を出す、というのは一興だろう。
さて、ここで悪徳ペンタゴン(by 植草氏)の一角である、政と官と電(メディア)の出方に少し違いが出てきそうに思われる。
政(自公)は、どのみち野に下ることが確定的であれば、どれほど見苦しくても最後まであがき続けるだろう(それがさらに人心を離反させることを知ってか知らずか…)。
ま、自公のような反民主的政党は、早めに壊滅したほうが日本のためなので、別にそれを止めさせようとは思いませんが(毒を食らわば皿まで、でお願いします)。
電(メディア)も実質的には政(自公)と同様の心境だろう。
どれだけ民主党(を含む野党連合)に尻尾振ったところで、記者クラブ開放(に伴う既得権の喪失)は避けがたい。
となれば、どれほど無駄と知りつつも、現政権に媚を売り続けるのだろう(それが人心をさらに離反させることを知ってか知らずか…)。
というか、権力に媚を売る時点で、メディア(ジャーナリズム)としてはアウト(存在価値なし)なんですけどね(それすら分からないメディアは、逝ってよし、でしょうか)。
ところが、官は政・電とは微妙に立場を異にする。
つまり、政権交代をしても、官僚は官僚の立場を離れるわけではないのだ。
大多数(全て?)の官僚たちは、民主党(を含む野党連合)に政権交代したとして、その政権に引き続き仕えるわけだ。
したがって、(政権交代後の)新政権でより有利なポジションにつきたければ(ほとんどの官僚がそう思うだろう)、(政権交代が確実と見えれば)早めに野党連合に媚を売ったほうがよい(そういうインセンティブが働きやすい)。
まぁ、「自公の政策じゃなきゃ絶対に支持できない」と考えている官僚がもしいるとすれば、政権交代と同時に辞表を提出するだろう(そのような気概を持った官僚がいるとは、僕にはとても思えないのだが)。
つまり、「日本国民の幸福よりも自分の保身第一」の官僚は、悪徳ペンタゴン没落チキンレースからいち早く抜け出すインセンティブを有しているわけだ。
そう考えると、鳩山氏の問題で検察の動きが鈍いのも分かるような…(考えすぎかも?)
検察といえども官僚であり、政権交代すれば民主党議員達は、(間接的な)上司に当たるわけだ(議院内閣制の本義からすれば)。
まぁ、与野党同等の(=公正な)捜査・逮捕がなされているならまだしも、将来上司になることがほぼ確定的な民主党(しかも党代表)だけを狙い撃ちするような露骨な捜査・逮捕は今後難しくなるだろう(天下り先をがっちり確保できる人間は別かもしれませんが…)。
漆間官房副長官の、「自民党には捜査が及ばない」という言質があるから、与謝野氏の捜査には及びがたいのかもしれませんが、与謝野氏スルーの鳩山氏狙い撃ちはさすがに露骨過ぎてできないように思われるが…
ところでその与謝野氏ですが、静岡県知事選の結果を受けて、次のようにのたまったようですね(閣僚は都議選応援を=静岡知事選敗北に危機感-麻生首相より)。
与謝野馨財務・金融相は「わたしの運命に大きな影響がある」と危機感をあらわにし
いやぁ、ここまで「自分第一」を表明してくれると、却ってスガスガしいわ(んなわきゃないが)
一応突っ込んでおくと…
「アンタは自分の運命を心配する前に、大臣室で仲良く写真を撮った社長さんから、迂回献金をたんまりもらったことをしっかり説明して頂戴」ってところかな?
ほとんど説明らしい説明をしていない与謝野氏がこうやって大っぴらに発言できるのも、やっぱり漆間氏の上の言質(「自民党には捜査が及ばない」)が効いているのかなぁ?
さて、政局からやや離れてと。
日本人(に限らないのかもしれないが)はよく、「選挙に行っても政治は変わらない」という。
それは、市民社会の未発達ゆえの、市民の責任感の欠如でもある。
まぁ、自力で民主主義を勝ち取ったわけではない日本人にとっては、そのように考えるのもやむを得ないのかもしれないが。
しかし、2007年の参議院選から始まって、横須賀市長選、静岡県知事選などを見ると、「選挙でひょっとしたら政治は変わるかも?」という期待感が芽生えているようにも思われる。
そして、社会を動かすのはこの期待感に他ならない。
「期待感が(投票)行動を促し、それが現実を変え、更なる(投票)行動を促す」という具合に、ポジティブフィードバックが働いているように思われる(それが民主主義社会の希望の一形態だろう)。
よくよく考えれば期待感などはアテにはならないのだが、しかし民主主義はその期待感に基づいている(オバマを誕生させたのも、その期待感に他ならない)。
だからこそ、その期待感を失望に変えないように、政権は公約を実行する必要がある(し、市民はそれを監視する責任を有する)。
「政権交代をすれば万々歳というわけではないが、政権交代がなければ何も始まらない」
民主主義社会に住む以上は、この民主主義のアタリマエを皆が自覚する必要があるだろう(ここ最近の動きはやっとそのアタリマエが定着してきた証なのかもしれない)。
これは、民主主義社会にとっては希望だと思われるが、そこに閉塞感を感じる御仁もいるらしい。
んー、そういう人は民主主義者ではないと僕は思うし、少なくともリベラルではないと断言する。
感情の相対化について 「強欲」をめぐって
またもや私事ですが、一昨日めでたく(?)10000アクセスを超えました(パチパチ)。
7月初旬ごろにカウンター設置の記載があるから、約一年で一万越えです(メジャーブログは1日で難なくクリアしますが何か?)。
10000÷365≒27.4人/日のアクセスということですね…
吹けば飛ぶような弱小ブログではありますが、好き勝手書きながら続けていく所存であります。
では、本題へ。
感情の相対化についての応用編になります。
直接的には生と死について(あるいは脳死移植について)の続きになります。
以前もリンクした、愚樵空論さんのそれもまた「強欲」なのではないだろうか?というエントリーをめぐって、コメント欄および他のブログも参加してのちょっとした(?)議論が巻き起こっています(ここでは流れについては追いませんので、各自で語確認ください)。
ま、某騒動よりはよっぽど生産的かな、と思いますけど(個人的には)。
それはさておき。
「強欲」とは何だろうか?
あるいは、私たちは何をもって「強欲」と見做す「べき」だろうか?
一応お約束として辞書を引いておきますと(強欲 by 大辞泉)。
『強欲資本主義 ウォール街の自爆』という本も参考になるかもしれません。
非常にというかなり主観的な表現が入っているところがミソでしょうか(主観的であるがゆえに、何を持って「強欲」と見做すか、が個人的な感性に委ねられる)。
欲は誰もが持っている、しかし、非常な欲(=強欲)はごく一部の人たちだけが持っている、というイメージ(その根底には欲それ自体が望ましくないもの、との見做しがあるのかもしれない)。
こうして、ごく一部の(例外の)人たちが持っている、非常な欲(=強欲)が悪しきものとしてイメージされる。
そうであるがゆえに、「強欲」と名指しされれば、あるいは直接名指しされなくても自分が当てはまるものを「強欲」と指摘されれば、脊髄反射的に感情的に反発する。
僕流にいえば、この感情的な反発自体が、感情の相対化ができていない証なのである。
しかし、「強欲」と直接名指しされれば、感情が昂ぶるのはある程度止むを得ないかもしれない(それゆえ、相手をカッカさせたい場合は、名指ししてレッテル貼りをするのが手っ取り早い)。
逆に、「強欲」の自覚を促そうとするなら、相手を名指しすることなく(つまり、一般論的に)「強欲」を述べる必要がある(戦略が必要になる)。
しかし、それであっても感情的反発はなかなかに避け難い(「強欲」と名指されたものが個人の中心的な価値であればあるほど)。
であれば、戦略としては逆の道を取ることもあり得る。
つまり、「強欲」を人間にとって避け難い性(さが)として提示することである。
それが万人にとって反論困難なものであれば、人は自らを「強欲」を備えたものとして自覚せざるを得ない。
しかし、仮に万人が「強欲」であるとして、それを指摘することに一体どれほどの意味があるだろうか?(言い換えれば、人間は誰しも息をしている、という事実の指摘以上の意味合いはあるのだろうか?)
僕はあると言いたい。
つまり、人間のごく一部ではなく、(ごく一部の例外がいるにしても)殆ど全てが「強欲」であっても、それを指摘すること(ひいては人々に自らの強欲の「自覚」を促すこと)には意味(≒メリット)があると言いたい。
では人々が自らの「強欲」を自覚することのメリットとは何か?
それは他でもない。
正義を背負ってエラッソウな発言をすることに、一定の自制をかけ得る。
自らを強欲な人間との自覚を有している人間は、単純な正義をあてにすることはもはやできないだろうから(単純)。
逆に言えば、単純な正義を後ろ盾にしてエラッソウな発言をする人物を、自らの強欲さに自覚のない人物としてあぶり出すことが可能になる。
それがそんなに意味のあることか?と疑問に思う人もいるだろう。
僕は、それだけでも社会は随分風通しのよいものになると思う。
自らの「強欲」という性(さが)を自覚した人間は、他者の行為にあれこれ口出しすることはなくなるだろう(多分)。
というのも、自分は「強欲」などとは無縁だ(穢れのない正しい人間だ)と思っているから、他者の行為に介入しようとするのだろうから(某騒動に限らずウンザリするほど見慣れた風景だが)。
しかし、「強欲」の自覚が風通しのよい社会を作り出すとして、では、肝心の人間一般の「強欲」をどう描けばよいだろうか?
例えば、人間の歴史を振り返ってみればどうだろう?
人間の歴史は、戦争(より控えめに言っても争い)の歴史と言っても過言ではない(というか、歴史を学ぶ意義はそこにこそあると思うのだが)。
戦争とは、自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為(の一バリエーション)、と言ってもよいだろう。
ま、ウヨクの方々は「国を守る神聖な行為だ!」との念仏を唱えてくれるのかもしれませんが…
国の歴史もまた戦争の歴史である。
戦争によって命を亡くした膨大な犠牲の上に辛うじて成り立つのが国家である(神聖どころか血塗られているのが国家の宿命である)。
「だから国家をなくせ」、と言いたいわけではない(一応、僕自身はアナーキズムとは縁を切ったつもりである)。
国家を「神聖なもの」として、国家への犠牲を強いるような「強欲」を批判・非難したいだけである。
えー、ちょっとズレました。
自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為を「強欲」とするなら、脳死と「科学的に」判定された個体にメスを入れ、それなくしては生命を維持できない臓器をその個体から奪うことは「強欲」と呼ばずに一体なんと呼べるだろうか?
しかし、それを「強欲」と呼ぶとして、強欲だから止めろ、と言いたいわけでもない。
せめて、そのような行為が「強欲」であるとの認識は万人に有してほしい。
先にも言ったが、所詮人間は「強欲」な生き物である(その人間がもし滅ぶことがあるとしたら、「強欲」ゆえに、だと思っている)。
だとしたら、「強欲」を脱却しようとしても無駄なのかもしれない(そのような努力を否定するのではないが)。
より穏当なのは、人間の「強欲」を認めつつも、その「強欲」が他者を傷つけることがないような制度設計を工夫していくことだと思う。
その意味で、新自由主義(=市場原理主義)という制度設計は、強欲が他者を傷つけることを野放しにしたタチの悪い制度であったと言えるだろう(まさに強欲資本主義であった)。
まとまりに欠けますが、「強欲」をめぐっての雑感でした。
7月初旬ごろにカウンター設置の記載があるから、約一年で一万越えです(メジャーブログは1日で難なくクリアしますが何か?)。
10000÷365≒27.4人/日のアクセスということですね…
吹けば飛ぶような弱小ブログではありますが、好き勝手書きながら続けていく所存であります。
では、本題へ。
感情の相対化についての応用編になります。
直接的には生と死について(あるいは脳死移植について)の続きになります。
以前もリンクした、愚樵空論さんのそれもまた「強欲」なのではないだろうか?というエントリーをめぐって、コメント欄および他のブログも参加してのちょっとした(?)議論が巻き起こっています(ここでは流れについては追いませんので、各自で語確認ください)。
ま、某騒動よりはよっぽど生産的かな、と思いますけど(個人的には)。
それはさておき。
「強欲」とは何だろうか?
あるいは、私たちは何をもって「強欲」と見做す「べき」だろうか?
一応お約束として辞書を引いておきますと(強欲 by 大辞泉)。
ごう‐よく【強欲/強慾】
[名・形動]非常に欲が深いこと。また、そのさま。「―な高利貸し」「―非道」[派生] ごうよくさ[名]
『強欲資本主義 ウォール街の自爆』という本も参考になるかもしれません。
非常にというかなり主観的な表現が入っているところがミソでしょうか(主観的であるがゆえに、何を持って「強欲」と見做すか、が個人的な感性に委ねられる)。
欲は誰もが持っている、しかし、非常な欲(=強欲)はごく一部の人たちだけが持っている、というイメージ(その根底には欲それ自体が望ましくないもの、との見做しがあるのかもしれない)。
こうして、ごく一部の(例外の)人たちが持っている、非常な欲(=強欲)が悪しきものとしてイメージされる。
そうであるがゆえに、「強欲」と名指しされれば、あるいは直接名指しされなくても自分が当てはまるものを「強欲」と指摘されれば、脊髄反射的に感情的に反発する。
僕流にいえば、この感情的な反発自体が、感情の相対化ができていない証なのである。
しかし、「強欲」と直接名指しされれば、感情が昂ぶるのはある程度止むを得ないかもしれない(それゆえ、相手をカッカさせたい場合は、名指ししてレッテル貼りをするのが手っ取り早い)。
逆に、「強欲」の自覚を促そうとするなら、相手を名指しすることなく(つまり、一般論的に)「強欲」を述べる必要がある(戦略が必要になる)。
しかし、それであっても感情的反発はなかなかに避け難い(「強欲」と名指されたものが個人の中心的な価値であればあるほど)。
であれば、戦略としては逆の道を取ることもあり得る。
つまり、「強欲」を人間にとって避け難い性(さが)として提示することである。
それが万人にとって反論困難なものであれば、人は自らを「強欲」を備えたものとして自覚せざるを得ない。
しかし、仮に万人が「強欲」であるとして、それを指摘することに一体どれほどの意味があるだろうか?(言い換えれば、人間は誰しも息をしている、という事実の指摘以上の意味合いはあるのだろうか?)
僕はあると言いたい。
つまり、人間のごく一部ではなく、(ごく一部の例外がいるにしても)殆ど全てが「強欲」であっても、それを指摘すること(ひいては人々に自らの強欲の「自覚」を促すこと)には意味(≒メリット)があると言いたい。
では人々が自らの「強欲」を自覚することのメリットとは何か?
それは他でもない。
正義を背負ってエラッソウな発言をすることに、一定の自制をかけ得る。
自らを強欲な人間との自覚を有している人間は、単純な正義をあてにすることはもはやできないだろうから(単純)。
逆に言えば、単純な正義を後ろ盾にしてエラッソウな発言をする人物を、自らの強欲さに自覚のない人物としてあぶり出すことが可能になる。
それがそんなに意味のあることか?と疑問に思う人もいるだろう。
僕は、それだけでも社会は随分風通しのよいものになると思う。
自らの「強欲」という性(さが)を自覚した人間は、他者の行為にあれこれ口出しすることはなくなるだろう(多分)。
というのも、自分は「強欲」などとは無縁だ(穢れのない正しい人間だ)と思っているから、他者の行為に介入しようとするのだろうから(某騒動に限らずウンザリするほど見慣れた風景だが)。
しかし、「強欲」の自覚が風通しのよい社会を作り出すとして、では、肝心の人間一般の「強欲」をどう描けばよいだろうか?
例えば、人間の歴史を振り返ってみればどうだろう?
人間の歴史は、戦争(より控えめに言っても争い)の歴史と言っても過言ではない(というか、歴史を学ぶ意義はそこにこそあると思うのだが)。
戦争とは、自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為(の一バリエーション)、と言ってもよいだろう。
ま、ウヨクの方々は「国を守る神聖な行為だ!」との念仏を唱えてくれるのかもしれませんが…
国の歴史もまた戦争の歴史である。
戦争によって命を亡くした膨大な犠牲の上に辛うじて成り立つのが国家である(神聖どころか血塗られているのが国家の宿命である)。
「だから国家をなくせ」、と言いたいわけではない(一応、僕自身はアナーキズムとは縁を切ったつもりである)。
国家を「神聖なもの」として、国家への犠牲を強いるような「強欲」を批判・非難したいだけである。
えー、ちょっとズレました。
自らの利益(欲)のために他者の生命を奪う行為を「強欲」とするなら、脳死と「科学的に」判定された個体にメスを入れ、それなくしては生命を維持できない臓器をその個体から奪うことは「強欲」と呼ばずに一体なんと呼べるだろうか?
しかし、それを「強欲」と呼ぶとして、強欲だから止めろ、と言いたいわけでもない。
せめて、そのような行為が「強欲」であるとの認識は万人に有してほしい。
先にも言ったが、所詮人間は「強欲」な生き物である(その人間がもし滅ぶことがあるとしたら、「強欲」ゆえに、だと思っている)。
だとしたら、「強欲」を脱却しようとしても無駄なのかもしれない(そのような努力を否定するのではないが)。
より穏当なのは、人間の「強欲」を認めつつも、その「強欲」が他者を傷つけることがないような制度設計を工夫していくことだと思う。
その意味で、新自由主義(=市場原理主義)という制度設計は、強欲が他者を傷つけることを野放しにしたタチの悪い制度であったと言えるだろう(まさに強欲資本主義であった)。
まとまりに欠けますが、「強欲」をめぐっての雑感でした。
生と死について(あるいは脳死移植について)
本日二つ目のエントリーになります。
一応コチラがメイン(のつもり)。
僕がよく伺う愚樵空論というブログで、脳死臓器移植に関連してエントリーが立て続けに挙げられ(それもまた「強欲」なのではないだろうか?(コメント欄では強欲という表現をめぐってちょっとした議論になっていますが…)、「いのちは闇の中のまたたく光だ!」、「私」でも「あなた」でもないものになる)そこでのコメントも含めていくつか思ったことがあるので書いてみよう。
といっても、本エントリーは何らかの問題提起を目指すものではありません(そのように読まれることを拒絶もしませんが)。
というより、この手の問題に関わる苦悩は、この手の問題を議論の遡上に乗せなければならない、という事実にあるのかもしれません。
「ある問題を議論の遡上に乗せる」ということは、「その問題が公的な性質を帯びる」ということにならざるを得ません。
しかし、その問題が徹頭徹尾「私的な問題」であるとしたら?
どこまでいっても「個人で解決しなければならない性質の問題」だとしたら?
脳死移植をめぐる問題、あるいは生と死に関する問題は、そのような問題なのかもしれない。
ともあれ、本題へ進めてみよう。
私たちは、事実として既に生を生きてしまっている。
それが私たちの生との出会い(?)である。
いや、この表現は不正確かもしれない。
死という存在を意識することにより、初めて生が意識される、といったほうが正確だろう。
なんとなく、ハイデガーの実存哲学っぽくなってきたような気もしますが…
池田晶子氏風に言えば、「私たちは永遠に死を経験することができない。すなわち、私たちはどこまで行っても生を生きるほかない(死んだ瞬間に経験の主体も消え去るわけだから)。」、ということになるだろうか。つまり、「私たちは死ぬまで生き続ける(という表現はトートロジーでしかないのだが)」。
「私たちが経験するのは他者の死である他はない」と言い換えてもよいだろう。
しかし、このことは逆に言っても同じのような気もする。
すなわち、「私たちが経験するのは死だけである(私たちは永遠に生を経験することはできない)」、と(というのも、私たちは気がついたときには既に生きてしまっているのだから)。
ま、ジョーシキには反するでしょうが。
よりジョーシキにマッチする言い方をするなら、「生は死による逆照射によって、(初めて)その意味を帯びることができる」、ということになるだろうか。
その見方からすれば、逆説的だが、周りでバタバタ死人が出るような社会の方が、生をよりリアルなものとして感じられることになる(そのような社会が望ましい、と言いたいわけではないのだが)。
やや俗っぽいが、「現代においては生が希薄である」、という表現にもしリアリティがあるとしたら、その辺の事情が関係しているのかもしれない。
ところで、脳死(移植)の問題である。
脳死の問題は100%移植の問題であり、それは生死の問題ではない(と言い切っていいのか?)。
というか、脳死というものが仮にあったとしても(現にあるとしても)、特殊な状況以外では問題にならない。
というのも、特殊な状況以外では、脳死は必然的に(短時間のうちに)死へと向かわざるを得ないからだ(脳死→呼吸停止→心停止)。
特殊な状況というのが、人工呼吸器による(強制的)呼吸、という状況下である(先の脳死→呼吸停止という流れが阻害される)。
つまり、脳死の問題とは、「脳機能が全般的に不可逆的に損なわれたにもかかわらず(?)、人工呼吸器の補助により他の臓器がほぼ無傷で保たれている個体(それは一定の割合で生み出される)をどう扱うか?」、という極めて現実的(かつ現代的な)な問題なのである。
もちろん、脳死個体も、他の全ての個体と同様に、必ず心臓死(いわゆる死)へと至る。
それをもって死と見做す、という私たちの多くの死生観にマッチした道を選ぶことも可能だろう(もちろん、それをもって、脳死を死と見做してはならない、ことにはならないのだが)。
しかし、脳死問題の本質は、脳死個体においては他の臓器(少なくとも一部の臓器)はほぼ無傷で保たれており、それゆえ、ある臓器の提供を受ければ生き延びることができる人が少なからず存在する、という事実にある。
この一文、当事者の心情を全く顧みていない、という事に関しては批判を甘受いたします。
ところで、「脳死=人の死」という等号にはいくつかの前提が存在すると思われる。
それを思いつくまま書き上げてみる。
1.脳死という現象(診断)は脳の全般的ダメージという事実と対応している(つまり、脳死という状態は客観的に評価可能である)。
2.脳の全般的ダメージは不可逆的である(それゆえ、脳死という表現が用いられる)。
3.人の死とは人の人格的な死を意味している(この場合の人格とは刺激に対する反応、という極原初的なレベルも含む)。
4.人格は脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している。
1-4より、脳死と診断された個体は人格の死をむかえており、それは死んでいるということに他ならない。
ここで前提4に関しては、脳科学やそれに基づく認知科学の発展の貢献が大きいと思われる。
つまり、脳科学やそれに基づく認知科学の発展が、人間の人格が脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している、という信念を人々にもたらしたと思われる。
そのような目で昨今の脳ブームを振り返ると、何か意味深な気も…(さすがにそれは考えすぎでしょうが)
しかし、「科学が脳死と人の死を等しく見せているから『脳死=人の死』だ!」と見做すとすれば、それはある種の科学主義に他ならない。
しかし、私たちが脳死問題へ直面したのも歴史の必然なのかもしれない、とも思う。
私たちの生を規定しているのは、間違いなく生権力とフーコーが呼ぶものである(つまり、生死という極めて個人的な領域が、既にして政治の問題であるわけだ)。
その象徴が、私たちの多く(殆ど全て)が病院において生を受け、病院において死を迎える、という事実である。
つまり、病院(あるいは医療)というテクノロジカルな領域において、私たちの生死の象徴的な部分が支配されている(繰り返すが、そのことが悪いと言いたいわけでもない)。
私たちは生に執着する。
身も蓋もない言い方をすれば、「生に執着する個体のみが(進化の過程で)適応的であった」と言ってもよい。
そして、生への執着とテクノロジーの発展(と人々を助けようとする善意)が、人工呼吸器という医療器械を生み出し、その結果一定の割合で脳死状態の個体を生み出したのは歴史の必然と言えるのかもしれない(振り返って言えば、という後知恵バイアスに思いっきり依存した言い方ですが)。
もちろん、人工呼吸器によって救われた生命もまた数多くある(今後も数多くあるだろう)、ということも強調しなければならないのだが。
私たち人類を生み出した母なる自然は、同時に残酷でもある。
同種の個体からの移植を受けなければ、生き長らえることができない個体がある一定の割合で生み出される。
もちろん、臓器移植というテクノロジーが誕生する前は、その臓器の不全は必然的に死を意味していた。
しかし、生体間の臓器移植、さらには脳死体からの臓器移植が行えるようになった(つまり、臓器の不全が必ずしも死を意味しなくなった)。
先の脳科学の発展とも相まって、脳死移植が浮上するのも必然と言えよう。
それに対して、僕自身は何らかの歯止めをかけようとも思わない(し、何らかの歯止めをかけようとする人を非難・批判しようとも思わない)。
しかし、脳死移植問題において再び私たちが直面したように、私たちが「私的な領域」と思い込んでいた生死の問題もまた政治・テクノロジーの問題として浮上せざるを得ないのだ(そのような時代に生まれ落ちたわけだ)。
少なくともそのような事態に自覚的ではありたいと思う。
以上、冒頭にも述べた通り、何らかの問題提起を意図しているものではありませんが、生と死、あるいは脳死移植に関して思ったことを述べまてみました。
一応コチラがメイン(のつもり)。
僕がよく伺う愚樵空論というブログで、脳死臓器移植に関連してエントリーが立て続けに挙げられ(それもまた「強欲」なのではないだろうか?(コメント欄では強欲という表現をめぐってちょっとした議論になっていますが…)、「いのちは闇の中のまたたく光だ!」、「私」でも「あなた」でもないものになる)そこでのコメントも含めていくつか思ったことがあるので書いてみよう。
といっても、本エントリーは何らかの問題提起を目指すものではありません(そのように読まれることを拒絶もしませんが)。
というより、この手の問題に関わる苦悩は、この手の問題を議論の遡上に乗せなければならない、という事実にあるのかもしれません。
「ある問題を議論の遡上に乗せる」ということは、「その問題が公的な性質を帯びる」ということにならざるを得ません。
しかし、その問題が徹頭徹尾「私的な問題」であるとしたら?
どこまでいっても「個人で解決しなければならない性質の問題」だとしたら?
脳死移植をめぐる問題、あるいは生と死に関する問題は、そのような問題なのかもしれない。
ともあれ、本題へ進めてみよう。
私たちは、事実として既に生を生きてしまっている。
それが私たちの生との出会い(?)である。
いや、この表現は不正確かもしれない。
死という存在を意識することにより、初めて生が意識される、といったほうが正確だろう。
なんとなく、ハイデガーの実存哲学っぽくなってきたような気もしますが…
池田晶子氏風に言えば、「私たちは永遠に死を経験することができない。すなわち、私たちはどこまで行っても生を生きるほかない(死んだ瞬間に経験の主体も消え去るわけだから)。」、ということになるだろうか。つまり、「私たちは死ぬまで生き続ける(という表現はトートロジーでしかないのだが)」。
「私たちが経験するのは他者の死である他はない」と言い換えてもよいだろう。
しかし、このことは逆に言っても同じのような気もする。
すなわち、「私たちが経験するのは死だけである(私たちは永遠に生を経験することはできない)」、と(というのも、私たちは気がついたときには既に生きてしまっているのだから)。
ま、ジョーシキには反するでしょうが。
よりジョーシキにマッチする言い方をするなら、「生は死による逆照射によって、(初めて)その意味を帯びることができる」、ということになるだろうか。
その見方からすれば、逆説的だが、周りでバタバタ死人が出るような社会の方が、生をよりリアルなものとして感じられることになる(そのような社会が望ましい、と言いたいわけではないのだが)。
やや俗っぽいが、「現代においては生が希薄である」、という表現にもしリアリティがあるとしたら、その辺の事情が関係しているのかもしれない。
ところで、脳死(移植)の問題である。
脳死の問題は100%移植の問題であり、それは生死の問題ではない(と言い切っていいのか?)。
というか、脳死というものが仮にあったとしても(現にあるとしても)、特殊な状況以外では問題にならない。
というのも、特殊な状況以外では、脳死は必然的に(短時間のうちに)死へと向かわざるを得ないからだ(脳死→呼吸停止→心停止)。
特殊な状況というのが、人工呼吸器による(強制的)呼吸、という状況下である(先の脳死→呼吸停止という流れが阻害される)。
つまり、脳死の問題とは、「脳機能が全般的に不可逆的に損なわれたにもかかわらず(?)、人工呼吸器の補助により他の臓器がほぼ無傷で保たれている個体(それは一定の割合で生み出される)をどう扱うか?」、という極めて現実的(かつ現代的な)な問題なのである。
もちろん、脳死個体も、他の全ての個体と同様に、必ず心臓死(いわゆる死)へと至る。
それをもって死と見做す、という私たちの多くの死生観にマッチした道を選ぶことも可能だろう(もちろん、それをもって、脳死を死と見做してはならない、ことにはならないのだが)。
しかし、脳死問題の本質は、脳死個体においては他の臓器(少なくとも一部の臓器)はほぼ無傷で保たれており、それゆえ、ある臓器の提供を受ければ生き延びることができる人が少なからず存在する、という事実にある。
この一文、当事者の心情を全く顧みていない、という事に関しては批判を甘受いたします。
ところで、「脳死=人の死」という等号にはいくつかの前提が存在すると思われる。
それを思いつくまま書き上げてみる。
1.脳死という現象(診断)は脳の全般的ダメージという事実と対応している(つまり、脳死という状態は客観的に評価可能である)。
2.脳の全般的ダメージは不可逆的である(それゆえ、脳死という表現が用いられる)。
3.人の死とは人の人格的な死を意味している(この場合の人格とは刺激に対する反応、という極原初的なレベルも含む)。
4.人格は脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している。
1-4より、脳死と診断された個体は人格の死をむかえており、それは死んでいるということに他ならない。
ここで前提4に関しては、脳科学やそれに基づく認知科学の発展の貢献が大きいと思われる。
つまり、脳科学やそれに基づく認知科学の発展が、人間の人格が脳という器官に大きく(あるいは完全に)依存している、という信念を人々にもたらしたと思われる。
そのような目で昨今の脳ブームを振り返ると、何か意味深な気も…(さすがにそれは考えすぎでしょうが)
しかし、「科学が脳死と人の死を等しく見せているから『脳死=人の死』だ!」と見做すとすれば、それはある種の科学主義に他ならない。
しかし、私たちが脳死問題へ直面したのも歴史の必然なのかもしれない、とも思う。
私たちの生を規定しているのは、間違いなく生権力とフーコーが呼ぶものである(つまり、生死という極めて個人的な領域が、既にして政治の問題であるわけだ)。
その象徴が、私たちの多く(殆ど全て)が病院において生を受け、病院において死を迎える、という事実である。
つまり、病院(あるいは医療)というテクノロジカルな領域において、私たちの生死の象徴的な部分が支配されている(繰り返すが、そのことが悪いと言いたいわけでもない)。
私たちは生に執着する。
身も蓋もない言い方をすれば、「生に執着する個体のみが(進化の過程で)適応的であった」と言ってもよい。
そして、生への執着とテクノロジーの発展(と人々を助けようとする善意)が、人工呼吸器という医療器械を生み出し、その結果一定の割合で脳死状態の個体を生み出したのは歴史の必然と言えるのかもしれない(振り返って言えば、という後知恵バイアスに思いっきり依存した言い方ですが)。
もちろん、人工呼吸器によって救われた生命もまた数多くある(今後も数多くあるだろう)、ということも強調しなければならないのだが。
私たち人類を生み出した母なる自然は、同時に残酷でもある。
同種の個体からの移植を受けなければ、生き長らえることができない個体がある一定の割合で生み出される。
もちろん、臓器移植というテクノロジーが誕生する前は、その臓器の不全は必然的に死を意味していた。
しかし、生体間の臓器移植、さらには脳死体からの臓器移植が行えるようになった(つまり、臓器の不全が必ずしも死を意味しなくなった)。
先の脳科学の発展とも相まって、脳死移植が浮上するのも必然と言えよう。
それに対して、僕自身は何らかの歯止めをかけようとも思わない(し、何らかの歯止めをかけようとする人を非難・批判しようとも思わない)。
しかし、脳死移植問題において再び私たちが直面したように、私たちが「私的な領域」と思い込んでいた生死の問題もまた政治・テクノロジーの問題として浮上せざるを得ないのだ(そのような時代に生まれ落ちたわけだ)。
少なくともそのような事態に自覚的ではありたいと思う。
以上、冒頭にも述べた通り、何らかの問題提起を意図しているものではありませんが、生と死、あるいは脳死移植に関して思ったことを述べまてみました。