善意とパターナリズムについて
Twitterで元検事の某氏と、その某氏が発した言説を巡ってちょっとした議論(?)になった。
その詳細は記しませんが、そのやり取りから善意とパターナリズムについて少し考えることになったので、それについてエントリーをアップしようと思う。
いきなり本題に入るが、皆さんには以下の発言(上記の某氏から別の個人に宛てられたツイートの一部)を読んでほしい。
「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」
さて、皆さんはどう感じただろうか?
もちろん、「発言はそれが特定の文脈に置かれることで初めて意味を持つ(からこれだけでは評価できない)」とか「文脈を離れてこの発言のみを云々することには意味はない」などと言う人もいるだろうし、その指摘は正当だと僕も思う(僕自身も文脈主義者の一人だと自認している)。
しかし、上記の発言が全く意味不明でない限り(フツーの日本人にとっては意味を読み取るのは容易だろう)、それだけを切り出して云々できることもあるはずだ(多分)。
ということで、早速上記の発言について考えてみたい。
まずは本エントリーの主題に関して、善意とパターナリズムに関して少し考えてみたい。
その前に、まずは読者の方で、上記の発言を「善意に発するもの」と捉える(べき)か、「パターナリズムに基づくもの」と捉える(べき)か、考えていただきたい。
もちろん、「善意とパターナリズムは判然と区別できるものではない(からそのような問には意味がない)」と考える読者もいるだろうし、そういう方はこの問いに対する答えを留保して先に進んでもらって構わない。
念のため一点だけ記しておくと、仮に「善意に発するもの」と「パターナリズムに基づくもの」に判然とした区別がつかないとしても、この区別それ自体に意味がないわけではない、ということは強調しておきたいと思う。
ちなみに、議論の中で第三者から、「パターナリズムは大抵善意から発するものだ」との指摘もありました(これは判然と区別できないところか、善意とパターナリズムの一体性を主張するものです)。
このことの妥当性も以下の論考で明らかになるのではないかと思います。
では、これから僕の分析に入るわけですが、その前に僕の答えをまずは述べておきます。
僕は某氏の発言を、「(善意のカケラもない)剥き出しのパターナリズム」と捉えました。
従って、以下の論考ではこの発言のどこがパターナリズムに基づくものであり、どうして善意に発するものではないのかを論じることになります。
その前に再度読者に考えていただきたい問いを提示します。
それは、
あなたの身近な親しい人(親、子、親友など)に悩んでいる人がいるとして、その人にあなたは「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」という助言を与えるだろうか?
ということです。
注:この人は、周りから理解されていないことについて悩んでいる、と考えられます。
えっ?与える?
困ったな…
ここで「与える」と答えた人は、僕流の定義によると善意による行為というものを行えない人なのかもしれません…
まぁ、それはそれとして。
では、なぜ問題の発言が善意によるものではないと言えるのか?
まず、「多くの人(から批判されているところを)」という部分を考えてみましょう。
私たちが本気である人のある部分を直してほしいと考えているとしましょう。
その場合に「多くの人」を論拠に直してもらいたいと言うでしょうか?
「多くの人」は一体どこにいるのか?
「多くの人」を一人一人具体的に挙げていったとして、そこにこの発言をしている「私」は入っているのか?(仮に「私」が入っていないとするなら、この発言は「私」の心からのものではない、すなわち善意によるものではない)
入っているとしたら、なぜ「私」ではなく「多くの人」なのか?
本気で「私」が心から助言をしようとするなら、「(他の人がどう思おうとも)私はこう思うから」となるのではないだろうか?
つまり、助言をするまさにこの「私」ではなく、どこの誰かもわからない「多くの人」を持ち出している時点で、この発言は善意に発するものとは到底捉えられないのであります(異論歓迎)。
もう一点あります。
「もっと理解者が増えると思う」という部分を考えてみます。
理解されないことを悩んでいる人にとって、周囲から「理解してもらう」ことは喉から手が出るほど欲していることでしょう(某氏の発言の相手が理解されないことを悩んでいるかどうかは僕にはわかりませんが)。
そういう人に「もっと理解者が増えると思う」と助言(?)することは、エサを与える(というと語弊があるかもしれませんが)ようなことではないでしょうか?
言い方を変えるなら、「もっと理解者が増えるんだから、(多くの人から批判されているところを)さっさと直せ」という風にも聞こえます。
まぁ、これは僕がひねくれているからかもしれませんが…
しかし、「助言を受け入れた結果の利益(理解者が増える)」を示してある行為(批判されているところ直す)をさせようとするのは、利益による誘導と申して差し支えないでしょう。
この場合の「利益」は一般的には、「これが貴方のためなのよ」という形で示されることになります(これはパターナリズムそのものですね)。
さて、「善意に発する」とは、「利益を示して特定の行為を誘導する」ことでしょうか?
僕は断じて否と言います。
「(結果的に理解者が増えようと増えまいと)私はこうするのがよいと思う」というのが心からの助言ではないでしょうか?
さらに言えば、自らの助言が取り入れなかったとしても、そのことを受け入れられなければ(つまり、「せっかく助言したのに云々」と恨みがましいことを言ってしまうのなら)、それもまた善意に発する助言とは言えないのであります。
この点は件の発言には直接は関係しませんが。
まとめます。
ある助言が善意に発するかどうかを見るためには…
1.「(他の人はどうあれ)私はこう考えるから」ということを論拠としているか(Noならば善意に発するものではない)
2.「こうすることが貴方のためになる」と利益に誘導しようとはしていないか(Yesならば善意に発するものではない)
3.助言が受け入れられなかった場合に「せっかく助言したのに云々」などと恨みがましいことを言っていないか(Yesならば善意にはっするものではない)
というところが注目点になります。
もっと簡単には、「自分が身近な親しい人に助言するときにそのような言い方をするか?」を考えれば良いということですが。
ついでに、善意に発するものでなければ、それはパターナリズムに基づくものと断じてよいだろうということも示せたのではないかと思うがいかがだろうか?
以上の論考は某氏とのやりとりから、些かきれいにまとめたものです。
もし実際のやり取りを見たければ、@quine10のアカウントから僕の発言が読めると思います(僕は某氏をフォローしていないので僕のツイートから某氏のアカウントを見つけてください)。
その詳細は記しませんが、そのやり取りから善意とパターナリズムについて少し考えることになったので、それについてエントリーをアップしようと思う。
いきなり本題に入るが、皆さんには以下の発言(上記の某氏から別の個人に宛てられたツイートの一部)を読んでほしい。
「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」
さて、皆さんはどう感じただろうか?
もちろん、「発言はそれが特定の文脈に置かれることで初めて意味を持つ(からこれだけでは評価できない)」とか「文脈を離れてこの発言のみを云々することには意味はない」などと言う人もいるだろうし、その指摘は正当だと僕も思う(僕自身も文脈主義者の一人だと自認している)。
しかし、上記の発言が全く意味不明でない限り(フツーの日本人にとっては意味を読み取るのは容易だろう)、それだけを切り出して云々できることもあるはずだ(多分)。
ということで、早速上記の発言について考えてみたい。
まずは本エントリーの主題に関して、善意とパターナリズムに関して少し考えてみたい。
その前に、まずは読者の方で、上記の発言を「善意に発するもの」と捉える(べき)か、「パターナリズムに基づくもの」と捉える(べき)か、考えていただきたい。
もちろん、「善意とパターナリズムは判然と区別できるものではない(からそのような問には意味がない)」と考える読者もいるだろうし、そういう方はこの問いに対する答えを留保して先に進んでもらって構わない。
念のため一点だけ記しておくと、仮に「善意に発するもの」と「パターナリズムに基づくもの」に判然とした区別がつかないとしても、この区別それ自体に意味がないわけではない、ということは強調しておきたいと思う。
ちなみに、議論の中で第三者から、「パターナリズムは大抵善意から発するものだ」との指摘もありました(これは判然と区別できないところか、善意とパターナリズムの一体性を主張するものです)。
このことの妥当性も以下の論考で明らかになるのではないかと思います。
では、これから僕の分析に入るわけですが、その前に僕の答えをまずは述べておきます。
僕は某氏の発言を、「(善意のカケラもない)剥き出しのパターナリズム」と捉えました。
従って、以下の論考ではこの発言のどこがパターナリズムに基づくものであり、どうして善意に発するものではないのかを論じることになります。
その前に再度読者に考えていただきたい問いを提示します。
それは、
あなたの身近な親しい人(親、子、親友など)に悩んでいる人がいるとして、その人にあなたは「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」という助言を与えるだろうか?
ということです。
注:この人は、周りから理解されていないことについて悩んでいる、と考えられます。
えっ?与える?
困ったな…
ここで「与える」と答えた人は、僕流の定義によると善意による行為というものを行えない人なのかもしれません…
まぁ、それはそれとして。
では、なぜ問題の発言が善意によるものではないと言えるのか?
まず、「多くの人(から批判されているところを)」という部分を考えてみましょう。
私たちが本気である人のある部分を直してほしいと考えているとしましょう。
その場合に「多くの人」を論拠に直してもらいたいと言うでしょうか?
「多くの人」は一体どこにいるのか?
「多くの人」を一人一人具体的に挙げていったとして、そこにこの発言をしている「私」は入っているのか?(仮に「私」が入っていないとするなら、この発言は「私」の心からのものではない、すなわち善意によるものではない)
入っているとしたら、なぜ「私」ではなく「多くの人」なのか?
本気で「私」が心から助言をしようとするなら、「(他の人がどう思おうとも)私はこう思うから」となるのではないだろうか?
つまり、助言をするまさにこの「私」ではなく、どこの誰かもわからない「多くの人」を持ち出している時点で、この発言は善意に発するものとは到底捉えられないのであります(異論歓迎)。
もう一点あります。
「もっと理解者が増えると思う」という部分を考えてみます。
理解されないことを悩んでいる人にとって、周囲から「理解してもらう」ことは喉から手が出るほど欲していることでしょう(某氏の発言の相手が理解されないことを悩んでいるかどうかは僕にはわかりませんが)。
そういう人に「もっと理解者が増えると思う」と助言(?)することは、エサを与える(というと語弊があるかもしれませんが)ようなことではないでしょうか?
言い方を変えるなら、「もっと理解者が増えるんだから、(多くの人から批判されているところを)さっさと直せ」という風にも聞こえます。
まぁ、これは僕がひねくれているからかもしれませんが…
しかし、「助言を受け入れた結果の利益(理解者が増える)」を示してある行為(批判されているところ直す)をさせようとするのは、利益による誘導と申して差し支えないでしょう。
この場合の「利益」は一般的には、「これが貴方のためなのよ」という形で示されることになります(これはパターナリズムそのものですね)。
さて、「善意に発する」とは、「利益を示して特定の行為を誘導する」ことでしょうか?
僕は断じて否と言います。
「(結果的に理解者が増えようと増えまいと)私はこうするのがよいと思う」というのが心からの助言ではないでしょうか?
さらに言えば、自らの助言が取り入れなかったとしても、そのことを受け入れられなければ(つまり、「せっかく助言したのに云々」と恨みがましいことを言ってしまうのなら)、それもまた善意に発する助言とは言えないのであります。
この点は件の発言には直接は関係しませんが。
まとめます。
ある助言が善意に発するかどうかを見るためには…
1.「(他の人はどうあれ)私はこう考えるから」ということを論拠としているか(Noならば善意に発するものではない)
2.「こうすることが貴方のためになる」と利益に誘導しようとはしていないか(Yesならば善意に発するものではない)
3.助言が受け入れられなかった場合に「せっかく助言したのに云々」などと恨みがましいことを言っていないか(Yesならば善意にはっするものではない)
というところが注目点になります。
もっと簡単には、「自分が身近な親しい人に助言するときにそのような言い方をするか?」を考えれば良いということですが。
ついでに、善意に発するものでなければ、それはパターナリズムに基づくものと断じてよいだろうということも示せたのではないかと思うがいかがだろうか?
以上の論考は某氏とのやりとりから、些かきれいにまとめたものです。
もし実際のやり取りを見たければ、@quine10のアカウントから僕の発言が読めると思います(僕は某氏をフォローしていないので僕のツイートから某氏のアカウントを見つけてください)。
権力について考えてみる(一体何度目だろう?) 体罰の問題から
超久々の更新になってしまったのだが…
でもまぁ思索してなかったからしょうがないか、と体罰喰らいそうな言い訳を炸裂させてみる。
いきなりブラックな感じで入っちゃいました。
まぁ、でも体罰というのは、権力のもっとも剥き出しの発露の一つでありますから…
と無理やりな感じで、いきなり本題に突入してみます。
体罰というのは僕なりに定義してみますと、「教師という上位の地位にあるものが、生徒という下位の地位にあるものに身対して、教育上の効果を期待して、身体への暴力を行使すること」、になります。
もちろん、『教育上の効果を期待して』という文言は、自らの暴力を正当化する教師の戯言以上のものではありません。実際、体罰が教育上なんらかの効果を発揮したなどということが実証されたためしなど古今東西皆無でありましょう(多分です、反論のある方はどうぞ)。にもかかわらず、「教育上の効果」を称して、いまだに(市民社会では犯罪と規定される)暴力が蔓延っているとは、学校とはどれだけ野蛮な空間なのでしょうか?
もちろん、近代社会(と表現するのが適切かどうか自信全くがありませんが、曲がりなりにも立憲国家たる)日本で、「仮に教育上の効果があるにしとも、体罰という剥き出しの権力行使が是認されてよいのか?」という疑問も当然ながらありましょうし、また実に真っ当な疑問でもありましょう。
さて、すでに述べたように体罰とは、身体への暴力であります。
現在の日本で暴力の行使が正当化されているのは(もちろん、無条件ではありませんが)、警察くらいでありましょう。
従って、(体罰を)暴力を正当化するには、市民社会を律するのとは別のロジックが要請されます。言い換えれば、学校を市民社会とは相対的に独立した空間とする必要があるわけです。
日本には、学校を「市民社会とは相対的に独立した空間」とするためのレトリックが存在します。
感のよい方はピンときたかもしれません。
そうです、「聖域」なる言葉です。
学校はしばしば「聖域」だと言われる。
その意味は、市民社会とは相対的に隔絶されている(隔絶されるべきだ)、即ち学校外からの干渉から比較的免れている(免れるべきだ)、ということだろう(ここでレトリックとして重要なのは当然「べきだ」の方である)。
もちろん、「聖域」という言葉にはある種の「価値」が込められている(そしてこの「価値」が「市民社会からの隔絶」を正当化する)。
つまり、教育とは人類の尊い営みであり、そこに従事する教師という職業もまた尊いものだということだ(さらには教師という個人もまた尊い人物であることも含意する)。
しかし、繰り返しになるが、このような(「学校は聖域だ」的な)レトリックはむしろ、学校を市民社会から隔絶しておくために作り出されたとみなすべきだろう。
一応まとめます。
1.「体罰」とは「身体への暴力」であり、それは剥き出しの権力行使である(「剥き出しの」の意味は次エントリーで言及します)。
2.日本社会では、そのような剥き出しの権力行使は極めて限定されている(許される代表的な権力は警察である)。
3.である以上、学校で体罰(=暴力)を正当化するためには、市民社会とは別のロジックが要請される(つまり、学校を市民社会とは相対的に独立した空間とする必要がある)。
4.それを可能にするのが「学校は聖域だ」的なレトリックである。
さて、こうして、学校で剥き出しの権力行使(=体罰という身体への暴力)が蔓延る事態への分析装置(というほど大げさなものでもありませんが)が揃ってまいりました。
ほとんど分析が終わったと言ってもよいかもしれませんが、次エントリーでそこに踏み込んでいきたい。
でもまぁ思索してなかったからしょうがないか、と体罰喰らいそうな言い訳を炸裂させてみる。
いきなりブラックな感じで入っちゃいました。
まぁ、でも体罰というのは、権力のもっとも剥き出しの発露の一つでありますから…
と無理やりな感じで、いきなり本題に突入してみます。
体罰というのは僕なりに定義してみますと、「教師という上位の地位にあるものが、生徒という下位の地位にあるものに身対して、教育上の効果を期待して、身体への暴力を行使すること」、になります。
もちろん、『教育上の効果を期待して』という文言は、自らの暴力を正当化する教師の戯言以上のものではありません。実際、体罰が教育上なんらかの効果を発揮したなどということが実証されたためしなど古今東西皆無でありましょう(多分です、反論のある方はどうぞ)。にもかかわらず、「教育上の効果」を称して、いまだに(市民社会では犯罪と規定される)暴力が蔓延っているとは、学校とはどれだけ野蛮な空間なのでしょうか?
もちろん、近代社会(と表現するのが適切かどうか自信全くがありませんが、曲がりなりにも立憲国家たる)日本で、「仮に教育上の効果があるにしとも、体罰という剥き出しの権力行使が是認されてよいのか?」という疑問も当然ながらありましょうし、また実に真っ当な疑問でもありましょう。
さて、すでに述べたように体罰とは、身体への暴力であります。
現在の日本で暴力の行使が正当化されているのは(もちろん、無条件ではありませんが)、警察くらいでありましょう。
従って、(体罰を)暴力を正当化するには、市民社会を律するのとは別のロジックが要請されます。言い換えれば、学校を市民社会とは相対的に独立した空間とする必要があるわけです。
日本には、学校を「市民社会とは相対的に独立した空間」とするためのレトリックが存在します。
感のよい方はピンときたかもしれません。
そうです、「聖域」なる言葉です。
学校はしばしば「聖域」だと言われる。
その意味は、市民社会とは相対的に隔絶されている(隔絶されるべきだ)、即ち学校外からの干渉から比較的免れている(免れるべきだ)、ということだろう(ここでレトリックとして重要なのは当然「べきだ」の方である)。
もちろん、「聖域」という言葉にはある種の「価値」が込められている(そしてこの「価値」が「市民社会からの隔絶」を正当化する)。
つまり、教育とは人類の尊い営みであり、そこに従事する教師という職業もまた尊いものだということだ(さらには教師という個人もまた尊い人物であることも含意する)。
しかし、繰り返しになるが、このような(「学校は聖域だ」的な)レトリックはむしろ、学校を市民社会から隔絶しておくために作り出されたとみなすべきだろう。
一応まとめます。
1.「体罰」とは「身体への暴力」であり、それは剥き出しの権力行使である(「剥き出しの」の意味は次エントリーで言及します)。
2.日本社会では、そのような剥き出しの権力行使は極めて限定されている(許される代表的な権力は警察である)。
3.である以上、学校で体罰(=暴力)を正当化するためには、市民社会とは別のロジックが要請される(つまり、学校を市民社会とは相対的に独立した空間とする必要がある)。
4.それを可能にするのが「学校は聖域だ」的なレトリックである。
さて、こうして、学校で剥き出しの権力行使(=体罰という身体への暴力)が蔓延る事態への分析装置(というほど大げさなものでもありませんが)が揃ってまいりました。
ほとんど分析が終わったと言ってもよいかもしれませんが、次エントリーでそこに踏み込んでいきたい。
いじめと道徳と倫理について 2(共同体と道徳、そのただならぬ関係)
小沢新党の党名は『国民の生活が第一』になりましたね。
シンプルでわかりやすくとてもいいと思います。
あとは、それが打ち出す政策が党名を体現するものであるかどうかを、支持者がしっかり監視していかなければならないでしょうね。
それにしても…
予想通りと言えば予想通りですが、大手メディア(=記者クラブメディア)の新党ができる前からのネガキャンは怒りを通り越してあきれるばかりですね。
「世論調査では小沢新党は期待されてない!」とリキんでいるのですが、本当に期待されていないのならほっときゃいいのに、これで『国民の生活が第一』が有権者の注目を浴びて支持が上向くなら、大手メディアは新党の宣伝をしたようなもので目も当てられませんね。
それはさておき。
話題が古くなってしまう前に、いじめと道徳と倫理についての考察を進めたい。
前回のエントリーでは、俗説にありがちな、『いじめは心の問題であるから、道徳教育によって心をよくすればいじめはなくなるのだ』的なノー天気さに疑問を投げかけておきました。
本エントリーは、そこに踏み込む前に道徳と共同体の関係を、できるだけロジカルに論じてみたい。
とりあえずはおさらいをしておきます。
道徳とは共同体的価値を体現するために、(共同体に属する)人々の行為に枠を嵌める言説でありました(具体的には○○すべし、××すべからずという風に)。
そして共同体的な価値は、多くの人が(その価値を体現すべく)道徳的に振る舞うことによって実体性(実在性)を帯びるものでありました。
共同体的な価値が実在性を帯びるということは、(そのような価値を有する)共同体が実在性を帯びることに他なりません。
こうして道徳的な振る舞いの共有と共同体の実在性とは相即的な関係にあります。
ところで、共同体はそれ自体では自らの存在を証明できません。
言い換えれば、共同体なるものが存在するためには、それには属さないものが必要であります。
ソシュール的なものいいで言えば、ある概念が存在するための条件は、それと異なる概念の存在になります(「言語は差異の体系である」というテーゼはその事態を端的に表しています)。
ところで、共同体に属さないものには二種類のものが考えられます。
一つは共同体の外部にあって、その共同体的な価値を共有しない存在(第一の意味での共同体外的存在とする)。
もう一つは共同体の内部にあると思われつつも(勝手にそう思っているだけだが)、その共同体的な価値を共有しない存在(これを第二の意味での共同体外的存在とする、いうなればトリックスター的存在)。
さて、共同体が(より正確には共同体的価値を自明視する人間が)忌み嫌うのは、二番目の共同体外的存在であります。
というのも、第一のものはそもそも共同体とは独立したであり、その存在自体は共同体を脅かさないからです(もちろん、それが共同体に脅威を与える場合は別)。
第二のものは、共同体の内部にあると思われつつも、その共同体的価値を自明視しない存在です(そのような存在が多数になれば、もはや共同体は共同体として成立し得ません)。
それゆえ共同体的なものを後生大事にしたい人々は、第二の意味での共同体外的な存在を許さないでしょう(そのような個体へ攻撃的に接するでしょう)。
ところで、先に述べたように、共同体の成立には共同体外的なものの存在が不可欠でありました。
そして第一の意味での共同体外的存在は、それ自体では共同体の価値とは無関係であるがゆえに、共同体は第二の意味での共同体外的存在を必要とするわけです。
自らの存在のために必要とするにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、共同体はトリックスター的存在に敵意を向けざるを得ないわけです。
そして、トリックスター的存在への敵意は、共同体全体で向ける必要があります(それが共同体は確固としたものとする)。
戦前の日本社会の「非国民」という言葉ほど、この事態を端的に表す言葉も珍しいでしょう。
天皇を頂点にいただく共同体としての日本をでっち上げるためには、(そのような価値を自明視しない)「非国民」がどうしても要請されるわけです。
そして「非国民」の非道徳性が強調されれば強調されるほど、「まっとうな私たち」の道徳性が強固としたものとなるわけです(実際はそんなわけはないのだが)。
これは倒錯以外の何物でもないわけですが、このような倒錯を可能とするのが、共同体と道徳のセットなわけです。
ところで、前にも述べましたが、共同体的なもの(例えば道徳)をどれだけ自明視するかは全く個人的なことに属します。
しかしながら、共同体的なものを自明視することが多い社会で、共同体的な価値を全く無視して振る舞うこともまた困難でしょう。
そしてその困難さはまさに、その共同体的な価値の強度(どの程度の人が共同体的価値に基づいて振る舞っているか)に依存するわけです。
さてここで問題が生じます。
共同体的な価値に基づいて振る舞っている人々の間でも、その価値をどれほど自明視しているかに関しては濃淡があるでしょう。
つまり、完全に共同体的な価値を自明視している(が故に、心からその価値を重視している)人から、共同体的な価値に対してはそれほど自明視していない(懐疑・批判的な視点を有する)が、大勢の人が価値を共有しているように見えるが故に、外見的には価値を重視しているように振る舞う人まで。
つまり、多くの共同体的な価値基づいてに振る舞っているように見えたとしても、可能性としては多くの人が共同体的な価値を自明視しているものから(多くの共同体主義者の願望はこれである)、ほとんど誰も共同体的な価値を自明視していない(=懐疑的である)にもかかわらず多くの人が道徳的に振る舞っているがゆえに自らも同様に振る舞うものまで。
論点が拡散してきたのでここで一旦まとめます(これまでのエントリーも含めて)。
1.道徳は共同体的な価値を体現するための言説である
2.逆に共同体は道徳的言説(が多くの成員によって共有される)によって実在性を帯びる
3.成員が道徳的に振る舞うのは、それが体現する共同体的価値を自明視するからとは限らない(単に多くの人が道徳的に振る舞っているからかもしれない)
4.しかし、個々の成員が共同体的価値を自明視するかどうかとはかかわりなく、多くの人が同様に振る舞えば、道徳は無視できない存在となる(実在性を帯びる)
5.である以上、道徳は「みんなと同様に」という点に力点を有する
6.そしてこの場合の「みんな」が構成するのが共同体に他ならない
7.共同体は「みんな」と同様に振る舞わない個人(トリックスター)を必要とする(無理にでも作り出す)
8.そしてトリックスターに対する憎悪とも呼べる感情が、共同体を確固としたものとする
さて、いじめと道徳の関係に踏み込めるのか?
シンプルでわかりやすくとてもいいと思います。
あとは、それが打ち出す政策が党名を体現するものであるかどうかを、支持者がしっかり監視していかなければならないでしょうね。
それにしても…
予想通りと言えば予想通りですが、大手メディア(=記者クラブメディア)の新党ができる前からのネガキャンは怒りを通り越してあきれるばかりですね。
「世論調査では小沢新党は期待されてない!」とリキんでいるのですが、本当に期待されていないのならほっときゃいいのに、これで『国民の生活が第一』が有権者の注目を浴びて支持が上向くなら、大手メディアは新党の宣伝をしたようなもので目も当てられませんね。
それはさておき。
話題が古くなってしまう前に、いじめと道徳と倫理についての考察を進めたい。
前回のエントリーでは、俗説にありがちな、『いじめは心の問題であるから、道徳教育によって心をよくすればいじめはなくなるのだ』的なノー天気さに疑問を投げかけておきました。
本エントリーは、そこに踏み込む前に道徳と共同体の関係を、できるだけロジカルに論じてみたい。
とりあえずはおさらいをしておきます。
道徳とは共同体的価値を体現するために、(共同体に属する)人々の行為に枠を嵌める言説でありました(具体的には○○すべし、××すべからずという風に)。
そして共同体的な価値は、多くの人が(その価値を体現すべく)道徳的に振る舞うことによって実体性(実在性)を帯びるものでありました。
共同体的な価値が実在性を帯びるということは、(そのような価値を有する)共同体が実在性を帯びることに他なりません。
こうして道徳的な振る舞いの共有と共同体の実在性とは相即的な関係にあります。
ところで、共同体はそれ自体では自らの存在を証明できません。
言い換えれば、共同体なるものが存在するためには、それには属さないものが必要であります。
ソシュール的なものいいで言えば、ある概念が存在するための条件は、それと異なる概念の存在になります(「言語は差異の体系である」というテーゼはその事態を端的に表しています)。
ところで、共同体に属さないものには二種類のものが考えられます。
一つは共同体の外部にあって、その共同体的な価値を共有しない存在(第一の意味での共同体外的存在とする)。
もう一つは共同体の内部にあると思われつつも(勝手にそう思っているだけだが)、その共同体的な価値を共有しない存在(これを第二の意味での共同体外的存在とする、いうなればトリックスター的存在)。
さて、共同体が(より正確には共同体的価値を自明視する人間が)忌み嫌うのは、二番目の共同体外的存在であります。
というのも、第一のものはそもそも共同体とは独立したであり、その存在自体は共同体を脅かさないからです(もちろん、それが共同体に脅威を与える場合は別)。
第二のものは、共同体の内部にあると思われつつも、その共同体的価値を自明視しない存在です(そのような存在が多数になれば、もはや共同体は共同体として成立し得ません)。
それゆえ共同体的なものを後生大事にしたい人々は、第二の意味での共同体外的な存在を許さないでしょう(そのような個体へ攻撃的に接するでしょう)。
ところで、先に述べたように、共同体の成立には共同体外的なものの存在が不可欠でありました。
そして第一の意味での共同体外的存在は、それ自体では共同体の価値とは無関係であるがゆえに、共同体は第二の意味での共同体外的存在を必要とするわけです。
自らの存在のために必要とするにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、共同体はトリックスター的存在に敵意を向けざるを得ないわけです。
そして、トリックスター的存在への敵意は、共同体全体で向ける必要があります(それが共同体は確固としたものとする)。
戦前の日本社会の「非国民」という言葉ほど、この事態を端的に表す言葉も珍しいでしょう。
天皇を頂点にいただく共同体としての日本をでっち上げるためには、(そのような価値を自明視しない)「非国民」がどうしても要請されるわけです。
そして「非国民」の非道徳性が強調されれば強調されるほど、「まっとうな私たち」の道徳性が強固としたものとなるわけです(実際はそんなわけはないのだが)。
これは倒錯以外の何物でもないわけですが、このような倒錯を可能とするのが、共同体と道徳のセットなわけです。
ところで、前にも述べましたが、共同体的なもの(例えば道徳)をどれだけ自明視するかは全く個人的なことに属します。
しかしながら、共同体的なものを自明視することが多い社会で、共同体的な価値を全く無視して振る舞うこともまた困難でしょう。
そしてその困難さはまさに、その共同体的な価値の強度(どの程度の人が共同体的価値に基づいて振る舞っているか)に依存するわけです。
さてここで問題が生じます。
共同体的な価値に基づいて振る舞っている人々の間でも、その価値をどれほど自明視しているかに関しては濃淡があるでしょう。
つまり、完全に共同体的な価値を自明視している(が故に、心からその価値を重視している)人から、共同体的な価値に対してはそれほど自明視していない(懐疑・批判的な視点を有する)が、大勢の人が価値を共有しているように見えるが故に、外見的には価値を重視しているように振る舞う人まで。
つまり、多くの共同体的な価値基づいてに振る舞っているように見えたとしても、可能性としては多くの人が共同体的な価値を自明視しているものから(多くの共同体主義者の願望はこれである)、ほとんど誰も共同体的な価値を自明視していない(=懐疑的である)にもかかわらず多くの人が道徳的に振る舞っているがゆえに自らも同様に振る舞うものまで。
論点が拡散してきたのでここで一旦まとめます(これまでのエントリーも含めて)。
1.道徳は共同体的な価値を体現するための言説である
2.逆に共同体は道徳的言説(が多くの成員によって共有される)によって実在性を帯びる
3.成員が道徳的に振る舞うのは、それが体現する共同体的価値を自明視するからとは限らない(単に多くの人が道徳的に振る舞っているからかもしれない)
4.しかし、個々の成員が共同体的価値を自明視するかどうかとはかかわりなく、多くの人が同様に振る舞えば、道徳は無視できない存在となる(実在性を帯びる)
5.である以上、道徳は「みんなと同様に」という点に力点を有する
6.そしてこの場合の「みんな」が構成するのが共同体に他ならない
7.共同体は「みんな」と同様に振る舞わない個人(トリックスター)を必要とする(無理にでも作り出す)
8.そしてトリックスターに対する憎悪とも呼べる感情が、共同体を確固としたものとする
さて、いじめと道徳の関係に踏み込めるのか?
いじめと道徳と倫理について 1
テレビをほとんど全く見ないのですが…
あっ、昨日のNHKの日曜討論の小沢氏は見ました。
あそこまで自分の政治的スタンスを自分の言葉で話すことのできる政治家も珍しいと思う。
本来、党を出ていくのは(自分たちマニフェスト遵守派ではなく)、マニフェストを簡単に反故にした現執行部である、という趣旨の話には激しく同意せざるをえないな。
第二自民党化した(というより自民党的なものを体現している、という意味ではすでにオリジナルを凌駕しているとも言える)民主党に対して、前の総選挙で一票を投じた一体有権者がどのように振る舞うのか、今から楽しみではあるな。
と、前置きはこれくらいにしてと。
今巷を賑わしている(らしい)某学校でのいじめ自殺問題。
ネットから流れてくる情報を読む限りでは、背景的な問題もいろいろ絡んでいるようですが…
「一体何年前から同じ過ちを繰り返しているの?」「いじめ問題に対処するために一体どんな対策を講じてきたの?」「メディアの報道はいじめ問題に対処するためではなく、娯楽(というと失言と言われそうだが)として消費するだけの役割しか果たしてないのではないの?」という数々の疑問は今はさておこう。
ここ最近主に倫理について(過去には道徳について)述べてきた経緯から、いじめを道徳・倫理的な問題から論じてみたい。
と言っても、あらかじめ断っておくと、メディアでよくありがちな、「いじめは道徳心の欠如した人間が引き起こす、心の問題である(=いじめる人間の心をよくすればいじめはなくなる)」風の俗説には一切与しない。
むしろ、上記のような俗説に基づいた対策を講じるとすれば、いじめを温存し、さらには増長させてしまうだけになる(そしてこの国のいじめの歴史はそれを証明している)、というのが僕の基本的なスタンスであります。
そこを論じてみたい。
さて、道徳とは、僕のかつての定義によれば、「行為に対する評価の体系」であり、最近の定義では「世間・共同体が要請する振る舞い」ということになります。
まぁ、この二つの定義は完全には重ならないかも知れませんが、大まかには違っていないでしょう(多分)。
上記の二つの定義を踏まえれば、道徳とは、
行為の評価であり(評価とは価値づけであり)、その価値づけを行うのは世間・共同体(を内在化した視点)ということになるでしょう。
もちろん、世間・共同体とは決して実体的なものではなく、個々人が(勝手に)「これこそが世間・共同体だ」と想定するもの以外ではあり得ません。
したがって、個人が道徳(=世間・共同体が要請する振る舞い)にどれだけ強迫的に縛られるかは、その人がどれだけ世間・共同体を実体的に想定してるかに依存します。
つまり、世間・共同体を強固なものと思っている人にとっては、(それが要請する)道徳もまた強固なものとなります。
そして道徳を強固なものとして捉える人物は、他者にも道徳的に振る舞うように要請するでしょう(道徳が行為の評価である以上はそうあらざるを得ません)。
まぁ、他者に道徳的であることを強要する人物自身は必ずしも道徳的に振る舞っていない(というより道徳的に振る舞うことは稀である)、というのが実に厄介なのだが…(ここでは深入りしない)
そうして、道徳にコミットする人間が多ければ多いほど、(道徳が依拠する)世間・共同体がより実体的なものとなっていきます。
つまり、道徳と世間・共同体は相互に強化(ないし再生産)する関係にあるわけです。
ちょっと、脇道にそれました。
先の道徳の定義を踏まえ、いじめが仮に道徳(的な振る舞いとして結実する心)の問題だと仮定した場合、問いは次のようになります?
それは「では、世間・共同体的な価値を体現した人間は、いじめを引き起こさないのか?」という問いです。
すでに上で一部書いていますが、この問いに対する僕の答えは明確に「No」となります。
それどころか、道徳に縛られる限り(=世間・共同体的なものを実体視する限り)、いじめを減らすことは非常に困難(ほぼ不可能)である、というのが僕の考えになります。
と、とりあえず問題提起をして本エントリーを締めよう。
あっ、昨日のNHKの日曜討論の小沢氏は見ました。
あそこまで自分の政治的スタンスを自分の言葉で話すことのできる政治家も珍しいと思う。
本来、党を出ていくのは(自分たちマニフェスト遵守派ではなく)、マニフェストを簡単に反故にした現執行部である、という趣旨の話には激しく同意せざるをえないな。
第二自民党化した(というより自民党的なものを体現している、という意味ではすでにオリジナルを凌駕しているとも言える)民主党に対して、前の総選挙で一票を投じた一体有権者がどのように振る舞うのか、今から楽しみではあるな。
と、前置きはこれくらいにしてと。
今巷を賑わしている(らしい)某学校でのいじめ自殺問題。
ネットから流れてくる情報を読む限りでは、背景的な問題もいろいろ絡んでいるようですが…
「一体何年前から同じ過ちを繰り返しているの?」「いじめ問題に対処するために一体どんな対策を講じてきたの?」「メディアの報道はいじめ問題に対処するためではなく、娯楽(というと失言と言われそうだが)として消費するだけの役割しか果たしてないのではないの?」という数々の疑問は今はさておこう。
ここ最近主に倫理について(過去には道徳について)述べてきた経緯から、いじめを道徳・倫理的な問題から論じてみたい。
と言っても、あらかじめ断っておくと、メディアでよくありがちな、「いじめは道徳心の欠如した人間が引き起こす、心の問題である(=いじめる人間の心をよくすればいじめはなくなる)」風の俗説には一切与しない。
むしろ、上記のような俗説に基づいた対策を講じるとすれば、いじめを温存し、さらには増長させてしまうだけになる(そしてこの国のいじめの歴史はそれを証明している)、というのが僕の基本的なスタンスであります。
そこを論じてみたい。
さて、道徳とは、僕のかつての定義によれば、「行為に対する評価の体系」であり、最近の定義では「世間・共同体が要請する振る舞い」ということになります。
まぁ、この二つの定義は完全には重ならないかも知れませんが、大まかには違っていないでしょう(多分)。
上記の二つの定義を踏まえれば、道徳とは、
行為の評価であり(評価とは価値づけであり)、その価値づけを行うのは世間・共同体(を内在化した視点)ということになるでしょう。
もちろん、世間・共同体とは決して実体的なものではなく、個々人が(勝手に)「これこそが世間・共同体だ」と想定するもの以外ではあり得ません。
したがって、個人が道徳(=世間・共同体が要請する振る舞い)にどれだけ強迫的に縛られるかは、その人がどれだけ世間・共同体を実体的に想定してるかに依存します。
つまり、世間・共同体を強固なものと思っている人にとっては、(それが要請する)道徳もまた強固なものとなります。
そして道徳を強固なものとして捉える人物は、他者にも道徳的に振る舞うように要請するでしょう(道徳が行為の評価である以上はそうあらざるを得ません)。
まぁ、他者に道徳的であることを強要する人物自身は必ずしも道徳的に振る舞っていない(というより道徳的に振る舞うことは稀である)、というのが実に厄介なのだが…(ここでは深入りしない)
そうして、道徳にコミットする人間が多ければ多いほど、(道徳が依拠する)世間・共同体がより実体的なものとなっていきます。
つまり、道徳と世間・共同体は相互に強化(ないし再生産)する関係にあるわけです。
ちょっと、脇道にそれました。
先の道徳の定義を踏まえ、いじめが仮に道徳(的な振る舞いとして結実する心)の問題だと仮定した場合、問いは次のようになります?
それは「では、世間・共同体的な価値を体現した人間は、いじめを引き起こさないのか?」という問いです。
すでに上で一部書いていますが、この問いに対する僕の答えは明確に「No」となります。
それどころか、道徳に縛られる限り(=世間・共同体的なものを実体視する限り)、いじめを減らすことは非常に困難(ほぼ不可能)である、というのが僕の考えになります。
と、とりあえず問題提起をして本エントリーを締めよう。