2017-05

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これまで読んできた本を書きとめておこうと思う。
適宜更新しております(最終6/13)。

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科学者に誠実さや倫理を求めること(あるいは科学の信頼性とは?)

超~久々の更新です…

もはやまえがきを書くのもおこがましいな…

世間を賑わす小保方問題…
正直、「NHK7時のニュースのトップでやるようなニュースか?」という疑問は拭えない。
「もっと報じるべきニュースはいくらでもあるだろう?」的な…
今さら「論文不正疑惑」を論じたいわけではない(少しネットを検索するだけで、本筋とは無関係のスキャンダラスな噂話まで含めていくらでもヒットするだろう)


ここで僕が論じたいのは、小保方論文は”全否定”しなければならないというブログエントリーで述べられている次のような考え方である。

以下引用

一言で言えば会見で小保方氏は論点のすり換えを行っている印象を受けました。

 問題になっているのはこの論文に剽窃や改ざんがあったのかどうかという点であり、STAP細胞が確かに作製されたのかどうか実験の成否ではありません。

 もちろん実験の成否はたいへん重要なポイントですが、小保方氏が問われているのは、実験の成否以前の、科学者としてのモラル・誠実さの欠落です

 科学者としての基礎的倫理観が身に付いていないと断じざるを得ません。

 会見では不注意を謝罪したが、不正と認定されるような論文を発表すること自体、知的誠実さに欠けているのです。

 一般論で言えばここまで論文に不正があれば、実験そのものに「不正」がなかったとしても、科学的信ぴょう性はゼロです。 

 私は、日頃学生の剽窃行為やデータや画像の改ざんには厳しくペナルティを課しています、科学レポートを学生に指導する立場から、小保方氏の反論は認めるわけにはいきません、学術論文に対する甘すぎるその姿勢を認めれば、理研のみならず日本の科学論文全般の信用問題になりかねません。

 私は多くの学生の不正論文にこれまで厳しいペナルティを課してきました。

 私のペナルティにより単位を落としたり卒業できなかった学生もおります。

 STAP細胞が存在するかしないかはたいへん重要なテーマですが、小保方氏の論文に不正があった事実にとっては、二次的なことです。

 小保方論文は"全否定"しなければなりません。



以上引用(注:強調は引用者)


さて、「論文不正問題」は「不誠実さ」ゆえに、あるいは「倫理の欠如」ゆえに断罪されるべきものだろうか?
つまり、「論文の不正」と「不誠実さ、あるいは倫理の欠如」は別のものだろうか、同一のものだろうか?
おそらく同一のものだろう(「誠実な、あるいは倫理的な論文不正」はあり得ないだろうからだ)
だとすれば、「論文不正はダメだ」、ではなぜいけないのだろうか?
ことさら(「論文不正はダメだ」に付け加えて)、「不誠実さ」や「倫理の欠如」を非難する必要性はどこにあるのだろうか?


えっ?科学の信頼性が損なわれる?
一個人の不正で科学の信頼は損なわれるものなの?
誰かの不正が今後判明したとして、ニュートン力学や相対性理論や量子力学は全否定されるの?
あるいは、誰かの不正によってニュートン力学や相対性理論や量子力学の信頼性が少しでも揺らぐものなの?
もしもそれらの信頼性が揺らぐとしたら、新たな物理学上の発見によってであって(上記の信頼性を揺るがせる発見があるとはとても思えないが)、特定の科学者の不正などでは断じてない。


言い方を変えてみよう。
科学が信頼し得るのは、決して科学者たちが誠実さに溢れて、倫理を備えた立派な人物だからでは決してない(誠実な科学者や倫理的な科学者の存在を否定しているわけではない、というか科学者の多くは正直者だろう)。
科学が信頼し得るのは、それが特定の科学者が不正を試みようとしても、容易には許さないシステムになっているからだ(システムとして不正を排除する)。


具体的にはこういうことである。
正直者の科学者とて人の子である。
科学史に残る大発見をしたいし、有名にだってなりたいだろう。
人に先を越されると悔しいと思うだろう。
つまり、功名心や嫉妬心だって人並みにもっているだろう(よほどの人格者でもない限り)。
そうすると、それらの功名心や嫉妬心ゆえに、新発見にたいしては懐疑・猜疑をもって、目を皿のようにしてあら捜しをする(ちょうど小保方論文に対するように!)。
そして、そのような他の科学者達の懐疑・猜疑によるあら捜しにもかかわらず、深刻な欠点のない論文が、晴れて新発見の資格を得る(もちろん、それが科学上の通説になるにはさらに時間がかかる)。


つまり、こういうことだ。
科学の信頼性は、科学者の利己心にもかかわらず(より正確には科学者の利己心をうまく利用して)、システムとして有しているものだ。
個々人の科学者の「誠実さ」や「倫理」などはっきり言ってどうでもよい(他の科学者の懐疑・猜疑をあしらえなければ、どのみち科学者として通用しない)。


特定の科学者に「誠実さ」や「倫理」を求めるなど、はっきり言えば科学のなんたるかを理解していないとしか思えないし、科学を信頼しているとも思えない。
繰り返しになるが、「科学の信頼性」は科学者個人の「不誠実さ」や「倫理の欠如」によっては微塵も揺らぐことはないのだ。


あっ、本当は「他者に誠実さや倫理を求めること」というエントリーにしようと思っていたのだけど、趣旨がだいぶ違ってしまったなぁ…
また後日に(ホントに書くかな?)

田代不起訴 検察の腐敗と民主主義の危機について

「田代また覚醒剤やっちゃった?」と思ったアナタ…
それは田代違いです!

あ、いきなりムチャ振りしてすみません、何しろ久々な更新なもので…

検察審査会で小沢氏(陸山会事件で検察は不起訴にした)を強制起訴するため(検察審査会で2回連続して起訴相当が出されると自動的に強制起訴される)、捜査報告書を捏造した田代正弘元検事…
以下の動画をご参照ください

「田代不起訴」に見る日本の病理

当然、ありもしない内容の報告書をでっち上げ、無実の小沢氏を強制起訴に誘導したわけですから、ジョーシキ的には田代氏がなした行為は犯罪(権力を悪用した非常に悪質な犯罪)以外の何物でもないでしょう。
実際、(検察が望む結論に誘導し得る)密室の検察審査会が下した結論は「不起訴不当」なのであります。
つまり、(強制起訴を避けるためにあらゆる手を打ったであろう)検察ですら起訴相当を避けるのがせいぜいという、明々白々な犯罪行為があったとみるべきなのです。


そして、この明々白々な犯罪行為を検察は不起訴にした。
(密室であるがゆえに検察が好き勝手に望む結論に誘導し得る)検察審査会ですら「不起訴不当」を出さざるを得ないほどの明々白々な犯罪行為を検察は不起訴にした。
田代元検事がなした以上の明白な犯罪行為もそうそうないでありましょう。
要するに、検察は完全に反民主的組織であることを自ら証明してしまったわけです(国民が納めた税金で食っている検察組織が、その国民に敵対しているということ!)。


田代氏不起訴が意味することとは、「検察は実質的にある人物を貶める(例えば、報告書を偽造して検察審査会の審議を強制起訴に誘導する)ために何をしても罪に問われることはない」、ということになるでしょう。
つまりは検察はある人物を社会的に抹殺するための免罪符を手に入れたに等しい。


官僚機構は、現在の検察・検察審査会を有している限り、未来永劫にわたって安泰ということになる。
結果から見れば、官僚主義社会の集大成が、検察審査会の法改正(起訴相当2回→強制起訴)であったということだ。
これによって日本の民主主義は完全に息の根を止められたとみるべきだろう。
もちろん、日本に民主主義が根付いたことは本来の意味ではなかったのかもしれないが…

善意とパターナリズム 番外編(善意と心と主観)

えー、前回は善意とパターナリズムについて述べました。
善意とパターナリズムは似て(?)非なるものである、ということが示せたのではないかと思います。


で、今回は善意とパターナリズムという主題からはズレるものの、元検事の某氏とのやり取りで少し興味深かったところを掘り下げてみたい。
では、その部分を少し(?)編集して書き出してみます。



某氏の発言(「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」)をパターナリズム剥き出しの言説と僕(quine10)が決めつけたことに対して

某氏(以下某):「この人にとっては、助言は全てパターナリズムなんだろうな。」
quine10(以下q):「善意から発したものを除けば、パターナリズムと断じてよろしいかと…」
某:「なんだ、主観で区別するのか。善意からでないと決めつけてるし。」
q:「『多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う』が善意から発しているとでも?」
某:「いないとでも?」
q:「うん、それは断言できる!」
某:「なぜ?あなたは人の心が読めるのか?」
q:「貴方程度の単純なお方なら…」

と、とりあえずこんな感じで対話(?)は終了してしまったわけですが。
ま、今書き起こしても某氏を不快にさせたであろう僕の書き方もなかなかのものかもしれないな(自慢ではないが)。
某氏の、常に相手に立証させようとするテクニックは、議論を勝ち負けと捉えている人には参考になるかもしれないな(立証するのは大変だから)。
まぁ、それはさておき。


ここには某氏の善意に対する興味深い考え方が述べられている。

一つは「善意は主観の問題である」という考え方であり、もう一つは「善意は心の問題である」という見方である。
もっとも、「主観とは心の問題である」という世間一般にも受け入れられている(だろう)テーゼを前提にすれば、この二つの考え方は同一のものだと見做せるのだが…


さて、某氏の言い方からすれば、「善意とは心の問題であり、それは他者からはうかがい知れないものだ」と某氏が考えているだろうことを読み取るのはそれほど難しいことではないだろう。
というのも、某氏は「あなたは人の心が読めるのか?」と問うているからです。
これは質問というよりは、「人の心など読めるはずがない」という反語表現と見做すべきでありましょう。


「主観」という表現も同様でありましょう。
(通常「主観」の対義語とされる)「客観」とは「誰にとっても」ということを含意します。
それに対して「主観」とは「この私にとって」といことを含意します(それは「他者にはうかがい知れない」を含意するでしょう)。


さて、「心」や「主観」についての某氏の見方は、多くの人にとってはむしろ常識に属することかもしれません。
「『心』や『主観』はこの私のみがわかるものであり、他者からはうかがい知れないものなのだ」、というわけです。


しかし、「心」や「主観」が他者からうかがい知れないのだとしたら、私たちはなぜ石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていないと思うのでしょうか?(それともあなたは石ころや自転車やパソコンや新聞紙が「心」や「主観」を持っていると見做すでしょうか?)
フムフム、石ころや自転車やパソコンや新聞紙には、(「心」や「主観」を生み出すはずの)脳神経系がないからと?
それでは、脳神経系が「心」や「主観」を生み出すことをあなたはどのように証明するのか?
あるいは、あなたが「心」や「主観」を持っている(だろう)と見做す他者が、実際に脳神経系を有していることをあなたはいつ、どうやって確認したのか?
まぁ、こう畳み掛けられるとカチンとくるかもしませんが…


しかし、少なくとも「心」や「主観」を他者からうかがい知れない領域であると某氏のように見做すならば、これらの問いに答えることができなければならない。
上記の問いに答えることができないとすれば、私たちは「心」や「主観」が他者からはうかがい知れない領域である、という見方を捨てなければならない。


だとしたらどのように見做すべきか。
前回のエントリーで、善意と見做す根拠、あるいはパターナリズムと見做す根拠について簡単に述べました。
おさらいするなら、「多くの人」という誰だかわからない人を論拠とする意見は善意に基づくものではない。
あるいは、「利益」を示して他者の行為を誘導するのは善意に基づくものではないと。


つまりはこういうことです。
私たちは他者の目に見える様々な振る舞い(その多くは言語活動を伴う)から他者の心を類推するのであって、その逆ではない。
そしてこの場合の類推はもっと正確に言えば、構築である(私たちは他者の心を構築する)。
しかし私たちは、「心」から「行為」が生まれるという因果関係を、世間に流通する様々な言説から常識化しており、それゆえ行為は「(他者からはうかがい知れない)心」がなすものである、と見做してしまうのである(某氏の発言は、このような常識に某氏がどっぷりと浸かっていることを表している)。


もちろん、私たちが構築した「(他者の)心」が「正しい」かどうかはわからない。
しかしそのことは「私の心は私だけが知っている(他者からはうかがい知ることができない)」風の常識的な「心」の見方が正しいことを全く意味しないのだ。
そして、以上の考察は、「私の『心』に接近することについては、必ずしも私が特権を有するわけではない」、ということを帰結するだろう。
おそらく多くの人にとってこの帰結は心地よくないだろうことを僕は想像するのだが…

善意とパターナリズムについて

Twitterで元検事の某氏と、その某氏が発した言説を巡ってちょっとした議論(?)になった。
その詳細は記しませんが、そのやり取りから善意とパターナリズムについて少し考えることになったので、それについてエントリーをアップしようと思う。


いきなり本題に入るが、皆さんには以下の発言(上記の某氏から別の個人に宛てられたツイートの一部)を読んでほしい。

「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」

さて、皆さんはどう感じただろうか?
もちろん、「発言はそれが特定の文脈に置かれることで初めて意味を持つ(からこれだけでは評価できない)」とか「文脈を離れてこの発言のみを云々することには意味はない」などと言う人もいるだろうし、その指摘は正当だと僕も思う(僕自身も文脈主義者の一人だと自認している)。
しかし、上記の発言が全く意味不明でない限り(フツーの日本人にとっては意味を読み取るのは容易だろう)、それだけを切り出して云々できることもあるはずだ(多分)。


ということで、早速上記の発言について考えてみたい。
まずは本エントリーの主題に関して、善意とパターナリズムに関して少し考えてみたい。


その前に、まずは読者の方で、上記の発言を「善意に発するもの」と捉える(べき)か、「パターナリズムに基づくもの」と捉える(べき)か、考えていただきたい。
もちろん、「善意とパターナリズムは判然と区別できるものではない(からそのような問には意味がない)」と考える読者もいるだろうし、そういう方はこの問いに対する答えを留保して先に進んでもらって構わない。
念のため一点だけ記しておくと、仮に「善意に発するもの」と「パターナリズムに基づくもの」に判然とした区別がつかないとしても、この区別それ自体に意味がないわけではない、ということは強調しておきたいと思う。
ちなみに、議論の中で第三者から、「パターナリズムは大抵善意から発するものだ」との指摘もありました(これは判然と区別できないところか、善意とパターナリズムの一体性を主張するものです)。
このことの妥当性も以下の論考で明らかになるのではないかと思います。



では、これから僕の分析に入るわけですが、その前に僕の答えをまずは述べておきます。
僕は某氏の発言を、「(善意のカケラもない)剥き出しのパターナリズム」と捉えました。
従って、以下の論考ではこの発言のどこがパターナリズムに基づくものであり、どうして善意に発するものではないのかを論じることになります。



その前に再度読者に考えていただきたい問いを提示します。
それは、
あなたの身近な親しい人(親、子、親友など)に悩んでいる人がいるとして、その人にあなたは「多くの人から批判されているところを直せば、もっと理解者が増えると思う」という助言を与えるだろうか?
ということです。
注:この人は、周りから理解されていないことについて悩んでいる、と考えられます。


えっ?与える?
困ったな…
ここで「与える」と答えた人は、僕流の定義によると善意による行為というものを行えない人なのかもしれません…
まぁ、それはそれとして。
では、なぜ問題の発言が善意によるものではないと言えるのか?


まず、「多くの人(から批判されているところを)」という部分を考えてみましょう。
私たちが本気である人のある部分を直してほしいと考えているとしましょう。
その場合に「多くの人」を論拠に直してもらいたいと言うでしょうか?
「多くの人」は一体どこにいるのか?
「多くの人」を一人一人具体的に挙げていったとして、そこにこの発言をしている「私」は入っているのか?(仮に「私」が入っていないとするなら、この発言は「私」の心からのものではない、すなわち善意によるものではない)
入っているとしたら、なぜ「私」ではなく「多くの人」なのか?


本気で「私」が心から助言をしようとするなら、「(他の人がどう思おうとも)私はこう思うから」となるのではないだろうか?
つまり、助言をするまさにこの「私」ではなく、どこの誰かもわからない「多くの人」を持ち出している時点で、この発言は善意に発するものとは到底捉えられないのであります(異論歓迎)。


もう一点あります。
「もっと理解者が増えると思う」という部分を考えてみます。
理解されないことを悩んでいる人にとって、周囲から「理解してもらう」ことは喉から手が出るほど欲していることでしょう(某氏の発言の相手が理解されないことを悩んでいるかどうかは僕にはわかりませんが)。
そういう人に「もっと理解者が増えると思う」と助言(?)することは、エサを与える(というと語弊があるかもしれませんが)ようなことではないでしょうか?
言い方を変えるなら、「もっと理解者が増えるんだから、(多くの人から批判されているところを)さっさと直せ」という風にも聞こえます。
まぁ、これは僕がひねくれているからかもしれませんが…
しかし、「助言を受け入れた結果の利益(理解者が増える)」を示してある行為(批判されているところ直す)をさせようとするのは、利益による誘導と申して差し支えないでしょう。
この場合の「利益」は一般的には、「これが貴方のためなのよ」という形で示されることになります(これはパターナリズムそのものですね)。
さて、「善意に発する」とは、「利益を示して特定の行為を誘導する」ことでしょうか?
僕は断じて否と言います。
「(結果的に理解者が増えようと増えまいと)私はこうするのがよいと思う」というのが心からの助言ではないでしょうか?


さらに言えば、自らの助言が取り入れなかったとしても、そのことを受け入れられなければ(つまり、「せっかく助言したのに云々」と恨みがましいことを言ってしまうのなら)、それもまた善意に発する助言とは言えないのであります。
この点は件の発言には直接は関係しませんが。


まとめます。


ある助言が善意に発するかどうかを見るためには…

1.「(他の人はどうあれ)私はこう考えるから」ということを論拠としているか(Noならば善意に発するものではない)
2.「こうすることが貴方のためになる」と利益に誘導しようとはしていないか(Yesならば善意に発するものではない)
3.助言が受け入れられなかった場合に「せっかく助言したのに云々」などと恨みがましいことを言っていないか(Yesならば善意にはっするものではない)


というところが注目点になります。
もっと簡単には、「自分が身近な親しい人に助言するときにそのような言い方をするか?」を考えれば良いということですが。


ついでに、善意に発するものでなければ、それはパターナリズムに基づくものと断じてよいだろうということも示せたのではないかと思うがいかがだろうか?


以上の論考は某氏とのやりとりから、些かきれいにまとめたものです。
もし実際のやり取りを見たければ、@quine10のアカウントから僕の発言が読めると思います(僕は某氏をフォローしていないので僕のツイートから某氏のアカウントを見つけてください)。

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